日本の美術

曼殊院:日本の寺院庭園

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曼殊院はもと延暦寺の塔頭として比叡山にあったが、明暦二年(1656)に桂宮智仁親王の次男良尚法親王によって現在地に再建された。智仁親王は、桂離宮を造営しており、その長男智忠親王は桂離宮を現在の形に完成させた。また、曼殊院にほど近い修学院は、智仁親王の甥にあたる後水尾上皇によって造営されている。こういうわけで、桂離宮、修学院離宮、曼殊院は密接な因縁によって結ばれている。造園術という点においては、桂離宮と曼殊院とは深いかかわりがあるとされ、曼殊院は小さな桂離宮とも呼ばれている。

随心院:日本の寺院庭園

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随心院は、平安時代に任海僧正によって創建された古い寺であるが、応仁の乱以降荒廃していたものを、慶長四年(1599)に九条・二条両家によって再建された。

渉成園:日本の庭園

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渉成園は、東本願寺の飛地境内地である。東本願寺本体は、慶長七年(1602)に十二代門主教如上人が徳川家康から寺地の提供を受けて成立したが、その後十三代門主宣如上人の時に、家光から現在地を寄進されたのを受けて、承応二年(1653)にそこを自らの隠居所とした。渉成園という名称は、陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉而以成趣」からとったという。また、周囲に枳殻を生垣として植えたことから枳殻亭とも呼ばれた。

仁和寺:日本の寺院庭園

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仁和寺は、平安時代初期に創建された古い寺院であり、代々皇族が門跡をつとめる門跡寺院として高い格式を誇っていた。しかし15世紀後半に、応仁の乱によって全山が消失、その後徳川時代の初期寛永年間に再興された。再興に当たっては、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)を下賜され、往時の威容を取り戻した。

青蓮院:日本の寺院庭園

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青蓮院は、平安時代末期に門跡寺院となり、その後皇室とかかわりの深い寺院としての伝統を有してきた。応仁の乱以来、度重なる戦火に焼かれ、徳川時代には豊臣氏との縁故のゆえに冷遇されたが、国宝の青不動像や室町時代に造営された庭園などを今日に伝えている。

智積院:日本の寺院庭園

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智積院は、もともと紀州根来寺の塔頭であったが、秀吉に全山焼き払われて一時存亡の危機に立たされた。だが、秀吉の死後、慶長6年(1601年)に、玄宥が家康から東山に土地を与えられて再興した。さらに、豊臣氏が滅亡した元和元年(1615年)に、秀吉の創建した祥雲禅寺をも与えられた。今日智積院に伝わる庭園は、この祥雲禅寺にあったもので、したがって秀吉の意向を幾分か反映している。この寺が保蔵している長谷川等伯父子の障壁画は、祥雲禅寺からの遺産である。

南禅寺金地院:日本の寺院庭園

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金地院は、もともと応永年間に大業和尚が北山に開山した禅寺であったものを、徳川時代の初め(慶長年間)に崇伝和尚が南禅寺の塔頭として移建したものである。移建にあたって崇伝和尚は、本坊庭園とともにここにも小堀遠州に枯山水の庭園を作らせた。鶴亀庭園と呼ばれるものである。

蓮華寺:日本の寺院庭園

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蓮華寺は、もともと西八条塩小路(現在の京都駅付近)にあった時宗の寺院で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文二年(1662)加賀前田藩の家老今枝近義が現在地に再興した。現在地は、高野川の上流上高野の地にある。叡山電鉄三宅八幡駅で降りて、川沿いに数分歩いたところにある。

東福寺普門院:日本の寺院庭園

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東福寺は、十三世紀の半ば頃に摂政九条道家によって造営された禅寺である。何度か火災にあったが、そのたびに再建され、大規模な寺院として伝統を保ってきた。しかし、庭園にはそう古いものはなく、徳川時代に作られた普門院開山堂前の庭園が有名である。

宝泉院:日本の寺院庭園

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大原三千院の参道奥にある宝泉院は、大原寺(勝林寺)の僧坊として、11世紀始めに創建された寺である。額縁庭園として知られるこの寺の庭園は、徳川時代の中ごろに作られた。額縁と言われるのは、客殿から庭園を見ると、額縁に収まったようにコンパクトに見えることによる。

三千院:日本の寺院庭園

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いま三千院のある地には、もともとは往生極楽院という寺があった。そこへ、明治時代になって、門跡寺院として格式の高かった三千院が移ってきた。そんなわけで、いまでは、三千院として知られているが、この地に現存している建物や仏像などは、極楽往生院のものを引き継いでいる。庭園もそうで、三千院を象徴する聚碧園は、徳川時代に往生極楽園の庭園として作られたものである。

詩仙堂:日本の庭園

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詩仙堂は、徳川時代初期の造園家として名高い石川丈山が、隠居所として寛永十八年(1641)に造営した。時に丈山は五十九歳、以後九十歳で死ぬまでここに隠居した。建物の内部に中国の三十六詩人の詩と狩野探幽に描かせた画像を掲げたことから「詩仙堂」と呼ばれるようになった。

知恩院方丈庭園:日本の寺院庭園

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知恩院は、法然在世中よりこの地にあって布教の拠点となっていたが、山門や御影堂などの現存する伽藍群が造営されたのは徳川時代に入ってからのことである。大方丈と小方丈は寛永18年(1641)に作られ、その際に方丈庭園もあわせて作られた。庭園の造営を指導したのは、小堀遠州と縁のあった石立僧玉淵とされる。池泉回遊式庭園である。

南禅寺天授庵:日本の寺院庭園

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天授庵は、南禅寺の開山大明国師創建になる開山塔として歴応三年(1337)に創建された。山内でもっとも由緒のある寺である。文安四年(1447)の南禅寺大火以降荒廃したが、慶長七年(1602)細川幽斎によって再興され、それ以後細川家の菩提寺のような形となった。寺内の墓地には細川幽斎夫妻はじめ細川家の墓が多くある。

南禅寺本坊:日本の寺院庭園

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南禅寺は、正応四年(1291)に亀山法皇が無関禅師を開山に迎えて創設した古い禅寺であり、いまでも臨済宗の大本山として広大な規模を誇っている。庭園としてもっとも見るべきは本坊方丈庭園で、これは寛永六年(1629)に、当時の南禅寺住職金地院崇伝が小堀遠州に依頼して作らせたものである。

桂春院:日本の寺院庭園

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桂春院は、慶長三年(1598)に妙心寺の塔頭見性院として、信長の甥津田秀則によって創建された後、寛永九年(1632)に美濃の豪族石河貞政によって再興され桂春院と改称された。庭園はその折に造営されたものである。小堀遠州系の庭師によって作られたと推測され、徳川時代には名園として名高かった。

高台寺:日本の寺院庭園

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高台寺は、秀吉の死後その妻おねねが、徳川家康の許可を得て慶長十一年(1606)に創建した寺である。おねね自身の墓もある。秀吉が茶を愛したことにちなみ、傘亭、時雨亭という一対の茶室を小高い丘の上に建てた。これがこの寺のシンボルとなっている。

二条城二の丸庭園

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二条城は、慶長八年(1603)に徳川家康が、京都における徳川家の居城として作った。家康はこの城を、内裏のあった神泉苑の敷地をつぶす形で作ったが、それは朝廷に対する家康の挑戦だったと言われている。寛永三年(1626)には、二代将軍秀忠が後水尾上皇を、行幸と言う名にこじつけて、ここに呼びつけている。そのために大改築が行われ、今日の二の丸の形となったが、そのさいにあわせて庭園が整備された。造園を担当したのは小堀遠州である。

高桐院:日本の寺院庭園

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高桐院は、細川幽斎の長子三斎忠興によって慶長六年(1601)に建立された大徳寺の塔頭である。細川忠興は、織田・豊臣・徳川三代を武人として息抜き、正室ガラシャが明智光秀の娘であったにもかかわらず光秀にくみせず、自主独立を貫いたことで知られる。彼の遺体は、遺言によってこの高桐院に埋葬された。

円徳院:日本の寺院庭園

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円徳院は、秀吉の死後妻のねねが移り住み隠居所としたのが始まりで、その後、寛永九年(1632)に高台寺の塔頭となった。庭は、伏見城内にあった化粧御殿の庭を移築したとされ、庭師賢庭の作と伝えられている。桃山時代を代表する庭園である。

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