日本の美術

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「会稽清趣図」と呼ばれるこの絵は、書聖王羲之が鵞鳥を愛したという故事に取材した作品。その故事を、「蘭亭序」で名高い会稽山にかけたもの。王羲之が会稽山の麓で、宴会を楽しむかわりに鵞鳥と戯れているというわけである。

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葛僊とは、神仙術の書として有名な「抱朴子」の著者葛洪のこと(僊は、仙人というような意味である)。葛洪は、日頃不老不死の術について研究していたが、不老不死の薬金丹を作るために、羅浮山に家を作って移り住んだ。その移居の様子は古来格好の画題とされ、多くの作品が作られてきた。鉄斎のこの作品もその一環に加わるものである。

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鉄斎の梅華図双幅は、右隻が「寒月照梅華図」、左隻が「梅華満開夜図」という。どちらも梅花をモチーフにしたもので、右隻は専ら墨で描き、左隻は墨を基調にして、抑え気味の色彩を施している。墨は実に表情に富んでおり、まるで多くの顔料が混ざり合ったかのような、ある種の色彩感を感じさせる。

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「寒霞渓図」は、「富士遠望図」とともに六曲一双の図屏風を構成する。これはその左隻にあたる。寒霞渓とは、小豆島にある神懸山の渓谷のことで、その優美な眺めを賞されて寒霞渓と言われるようになった。鉄斎は、前年の明治三十七年に、息子の謙蔵をともなって小豆島に遊んでおり、その折の印象をもとにこれを製作した。

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富岡鉄斎は、六十歳過ぎまでなにかと多忙だった。各地の神社の神官を勤めたり、美術教育にあたったりで、画業に専念できなかった。もっとも鉄斎自身、己を職業的な画家とは思っておらず、絵を描くのはあくまでも文人の余技であった。それでも世間の評判は高かった。正式な展覧会に出展しないにかかわらず、かれの作品は珍重されたのである。

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富岡鉄斎は、蝦夷地(北海道)に強い関心を持っていたようで、蝦夷の地図類なども所有していた。それを明治六年(1873)に、日本国地誌と合わせて政府に献上した。そのことで翌1874年に、政府から感謝状を送られた。その年に鉄斎は、北海道へ旅行している。

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富岡鉄斎は、明治二十六年(1893)に京都市美術学校教員となり、翌年には京都市展覧会絵画部審査部長となった。その年に描いた「天窟神楽図」は、大和絵風の作品である。大津市にある戸隠神社のために描いた。戸隠神社は、天岩戸神話で活躍するアメノタジカラオノミコトを祭神とする。

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富岡鉄斎は、明治十九年(1886)に京都青年絵画研究会展覧会の学士審査員となり、また明治二十三年(1890)には京都美術教会委員となった。だが画家としての名声というよりは、文人としての評判が評価されたらしい。明治二十三年の春から夏にかけては、息子謙蔵を伴って、東京、鎌倉、甲府などに旅している。

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富岡鉄斎は、明治九年(1876)に和泉の大鳥神社の大宮司に任命され、その復興に尽力した。荒廃した神社の復興には多額の費用が必要だったので、鉄斎はその足しにしようとして絵を売るようになった。

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富岡鉄斎の人物の描き方はユニークである。写実にはこだわらず、人物の表情の特徴を誇張するような描き方で、かなりデフォルメされている。そういうところが、鉄斎の絵がとくに西洋人から高く評価される理由だろう。鉄斎はそうした描き方を、若い頃から親しんだ大津絵などから学んだようだ。

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富岡鉄斎が本格的に絵を描き始めたのは29歳の頃からだ。画家としては遅いスタートだが、鉄斎自身は自分を画家とは思っていなかった。自分はあくまでも文人なのであって、絵は文人としての余技と思っていた。それでも結構の量を描き、いまでも若い頃の作品が多く残っている。だが、それらには素人らしい未熟さが見られる。鉄斎は、長生きしており、晩年まで創作意欲が衰えなかった。かえって晩年に及ぶほど優れた作品が多い。

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富岡鉄斎は、最後の文人画家と呼ばれる。もっとも本人には画家としての自覚は薄く、画は文人の余技と考えていた。とはいえ、生涯に残した作品は、スケッチ類や下絵を含めると一万点を超える。人から請われると、気さくに応じて描いて与えたというから、そんな膨大な数になったのだろう。その点では、やはり求めに応じて膨大な作品を残した白隠和尚に似ている。

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無頼といわれ、狂人と呼ばれた蕭白が、狂女を描いた作品がこの「美人図」。この女が狂っていることは、うつろな目、手紙を銜えた口、泥だらけの素足などから読み取れる。

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「鷲図屏風」は、東海道の宿場町水口の寺院に伝わってきた作品。猿を捕らえた鷲と、その様子を見つめるもう一羽の鷲を描いている。すさまじい迫力を感じさせる作品である。

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曽我蕭白は太公望をモチーフにした作品を幾つか残している。太公望といえば、おっとりとした雰囲気が似合うのだが、この絵の中の太公望は、かなりユニークな印象を振りまいている。脚を組んだ姿勢で船の上に横たわり、釣りには関心がないようだ。だいたい、釣り糸は途中で切断され、用途を果たしていないのだ。

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蕭白の「富士・三保松原図屏風」は、二点が伝わっている。一点はここに紹介する三保美術館所蔵のもので、旧パワーズ・コレクションだったもの。もう一点は、ロンドン・ギャラリー所蔵のもの。どちらも、左隻に富士を配し、その図柄はほとんど違わないが、右隻は大分違う。ロンドン・ギャラリーのものは、三保の松原に昇龍の組み合わせ、一方こちらは虹を組み合わせている。

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これも蝦蟇・鉄拐両仙人をモチーフにした作品。先述の「蝦蟇・鉄拐図」とはまた違った印象の作品である。とくに蝦蟇仙人の描き方がユニークだ。先の蝦蟇仙人は、地上の蝦蟇蛙に話しかけていたが、この蝦蟇仙人は、頭の上に蝦蟇蛙を乗せている。

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曽我蕭白には、双幅の唐獅子図があるが、この「獅子虎図」は唐獅子に虎を組み合わせたもの。唐獅子は口を開いた阿行の姿、虎の方はなにやら情けない表情をしている。「唐獅子図」の獅子達はどちらも情けない表情をしていたが、これは虎が一身にそれを体現している。

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「仙人図屏風」は「群仙図屏風」同様、中国の伝説的な仙人をモチーフにしたものだが、描かれた仙人たちには異同がある。一方、西王母はどちらにも取り上げられている。西王母は、不老不死の薬草を持つ神仙とされ、民衆の信仰が厚かったので、仙人がモチーフの作品には不可欠だったようだ。

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「月下狸図」は異様に細長い画面に描かれている。上部に月を配し、下部にその月を眺め上げる狸を配している。中間に挟まれた部分には、「てる月にうかれたぬきの はらうてばなおもかなでて あそぶかはほり」という狂歌が書かれている。

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