日本の美術

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(1景 日本橋雪晴)

上の絵は、第一景「日本橋雪晴」。雪晴の景色ではあるが、全体の冒頭、春の部の最初に置かれている。

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(名所江戸百景目録)

歌川広重は、葛飾北斎と並んで、徳川時代の浮世絵版画を代表する画家である。その名声はヨーロッパにまで及び、いわゆるジャポニズム・ブームを呼んだほどだ。かのゴッホも広重に啓発され、模倣した作品を残している。北斎もそうだったが、大胆な構図の風景画が、ヨーロッパの先鋭的な画家たちの目に斬新に映ったのであろう。北斎といえば、米欧では日本文化を代表するような扱い方をされているが、広重の意義もそれに劣らないと言うべきである。

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「十一月の雨」は、昭和31年(1956)の白寿会に出展したもの。時に清方は七十八歳だった。これも「朝夕安居」同様、東京の庶民の暮らしをモチーフにしているが、その服装等から見て、やはり明治の昔の暮らしぶりのようである。清方は、明治という時代に特別の愛着をもっていたようだ。そうした愛着は、随筆からもうかがえる。

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「朝夕安居」は昭和二十三年の日展に出展したもの。三つの巻物の形にしてあり、それぞれ朝昼夕の庶民の暮らしぶりが描かれている。その生活ぶりというのは、明治二十年代の東京の庶民の暮らしぶりを回想したものだという。現実の東京の庶民は、敗戦後の混乱の中で、その日暮らしに追われており、とても安居とはいかなかった。

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清方は敗戦を疎開先の御殿場で迎えた。敗戦はやはりショックだったようで、しばらく制作から遠のいたのだったが、翌昭和21年に、戦後初めての日展が開催されると聞いて、急に創作意欲がわいてきて、一気に描き上げたという作品が、この「春雪」と題する一点だ。

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樋口一葉の肖像画を清方は、昭和十五年に催された「紀元二千六百年奉祝展」に出した。清方は一葉に直接会っていないそうである。一葉晩年の小文「女子書簡文」に挿絵をつけたというだけの間柄。それでも挿絵を引き受けたのは、日頃一葉を愛読していたかららしく、清方は一葉が好きだったようだ。その好きな対象たる一葉を、節目の行事の華やかなモチーフに選んだわけである。

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十月は長夜。秋の夜長を、三人の母子がそれぞれなりわいにいそしんでいる。母親は針仕事、姉は御習字、弟は読書、宿題に出された文章を読んでいるのであろう。頭上には石油ランプがぶら下がっている。これで照明をとっていたのだろう。壁には柱時計がかけられ、そのわきには神棚のようなものが見える。秋たけなわの一光景、コオロギのすだく声が聞えてきそうである。

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七月は盆灯篭。東京の盆は新暦になっても七月。これはその盆に飾る灯篭をモチーフにしたもの。軒先に下がった盆灯篭の下に、二人の娘が床几にこしかけて、なにやらおしゃべりをしている。一人は団扇をもっているが、これは五代目菊五郎の配り団扇だそうだ。灯篭も、菊五郎のお祭り佐七をあしらった錦絵を切り抜いて作ったものだという。

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四月は花見。向島堤の花見の様子を描いたもの。現在では、東京で花見と言えば上野の山だが、明治の半ばころまでは、向島堤が都下最大の花見の名所だった。向島にはまた、成島柳北を始め多くの文化人が住み、文化的な香りもただよっていた。この絵に描かれている女性たちは、雛妓なのだろう。色華やかな振袖姿で、枝に咲き誇る桜の花を見上げている。

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鏑木清方は昭和十年(1935)に、三越デパートで「明治風俗十二か月」と銘打った個展を催した。そこに清方は、月次風俗画十二点を出品したのだった。月次の風俗画は、室町時代からの伝統で、明治以降も浮世絵カルタなどの形で存続していたが、それを清方は大画面で展開してみせた。モチーフは、明治三十年頃の中流階級の生活ぶりだと、清方自身が語っている。

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第六回七弦会に出展した「初冬の花」は、二曲一隻の屏風に、装飾画として描いたもの。「妓女像」の中の鼓を打っている人をモデルにして、それに明治の装いをさせたと清方自身が言っている。タイトルの「初冬の花」とは、初冬に彩りをそえる花のような雰囲気の女性ということか。

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「銀世界」と題したこの作品は、雪の中にうずくまる女を描いたもの。女が高下駄を履いたままうずくまっているのは、どういうつもりか。その表情からは、あまり明るい雰囲気は伝わってこない。顔はやや紅潮し、茫然とした表情をしている。なにやら思い詰めているようである。

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「夏の女客」は昭和八年(1933)の尚美会に出展されたもので、題名通り、客間に通された女性の客を描いている。女性は団扇をもって座布団の上にかしこまり、主人の出て来るのを待っているようである。その表情は緊張を感じさせ、用向きになにか重要なことがあるのかと思わせる。

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石神井川が王子を流れるあたりは滝野川といって、多くの滝がかかっているほか、渓流沿いは、今では花見の名所になっているが、戦前は、徳川時代以来の紅葉の名所だった。それも楓の紅葉だから、実に色鮮やかだった。この絵は、その眺めを描いたものである。

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昭和初期の鏑木清方は、「築地明石町」を始めとして、人物画を好んで描いた。「三遊亭円朝」もその一点。清方は、円朝とは子どものころから見知っていた。父の経営するやまと新聞が、円朝の人情噺を筆記して、それを掲載していたということもあって、清方はその筆記を手伝ったこともあるようだ。また、十七歳の時には、円朝の旅行に随行して、各地を回ったりしている。そんな誼から、清方は円朝に非常な親しみを抱いていた。

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昭和五年の作品「浜町河岸」は、「築地明石町」、「新富町」とあわせて美人画三部作を構成する。構図も似ており、サイズも同じであることは、清方がこれら三つの作品をシリーズものとして意識していたことをあらわす。浜町河岸には、清方は五年ほど暮らしていたので、町の雰囲気は実感としてわかっていた。その町に相応しいのは、庶民の娘といわんばかりに、この絵のモチーフは平凡な町娘だ。

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「築地明石町」から二年後に、鏑木清方は「新富町」を描いた。前作同様美人画で、前作が市井の女性をモチーフにしていたのに対して、この絵のモチーフというかモデルは、つぶし島田の髪型から知れるように、芸者である。新富町は、関東大震災までは、府内有数の三業地の一つだった。また、歌舞伎小屋があったりして、結構賑やかな土地であった。

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「築地明石町」は、昭和二年(1927)の第六回帝展に出展して、大変な評判となった。清方自身もいささか恃むところがあって、大きな反響を喜んだようだ。この絵は、鏑木清方の代表作として、いまでも評価が高い。

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大正八年(1919)、文展は解散して、新たに帝展が発足した。鏑木清方は、その前年に文展の審査員になっていたが、引き続き帝展の審査委員になった。張り切った清方は任務に精励したが、そのため自分の制作がおろそかになり、長い間のスランプに陥ったという。スランプから脱したのは、第四回帝展に「春の夜の恨み」を出した頃からだが、第六回の帝展に出展した「朝涼」で、完全にスランプから脱したと清方は「画心録」に書いている。

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大正十三年(1924)、朝日新聞が月めくりカレンダーのモチーフに美女画を採用することとし、清方にも注文がきた。そこで清方は、カレンダーらしく肩の凝らない絵として、女の何気ない表情を描いた。「襟おしろい」と題するこの絵がそれである。

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