映画を語る

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尾崎史郎の小説「人生劇場」は、劇的な要素に富んでいることもあり、数多く映画化された。その中で深作欣二が1983年に作ったものは、十三作目にあたるというが、これを最後に映画化されたことはない。いまのところ最後の「人生劇場」ということになる。深作はこの作品を一人で監督したわけではなく、佐藤純弥、中島貞夫との共作である。理由は、劇場公開のスケジュールに向けて時間がなかったこと。それゆえ、全体を三分して、それを三人で並行してとり、時間を節約しようとしたわけだ。しかし映画を見ての印象は、継ぎはぎというふうには見えない。きちんと線が通っている。そこは深作の職人としてのこだわりの産物だろう。

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深作欣二の1982年の映画「道頓堀川」は、宮本輝の同名の小説の映画化。大阪道頓堀界隈に暮らす人々の人生模様というか、生きざまのようなものを描いたものだ。ドラマチックな筋書きはない。鰥寡孤独の身で、アルバイトをしながら美術学校に通う青年(真田真之)と、偶然かれと出会ったことでやがて恋に落ちてゆく女(松坂慶子)を中心にして、真田が住み込みアルバイトをしている喫茶店の主人(山崎務)とその出来損ないの倅で、真田とは高校の同窓生だったという青年(佐藤浩市)がからんで、それぞれの人生模様が紡ぎ出されてゆくというような演出になっている。

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深作欣二の1976年の映画「やくざの墓場 くちなしの花」は、映画はさることながら、主演俳優渡哲也の歌った主題歌「くちなしの花」のほうが、圧倒的に有名だろう。いまだに歌われている。この主題歌は映画の中では、エンディングのところで一コーラスが歌われるだけで、目立った扱いはされていないのだが、それ自体が独立した歌謡曲として、大ヒットしたものだ。

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山下耕二は東映やくざ映画を代表する監督で、「山口組三代目」など実録物を多く作った。1975年の作品「日本暴力列島京阪神殺しの軍団」は、彼の代表作だ。映画の冒頭でフィクションと断っているが、それは方便で、実際には山口組の全国制覇の一幕を描いている。この映画には、日活の人気俳優だった小林明が、主演のやくざとして出演して話題となった。

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加藤泰はいわゆる任侠映画が得意で「緋牡丹博徒シリーズ」などを作っているが、1967年の作品「男の顔は履歴書」は一風変った任侠映画だ。これを任侠映画といえるのかどうか異論があるかもしれないが、一応義理と人情の板挟みになった主人公が、やくざ者を相手に大暴れするという点では、任侠映画の延長上の作品といってよいのではないか。

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篠田正浩の1975年の映画「桜の森の満開の下」は、坂口安吾の同名の短編小説を映画化したものだ。原作は、無頼派作家とよばれた坂口の代表作というべきもので、桜の妖気に取りつかれた人間の魔性のようなものをモチーフにしている。短編小説ながら物語展開に劇的な要素があって、映画化にはなじむ。それを篠田は映画化したわけだが、一部脚色をまじえながらも、ほぼ原作に忠実な演出といってよい。

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ルキノ・ヴィスコンティの1974年の映画「家族の肖像(Gruppo di famiglia in un interno)」は、ある引退教授と奇妙な人々との触れ合いを描いた作品だ。バート・ランカスターが演じるこの引退教授はローマの高級マンションに一人暮らししているのだが、そこへ奇妙な人々が入りこんできて、老教授の静寂な生活を乱す。老教授は、初めは迷惑を感じるのだが、いつのまにか彼らが好きになる、という筋書きである。映画はこの老教授のマンションの部屋を舞台に展開する。野外の場面は一切ない。ただ老教授の部屋のバルコニーから、ちらりと垣間見られるだけである。部屋の内部を舞台にした映画としては、ヒッチコックの「ロープ」とか、コクトーの「恐るべき親たち」があるが、この映画はそれら先行作品に劣らぬ出来栄えである。日本で上映された際には大ヒットになった。

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ルキノ・ヴィスコンティの1972年の映画「ルードヴィヒ」は、数奇な行動で知られるバイエルン王ルードヴィヒの、即位から死までのほぼ生涯を描いたものである。ほとんどドラマ性はないと言ってよい。一人の王の生涯を淡々と描きだしている。そのせいかやたらに長い。オリジナルテープは四時間もあった。それを劇場公開用に三時間に短縮したのだが、それでも長い。小生はDVD用に復元されたオリジナル版を見たのだが、そんなに長くは感じなかった。そこはやはり映画作りの名人ヴィスコンティのこと。観客を飽きさせないように作ってある。

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ルキノ・ヴィスコンティの1969年の映画「地獄に堕ちた勇者ども(The damned)」は、ハリウッドのワーナーの金で作った映画で、オリジナルは英語である。俳優もダーク・ボガードやイングリッド・チューリンはじめ、ハリウッド俳優だ。テーマは、ナチス台頭時期における、大財閥内の権力争い。財閥は、鉄鋼界のクルップをモデルにしていると言われるが、事実とはかなり異なった脚色をしている。というのも、ナチス台頭期にクルップを率いていたグスターフは、ナチスに協力して戦後まで生き残り、ニュルンバルグ裁判でも戦犯指名されているが、映画のなかでは、権力を狙うものたちによって殺害されたことになっている。もっとも、クルップという名は出てこないし、一応架空の話というような扱いになっているのだが、しかしドイツの歴史を知っている者にとっては、そういう扱いはある程度の違和感を持たされるところだろう。

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ルキノ・ヴィスコンティの1960年の映画「若者のすべて(Rocco e i suoi fratelli)」は、イタリアのいわゆる南北格差をテーマにしている。豊かな北にあこがれて南部の貧しい地域からミラノにやってきた家族が、必死に生きるところを描いている。その中で感動的な家族愛と、一人の女をめぐる兄弟同士の相克がサブプロットとして差し挟まれる。三時間に及ぶ大作だが、筋の進行によどみがなく、観客を飽きさせない。そういう点では傑作といってよい。

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2013年のイタリア映画「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち(Sacro GRA)は、ローマ環状線の周辺で暮らす人々の日常を描いたドキュメンタリー映画である。ローマ環状線というのは、その名の通りローマ市街の外郭を環状に通る高速道路のこと。地図で見るとローマの町をすっぽり包み込むようにして通っている。市街に接するところもあれば、田園地帯の只中といったところもある。この映画を見ると、そうした田園地帯を走る場面も出て来るので、単なる都市高速というのでもなさそうだ。

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ルイス・ブニュエルは、フランスのブルジョワジーの背徳的な生き方を皮肉たっぷりに描くのが好きだったが、この「自由と幻想(Le Fantôme de la liberté)」という作品では、背徳性にプラスして欺瞞性まで描き出した。フランス人というのは実に欺瞞的な生き物であり、彼らにあっては、真実は欺瞞に内在するという格言が至上の価値を持つ。そんなフランス人の欺瞞性を見せつけられたら、当のフランス人をはじめ世界中の人間は、それをどう受け取ってよいやら途方にくれるに違いない。

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阪本順治の2012年の映画「北のカナリアたち」は、ミステリー仕立ての人情劇といったところか。北海道の離島を舞台に、かつてそこで学んでいた六人の子どもたちと教師とが、二十年ぶりに再会し、一旦は失われた人間同士の触れ合いを取り戻すというような趣向だ。それだけだとただのお涙頂戴映画になってしまうので、そこにミステリーの要素をからめてある。そのミステリーを、主演の吉永小百合が心憎く演じる。彼女のおかげで、観客は一杯喰わされたかたちになるのだが、なにせそれを演じているのが吉永小百合とあって、化かされたと言って憤慨するわけにもゆかないのである。

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阪本順治の2011年の映画「大鹿村騒動記」は、原田芳雄の遺作となった作品である。原田はこの作品の公開直後に死んだのであるが、その訃報が巷に伝わるや、連日大入りしたというから、原田という役者がいかに人々に愛されていたかを物語るエピソードとして語られている。原田の相役をつとめた大楠道代は、原田と共に鈴木清順の映画に出ていた。彼女を共演者に選んだのは、荒戸源次郎を通じて鈴木正順映画に親しんでいたらしい阪本の、心ばかりの配慮だったのだろう。

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阪本順治の2008年の映画「闇の子供たち」は、タイにおける児童の人身売買や性的虐待・搾取をテーマにしたものだ。一応、日・タイ共同制作ということになっており、タイ国際映画祭にも出品予定だったが、内容がタイ当局の反発を買い、タイでの上映はいまだに実現していない。この映画の中では、児童買春と並んで、生きた子供を対象にした心臓移植もテーマになっており、そこがタイ側の反発に火を注いだらしい。生きた子供から心臓を取り出したら死んでしまうわけで、それを承知で臓器を取り出すのは、あきらかに犯罪行為(殺人罪)だ。タイでは、そんな犯罪行為は許されていないし、また実際に日本人の子どもにそのような移植が行われたという事実もない、といってタイ側は、強く反発したようだ。たしかにそういうことはなかったようで、その点は勇み足と言うほかはないが、児童買春は実際にあったことだ。タイでの児童買春は一時国際的に問題となり、Newsweekなどが批判キャンペーンを張ったこともある。

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阪本順治の2002年の映画「KT」は、1973年に起きた金大中拉致事件をテーマにしたものだ。これは、当時朴正煕大統領のライバルとして知られていた政治家で、後に韓国大統領になった金大中が、東京のホテルから白昼拉致されたというショッキングな事件だった。その事件の概要はおおよそ明らかになってはいるが金大中自身はこのことについて語らないこともあって、微細なことまではわからない部分もある。一番肝心なことは、金大中が韓国に拉致された後で、釈放されたことだ。これには、日本政府からの圧力があったからだとか、アメリカ政府の圧力が働いたとか、色々な説があるが、真相ははっきりしない。しかし日本政府がこの事件を掌握していたのはたしかなことらしい。金大中を乗せた船を、海上保安庁の船が威嚇したことなどから明らかといわれる。

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1989年の映画「どついたるねん」は、阪本順治の監督デビュー作である。阪本はこの映画を、難波のロッキーとして一部に知られていたボクサー、赤井英和をフィーチャーして作ったが、自主製作のようなもので、劇場公開のあてがなかったため、原宿に特設テントを設けて上映した。ところが口コミで評判が広がり、それがもとで劇場公開にこぎつけたという、いわくつきのものだ。この映画で阪本はユニークな映画監督として認められたし、赤井の方もタレントとして活躍する糸口をみつけた。


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崔洋一の2004年の映画「血と骨」は、一在日コリアンの半生を描いたものだ。原作は、「タクシー協奏曲」(「月はどっちに出ている」の原作)の作者梁石日の同名の小説で、かれの実父の半生を描いたものだ。実録だというから、実際に存在した人物がモデルなのだろうが、映画を見た限りでは、世の中にこんな醜悪な人間が存在するものだろうかと疑問に思うほど、ひどい人間を描いている。利己的で冷酷で、人間的な思いやりは寸毫もないくせに、自尊心だけは異常に強い。その自尊心でもって誰彼かまわず、相手を強制的に服従させようとする。すこしでも反抗の様子をみると、すさまじい暴力に訴える。昔の日本にも、強い家父長権をかざしていばりくさっているものはいたが、こんなに自己中心的な人間はいなかっただろう。同じく儒教文化に染まった人間としても、この映画に出て来る在日コリアンは、化け物のような異様さを感じさせる。

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崔洋一の1999年の映画「豚の報い」も沖縄を舞台にした作品だ。前作「Aサインデイズ」のような政治的なメッセージ性はない。沖縄の離島につたわる葬儀がテーマだ。この離島ではいまだに風葬が行われているのだが、それは特殊な事情がある場合だ。海で死んだものは、十二年間は埋葬できないので、その間は風葬したまま遺骸は大気に曝しつづけられる。十二年たてば墓に骨を収めることが許される。この映画は、父親を海で失った子が、風葬された父親の骨を拾いに故郷の離島へ戻って来るというような筋書きだ。

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崔洋一の1998年の映画「犬、走る」は、日本社会のエスニック・マイノリテがテーマである。新宿の歌舞伎町から大久保あたりにかけてが舞台なので、在日韓国・朝鮮人や中国人が中心で、それに南アジア系と思われるものや国籍不明なものが多数出て来る。大したストーリーはないのだが、犯罪にかかわる外国人と、それを取り締まる日本人の警察官の攻防が描かれる。どうも、日本にいるエスニック・マイノリティは、権力による治安維持の対象だというような視点を強く感じさせる作品だ。

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