日本の美術

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佐久間大学は戦国時代の武将。もともと織田信長の弟信之の家来であったが、信之と信長の喧嘩が起ると優勢な信長方に寝返った。その後桶狭間の戦いの際には、その前哨戦の戦いで戦死した。主君を捨てたということで、あまり評判の良くない武将といってよい。

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「魁題百撰相」は、月岡芳年の「血みどろ絵」の代表作だ。明治元年から翌年にかけて、六十五図が刊行された。これらはいずれも歴史上の人物にこと寄せてはいるが、実は上野戦争における彰義隊の戦いぶりを描いたものとされる。彰義隊の各兵士の戦いぶりを、歴史上の人物の戦いぶりにこと寄せて描いたというわけだ。したがって、芳年の視線は官軍側ではなく、彰義隊側に大きく傾いているように見える。

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幡随院長兵衛は、徳川時代初期の江戸で町奴として名を高めた人物だ。後の時代の侠客の原型となったといわれる。旗本奴水野十郎左衛門との対立は、講談や芝居に取り入れられて、長い間人気を博してきた。

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「東錦浮世稿談」は、幕末期に人気のあった講談に取材したもので、五十図からなる。慶応三年から四年にかけて、錦盛堂以下五つの版元から出版された。すべてではないが、多くの図柄に血みどろの光景が描かれている。

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「英名二十八衆句」には、正徳年間の仇討ち事件をとりあげた作品がある。これは遠城治左衛門と安藤喜八郎の兄弟が、末弟宗左衛門の仇を討とうとして返り討ちにあったというもので、「崇善寺の仇討ち」と呼ばれて、浄瑠璃や歌舞伎の題材になっていた。この仇討ちのうち、兄を芳年が、弟を香機が担当し手描いた。兄弟の名をそれぞれ入れ替えているのは、本名を表に出さない工夫である。

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月岡芳年と言えば「血みどろ絵」が思い浮かぶほど、血なまぐさい絵が好きだったように思われるが、芳年がこうした絵を描いたのは、慶応元年から明治二年までの五年間に過ぎない。それには、こうした絵を求める時代の背景があったと考えられる。すなわち幕末・維新にかけて、血なまぐさい事件が頻発したために、その事件の真相とともに、事件をいろどった血なまぐさい行為に、庶民の関心が向いたという事情があったわけだ。

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高木午之助は、名古屋山三、不破伴作とともに茂林家三勇士と言われて、講談や読本の題材とされていた。師の国芳は「本朝三勇士」と題して取り上げており、芳年自身も和漢百物語の中で不破伴作を単独で取り上げていた。

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慶応二年から三年にかけて出版された「美勇水滸伝」は、師国芳の「水滸伝」シリーズを踏まえたものだが、題材は当時流行の読本などに登場する人物にとっている。その数五十図。画集の趣旨を芳年は序文に次のように記した。

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「和漢百物語」は、月岡芳年の初期の代表作といえるもので、慶応元年(1865)に出版された。目録には二十五葉からなると記されている。いづれも和漢の妖怪をテーマとしたものだ。百とあるのは、一種の語呂合わせで、「多くの」というほどの意味らしい。

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秀吉の朝鮮征伐も武者絵の格好の題材となった。月岡芳年の「正清三韓退治図」と題する作品もその一点。題名にある正清とは加藤清正のことをさす。このようにひねった命名をしたのは、大石内蔵助を大星由良之助としたのと同じ趣向である。

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源頼光とその家来たちによる酒呑童子退治は能や歌舞伎の格好の題材となったほか、浮世絵師の武者絵にも大きく取り上げられた。芳年の「頼光四天王大江山鬼神退治之図」と題するこの作品も、その代表的な一点。頼光一家があたかも酒呑童子に襲いかかる場面を描いている。

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浮世絵師といえば、役者絵を描くのが当たり前であった。大衆の需要が大きくて、手っ取り早く金を儲けることができた。なにしろ写真もなく、当然週刊誌もない時代だから、浮世絵が芸能界を大衆に結びつける最大の媒体だった。

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月岡芳年は若干二十歳の頃には一人前の浮世絵師として人気を博していたようである。その頃の彼は、武者絵を中心として色々なジャンルに挑戦していた。「桃太郎豆蒔之図」と題するこの作品はその一点。三枚組のそれぞれに「一魁齋芳年」の署名がある。芳年は師国芳の一字をもらったものだ。

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月岡芳年は早熟な絵師だった。今に伝わる作品の中で最古のものは、嘉永六年(1853)満十四歳のときのものだ。この時芳年は国芳に入門して三年目だったが、すでに先輩にひけをとらないような技術の冴えを見せていた。

月岡芳年

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月岡芳年(1839-1892)は、最後の浮世絵師と呼ばれる。明治維新は彼が三十歳のときのことであり、その頃に画家として独り立ちしていた芳年は明治二十五年に満五十三歳で死ぬまで日本の浮世絵界をリードしたのであるが、それは浮世絵史の最後の段階にあたっていた。浮世絵は芳年の死とともに長い歴史に幕を閉じたのであって、したがって芳年は最後の浮世絵師と呼ばれてしかるべき存在だったのである。

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「暁斎楽画」シリーズの一枚「地獄太夫」。地獄太夫といえば一休伝説の中で出てくる遊女のことだが、この絵では一休を省いて地獄太夫だけを登場させている。それとともに、一休と縁の深い骸骨も多数登場させている。その数たるや夥しい。そんなわけでこの絵は、地獄太夫をダシにして骸骨を描くのが目的だったと思わせるほどだ。

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「達磨の耳かき図」も、「一休と地獄太夫図」同様、高僧と美女の戯れあう姿を描いたもの。高僧が美女にうっとりとしたり、浮かれたりするところを描くのがミソだ。

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地獄太夫とは、一休さん伝説に出てくる遊女。一休さんが和泉の国の境の町である遊女と逢ったときに、その遊女との間で歌のやりとりをするが、そのうち遊女が名高い地獄太夫であることを知り、「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」と詠んだところが、地獄太夫は「しにくる人の落ちざるはなし」と下句をつけた、と伝わっている話だ。

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これは、蛙ならぬ猫を眺め入っている美人を描いた一枚。美人は横たわって、両肘をついて顎を支えた姿勢で無心に猫の姿に見入っている。猫のほうは人に見られているのが気にならぬようで、何事もないようにうずくまっている。もっとも美人のように寝そべっているわけではないので、多少の緊張は感じているのかもしれぬ。

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幕末から維新前後にかけては美人画の浮世絵が流行ったこともあって、暁斎は美人画を多く手掛けている。結構需要があったのだろう。ほかのジャンルの絵同様、美人画にも戯画の調子が感じられる。そこが暁斎らしいところだろう。

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