日本の美術

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月岡芳年は、明治十八年から同二十二年にかけて、縦二枚続きの細長い作品を十五図制作した。画題は多彩だが、芳年らしく武者絵が多い。オーソドックスな武者絵と比べて、独特の迫力を感じさせる。

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藤原保昌は平安時代の人物で、藤原道長の家司を努めていた。道長のすすめもあって和泉式部と結婚し、自身も歌人として歌を残している。色々な逸話があるが、なかでも大盗賊袴垂保輔との出会いが有名である。

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上杉輝虎(謙信)は、天文二十一年(1552)に弾正少弼の官名を賜った。二十二歳の年である。武田信玄との川中島の戦いを始めたのは、その翌年のことだ。この絵は、その際の謙信の勇姿を描いたものとされる。この時謙信は単身信玄の本陣にせまり、敵ながらあっぱれとたたえられた。

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相模次郎は将門の名相馬小次郎をもじったもの。その将門の勇猛な戦いぶりを描いたのがこの図柄だ。将門は戦のたびに無類の活躍をしたが、天慶三年の最後の合戦でも、その勇猛ぶりは衰えなかった。この戦いは、将門側が圧倒的に不利だったのだが、将門は先頭になって相手をなぎ倒し、味方の士気を高めた。

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「芳年武者無類」は、明治十六年から刊行した武者絵のシリーズで、全三十三図からなる。神話時代から戦国時代までの英雄たちを描く。武者無類には「むしゃぶるい」をかけている。言葉通り武者震いがするほど雄々しい英雄たちの活躍が、スナップショットのように切り取られている。

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「皇国二十四功」は、日本の歴史上忠孝で名高い人物二十四人を取り上げたシリーズ。師匠の国芳が、「本朝二十四功」と題して同じようなシリーズを刊行していたが、両者の間には、四人が共通しているだけで、大部分は異なった人物である。

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義経(牛若丸)と弁慶が五条橋で出会う場面は、古来日本人の心を捉え続けてきた。その様子は義経記に原点があるが、能の橋弁慶をはじめさまざまな語り物を通じて人口に膾炙した。月岡芳年はこのモチーフを、単発の錦絵で表現して見せた。

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「大日本史略図会」は、「大日本名将鑑」とほぼ同じ時期に刊行されたシリーズで、皇祖天照大神のほか歴代天皇をテーマにしている。

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大日本名将鑑は明治十年から十五年にかけて刊行されたシリーズで、日本史上の偉人や賢人をテーマにしている。当時は明治維新にともなって日本の歴史への関心が高まっており、政府も国民に対する歴史教育に力を入れていた。このシリーズはそうした動きに乗ったもので、庶民の人気を博した。

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明治十年の西南戦争は、新聞出版業界を大いに賑わした。この戦争の報道に庶民の関心が高まり、新聞は発行部数を大いに伸ばした。日露戦争や太平洋戦争でも同じような現象が起き、戦争が新聞の需要を高めるという法則のようなものが確認されるにいたっている。
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「江水散花雪」と題した三枚組のこの作品は、いわゆる桜田門外の変を描いたものだ。桜田門外の変とは、安政七年に水戸の浪士ら十数名が大老井伊直弼の一行を江戸城桜田門外で襲撃した事件だ。直弼は安政の大獄など強権的な手法で反対者を弾圧し、開国政策を推進していたが、それを攘夷派に恨まれ、当時の攘夷派の中心だった水戸の浪人たちによって排撃された。

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晁蓋は水滸伝に出てくる英雄のこと。晁蓋は東渓村に住んでいた。そこから谷を隔てた隣の西渓村には、夜ごと怪物が出て人々を苦しめていた。そこで西渓村の人々は仏塔を建てて怪物を折伏したところ、怪物はたまらくなって東渓村に逃げてきた。その事に怒った晁蓋は、西渓村から仏塔を盗んできて東渓村に立てたところ、怪物は逃げ去っていった。以後晁蓋は托塔天王と呼ばれるようになった。この絵はその物語をイメージ化したものだ。

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「一魁随筆」とは題していても、文集ではない。錦絵のシリーズである。ここでいう「随筆」とは、勝手気ままに描いたものというほどの意味らしい。全部で十三図からなる。いずれも題名を記した枠を配しているが、その枠の左側には北斗七星の第一星「魁星」が、右側には北斗七星の「斗」の字があしらわれている。

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「和漢豪気術」は明治元年に刊行された武者絵のシリーズもので、全十図からなる。和漢と題しているが、「和漢百物語」が主に妖怪をテーマにしているのに対し、こちらは武者をはじめ講談の世界の英雄たちを描いている。

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秦桐若は戦国時代の武将で、黒田官兵衛の家臣だった。無類の勇者として知られ、三十三人の首をとったと言われる。一丈の旗指し物に唐団扇が目印で、これを見た敵は近づくことをためらったとされる。

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森力丸は、蘭丸、坊丸とならんで森三兄弟として知られ、ともに織田信長の小姓をつとめた。天正十年の本能寺の変では、信長の脇に従い、最後まで戦って討ち死にした。享年十五歳であった。

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会津黄門景勝とは、上杉景勝のことである。景勝の父長尾政景は上杉謙信の武将であったが、景勝が九歳の時に死亡。その後景勝は謙信の養子として仕えた。そして謙信が死ぬと、その家督相続を巡って上杉景虎と激しく対立。武田氏や北条氏を巻き込んだ相続争いの末に勝利し、上杉氏の家督を相続した。そんな具合で景勝の前半生は血にまみれていた。

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堀井恒右衛門とは鳥居強右衛門のこと。戦国時代の武将である。長篠の戦いの際、強右衛門は徳川方奥平氏の武将として長篠城に籠城していたが、武田軍に囲まれて今にも城が落ちようとするとき、城を抜け出して家康に援軍を求めに行った。その帰りに武田側にとらえられ、援軍は来ないと伝えよと強要されたが、強右衛門は城に向かって援軍はすぐにも来るからそれまで持ちこたえよと叫んだ。

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佐久間大学は戦国時代の武将。もともと織田信長の弟信之の家来であったが、信之と信長の喧嘩が起ると優勢な信長方に寝返った。その後桶狭間の戦いの際には、その前哨戦の戦いで戦死した。主君を捨てたということで、あまり評判の良くない武将といってよい。

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「魁題百撰相」は、月岡芳年の「血みどろ絵」の代表作だ。明治元年から翌年にかけて、六十五図が刊行された。これらはいずれも歴史上の人物にこと寄せてはいるが、実は上野戦争における彰義隊の戦いぶりを描いたものとされる。彰義隊の各兵士の戦いぶりを、歴史上の人物の戦いぶりにこと寄せて描いたというわけだ。したがって、芳年の視線は官軍側ではなく、彰義隊側に大きく傾いているように見える。

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