映画を語る

CURE:黒沢清

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黒沢清の1997年の映画「CURE」は、連続猟奇殺人をテーマにしたサイコ・サスペンス映画である。殺人場面が頻出し、それがいかにも陰惨なので、見ていて衝撃を受ける。なにしろ、人の首を十文字状に切り裂き、しかも殺人を犯している人間が、当該行為について明白な意識をもたない。つまり催眠状態で犯しているのである。そこが非常に気味の悪さを感じさせる。

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1985年の映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」は、黒沢清にとって商業映画第二作だ。一作目の「神田川淫乱戦争」はピンク映画だったが、「ドレミファ」もまた当初はピンク映画として構想されたということだ。そんなこともあって、露骨な性的描写が多い。若い男女のセックスとか、若い女のマスターベーションといった具合だ。

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ペドロ・アルモドバルの2009年の映画「抱擁のかけら(Los abrazos rotos)」は、三角関係+αとでもいうべきものを描いた作品だ。+αというのは、一人の女と二人の男をめぐる通常の三角関係に加えて、もう一人の女がからんでくるからである。その男女の複雑な関係を、かなりウェットな感覚で描いている。コメディタッチを売り物にしてきたアルモドバルにしては、めずらしくシリアスな作り方になっている。

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ボルベール(Volver)というスペイン語は、英語のリターン、ドイツ語のハイムケアに相当し、帰郷とか帰宅といった意味である。ペドロ・アルモドバルが2006年に作った映画「ボルベール」は、一人の人間の帰郷をテーマにしている。それも死んだと思われていた女性が、生きて戻ってくるという話である。それに家族の不幸な出来事が重ねられる。家族をめぐるヒューマン・ドラマと言ってよい。


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ペドロ・アルモドバルの2004年の映画「バッド・エデュケーション(La Mala Educación)」は、スペイン流衆道(ゲイ道)ともいうべきものを描いた作品。日本でも衆道は寺院から流行したとされるが、スペインでも同じように、修道院が衆道の舞台だったようだ。この映画はその修道院の学校で衆道を覚えた少年たちが、大人になってから繰り広げる愛憎がテーマなのだ。

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「トーク・トゥ・ハー」という邦題は、英語のタイトル(Talk to her)をそのままとったものだが、スペイン語の原題(Hable con ella)も「彼女と話せ」という意味である。ペドロ・アルモドバルが2002年に公開した映画だ。テーマは、事故で植物状態になった二人の女性と、彼女らを愛する男たちとのコミュニケーション。

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ペドロ・アルモドバルの1999年の映画「オール・アバウト・マイ・マザー(Todo sobre mi madre)」は、息子を失った母親が心の痛手から立ち上がってゆく過程を描いたものである。邦題は英語のタイトルをそのまま使ったものだが、スペイン語の原題も同じ意味である。そのタイトルからは、息子の目から見た母親というイメージが思い浮かぶが、かならずしもそうではない。これは息子を失った母親の、息子が死んだあとの話なのである。

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ペドロ・アルモドバルの1993年の映画「キカ(Kika)」は、セックスと殺人をテーマにしたコメディ・タッチの作品だ。セックスとそれに関連した不道徳はアルモドバルの作品の特徴だが、この映画では、不道徳は意味のない殺人という形で現われる。一方セックスのほうは、奔放な女の男あさりとか、見境のない強姦といった形で現われる。なにしろセックスこそが人間の生きる意味だとばかり、この映画ではセックスが謳歌されている。ここに我々東洋の観客は、スペインという国に、フランスやイタリアに劣らないセックス好きの文化を見いだすことになるのである。

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ペドロ・アルモドバルの1988年の映画「神経衰弱ギリギリの女たち(Mujeres al borde de un ataque de nervios)」は、男に捨てられた女たちの焦りと怒りをコメディ・タッチで描いたものだ。彼女たちは、焦りと怒りのために、神経衰弱になりそうなのだ。だがどこかにしぶといところがあって、ギリギリのところで踏ん張っている、というのがこの映画が描きだす女たちの姿なのである。

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ペドロ・アルモドバルの1983年のスペイン映画「バチ当たり修道院の最期(Entre tinieblas)」は、スペイン版駆け込み寺を舞台にしたコメディタッチの作品。それにレズビアンの愛を絡めている。駆け込み寺といえば、日本では鎌倉の尼寺東慶寺が有名だが、そのような寺はおそらく世界中にあるのだろう。カトリック国であるスペインでは、尼僧の経営する修道院がその役割を担っているようだ。

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1994年制作の映画「リスボン物語」は、ヴィム・ヴェンダースがリスボン市の依頼を受けて作ったものだ。リスボン市としては、市の宣伝を狙って依頼したようだが、ヴェンダースは、単なるPRではなく、映画としての物語性も盛り込もうとした。かれとしては、「東京画」や「ベルリン天使の詩」といった、都市をテーマにした映画を作ってきた実績があったので、その延長でこの映画を作ったようだ。

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塚本晋也の2018年の映画「斬、」は、塚本にとってはじめての時代劇である。突拍子もない空想をテーマにすることが多かった塚本が、時代劇でどのような空想を披露するのか。そんな期待に塚本は、めったやたらと人が斬られるシーンを見せることで応えた。この映画は意味のない人斬りがテーマなのである。

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塚本晋也は、スクラップ鉄に変身した男とか、ストーカーにつきまとわれて人前で股間をさらす女とか、奇妙な映画ばかり作っているイメージが強い。2012年に作った「KOTOKO」も、やはりそうした系列上のものだ。この映画は、おそらく統合失調症と思われる精神病質の女の奇怪な行動を描いた作品だ。

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瀬々敬久は「菊とギロチン」で権力に立ち向かう個人を描いたわけだが、2019年の映画「楽園」では、伝統的な権力たる村落共同体によって、異質な個人が圧殺されるところを描く。そういう圧殺を、かつては村八分と呼んだものだ。社会の流動化が進んだ現代においては、村八分はほとんどありえないもののようにも思えるが、ある特定な条件のもとでは、容赦なく人を圧殺する、ということがこの映画からは伝わって来る。いずれにしても愉快な現象ではない。

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瀬々敬久の2018年の映画「菊とギロチン」は、関東大震災後の大正末期の暗い時代を背景にして、女相撲とアナキストの触れ合いをテーマにした作品だ。女相撲とアナキストでは、接点がないように思われるが、どちらも官憲に目の敵にされていたという共通点がある。この映画はその共通点を踏まえながら、権力と庶民との戦いを描いたものである。それに震災直後に起こった朝鮮人虐殺など、当時の日本における異様な出来事をからませている。かなり政治的なメッセージ性の高い映画である。

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瀬々敬久の2018年の映画「友罪」は、過去の辛い体験にさいなまれている人々のトラウマ的な感情をテーマにした作品だ。そういう点では、心理劇といってよいが、単なる心理劇ではなく、ドラマティックな要素も持っている。見る者に考えることを迫る作品でもある。

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瀬々敬久の2010年の映画「ヘヴンズ・ストーリー」は、人間のサガを黙示録的に描き出したものだ。テーマも壮大だが、描き方も壮大だ。なにしろ四時間半を超える大作である。だから劇場公開に際しては、途中で休憩時間を挟んだというくらいだが、当日の観客は、退屈はしなかっただろうと思う。よく作られているので、退屈を感じさせないのだ。

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瀬々敬久は21世紀に入るとピンク映画から足を洗って普通の映画を作るようになったが、2004年に久しぶりにピンク映画を作った。「肌の隙間」である。これはたしかにピンク映画なのだが、その範疇にはおさまりきれない複雑なメッセージを含んでいた。それが話題を呼び、一般の映画館でも公開されたという、いわくつきの作品である。

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瀬々敬久の1999年の映画「アナーキー・インじゃぱんすけ 見られてイク女」は、瀬々得意のピンク映画の一つの頂点となるものだ。副題に「見られてイク女」とあるように、多少変態気味の女が主人公だが、もっと重要な役割を果たしているのは、この女と変な因縁から結ばれた男と、その二人の仲間たちである。かれらは女を買うことでつながっているのだが、一人の女を共有するわけではなく、また性的な嗜好で結ばれているわけでもない。テンデバラバラな気持ちから女を買うのであるが、その買い方はそれぞれユニークである。

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瀬々敬久は、ピンク四天王に名を連ねるなど、ピンク映画で実績を上げた監督だ。ピンク映画というのは、ポルノ映画の一種ではあるようだが、ポルノ映画が専ら性的興奮を目的としているのに対して、物語としての面白さを合わせて追及するところに特徴があるらしい。その反面、性的興奮は抑えられぎみになるので、中途半端さがものたりないという意見もある。

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