日本の美術

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(浜町より写両国大火 明治十四年)

明治十四年の一月に東京では大火があった。神田松枝町から出火し、神田および両国一帯を焼き、火は橋を伝って、対岸の本所側まで燃え広がった。東京の下町を焼きつくした明治期最大規模のこの火災を、神田の大火とも両国の大火ともいう。

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(常盤橋内紙幣寮之図)

紙幣寮は大蔵省印刷局の前身である。明治四年に役所として設立され、紙幣の発行や銀行の許認可などを所掌していた。だが、役所の設立当時は、技術的な問題があって紙幣の印刷はドイツなどの外国に依頼していた。日本で印刷するようになるのは、明治十年以降のことである。

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(芝増上寺日中)

芝増上寺は、上野の寛永寺と並んで徳川家の菩提寺である。十五代将軍のうち六人がここに葬られた。寛永寺が天台宗なのに対して増上寺は浄土宗である。また寛永寺が江戸城から見て鬼門の方向にあるのに対して、増上寺は裏鬼門にあたる。

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(大川岸一之橋遠景 明治十三年)

墨東地区を東西に流れる堀川のうち、本所・深川境界沿いのを竪川と言い、西側から数えて、一之橋から六之橋まであった。この掘割はもともと縦川といったのだが、後に言葉の洒落で竪川と書かれるようになった。

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(佃島雨晴)

佃島は、今では月島と一体化し、近隣の晴海や豊洲などとともに広大な臨海地帯を形成しているが、昭和のはじめころまでは、離れ小島だった。佃大橋が架けられて本土と結ばれたのは昭和39年のことで、それまでは渡し舟で本土と往来していた。

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(大川富士見渡 明治十三年)

富士見の渡しは、今の蔵前橋のやや下流、蔵前工業高校と対岸の同愛記念病院あたりを結んでいた。船の上から富士がよく見えたことから、この名がついたと言われる。震災後に蔵前橋が架けられるまで、渡し舟は続いた。

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(桜田弁慶堀原 明治十三年)

弁慶堀は、皇居の掘割の延長で、今の日比谷公園の東北隅から溜池方面を結んでいた。赤坂見附に残っている弁慶橋あたりの堀はその名残である。

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(本町通夜雪 明治十三年)

本町通りは、今でいう江戸通りの前身で、日光街道の江戸側の終着点として、東海道、中仙道の起点たる日本橋通りと交差していた。徳川時代から江戸の物流の一大拠点であり、明治以降も反映を続けた。現在では物流の拠点というより、オフィスの立ち並ぶ地帯になっている。

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(江戸橋夕暮富士 明治十二年)

江戸橋は、日本橋と並んで江戸の橋の象徴のような存在である。もともとは現在地よりやや下流にあったが、関東大震災後、昭和通りの開通にともない、現在地に移された。

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(元柳橋両国遠景 明治十二年)

今でいう東日本橋地区にかつて薬研堀という水路があって、それが隅田川に流れ落ちる地点に柳橋という橋が架かっていた。その後、神田川の河口に同じ名前の柳橋が架けられてので、こちらは元柳橋と呼ばれるようになった。

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(千ほんくい両国橋)

両国橋の北東、現在の安田庭園付近の隅田川の水面には夥しい数の杭が打ち込まれていた。防潮の役目を果たしていた。このあたりは古地図でみると、隅田川が湾曲してちょっとした湾のような形状を呈していて、そこに波が立ちやすかったと推測される。その波を消す為の簡易防波堤のようなものとして杭が打ち込まれ、その数の多さから千本杭とか百本杭とか呼ばれた。

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(上野東照宮積雪之図 明治十二年)

上野の東照宮は、家康の死後、天海僧正らによって造営され、慶安年間に家光によって現在の形に整備された。日光や久能山と並んで、全国各地にある東照宮の総社のような位置づけになっている。また牡丹の名所としても知られる。

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(堀切花菖蒲 明治十二年)

堀切の菖蒲園は、徳川時代に地元の百姓小高伊左衛門が各地から集めた菖蒲を植えたことが始まりといわれ、徳川時代から現在に至るまで、東京の菖蒲の名所として知られる。広重の浮世絵でも「堀切の花菖蒲」として取り上げられている。

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(湯島元聖堂 明治十二年)

湯島聖堂は、五大将軍綱吉が孔子廟として作ったもので、後に徳川幕府の学問・研究の拠点となった。孔子廟が学問の拠点となったのは、徳川時代には儒学が学問の中心であり、儒学の聖人を祭っている湯島聖堂が学校を兼ねるのが自然だったためだ。

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(品川海上眺望図 明治十二年)

明治初年の東京湾は、沿岸が浅瀬になっていて大型船が付けられなかったために、このように沖合に停泊し、そこから小型の舟で陸地と往復していた。この時代の大型船の主流はまだ帆船だった。

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(御城内吊橋之図)

皇居内の道灌堀に日本最初の鉄橋が架けられたのは明治三年。西の丸山里と吹上庭園を結んでいたところから、山里の鉄橋と呼ばれた。作ったのは明治政府に招かれたアイルランド人土木技師のウォートールス。当時の橋梁技術の粋を尽くしたものだった。

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(御厩橋之図)

厩橋は明治七年に架けられた。民間の橋で、渡り賃をとったことから賃取り橋と呼ばれた。架けられたのは、駒形橋の下流で、ここに以前は御厩の渡しがあったので、当初は御厩橋と呼ばれた。この橋が出来たことで、東京の幹線道路の一つである春日通りが、この橋を挟んで東京の東西を一本に貫くようになった。

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(梅若神社)

梅若神社は、梅若伝説を踏まえた梅若塚というものが、後に神社に祭られたものだ。この伝説は十世紀後半に成立したもので、梅若丸という京の子供が人買いにかどわかされ、奥州に向かう途中に、隅田川を渡ったあたりで倒れた。人買いはそのまま捨てて去り、梅若丸は死んだのだが、土地の者が死んだ梅若丸を不憫に思って塚を築いて葬った、というものである。

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(滝の川の図 明治十一年)

滝野川は、飛鳥山と一対になった形で、桜の名所として知られるが、この絵は紅葉の滝の川を描いている。場所としては、滝の川が飛鳥山からのびる高台にさしかかるところだろう。いまでもこのあたりは、鬱蒼とした感じで、都会のオアシスのような雰囲気を湛えている。

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(愛宕山の図 明治十一年)

芝の愛宕山には、京都の愛宕神社を勧請した愛宕神社が祭られ、防火の神として江戸の庶民の信仰を集めた。昭和時代の初めにNHKの放送センターが愛宕山の一角に立てられたために、昭和時代を通じて愛宕山はNHKと強く結びついた。いまでもその放送センターを偲ぶ博物館のようなものが残っている。

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