日本の美術

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セノオ音楽出版が、大正年間から昭和初期にかけて楽譜の出版をしたところ大いにあたった。そのプロジェクトに夢二もかかわった。セノオ楽譜は表紙にしゃれた絵を配しているのが人気を呼んだ。夢二の絵は、楽譜の表紙としてふさわしかったと見え、大いに好評を博したという。

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夢二は芝居絵を多く手掛けた。故郷の岡山県邑久が芝居の盛んな土地柄だったので、少年時代から芝居に親しんでいた。その芝居趣味を、絵の世界で表出したというわけであろう。1910年代の半ばごろから20年代の初めにかけて、肉筆の芝居絵を手掛ける一方、庶民向けの版画もヒットした。

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竹久夢二には西洋かぶれのところがあって、西洋趣味を感じさせる作品を、1914年から数年間を中心にして残している。それには少年時代を神戸で過ごした影響が指摘される一方、明治の末以降、北原白秋の詩集「邪宗門」によって南蛮趣味が流行したことも作用したと思われる。

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「木に寄る女」と題したこの絵は、木と一体化した女を描いている。女はミカンの木に寄りかかっているのだが、その木の幹が女によって覆い隠されているために、あたかも女が木の幹となり、その女の頭上から枝がのびて、ミカンの実がなっているように見える。

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夢二はたまきのために日本橋に港屋を開店したその年に、たまきをともなって、関西方面に旅行した。「加茂川」と題するこの絵は、その折に描かれたものと思われる。夢二は、明治42年にたまきと富士登山をした折、京都出身の堀内清と懇意になり、以後たびたび堀内をたよって京都に旅行している。この年の関西旅行は、岡山で開かれた画展に立ち会うのが目的だったが、そのついでに関西方面を歩き回ったのだった。

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夢二は1909年にたまきと離婚したあとも、たびたび同居をくりかえした挙句、1914年にはたまきのために日本橋呉服橋に一軒の店を出してやった。港屋といって、小間物を売る店であったが、それらの小間物には夢二のデザインが施されていたので、さながら夢二のブランドショップの観を呈した。

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夢二は、たまき以下自分が深い関係を持った女性たちをモデルに多くの美人画を制作した。そうした美人画は、女のエロチックな魅力を捉えたものだが、初期には、挿絵を多く手掛けていたこともあって、マンガチックな作品も多い。「満願の日」と題したこの作品は、夢二の漫画風美人絵の代表的な作品。

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「光れる水」と題したこの絵は、夢二が生涯に唯一結婚した女性であるたまきをモデルにした作品。夢二はたまきと1906年に出会ってすぐ恋に落ち結婚したのだったが、わずか二年で離婚(1909年)した。だが離婚後も別居と同居を繰り返し、子供まで作った。そのたまきと夢二は、1910年に銚子に遊んだ。この絵はその折に描かれたと思われる。

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画家としての竹久夢二のキャリアは、雑誌や新聞の挿絵を描くことから始まった。かれの独得の表現は、大衆相手にわかりやすい絵を描くことに発していたといえよう。当時の大手出版社であった博文館の編集者から目をかけられ、いろいろな媒体に絵を発表する機会を得た。二十歳をすぎたばかりの時である。

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竹久夢二は、もともと商業デザイナーとして出発したこともあって、芸術家としての評価はあまり高くなかった。本人もそのことは自覚していたようで、芸術家としての名声を求めていたわけではなかった。だから、画家をはじめ、高名な芸術家と交際することはほとんどなかったし、自分の作品の芸術性を高めようという意欲も無かったに等しい。本人がその程度の自覚だから、社会が夢二を画家として高く評価することも、すくなくとも夢二の生きている間はなかった。夢二は、婦人雑誌の表紙とか、日常品の装飾とか、商業的な分野で仕事をしているマイナーなアーティストとしてしか見られていなかったというのが実際のところである。夢二がユニークな芸術家として世間に認められるのは、1960年代以降のことである。その頃に、デザインの分野で一時代を切り開いたアール・ヌーヴォーが再評価されるようになった。夢二もユニークなデザイナーとしての才能を、評価されるようになったわけだ。だが、今にいたるまで、夢二のデザイナーとしての名声は、日本国内に限られており、海外ではほとんど無名のままである。

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松園は、空襲を受けなかった京都を本拠地にしていたので、終戦の年まで京都にとどまり、制作活動に従事していた。しかし息子松篁のすすめで、敗戦の年昭和20年の2月に奈良の別荘に疎開し、以後死ぬまでそこで暮らした。

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上村松園には蛍をモチーフにした作品が多い。「新蛍」と題するこの絵は、松園の晩年を飾る蛍の傑作だ。「新蛍」というタイトルの絵では、母子が蛍を入れた虫かごを覗き見る構図のものが有名だが、この作品は、薄の上を飛ぶ蛍を見つめる女性が描かれている。

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「晩秋」と題するこの絵も、母への追慕をモチーフにした作品。「夕暮」と並んで、松園晩年の傑作である。「夕暮」では、針仕事にいそしむ女性が描かれたが、ここ絵では、障子紙のほころびを繕う女性を描いている。女性は若い姿で描かれているが、松園はそれに亡き母の面影を重ねたという。

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「夕暮」と題するこの絵も、母を追慕した一連の作品の一つで、単に母を追慕する感情が強く伺われるだけでなく、松園の最高傑作と呼ばれるに相応しい完成度を示した作品である。

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上村松園は、金剛巌に師事して能を楽しみながら、自ら鼓も打った。この「鼓の音」と題した作品は、鼓を打つ自分自身をイメージ化したもののようである。画面からは、鼓の音が聞こえてきそうな感じさえする。

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舞はだいたいが女の役柄だが、男の役柄が演じるものもある。それを男舞という。能「小袖曽我」の中で、曽我兄弟が演じるのはその代表的なものである。一方で、神社の神事において、巫女が男の姿で舞うものもある。これは、中世の白拍子が、白い水干に立て烏帽子の姿で、太刀を帯びて舞ったことに由来するといわれる。

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能に取材した松園の作品のうち、もっとも能らしい雰囲気を感じさせるのは、「草紙洗小町」と題したこの作品。松園は、その直前に、能の仕舞「序の舞」をモチーフにしたばかりだったので、能が続くと客の不興を買うのではないかと心配したらしいが、この作品は、そうした心配を吹き飛ばすほど完成度の高いものになった。

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「雪月花」と題するこの三幅の作品は、大正天皇の后貞明皇后からの依頼に基づいて制作した。依頼を受けたのは大正五年ごろ、完成したのはその二十年後の昭和十二年のことだった。そんなにも時間をかけたのは、皇室からの依頼を恐れ多いことだと思って、制作に当たり念入り過ぎる準備をしたからだ。それにしても二十年とは、すさまじく息の長い話である。

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序の舞は、能の舞のなかでもっともゆったりとして気品のある舞で、優美な女性が舞うのに相応しい舞である。その舞姿を松園は、息子松篁の妻たねこに演じさせた。自分なりの女性の理想像を、息子の妻に託して表現したわけである。松園の代表作といわれ、重要文化財に指定されている。

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上村松園は、鏑木清方と同時代の画家で、しかも美人画を手がけたということもあり、よく比較される。清方の美人画が濃厚な色気を感じさせるのに対して、松園の美人画は、若い女性の健康さをアピールするところが特徴とされる。この「志ぐれ」と題する絵は、「春雪」とか「風」といった同趣旨の絵と共に、町娘の健康な美を描いたものである。

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