日本の美術

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「瀛洲僊境図」は鉄斎最晩年の作品。鉄斎は大正13年の12月31日に死んだのだが、この絵はその三日前に、主治医の浅木直之助に贈ったというから、鉄斎にとって文字通り絶筆というべきである。

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普陀落山とは、観音菩薩が降臨する場所といわれる。華厳経の「入法海品」などに見える。海上にあるとも、南インドのマラヤ山の東にあるとも言われる。この絵の普陀落山は、海上の島をイメージしているのかもしれない。左下に水が描かれているからだ。

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「貽咲墨戯」は、鉄斎が米寿記念に作った書画帖。書が十三、画が十三、ほかに題字跋をあわせて全二十八ページからなる。これはそのうちの「円通幽栖」と題した画。円通については、「阿倍仲麻呂明州望月図」と一対をなす「円通大師呉門隠棲図」でも取り上げている。

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「西王母像」と題するこの作品は、友人の母の古希の祝いに贈ったもの。賛にその旨が記されている。曰く、「幡桃已に熟す三千年 萱草春に生ず七十年」。幡桃は三千年に一度なるという長寿の桃、萱草は母を象徴する。その母が七十歳になったのはめでたいことだ、との意味が込められている。

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富岡鉄斎は、大正十一年(1922)に小五位に叙せられた。その叙位の喜びを表現したのが「心遊仙境図」である。その喜びの心境を、鉄斎は賛に込めている。曰く、「自分は長寿を願って精神を養ってきたが、すでに八十七歳まで生きることができた。鏡に顔を映してみると、痩せた鶴のようである。こんな鶴の鳴き声が宮中まで達したとは思いがけないことだ」。ちなみにこの文章は、詩経小雅鶴鳴を参考にしている。

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「前赤壁図」は、北宋の大詩人蘇軾の有名な「前赤壁賦」をイメージ化したもの。鉄斎は蘇軾を敬愛しており、数多くの肖像画を描いているが、これは蘇軾の代表作を題材にしたもの。賛がわりに、賦の文章を全文記している。

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「群仙祝寿図」は、鉄斎自身の長寿を祝って描いたもの。その旨が箱書に記されている。寿老人を囲んで、数人の仙人が祝福している場面。寿老人が鉄斎の自画像であるとされる。

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「教祖渡海」とは、仏教、儒教、道教の教祖たちが仲良く海を渡るというもので、「三聖吸酢」同様、三教一致をうたったものである。鉄斎好みのモチーフといってよい。

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網川とは唐の大詩人王維のこと。その王維が描いたという雪景図を意識しながら描いた作品である。賛に、その意図が記されている。曰く、「陳継儒がいうに、王維が描いた雪蕉図が睨雲林の清必閣にあり、楊廉夫や雲林自身も題跋をかいた」と。

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三老とは蘇東坡、黄山谷、仏印禅師をいう。この三人が集まって酢を飲んだという故事が中国に伝わってきた。三者はそれぞれ、儒教、道教、仏教を代表するので、三教一致の象徴的な話になっている。三聖吸酢とも三養吸酢ともいわれる。

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「古仏龕図」と題するこの作品は、大阪の古書籍商鹿田松雲堂の十三回忌法要のために製作したもの。法要に相応しく、古仏をモチーフにしている。古仏とはさとりを開いたもののことで、死者にはもっとも望まれるところ。これを贈られて心から喜んだに違いない。

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東瀛は瀛州といい、蓬莱、方丈とともに東方の海上にある仙境といわれた。具体的には日本をさすともいう。「東瀛仙苑図」と題するこの絵は、その仙境を描いたもの。

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富岡鉄斎は蘇東坡を敬愛し、折に触れて蘇東坡にまつわるエピソードを視覚的に表現した。「東坡帰院図」と題するこの作品は、鉄斎の東坡ものの傑作というべきもの。京都の和菓子屋虎屋の主人、黒川魁亭のために製作した。虎屋は鉄斎の家から近かったこともあって、よく出入りしていたそうだ。

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「寄情丘壑図」と題するこの絵は、おそらく、晋書謝安伝の中の一節「安雖放情丘壑,然每游賞,必以妓女從」をイメージ化したものと思われる。謝安は字を安石といい、東晋の英雄として知られる。淝水の戦いでの勝利は有名である。英雄色を好むの喩えのとおり、つねに妓女を侍らしていたようだ。

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「大江捕魚図」と題するこの絵は、明の文人唐寅の詩の一節をイメージ化したもの。唐寅は生涯仕官することなく市井の文人として生きたが、書画をよくし人々に愛された。その点では、市井の文人を自負して書画に励んだ鉄斎と境遇が似ている。また唐寅は、日本とも馴染みがあり、日本人にあてた手紙(贈彦九郎詩)も残っている。鉄斎は唐寅のそんなところに共感して、この絵を制作したのだと思う。

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「碧桃寿鳥図」と題するこの作品も、西王母の桃の話をモチーフにしている。漢の武帝が搖池苑に西王母を迎えて宴を催したところ、王母は七つの桃をみやげに持参し、そのうち四つを武帝に贈り、残りの三つを自分で食べた。武帝が種を植えようとすると、三千年に一度しか実を結ばないので、短命の武帝にとっては無駄なことだと諭した。

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東方朔は、漢の武帝時代に実在した政治家だが、奇怪な行動で知られ、ついには仙人になったといわれる。李白は詩中でかれを次のようにたたえている。「世人不識東方朔、大隠金門是謫仙」

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「円通大師呉門隠棲図」は、「阿倍仲麻呂明州望月図」とともに六曲一双の図屏風を構成するうちの左隻。円通大師とは、平安時代後期の天台僧寂昭のこと。宋に渡り、皇帝真宗に謁見して、円通大師の尊号を賜った。呉門は蘇州にある寺院の名称。ここを生活の拠点とし、日本に帰ることを願ったが、かなわずして、杭州で死んだ。

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「阿倍仲麻呂明州望月図」は、「円通大師呉門隠棲図」とともに六曲一双の図屏風を構成する。これはその右隻。阿倍仲麻呂が唐での留学を終え、日本に帰るにあたり、明州(寧波)で送別の宴が催された。この絵はその際の様子を描いたもの。

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土佐又平とは、徳川時代初期の大和絵画師岩佐又兵衛のこと。岩佐又兵衛はかならずしも土佐派に分類されないが、土佐派は徳川時代初期の大和絵を代表していたので、そのように呼ばれたのかもしれない。

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