日本の美術

6401.1.jpg

「新緑杜鵑図」は、「謝寅」の署名があるところから、晩年の作だとわかる。蕪村が「謝寅」号を用いたのは、安永七年(1778)馬歯六十三歳の年から天明三年に六十八歳で死ぬまでの五年間。この絵は、蕪村晩年の傑作群を飾る嚆矢となるものである。

6201.1.jpg
(右隻 155.1×388.0cm 紙本淡彩 六曲一双)

蕪村の絵の大きな特徴は、自然の風景に必ず人物を添えることだ。その人物は、ほとんどの場合中国風の格好をしている。蕪村が何故、中国の服装に拘ったか、よくはわからない。蕪村ほどの名手ならば、和風の人物を配して、なおかつ南宋画風の情緒を感じさせる技に不足はないと思う。それをあえて、中国風の服装にこだわるのは、よほどの事情があるのか。

6001.1.jpg

「闇夜漁舟図」は、水墨で闇夜を表現しながら、わずかな光を強調することで、独特の効果を演出している。光は、舟の上のかがり火から立ち昇る煙と、遠くに見える家の中からもれる灯りで表現される。煙はそれ自身が光を発するように見え、その光に浮かび上がった木の部分だけが、色彩を持っている。

5803.jpg
(秋景山水図 絹本彩色 105.5×41.0cm)

四季山水図シリーズのうち秋景。これは、深山幽谷を描いている点では春景と共通するが、人物の描き方が、俳画的ではなく、文人画的である。渓谷に船を浮かべ、自然の眺めを楽しむという構図に、文人画の精神を感じる。このように自然の風雅をとくに強調するときには、人物のほかに、人の生活を感じさせるものを省くのが文人画の常道である。

5801.jpg
(春景山水図 絹本彩色 105.5×41.0cm)

安永二年(1773、蕪村馬歯五十八)の四季山水図は、前々年の十宜図製作を経て、技量に一層磨きのかかった蕪村の中期の代表作である。いづれも、単に風景を淡彩で描くだけでなく、そこに人の生活ぶりを描き加えることによって、独特の世界を現出させている。こうした自然と人間の調和は、蕪村の絵画の最大の持ち味である。

5301.蘇鉄左.jpg
(蘇鉄図屏風 紙本墨画 四曲一双 各162.0×363.0cm 左隻)

讃岐滞在中に蕪村が世話になった菅暮牛の菩提寺が丸亀にあった。正因山実相院妙法寺という天台宗の寺院である。その寺院のために蕪村は、一対の図屏風を製作した。画のテーマは、寺の庭園にあった蘇鉄である。完成したのは明和五年四月、蕪村が讃岐を去る直前のことである。

5201.jpg
(猛虎飛瀑図 絹本着色 114.0×135.0cm)

蕪村は、数はあまり多くはないが、動物絵も手がけている。同時代には伊藤若冲が動物絵の大家として人気があったから、そちらを意識したこともあっただろう。

5200.1.jpg

蕪村は明和三年(馬歯五十一)から二年間讃岐に滞在する。妻子を京へ残しての単身滞在だった。主な目的は、絵の顧客の獲得だったらしい。合せて俳句の会合も催したが、こちらのほうは余り気が乗らなかったようだ。気の利いた句を読む仲間がいなかったからだといわれる。

4802.jpg
(山水図屏風左隻 絖本図屏風 六曲一双 162.5×369.6cm)

蕪村は遅咲きの才能で、絵師として独り立するのは四十代半ばの頃である。彼は、特別の流派について絵を修行したことがなく、基本的には独学で絵の技術を習得した。手本としたのは主に中国の絵画であり、とりわけ南宋画の影響を強く受けた。彼が独り立した頃の絵には、南宋画風の淡彩画が多い。そのほかにも、明の絵画なども取り入れ、客の注文に応じて描き分けた。

g562.1.JPG

修学院の上の離宮は、小高い丘の上に造営されている。浴龍池と呼ばれる巨大な池を中心として、池の中には二つの島を浮かべ、その一つに窮邃亭という茶屋を立て、また池の南西側の一段高いポイントのところに隣雲亭という茶屋を配している。そしてこれらの間を散策路で結び、季節それぞれに応じた眺めを楽しむ回遊式の庭園となっている。

g561.1.JPG

修学院離宮は、後水尾院の指示によって明暦元年(1655)から万治二年(1659)にかけて造営された。上・中・下三つの離宮から構成され、それらを田んぼの畦道をそのまま利用した苑路によってつないでいる。離宮周辺の緑地帯とあわせると、総面積54万平方メートルに及ぶ広大な庭園である。

g552.1.JPG

園林堂は持仏堂として作られたが、現在では安置している仏像はなく、建物だけが残されている。本瓦葺宝形作り屋根を持つ、ユニークな形の堂である。賞花亭と同じ島に立てられており、西側にある橋を介して岸と結ばれている。

g551.1.JPG

桂離宮は、複雑に入り組んだ形の大きな池を中心にして、池の周りや島の上に、雁行型に並んだ書院群や月見を兼ねた茶室をいくつも配置した池泉回遊式庭園であり、その規模は七万平方メートルに及ぶ。八条の宮智仁親王が元和元年(1615)に造営をはじめ、寛永元年(1624)頃には、古書院のほか庭園部分を含む一期工事が完成した。寛永六年に智仁親王が死んだ後は、一時荒廃したが、その子智忠親王が成人するや、荒廃した庭園を復興するとともに、寛文二年(1662)頃までに、中書院、新御殿、月波楼、松琴亭,賞花亭、笑意軒などを増築し、ほぼ今日の形に整えた。

g511.1.JPG

曼殊院はもと延暦寺の塔頭として比叡山にあったが、明暦二年(1656)に桂宮智仁親王の次男良尚法親王によって現在地に再建された。智仁親王は、桂離宮を造営しており、その長男智忠親王は桂離宮を現在の形に完成させた。また、曼殊院にほど近い修学院は、智仁親王の甥にあたる後水尾上皇によって造営されている。こういうわけで、桂離宮、修学院離宮、曼殊院は密接な因縁によって結ばれている。造園術という点においては、桂離宮と曼殊院とは深いかかわりがあるとされ、曼殊院は小さな桂離宮とも呼ばれている。

g510.1.JPG

随心院は、平安時代に任海僧正によって創建された古い寺であるが、応仁の乱以降荒廃していたものを、慶長四年(1599)に九条・二条両家によって再建された。

g509.1.JPG

渉成園は、東本願寺の飛地境内地である。東本願寺本体は、慶長七年(1602)に十二代門主教如上人が徳川家康から寺地の提供を受けて成立したが、その後十三代門主宣如上人の時に、家光から現在地を寄進されたのを受けて、承応二年(1653)にそこを自らの隠居所とした。渉成園という名称は、陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉而以成趣」からとったという。また、周囲に枳殻を生垣として植えたことから枳殻亭とも呼ばれた。

g508.1.jpg

仁和寺は、平安時代初期に創建された古い寺院であり、代々皇族が門跡をつとめる門跡寺院として高い格式を誇っていた。しかし15世紀後半に、応仁の乱によって全山が消失、その後徳川時代の初期寛永年間に再興された。再興に当たっては、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)を下賜され、往時の威容を取り戻した。

g507.1.jpg

青蓮院は、平安時代末期に門跡寺院となり、その後皇室とかかわりの深い寺院としての伝統を有してきた。応仁の乱以来、度重なる戦火に焼かれ、徳川時代には豊臣氏との縁故のゆえに冷遇されたが、国宝の青不動像や室町時代に造営された庭園などを今日に伝えている。

g506.1.jpg

智積院は、もともと紀州根来寺の塔頭であったが、秀吉に全山焼き払われて一時存亡の危機に立たされた。だが、秀吉の死後、慶長6年(1601年)に、玄宥が家康から東山に土地を与えられて再興した。さらに、豊臣氏が滅亡した元和元年(1615年)に、秀吉の創建した祥雲禅寺をも与えられた。今日智積院に伝わる庭園は、この祥雲禅寺にあったもので、したがって秀吉の意向を幾分か反映している。この寺が保蔵している長谷川等伯父子の障壁画は、祥雲禅寺からの遺産である。

g505.1.jpg

金地院は、もともと応永年間に大業和尚が北山に開山した禅寺であったものを、徳川時代の初め(慶長年間)に崇伝和尚が南禅寺の塔頭として移建したものである。移建にあたって崇伝和尚は、本坊庭園とともにここにも小堀遠州に枯山水の庭園を作らせた。鶴亀庭園と呼ばれるものである。

Previous 29  30  31  32  33  34  35  36  37  38  39



最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ