日本の美術

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京都蓮華王院三十三間堂を横一列に配しためずらしい構図の図柄である。描かれた年代は、方広寺南大門があるところから、慶長五年(1600)以降と思われる。色調や人物描写の特徴から見て、土佐派の作品であろう。土佐光信のものとする見方もある。

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洛中洛外図屏風舟木本は、永徳作の上杉本と並んで、洛中洛外図の最高傑作である。初期の洛中洛外図屏風とは異なって、左右両隻の図柄が一定の視点から描かれている。すなわち、両隻をつなぐ中心部に鴨川の流れを配し、右隻には洛東の光景を、左隻には洛中の光景が描かれている。そして両隻の右端には秀吉の象徴方広寺大仏殿を配し、左端に家康の象徴である二条城を配して、一つの連続した画面の中に、この両雄がにらみ合うような布置を展開しているわけである。この二つのものを象徴として極端に大きく描いているおかげで、京都の町はかなり歪曲して表現されている。

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これは徳川黎明会に伝わる豊国祭礼図で、豊国神社所蔵のものとほとんど同じ構図の図柄である。岩佐又兵衛作と伝えられている。上の図は左隻。方広寺の大仏殿を背景に、いくつかの円陣にわかれて群舞がなされる様子が描かれている。その描き方には、狩野内膳のものより躍動感が感じられる。

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慶長九年(1604)の八月に、豊臣秀吉の七回忌の臨時祭礼が豊国神社で催された。その祭礼の様子を描いた図屏風が、すくなくとも三点伝わっている。上はその一点。豊臣秀頼が片桐且元に命じて、豊臣家恩顧の絵師狩野内膳に描かせたものである。狩野内膳は狩野松栄の弟子で、豊臣家の隆盛期に大いに活躍した。この祭礼図は彼の代表作である。

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これは月次風俗図屏風第五扇。初夏の風俗を描いたもので、上は加茂の競馬、下は庶民の衣更。加茂の競馬は、もともとは神事であるが、この時代には、庶民にとっての得難い娯楽ともなっていた。衣更は旧暦四月一日と十月一日になされた。これは四月一日の衣更を描いたもので、人々が反物屋に出入りして、夏の涼しい衣装を求めるさまが描かれている。

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月次絵はやまと絵の伝統的なジャンルの一つだったが、室町時代の末期になると、そこに風俗を描いた月次風俗図が生まれた。本図はその代表的なもので、室町時代末期に作られたものと思われる。製作者は、土佐派系の地方絵師ではないか。もともとは十二か月分あったと推測されるが、現在は八曲一隻の図屏風として伝わっている。岩国の吉川家が伝えて来た。

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洛中洛外図は、六曲一双の屏風図形式のものが多く、現存するものは百点以上にも及ぶが、その中で良質なものは三・四十点である。室町時代の後期、十六世紀の前半から徳川時代の初期頃にかけて盛んに制作された。その殆どは京都の町と郊外の光景を描いている。それを仔細に見ると、近世初期の京都の街並みの様子や、そこで暮らしていた人々、とくに庶民の暮らしぶりとか風俗がうかがわれるので、歴史資料としても貴重である。

日本の絵画の歴史の中で風俗画が本格的に作られるのは室町時代末のことだ。京都の町並の様子や人々の風俗を詳細に描き入れた洛中洛外図が数多く作られた。その代表的なものは狩野永徳の洛中洛外図で、これはあの信長が上杉謙信との誼を求めてプレゼントしたことで有名だ。当時の権力者である信長が、プレゼントとして選んだのが、同時代の日本人の風俗を描いた作品だったというのが面白い。俺は日本じゅうの人間たちの暮らしを、この手中に握っているのだと言いたかったかのようだ。

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月下渓流図屏風は、海北友松最晩年の作で、友松水墨画の究極の境地を描いたものとされる。現在はアメリカのネルソン・アトキンズ美術館が所蔵しており、日本では見られない。

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六曲一双のこの図屏風は、左隻が三酸図、右隻が寒山拾得図である。三酸図は、桃花酸を舐めて顔をしかめている三人の隠者をテーマにしたもの。正式には三聖吸酸図という。三聖とは蘇東坡、黄山谷、仏印禅師人をさすが、この三人でそれぞれ儒教、道教、仏教をさし、三経一致を表わすとされる。
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海北友松が京都妙心寺のために描いた琴棋書画図は、中国の伝統に従って、高士が琴棋書画をたしなむ様子を描いている。六曲一双の屏風絵で、金地が施されているが、絵の主要部分は素地に描かれている。

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琴棋書画図は、高士のたしなみをテーマにしたもので、古来中国では人気のある画題だった。それを日本人も真似をして、多くの琴棋書画図が作られた。海北友松のこの琴棋書画図は、高士ではなく婦女が楽しむ様子を描いている。その婦人たちの服装は中国風であり、このテーマが中国からの舶来であることを物語っている。

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京都妙心寺にある花卉図屏風は、左隻に籬に梅を、右隻に牡丹を描いている。どちらも金地に鮮やかな色彩で花卉を表現している。友松の彩色画のなかでは、もっとも華やかで、かつ装飾性に富んだ図柄である。

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海北友松の網干図屏風には、佐野美術館蔵のものと、皇居三の丸収蔵館所蔵の皇居御物がある。上の図柄は、皇居御物の右隻。青々と茂る芦を配して春夏の景色を描く。一方左隻のほうは、秋冬の景色を描いている。

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「楼閣山水図」は、六曲一双の屏風絵であるが、それぞれ細字で款記が施されており、左隻には是古寺之廊門緑樹図依御好染玄墨者也と、右隻には惟高亭之麻柳蓬舟承御望穢白楮者也と記されている。いづれも晋奉亀井武蔵守様との添え書きがある。亀井武蔵守茲矩は戦国時代末期の武将で、秀吉の覚えが目出度かったといわれる。友松には庇護者として接していたのだと思われる。

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建仁寺本坊の障壁画のうち最も迫力を感じさせるのが「雲竜図」だ。玄関に最も近い礼の間を飾っており、北面には咆哮とともに雲間から姿を現した龍(上の図)が、西面にはそれを待ち構えるように対峙する龍が描かれ、両者あいまって並々ならぬ緊張感を醸し出している。どちらの図も四面づつの襖に描かれているが、北面のもののほうが上下の比率を大きくしている。

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建仁寺本坊には、海北友松の手になる障壁画五十面がある。そのうちの八面で、一の間を飾っていたのがこの花鳥図。松の巨樹と、その根方にいる孔雀を描いているこの図柄はその一部だ。海北の水墨画のもっとも典型的な図柄である。

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京都建仁寺の塔頭禅居庵に、松竹梅を描いた襖十二面がある。松竹梅のそれぞれを四面づつの画面に描き分けたものだ。そのうちの四面がこの「松に叭々鳥図」。松をメーンにして、それに叭々鳥を点景として加えている。

海北友松は、狩野永徳、長谷川等伯と並んで安土・桃山時代の日本美術を代表する巨匠である。その画風は、永徳の豪放さ、等伯の絢爛さに比べて、繊細な風情を感じさせるもので、しかも装飾的な要素にも富んでいた。従来は、永徳や等伯より低く評価されがちだったが、近年は永徳らに負けない高い評価を受けるようになってきている。

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長谷川等伯は龍虎図を何点か手掛けている。桃山時代から徳川時代の初めにかけて、龍虎図が流行ったので、等伯にもその注文が来たのだろう。この作品は、やはり「自雪舟五代長谷川法眼等伯」の署名があり、六十八歳の時のものである。左右両隻に龍と虎とが向かい合っている構図は、互いに視線を交差させているところなど、なかなか迫力を感じさせる。

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