日本の美術

夜色楼台図:蕪村の世界

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「夜色楼台図」は、蕪村の山水画の到達点を示すもので、彼の代表作とされ、国宝にもなっている。山水画は中国の南宋画をモデルとし、蕪村もそれを手本にして出発したわけだが、この絵にいたって、南宋画の影響を脱し、蕪村独特の境地を描き出している。

竹林茅屋・柳蔭騎路図屏風:蕪村の世界

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(右隻 133.2×310.0cm 紙本彩色 六曲一双)

「竹林茅屋・柳蔭騎路図屏風」は、右隻が「竹林茅屋」を、左隻が「柳蔭騎路」を描く。「竹林茅屋」は、右端の曲面に「聯珠詩格」巻十二から「邨居」の詩文を記す。絵はその詩の内容を視覚化したものである。詩の内容は、「独木為橋過小村 幾竿脩竹護柴門 白頭不識王侯事 関把牛経教子孫」というものである。

新樹郊行図:蕪村の世界

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蕪村の画業の大きな特徴として、道を繰り返し描いたことがある。その道を行く人は、深山幽谷に隠士を訪ねる人であったり、あるいは郊外や山里にピクニック気分で出かける人であったりする。「新樹郊行図」と題したこの絵は、後者のようである。

竹渓訪隠図:蕪村の世界

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「竹渓訪隠図」は、題名からも明らかなとおり、山中に隠居する高士を人が訪ねるというモチーフを描いている。画面は霞の介在によって上下に分割され、下界には竹林と渓流とが、上界には峰々が聳え立っている。峰の描き方は、手前を明瞭に、遠くを青くぼかすことで、遠近感を演出している。

新緑杜鵑図:蕪村の世界

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「新緑杜鵑図」は、「謝寅」の署名があるところから、晩年の作だとわかる。蕪村が「謝寅」号を用いたのは、安永七年(1778)馬歯六十三歳の年から天明三年に六十八歳で死ぬまでの五年間。この絵は、蕪村晩年の傑作群を飾る嚆矢となるものである。

山野行楽図屏風:蕪村の世界

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(右隻 155.1×388.0cm 紙本淡彩 六曲一双)

蕪村の絵の大きな特徴は、自然の風景に必ず人物を添えることだ。その人物は、ほとんどの場合中国風の格好をしている。蕪村が何故、中国の服装に拘ったか、よくはわからない。蕪村ほどの名手ならば、和風の人物を配して、なおかつ南宋画風の情緒を感じさせる技に不足はないと思う。それをあえて、中国風の服装にこだわるのは、よほどの事情があるのか。

闇夜漁舟図:蕪村の世界

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「闇夜漁舟図」は、水墨で闇夜を表現しながら、わずかな光を強調することで、独特の効果を演出している。光は、舟の上のかがり火から立ち昇る煙と、遠くに見える家の中からもれる灯りで表現される。煙はそれ自身が光を発するように見え、その光に浮かび上がった木の部分だけが、色彩を持っている。

四季山水図(秋冬):蕪村の山水画

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(秋景山水図 絹本彩色 105.5×41.0cm)

四季山水図シリーズのうち秋景。これは、深山幽谷を描いている点では春景と共通するが、人物の描き方が、俳画的ではなく、文人画的である。渓谷に船を浮かべ、自然の眺めを楽しむという構図に、文人画の精神を感じる。このように自然の風雅をとくに強調するときには、人物のほかに、人の生活を感じさせるものを省くのが文人画の常道である。

四季山水図(春夏):蕪村の山水画

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(春景山水図 絹本彩色 105.5×41.0cm)

安永二年(1773、蕪村馬歯五十八)の四季山水図は、前々年の十宜図製作を経て、技量に一層磨きのかかった蕪村の中期の代表作である。いづれも、単に風景を淡彩で描くだけでなく、そこに人の生活ぶりを描き加えることによって、独特の世界を現出させている。こうした自然と人間の調和は、蕪村の絵画の最大の持ち味である。

蘇鉄図屏風:蕪村の世界

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(蘇鉄図屏風 紙本墨画 四曲一双 各162.0×363.0cm 左隻)

讃岐滞在中に蕪村が世話になった菅暮牛の菩提寺が丸亀にあった。正因山実相院妙法寺という天台宗の寺院である。その寺院のために蕪村は、一対の図屏風を製作した。画のテーマは、寺の庭園にあった蘇鉄である。完成したのは明和五年四月、蕪村が讃岐を去る直前のことである。

蕪村の動物画

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(猛虎飛瀑図 絹本着色 114.0×135.0cm)

蕪村は、数はあまり多くはないが、動物絵も手がけている。同時代には伊藤若冲が動物絵の大家として人気があったから、そちらを意識したこともあっただろう。

倣銭貢山水図:蕪村の世界

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蕪村は明和三年(馬歯五十一)から二年間讃岐に滞在する。妻子を京へ残しての単身滞在だった。主な目的は、絵の顧客の獲得だったらしい。合せて俳句の会合も催したが、こちらのほうは余り気が乗らなかったようだ。気の利いた句を読む仲間がいなかったからだといわれる。

山水図屏風:与謝蕪村の世界

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(山水図屏風左隻 絖本図屏風 六曲一双 162.5×369.6cm)

蕪村は遅咲きの才能で、絵師として独り立するのは四十代半ばの頃である。彼は、特別の流派について絵を修行したことがなく、基本的には独学で絵の技術を習得した。手本としたのは主に中国の絵画であり、とりわけ南宋画の影響を強く受けた。彼が独り立した頃の絵には、南宋画風の淡彩画が多い。そのほかにも、明の絵画なども取り入れ、客の注文に応じて描き分けた。

修学院離宮その二:日本の庭園

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修学院の上の離宮は、小高い丘の上に造営されている。浴龍池と呼ばれる巨大な池を中心として、池の中には二つの島を浮かべ、その一つに窮邃亭という茶屋を立て、また池の南西側の一段高いポイントのところに隣雲亭という茶屋を配している。そしてこれらの間を散策路で結び、季節それぞれに応じた眺めを楽しむ回遊式の庭園となっている。

修学院離宮その一:日本の庭園

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修学院離宮は、後水尾院の指示によって明暦元年(1655)から万治二年(1659)にかけて造営された。上・中・下三つの離宮から構成され、それらを田んぼの畦道をそのまま利用した苑路によってつないでいる。離宮周辺の緑地帯とあわせると、総面積54万平方メートルに及ぶ広大な庭園である。

桂離宮その二:日本の庭園

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園林堂は持仏堂として作られたが、現在では安置している仏像はなく、建物だけが残されている。本瓦葺宝形作り屋根を持つ、ユニークな形の堂である。賞花亭と同じ島に立てられており、西側にある橋を介して岸と結ばれている。

桂離宮その一:日本の庭園

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桂離宮は、複雑に入り組んだ形の大きな池を中心にして、池の周りや島の上に、雁行型に並んだ書院群や月見を兼ねた茶室をいくつも配置した池泉回遊式庭園であり、その規模は七万平方メートルに及ぶ。八条の宮智仁親王が元和元年(1615)に造営をはじめ、寛永元年(1624)頃には、古書院のほか庭園部分を含む一期工事が完成した。寛永六年に智仁親王が死んだ後は、一時荒廃したが、その子智忠親王が成人するや、荒廃した庭園を復興するとともに、寛文二年(1662)頃までに、中書院、新御殿、月波楼、松琴亭,賞花亭、笑意軒などを増築し、ほぼ今日の形に整えた。

曼殊院:日本の寺院庭園

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曼殊院はもと延暦寺の塔頭として比叡山にあったが、明暦二年(1656)に桂宮智仁親王の次男良尚法親王によって現在地に再建された。智仁親王は、桂離宮を造営しており、その長男智忠親王は桂離宮を現在の形に完成させた。また、曼殊院にほど近い修学院は、智仁親王の甥にあたる後水尾上皇によって造営されている。こういうわけで、桂離宮、修学院離宮、曼殊院は密接な因縁によって結ばれている。造園術という点においては、桂離宮と曼殊院とは深いかかわりがあるとされ、曼殊院は小さな桂離宮とも呼ばれている。

随心院:日本の寺院庭園

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随心院は、平安時代に任海僧正によって創建された古い寺であるが、応仁の乱以降荒廃していたものを、慶長四年(1599)に九条・二条両家によって再建された。

渉成園:日本の庭園

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渉成園は、東本願寺の飛地境内地である。東本願寺本体は、慶長七年(1602)に十二代門主教如上人が徳川家康から寺地の提供を受けて成立したが、その後十三代門主宣如上人の時に、家光から現在地を寄進されたのを受けて、承応二年(1653)にそこを自らの隠居所とした。渉成園という名称は、陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉而以成趣」からとったという。また、周囲に枳殻を生垣として植えたことから枳殻亭とも呼ばれた。

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