日本の美術

蕪村の動物画

| コメント(0)
5201.jpg
(猛虎飛瀑図 絹本着色 114.0×135.0cm)

蕪村は、数はあまり多くはないが、動物絵も手がけている。同時代には伊藤若冲が動物絵の大家として人気があったから、そちらを意識したこともあっただろう。

倣銭貢山水図:蕪村の世界

| コメント(0)
5200.1.jpg

蕪村は明和三年(馬歯五十一)から二年間讃岐に滞在する。妻子を京へ残しての単身滞在だった。主な目的は、絵の顧客の獲得だったらしい。合せて俳句の会合も催したが、こちらのほうは余り気が乗らなかったようだ。気の利いた句を読む仲間がいなかったからだといわれる。

山水図屏風:与謝蕪村の世界

| コメント(0)
4802.jpg
(山水図屏風左隻 絖本図屏風 六曲一双 162.5×369.6cm)

蕪村は遅咲きの才能で、絵師として独り立するのは四十代半ばの頃である。彼は、特別の流派について絵を修行したことがなく、基本的には独学で絵の技術を習得した。手本としたのは主に中国の絵画であり、とりわけ南宋画の影響を強く受けた。彼が独り立した頃の絵には、南宋画風の淡彩画が多い。そのほかにも、明の絵画なども取り入れ、客の注文に応じて描き分けた。

修学院離宮その二:日本の庭園

| コメント(0)
g562.1.JPG

修学院の上の離宮は、小高い丘の上に造営されている。浴龍池と呼ばれる巨大な池を中心として、池の中には二つの島を浮かべ、その一つに窮邃亭という茶屋を立て、また池の南西側の一段高いポイントのところに隣雲亭という茶屋を配している。そしてこれらの間を散策路で結び、季節それぞれに応じた眺めを楽しむ回遊式の庭園となっている。

修学院離宮その一:日本の庭園

| コメント(0)
g561.1.JPG

修学院離宮は、後水尾院の指示によって明暦元年(1655)から万治二年(1659)にかけて造営された。上・中・下三つの離宮から構成され、それらを田んぼの畦道をそのまま利用した苑路によってつないでいる。離宮周辺の緑地帯とあわせると、総面積54万平方メートルに及ぶ広大な庭園である。

桂離宮その二:日本の庭園

| コメント(0)
g552.1.JPG

園林堂は持仏堂として作られたが、現在では安置している仏像はなく、建物だけが残されている。本瓦葺宝形作り屋根を持つ、ユニークな形の堂である。賞花亭と同じ島に立てられており、西側にある橋を介して岸と結ばれている。

桂離宮その一:日本の庭園

| コメント(0)
g551.1.JPG

桂離宮は、複雑に入り組んだ形の大きな池を中心にして、池の周りや島の上に、雁行型に並んだ書院群や月見を兼ねた茶室をいくつも配置した池泉回遊式庭園であり、その規模は七万平方メートルに及ぶ。八条の宮智仁親王が元和元年(1615)に造営をはじめ、寛永元年(1624)頃には、古書院のほか庭園部分を含む一期工事が完成した。寛永六年に智仁親王が死んだ後は、一時荒廃したが、その子智忠親王が成人するや、荒廃した庭園を復興するとともに、寛文二年(1662)頃までに、中書院、新御殿、月波楼、松琴亭,賞花亭、笑意軒などを増築し、ほぼ今日の形に整えた。

曼殊院:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g511.1.JPG

曼殊院はもと延暦寺の塔頭として比叡山にあったが、明暦二年(1656)に桂宮智仁親王の次男良尚法親王によって現在地に再建された。智仁親王は、桂離宮を造営しており、その長男智忠親王は桂離宮を現在の形に完成させた。また、曼殊院にほど近い修学院は、智仁親王の甥にあたる後水尾上皇によって造営されている。こういうわけで、桂離宮、修学院離宮、曼殊院は密接な因縁によって結ばれている。造園術という点においては、桂離宮と曼殊院とは深いかかわりがあるとされ、曼殊院は小さな桂離宮とも呼ばれている。

随心院:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g510.1.JPG

随心院は、平安時代に任海僧正によって創建された古い寺であるが、応仁の乱以降荒廃していたものを、慶長四年(1599)に九条・二条両家によって再建された。

渉成園:日本の庭園

| コメント(0)
g509.1.JPG

渉成園は、東本願寺の飛地境内地である。東本願寺本体は、慶長七年(1602)に十二代門主教如上人が徳川家康から寺地の提供を受けて成立したが、その後十三代門主宣如上人の時に、家光から現在地を寄進されたのを受けて、承応二年(1653)にそこを自らの隠居所とした。渉成園という名称は、陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉而以成趣」からとったという。また、周囲に枳殻を生垣として植えたことから枳殻亭とも呼ばれた。

仁和寺:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g508.1.jpg

仁和寺は、平安時代初期に創建された古い寺院であり、代々皇族が門跡をつとめる門跡寺院として高い格式を誇っていた。しかし15世紀後半に、応仁の乱によって全山が消失、その後徳川時代の初期寛永年間に再興された。再興に当たっては、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)を下賜され、往時の威容を取り戻した。

青蓮院:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g507.1.jpg

青蓮院は、平安時代末期に門跡寺院となり、その後皇室とかかわりの深い寺院としての伝統を有してきた。応仁の乱以来、度重なる戦火に焼かれ、徳川時代には豊臣氏との縁故のゆえに冷遇されたが、国宝の青不動像や室町時代に造営された庭園などを今日に伝えている。

智積院:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g506.1.jpg

智積院は、もともと紀州根来寺の塔頭であったが、秀吉に全山焼き払われて一時存亡の危機に立たされた。だが、秀吉の死後、慶長6年(1601年)に、玄宥が家康から東山に土地を与えられて再興した。さらに、豊臣氏が滅亡した元和元年(1615年)に、秀吉の創建した祥雲禅寺をも与えられた。今日智積院に伝わる庭園は、この祥雲禅寺にあったもので、したがって秀吉の意向を幾分か反映している。この寺が保蔵している長谷川等伯父子の障壁画は、祥雲禅寺からの遺産である。

南禅寺金地院:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g505.1.jpg

金地院は、もともと応永年間に大業和尚が北山に開山した禅寺であったものを、徳川時代の初め(慶長年間)に崇伝和尚が南禅寺の塔頭として移建したものである。移建にあたって崇伝和尚は、本坊庭園とともにここにも小堀遠州に枯山水の庭園を作らせた。鶴亀庭園と呼ばれるものである。

蓮華寺:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g504.1.JPG

蓮華寺は、もともと西八条塩小路(現在の京都駅付近)にあった時宗の寺院で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文二年(1662)加賀前田藩の家老今枝近義が現在地に再興した。現在地は、高野川の上流上高野の地にある。叡山電鉄三宅八幡駅で降りて、川沿いに数分歩いたところにある。

東福寺普門院:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g503.1.jpg

東福寺は、十三世紀の半ば頃に摂政九条道家によって造営された禅寺である。何度か火災にあったが、そのたびに再建され、大規模な寺院として伝統を保ってきた。しかし、庭園にはそう古いものはなく、徳川時代に作られた普門院開山堂前の庭園が有名である。

宝泉院:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g502.1.jpg

大原三千院の参道奥にある宝泉院は、大原寺(勝林寺)の僧坊として、11世紀始めに創建された寺である。額縁庭園として知られるこの寺の庭園は、徳川時代の中ごろに作られた。額縁と言われるのは、客殿から庭園を見ると、額縁に収まったようにコンパクトに見えることによる。

三千院:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g501.1.jpg

いま三千院のある地には、もともとは往生極楽院という寺があった。そこへ、明治時代になって、門跡寺院として格式の高かった三千院が移ってきた。そんなわけで、いまでは、三千院として知られているが、この地に現存している建物や仏像などは、極楽往生院のものを引き継いでいる。庭園もそうで、三千院を象徴する聚碧園は、徳川時代に往生極楽園の庭園として作られたものである。

詩仙堂:日本の庭園

| コメント(0)
g407.1.JPG

詩仙堂は、徳川時代初期の造園家として名高い石川丈山が、隠居所として寛永十八年(1641)に造営した。時に丈山は五十九歳、以後九十歳で死ぬまでここに隠居した。建物の内部に中国の三十六詩人の詩と狩野探幽に描かせた画像を掲げたことから「詩仙堂」と呼ばれるようになった。

知恩院方丈庭園:日本の寺院庭園

| コメント(0)
g406.1.JPG

知恩院は、法然在世中よりこの地にあって布教の拠点となっていたが、山門や御影堂などの現存する伽藍群が造営されたのは徳川時代に入ってからのことである。大方丈と小方丈は寛永18年(1641)に作られ、その際に方丈庭園もあわせて作られた。庭園の造営を指導したのは、小堀遠州と縁のあった石立僧玉淵とされる。池泉回遊式庭園である。

Previous 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

アーカイブ