日本の美術

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天龍寺は天平年間に行基によって創建された古い寺院であったが、その後荒廃していたところを、暦応二年(1339)夢窓国師によって再建された。その際に曹源池を中心にした池泉回遊式庭園も造営された。この同じ年に、夢窓国師は西芳寺の庭園も造営しており、この二つの庭園は双子の庭園とも呼ばれ、日本の庭園造営の歴史に大きな影響を及ぼした。

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西芳寺の庭園は、日本の室町時代以降の寺院庭園の原型となったものといわれている。これを造ったのは、室町時代初期の禅僧夢窓国師である。彼は天龍寺を作ったことで知られるが、西芳寺の中興の祖として、今に苔寺として伝わるこの庭園を造った。

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毛越寺は、12世紀の始めに奥州藤原氏によって造営された寺院であり、その庭園は平安時代の浄土式庭園を今に伝えている。堂宇の建物群はことごとく消失し、創建時の姿を伝えるものはないが、池を中心にした庭園の部分は、昔の面影を今に伝えているといわれる。

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法金剛院の前身は平安時代初期に創建された天安寺に遡るが、平安時代の末、大治五年(1130)に待賢門院によって再興され法金剛院と称された。庭園はその際に極楽浄土をイメージして造園された「池泉回遊式浄土庭園」である。

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浄瑠璃寺は、11世紀のなかば永承2年(1047年)に創建されたと寺の記録にある。創建当時は薬師如来を本尊としていた。浄瑠璃寺の名称は、薬師如来のいるとされる東方浄瑠璃世界に由来している。その後、12世紀の初め嘉承2年(1107年)に、現存する本堂が建設され、その中に阿弥陀九体仏が安置されたらしい。池の掘削は久安6年(1150年)に行われたようだ。その頃に、阿弥陀堂と池が一体となって、浄土式庭園が成立したと推測される。浄土式庭園としては、宇治の平等院と並んで、もっとも古い由来をもつものである。

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現存する日本の寺院庭園でもっとも古い起源を有するものは、宇治の平等院の庭園である。平安時代の後期に藤原頼道によって造営されたこの寺院は、極楽浄土をイメージして作られたため、その庭園は浄土式庭園と呼ばれる。今日に伝わる浄土式庭園としては、奈良北郊の浄瑠璃寺や平泉の毛越寺が上げられる。

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歓修寺は醍醐天皇によって昌泰三年(900)に創建された古い寺である。南北朝時代に後伏見天皇の皇子の寛胤法親王が長吏となって以来宮門跡寺院となったが、戦国時代以降は荒廃したものを、徳川時代に再興された。現在の宸殿は、元禄10年(1697年)に明正天皇の旧殿を下賜されたものという。

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神泉苑は、京都で最も古い由来を持つ庭園だ。そもそも平安京造成の際に、禁園として作られた。その折には南北400メートル、東西200メートルにわたる広大な庭園で、平安京の創始者桓武天皇をはじめ、歴代天皇や皇族たちが舟遊びや狩猟を楽しんだという。

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蕪村の十宜図から「宜雨」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十宜」のうち「宜雨」は次のとおりである。

  小漲新添欲吼灘  小さく漲り新たに添ひ灘に吼えんと欲す
  漁樵散去野簑寒  漁樵散じ去って野簑寒し
  溪山多少空濛色  溪山多少の空濛の色
  付與詩人獨自看  詩人に付與して獨り自から看ん

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蕪村の十宜図から「宜風」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十宜」のうち「宜風」は次のとおりである。

  鳥歸花樹蝶過墻  鳥花樹に歸って蝶墻を過ぐ
  花與鄰花貿易香  花と鄰花と香を貿易す
  聼罷松濤觀水面  松濤を聼き罷みて水面を觀れば
  殘紅皺処又成章  殘紅皺む処又章を成す

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蕪村の十宜図から「宜陰」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十宜」のうち「宜陰」は次のとおりである。

  煙霧蒙蒙莫展開  煙霧蒙蒙として展開せず
  好詩憑著黑云催  好詩は黑云の催せるあいだ(憑著)になる
  卷帘放卻觀天眼  帘(すだれ)を卷いて放卻し天眼もて觀れば
  多少奇峰作意來  多少の奇峰作意來る

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蕪村の十宜図から「宜晴」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十宜」のうち「宜晴」はつぎのとおりである。

  水淡山濃瀑布寒  水淡く山濃くして瀑布寒し
  不須登眺自然寬  登眺するを須(もち)いずして自然寬かなり
  誰將一幅王摩詰  誰か一幅の王摩詰を將(もっ)て
  曬向當門倩我看  當門に曬(かざ)し向かひて我に看んことを倩ふ

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蕪村の十宜図から「宜晩」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十宜」のうち「宜晩」は次のとおりである。

  牧兒歸去釣翁休  牧兒歸り去って釣翁休む
  畫上無人分外幽  畫上に人の分外に幽たる無し
  對面好山才別去  好山に對面して才(わずか)に別れ去る
  當頭明月又相留  當頭明月又た相ひ留まる

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蕪村の十宜図から「宜暁」。もとになった李漁の漢詩「伊園十宜」のうち「宜暁」は次のとおりである。

  開窗放出隔宵雲  窗を開けて放ち出づれば宵雲隔たる
  近水樓臺易得昕  水に近き樓臺は昕(あした)を得易し
  不向池中觀日色  池中に向はずして日色を觀つつ
  但從壁上看波紋  但だ壁上に從って波紋を看る

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蕪村の十宜図から「宜冬」。もとになった李漁の漢詩「伊園十宜」のうち「宜冬」は次のとおりである。

  茂林宜夏更宜冬  茂林夏に宜しく更に冬に宜し
  禦卻寒威當折衝  寒威を禦卻して當に折衝すべし
  小築近陽春信早  小築陽に近して春信(まこと)に早し
  梅花十月案頭供  梅花十月案頭に供ふ

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蕪村の十宜図から宜秋図。もとになった李漁の詩「伊園十宜」のうち「宜秋」は次のとおりである。

  門外時時列錦屏  門外時時錦屏列なる
  千林非復舊時青  千林復た舊時の青さにあらず
  一從澆罷重陽酒  一に從って澆(そそ)ぎ罷む重陽の酒
  醉殺秋山便不醒  秋山に醉殺して便ち醒めず

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「蕪村十宜図」から「宜夏」の図。もととなった李漁の漢詩「伊園宜夏」は次のとおりである。

  繞屋都將綠樹遮  屋を繞って都て將(これ)綠樹の遮ぎるところ
  炎蒸不許到山家  炎蒸山家に到るを許さず
  日長閑卻羲皇枕  日長くして閑卻す羲皇の枕
  相對忘眠水上花  相ひ對して眠りを忘る水上の花

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蕪村の「十宜図」シリーズは、池大雅の「十便図」とともに「十便十宜図」と称され、一括して国宝指定されている。この共作を企画したのは大雅だといわれる。大雅がまず、明の文人李漁の漢詩「伊園十便十二宜」の連作をもとに「十便図」を描き、残りの十二宜(実際には十宜)を絵にするよう蕪村に求めたのだった。蕪村はそれに応え、詩文に絵を添えて「十宜図」とした。時に明和八年、蕪村馬歯五十六の年である。

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池大雅の十便図から「眺便」図。もととなった李漁の漢詩「伊園十便」のうち「眺便」は次のとおりである。

  叱羊仙洞赤松山  羊を叱す仙洞赤松の山
  一日雙眸數往還  一日雙眸數しば往還す
  猶自未窮千里興  猶ほ自づから未だ千里の興を窮めず
  送雲飛過括蒼間  雲の飛び過ぐを送る括蒼の間

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池大雅の十便図から「防夜便」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十便」のうち「防夜便」は次のとおりである。

  寒素人家冷落村  寒素たる人家冷落の村
  只凴泌水護衡門  只泌水に凴り衡門護る
  抽橋斷卻黃昏路  橋を抽して斷卻す黃昏の路
  山犬高眠古樹根  山犬高く眠る古樹の根
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