曽我蕭白といえば、ぞんざいさを感じさせる作品が多いという印象が強いが、一方で、繊細な技術を感じさせる作品もある。この「蓮鷺図」などは、そうした繊細な水墨画の代表的なものだ。蕭白はすでに若い頃に「林和靖図屏風」のような高度な水墨画テクニックを駆使した作品を作っていたが、この「蓮鷺図」も比較的若い頃の作品と思われる。
日本の美術
曽我蕭白には達磨図がいくつか残っている。一番有名なのは伊勢の安養寺に伝わるものだが、この一幅もそれに劣らず迫力がある。
「山水図」双幅は「月夜山水図屏風」と並んで蕭白山水図の傑作。これは縦長ということもあり、前景と背景との間の遠近感の演出に工夫が見られる。前景部分では墨を濃く塗り、形態を明確に描いているのに対して、背景や中景の部分では、墨を抑え気味あるいは薄く塗って、遠近感が強調されるように工夫されている。
大津市の近江神宮に伝わる「月夜山水図屏風」は、京都の久昌院に伝わる「山水図」とともに、蕭白山水図の代表作というべきものだ。蕭白の山水図の特徴は、やたらと細部にこだわることで、そのためゴチャゴチャとした印象を与えもするのだが、その分ユニークさを主張している。
曽我蕭白は中国の伝説上の仙人が好きで、数多く描いているが、なかでも蝦蟇仙人と鉄拐仙人は繰り返し描いている。これはその一つ。双幅の作品で、右側に蝦蟇仙人、左側に鉄拐仙人を配し、丁度向き合うようにしている。
蕭白は、龍や虎が好きだったとみえ、それぞれいくつも描いているが、これはその龍と虎を双幅に並べたもの。描き方には蕭白ならではの特徴がある。龍は竜巻に乗った形で頭の部分だけが表現され、虎はいじけた表情でかがみこんでいる。
「人麿図」は、歌聖柿本人麻呂をモチーフにした作品。これにも蕭白の遊びが読み取れる。人麻呂は一応筆をもった姿で表現されており、歌詠みの雰囲気が読み取れないわけではないが、しかしその表情からは粗野な印象が漂ってくる。歌聖というより、そのへんの下手な歌詠みの老人といった具合である。
「風仙図屏風」は、中国の伝説上の仙人陳楠をモチーフにした作品。陳楠は、旱魃に苦しんでいた人々のために雨を降らせた。その折に、龍を池の底から連れ出して、その龍に雨を降らせたという。この絵はその伝説を踏まえ、仙人が龍に向って命令する姿が描かれている。
「後醍醐帝笠置御潜逃図」とは、保存用の箱書きに記された言葉。おそらく太平記にある話を踏まえたものだろう。太平記には、倒幕に失敗した後醍醐天皇が、側近たちと共に笠置に逃れたと記されている。その記事をイメージ化したものと思われる。だが蕭白一流のちゃかしのようなものを感じ取れる。
伊勢松阪朝田寺の客殿廊下にある杉戸二枚に、蕭白は計四面の絵を描いた。一枚は、表側が獏図で、裏側が旭日に月図。もう一枚は、表側が鳳凰図で、裏側が萩に兎図である。光線があたる関係で、一部退色している。
「唐獅子図」は、伊勢松阪の朝田寺に伝わってきた作品。双幅の墨画で、本堂内の本尊の両側の壁に貼り付けられていた。ということは、寺ではこの作品を、あかたも西洋の宗教画のように、本尊の引き立て役として重宝してきたということだろう。
「松に鷹図襖」は、伊勢の永島家に伝わってきた44面の襖絵の一部。五面分を占めている。画面左側に松の樹を配し、その枝の先端、丁度全画面の中央にあたるところに鷹を配している。鷹は背後に鋭い視線を向け、その視線の先には断崖らしいものが見える。かなりなダイナミズムを感じさせる構図である。
曽我蕭白は、明和元年(1764)に伊勢に旅し、そこで方々に寄宿しながら、様々な作品を生み出した。伊勢には蕭白の作品が非常に多く伝わっているので、一時期まで、蕭白伊勢出身説まで起こったほどだ。
曽我蕭白は、多くの鷹図を手がけているが、これはその最高傑作といってよい。しかも数少ない彩色画の傑作である。縦長の構図の中に、上段には鷹を大きく配し、下段に二羽の小禽を配して、華美な色彩で描いている。蕭白の彩色画の特徴は、原色を多用した華やかさにあるが、これはやや落ち着いた色彩配置になっている。その分黒を有効に使うことで、華美な印象をもたらしている。
伊勢松坂の継松寺に伝わる「雪山童子図」は、蕭白の代表作「群仙図屏風」とほぼ同じ時期、伊勢に遊んだ34歳前後の作品と思われる。「群仙図屏風」同様、鮮やかな色彩感覚が特徴的である。
これは群仙人図屏風の左隻。右側から林和靖、左慈、蝦蟇仙人、西王母及び西王母の侍女たち。西王母は仙人ではないが、世の母親を代表して出てくるのは、モチーフの跡継ぎを意識してのことだろう。
「群仙図屏風」は曽我蕭白の代表作といってよい作品だ。京都の京極家に伝わってきたもので、昭和40年に再発見されて、蕭白の代表作と認められた。京極家ではこれを、跡継ぎの誕生祝に注文したらしい。明和元年(1964)、伊勢へ出かける前に描いたと思われる。
「雲龍図」はもともと襖絵であったが、ボストン美術館が購入する際に襖から引き剥がされて、紙の状態で持ち帰った。そもそもどこにあったのかについては、日本画家の橋本関雪がヒントとなる文章を残している。それによれば、関雪の若い頃に、播磨の伊保崎村のある寺で、蕭白作と伝えられる「大きい龍の襖絵」を見たと言うのである。おそらくその襖絵がこの作品だろうと考えられる。
この寒山拾得図は、京都の興聖寺に伝わってきたもの。興聖寺は曽我蕭白の実家の菩提寺であり、蕭白自身の墓もある。その縁でこの作品を寄せたのだと思う。興聖寺は堀川通りにあり、西陣から近かった。蕭白の実家もそのあたりにあったものと考えられる。
林和靖は、宋の時代の文人で、杭州西湖にある孤山という島に隠棲し、勝手気ままに生きた。その風流な生き方が、文人の理想像とされ、中国では格好の画題とされてきた。日本でも林和靖を取り上げた画家は多い。
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