日本の美術

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(梅若神社)

梅若神社は、梅若伝説を踏まえた梅若塚というものが、後に神社に祭られたものだ。この伝説は十世紀後半に成立したもので、梅若丸という京の子供が人買いにかどわかされ、奥州に向かう途中に、隅田川を渡ったあたりで倒れた。人買いはそのまま捨てて去り、梅若丸は死んだのだが、土地の者が死んだ梅若丸を不憫に思って塚を築いて葬った、というものである。

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(滝の川の図 明治十一年)

滝野川は、飛鳥山と一対になった形で、桜の名所として知られるが、この絵は紅葉の滝の川を描いている。場所としては、滝の川が飛鳥山からのびる高台にさしかかるところだろう。いまでもこのあたりは、鬱蒼とした感じで、都会のオアシスのような雰囲気を湛えている。

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(愛宕山の図 明治十一年)

芝の愛宕山には、京都の愛宕神社を勧請した愛宕神社が祭られ、防火の神として江戸の庶民の信仰を集めた。昭和時代の初めにNHKの放送センターが愛宕山の一角に立てられたために、昭和時代を通じて愛宕山はNHKと強く結びついた。いまでもその放送センターを偲ぶ博物館のようなものが残っている。

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(海運橋<第一銀行雪中>)

海運橋は、日本橋川から枝分かれした掘割にかかっていた。いまの兜町界隈にあたる場所だ。この橋の袂に、三井が一族の新たな拠点として「三井ハウス」を建てた。変則五階建ての、実に威風堂々たる建物で、俄に東京名所が一つ生まれたといって騒がれた。

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(上野公園画家写生)

上野の寛永時は徳川家の菩提寺として開かれ、徳川時代にも花見など節目節目に、境内地の一部が庶民に解放されていたが、維新後そのすべてが公園として全面解放された。正式名称を「恩賜上野公園」というのは、徳川家ではなく皇室より下賜されたということを強調するためである。

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(不忍池畔雨中)

不忍池は、谷中方面から流れてきた藍染川の水を溜めたものである。かつては、その水が隅田川に流れ出し、池の水は年中入れ替わっていた。だから水質もよかったわけだ。

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(今戸橋茶亭の月夜)

今戸橋は山谷堀が隅田川に注ぐところにかけられた橋だ。かつて吉原が遊郭として賑わった頃には、この橋を猪牙舟に乗ってくぐり、山谷堀を溯上して吉原に向かうというのが通の遊び人のやり方だった。端唄の深川節にも、「かごでゆくのはふかがわ通い、ちょきでゆくのはよしわら通い」とある。

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(御茶水蛍)

これはお茶の水付近の神田川での蛍狩りの様子を描いた図柄。風景は闇に沈んでよく見えない。ただ闇の中に無数に飛び回る蛍の光と、それを水上から追いかける船の明かりが見えるだけだ。

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(柳島日没)

柳島は、横十間川と北十間川の合流地点をさす。地形的には島ではないが、北側と東側を川で仕切られているために、島のような雰囲気を湛えていた。そこに柳が生えていたことから、柳島と呼ばれるようになったわけだ。この柳は落語の柳派の語源ともなった。この地の一角に法性寺という寺があるが、そこがかつては柳派の落語の拠点だったのである。

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(両国雪中)

今でこそ両国といえば両国橋の東側である墨田区の地名になっているが、徳川時代から明治初期にかけてまでは、両国橋をはさんだ東西の両方をさして両国と言った。西両国は繁華な市街地を形成し、東両国は回向院の相撲をはじめ、見世物や興行を行う小屋が立ち並んでいた。

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(二重橋前騎馬兵 明治九年)

現在の二重橋は、堀前の広場から見て、手前が石橋、奥が鉄橋になっている。橋の正式名称は、手前が西丸大手橋、奥が西丸下乗橋といい、奥のほうを本来の二重橋と言うが、通常は二つを合わせて二重橋と呼ばれることが多い。

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(東京小梅曳船夜図 明治九年)

現在向島の曳舟通りになっているところは、以前は川が流れていた。この川はもともと亀有上水として、利根川の水を江戸市中に供給することを目的に掘られたものだ。その水路を利用して、船による物資の運搬も行われた。川が狭いこともあって、船は両河岸から綱で引っ張って動かした。これを曳舟というが、そこからこの水路を曳舟川というようになった。その名残が曳舟という地名や通り名になっているわけだ。(ちなみに昔の向島区役所は、この曳舟通りの近くにあった)

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(東京橋場渡黄昏景)

橋場の渡しは、隅田川に多くあった渡しの中でももっとも古く、かつ利用度の高いものだった。場所は、現在白髭橋のあるところのやや下流あたり、浅草側の橋場と向島側の梅若塚を結んでいた。業平が東下りの途中で隅田川を渡ったところであり、また謡曲「隅田川」で狂女が船に乗って向島に渡るのもこの渡しであった。

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(東京新大橋雨中図 明治九年)

清親が明治九年に松木から刊行した東京名所図シリーズ五点のうちの一点。清方の作品のなかではもっとも有名なもののひとつである。

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(東京銀座街日報社、明治九年)

銀座通りに洋風の建物がつながる街が形成されたのは明治六年以降のこと。前年の火事で古い街並が焼けてしまったことと、開通したばかりの新橋駅の駅前通りとして洋風の景観を整備しようとする意向と、この二つの事情によって作られた街だ。清親が東京名所図のためにスケッチした明治九年頃には、大分整備が進んで、近代的な街並の景観を完成させつつあった。

小林清親の東京名所図

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小林清親は、光線画と呼ばれる画法を駆使して明治初年の東京を版画という形で表現した作家である。幕末から明治初年の江戸―東京を絵画の世界に定着した画家としては、安藤広重や河鍋暁斎という先輩がいたが、清親は自分なりの独特の画法で、明治初年の東京、それは徳川時代の田園的な雰囲気を残した江戸の名残としての東京から、西洋風の近代的な都市へと変貌しつつあった東京だが、そうした過渡期の東京の姿を、如実に見える形で残したことは、絵画の歴史の上のみならず、日本の歴史の上でも貴重な貢献であったといわねばならない。

小島湾真景図:池大雅の世界

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小島湾は、瀬戸大橋児島・坂出ルートの本州側の起点に当たるところにある。いまの岡山市の南側にあたる。古来風景の美しいところとして知られていた。池大雅は40歳代の半ばに友人の韓天寿と共に山陽を旅したことがあったが、この絵はその際に描かれたものだろうと推測される。

瀟湘八景図屏風:池大雅の世界

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瀟湘八景は徳川時代の文人画の好みのモチーフであり、池大雅も多く手がけたが、この作品は瀟湘八景のすべてを一つの画面の中に描いた珍しいものである。どの部分がどこに相当するかは、裏に貼り付けられた大雅の書簡に記されている。それによれば、向かって右より、遠浦帰帆・瀟湘夜雨・漁村夕照・洞庭秋月・平砂落雁・山市晴嵐・遠寺晩鐘・江天暮雪ということになる。

五百羅漢図:池大雅の世界

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宇治の黄檗宗寺院万福寺には、池大雅の手になる障壁画や壁貼画が数十点描かれていた。万福寺は大雅が少年時代からかかわりのあった寺院で、大雅は生涯の折節にこの寺のために障壁画等を製作した。五百羅漢図もその一部で、もともと開山の間に四面ずつ向かい合って、八面の襖に描かれていた。40歳代の作品である。現在は掛軸に仕立て直されている。

洞庭赤壁図巻:池大雅の世界

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「洞庭赤壁図巻」は、日本の文人画が到達した記念碑的な作品だとの評価が高い。国宝にもなっている。大雅生前から文人仲間の話題となり、多くの文人たちがかかわりをもった。すなわち、韓天寿が題簽(九霞山樵法唐人之筆洞庭赤壁図)を、宮崎筠圃が題字(乾坤日夜浮)を、細合半斎と頼春水が跋文を、木村兼霞堂が箱書(池貸成洞庭赤壁図)を、それぞれ寄せており、この作品が文人仲間のシンボル的なものだということを表明している。

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