日本の美術

uta111.jpg
(理口者 大判錦絵)

教訓親の目鑑シリーズは、歌麿晩年の傑作で、あわせて十枚が伝わっている。外題に眼鏡を描き、その中に「教訓親の目鑑」と記しているが、その内容は、親の目を盗んで手前勝手なことをする市井の娘たちの姿態である。女性の赤裸々な姿を描いた作品として、徳川時代後期の浮世絵師たちに大きな影響を及ぼした。

uta103.jpg
(娘日時計 午ノ刻 大判錦絵)

午の刻(正午)は、湯からあがった娘たちを描く。外題にわざわざ「古代者女湯以申刻当此図」と断っているのは、昔は女が昼間から風呂に入ることはなかったと皮肉っているのだろうが、余計なお世話と言うべきだろう。

uta101.jpg
(娘日時計 辰ノ刻 大判錦絵)

娘日時計シリーズは、日中の時刻を区切って、その時々の娘たちの生態を描いたもの。取り上げられた日中の時刻とは、辰の刻(午前八時)、巳の刻(午前十時)、午の刻(正午)、未の刻(午後二時)、申の刻(午後四時)で、それぞれの時刻ごとに二人の娘を配している。

uta096.jpg
(若葉屋内 若鶴)

若葉屋の売れっ子芸者若鶴を描いたもの。前出の花紫や小紫に比べると、やや成熟を感じさせる。その女が、唇で筆を加え、巻紙を巻いているのは、恋人への手紙を書き終わったところか。

uta094.jpg
(玉屋内 小紫)

玉屋の売れっ子芸者小紫を描いたもの。同じく玉屋の花紫とは義理の姉妹の関係にあったのだろう。

uta092.jpg
(越前屋内 唐土)

「当時全盛美人揃」は「当時全盛似顔揃」の好評に気をよくして、美人大首絵の第二段として刊行された。「当時全盛似顔揃」十枚のうち四枚が、ほとんどそのままの形で転用されている。

uta081.jpg
(兵庫屋内花妻 大判錦絵)

寛政六年に写楽が歌舞伎役者の似顔絵を出したのに対抗して、歌麿が吉原の芸者の似顔絵シリーズを若狭屋から刊行した。今に伝わっているのは四枚である。このシリーズの絵は、女のしぐさや表情に誇張がある。おそらく写楽の誇張した描き方を意識したのだろうと思われる。

uta071.jpg
(芝住の江)

「五人美人愛嬌競」の五枚の絵にはいずれも、外題のわきに判じ絵が置かれている。それを読むと、モデルの女性の名前がわかるという仕掛けだ。遊びをかねた美人画シリーズだ。絵そのものも人気を取ったらしく、五枚のうち少なくとも三枚は、「美人花合せ」と題を変えて再刊された。

uta063.jpg
(物思恋)

歌麿の美人画の中でもっとも有名な一枚で、各時代を通じて復刻版が作られた。そのたびに、着物の柄の色や顔の輪郭が微妙な変化を示した。

uta061.jpg
(深く忍恋)

「歌撰恋之部」は王朝和歌集をもじった題名である。歌集に恋之部があるように、画集に恋之部があってもよい。まして美人画の画集とあればなおさらだ、というわけであろうか。

uta052.jpg
(切の娘 大判錦絵)

北国は吉原の異称、江戸の北郊にあることからこう呼ばれた。北郭とも言う。五色墨は享保年間に刊行された俳諧集の題名。歌麿はそれに、五色つまり五人の美人たちという意味を重ねた。

uta041.jpg
(姿見七人化粧 大判錦絵)

「姿見七人化粧」と題したシリーズの一枚だとされるが、伝わっているのはこの一枚だけ。ほかの六枚は散逸してしまったのか、あるいは最初から作られなかったのか、よくわからない。しかし、この一枚は、歌麿の最高傑作のひとつとの評価が高い。

uta032.jpg
(ポッピンを吹く女 大判錦絵)

「婦女相学十躰」は女たちのしぐさや表情を類型化して描いたもので、おそらく十点一組で出版されたのであろう。そのなかでもっとも有名なのが、この「ポッピン吹く女」、「ビードロを吹く女」とも呼ばれている。ポッピンとは、ガラスで作ったおもちゃで、吹くと「ポッピン」という音が出るところから、こう名づけられたと言う。

uta021.jpg
(寛政三美人 大判錦絵 38.8×25.5cm)

徳川時代は美しい女がもてはやされた時代で、いつの頃にも三美人とか美人番付とかいって人々の話題の中心となった。歌麿が活躍した寛政時代も、その例に漏れず、寛政三美人といわれるものが大いに評判をとった。この評判の女たちを、歌麿は繰り返し描いている。

uta011.jpg
(鷺娘)

歌麿は、天明の末頃に大首美人画を描くようになった。「当世踊子揃」と題したシリーズはその代表的なものである。これは、吉原の芸者たちの踊りに取材したという説や、普通の町娘たちの踊る姿を描いたものだとする説などがあって、解釈が定まらないが、どちらにしても、若い女性たちの美しさを、画面いっぱいの顔で表現したものである。

徳川時代における浮世絵版画は、17世紀後半に菱川師宣らによってジャンルとして確立され、18世紀の後半に鈴木春信による錦絵への発展を経て、18世紀の末近く、寛政年間に喜多川歌麿が登場するに至って、完成の域に達したと言われる。寛政年間には、写楽や豊国といった奇才も出現し、19世紀になると北斎や広重が風景版画の分野を開拓することで、浮世絵版画はいっそうの広がりを呈した。

hokusai901.tiger.jpg

「雪中虎図」と言われるこの絵には、「嘉永二己酉寅の月 画狂老人卍老人筆 齢九十歳」との署名がある。嘉永二年寅の月とは、同年三月のことだから、北斎が死ぬ前の月である。この月北斎は満年齢八十八歳であった。

北斎怒涛図

| コメント(0)
北斎は、最晩年の天保十三年(1842、北斎馬歯83)の時に信州小布施を訪ねて以来、四度にわたって小布施に足を運んでいる。晩年の弟子である高井鴻山を頼ってのことだった。鴻山は北斎のためにアトリエを用意し、ここで自在に筆を執らせた。北斎はその期待に応えて、多くの肉筆画を残してやった。その代表的なものは、祭屋台のために描いた天井画や、一茶ゆかりの寺岩松院のために描いた鳳凰図などである。

北斎漫画は、文化十一年(1814、北斎55歳)に初版を刊行して以来、北斎存命中に十三編、死後も含めれば十五編が刊行された。北斎がこれを刊行した主な理由は、弟子やファンたちのために絵手本を提供することであった。その目的は大いに応えられ、北斎漫画は国内のベストセラーになったばかりか、ヨーロッパにも輸出されて、かの地の画家たちに大きな影響を与えたとも言われる。

hokusai603.kachou03.jpg
(鷽・垂桜)

これは背景をプルシャンブルーで青く染め抜き、それとのコントラストでモチーフを浮かびあがらせるような効果をねらったもの。モチーフの強調には成功しているが、文字の方は背景に溶け込んでよく判別できない。

Previous 35  36  37  38  39  40  41  42  43  44  45



最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ