日本の美術

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美術学校を卒業した1912年に、萬鉄五郎は意欲的な作品を多く手掛けている。その中には自画像も数点含まれている。「赤い目の自画像」と呼ばれるこの作品は、この年描かれた自画像のうちでもっとも有名なものだ。

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萬鉄五郎は、明治四十五年(1912年)3月に、上野の東京美術学校を卒業した。「裸体美人」と題したこの作品は、卒業制作として描かれたものだった。いまでは重文に指定されて、萬の代表作と見なされているが、発表当時教師たちの評価は低く、卒業生19名のうち16番目の成績だった。当時の美術学校は、せいぜい印象派を吸収したばかりであって、まだ西洋美術の新しい流れを消化できるまでには至っていなかったからである。

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竹久夢二は、1931年5月に欧米への旅行に出発した。同年6月にサンフランシスコ着、翌年10月にハンブルグ着、その翌年1933年9月神戸港に戻ってきた。その直後身体が不調に陥り、1934年1月に信州の富士見高原療養所に入院するが、同年9月に死んだ。そんなことから、夢二長年の希望だった欧米旅行は、死出の旅となったわけだ。

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「旅」と題したこの作品の舞台は、群馬県の榛名山である。夢二は1930年に、「榛名山美術研究所」建設計画をぶちあげ、そのための募金を呼び掛けてもいるから、この作品は、その計画と何らかのかかわりがあるのだろう。

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「憩い」と題する作品は、竹久夢二にはめずらしく、二曲一双の屏風絵である。日本画の伝統である屏風絵に、西洋風のモチーフを描いたところが、夢二らしい奇抜なアイデアだ。

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竹久夢二は、自分自身の個展や自分が企画した展覧会のポスターを、無論自分でデザインした。これは、1930年の雛の節句に先がけて、自分が企画した雛人形の展覧会のために作成したポスター。それまでの、どちらかというと抒情的な作風を捨てて、前衛的な大胆さを感じさせるデザインである。

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「婦人グラフ」1926年7月号の表紙を飾ったこの絵は、もともとは無題だったが、絵の内容からして「たなばた」と呼ばれるようになった、若い女性の背後に、七夕の笹飾りが描かれているからである。

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「晩春」と題するこの絵は、雑誌「グラフィック」の大正15年4月号に掲載された水彩画。「グラフィック」の詳細はわからないが、タイトルからして、美術愛好家向けの実用雑誌だったのであろう。

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竹久夢二は、セノオ楽譜や婦人雑誌の表紙絵を手がける一方、商業広告やポスターの分野にも進出した。商業アーティスト竹久夢二の花が開いていったわけだ。当時の夢二は特に若い女性を中心にして人気が高まっていた。商業広告の世界は、日本中に作品を披露するのに決定的な役割を果たした。そうした世界に従事するアーティストは、とかく低く見られがちであったが、夢二は本物のアーティストとしての名声を確立していった。

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夢二は、セノオ楽譜のためにせっせとイラストを描いたが、なかには、自分が作詞を手掛けたものもあった。「宵待草」はその代表的なもので、いまでも夢二の代表曲として親しまれている。初版は1918年に出て、その際は、「待宵草」というタイトルだった。上の絵は、1924年に出版されたものの表紙絵である。

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「黒猫」と題するこの絵は、「女十題」シリーズのなかで最も人気の高いもの。女が黒猫を抱いている構図は、「黒船屋」とよく似ている。だが、「黒船屋」が日本の女を描いているのに対して、これは西洋の女を描いている。長崎という土地柄を物語る一作である。

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女十題シリーズは、市井の女たちの何気ない仕草をスナップショット的にとらえたものが多い。これもそうした一点。おそらく夫を送り出したあとの、若妻のひと時を描いたのであろう。タイトルにある光は、明示的に表現されているわけではないが、画面全体の明るい雰囲気から、光がそこにあふれているのを感じさせる。

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「女十題」シリーズも、長崎で世話になったお返しとして永見徳太郎に贈呈されたもの。各作品に描かれた女たちは、おそらく長崎で実見したものだろう。顔つきがそれぞれ異なることから、そのように憶測できる。

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「秋のいこい」というタイトルは、夢二自身がつけたものではなく、あとでそう呼ばれるようになったもの。この絵から伝わってくるのは、「いこい」ではなく焦燥感だろう。おそらく田舎から出てきた女がこれからどこへ行こうかと思案しているか、あるいは職を失た女中が途方に暮れているようにも見える。女の傍らに置かれた信玄袋は、旅の品々を入れるためのものなのだ。

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「眼鏡橋」と題したこの絵も、「長崎十二景」シリーズの一点。長崎名所の眼鏡橋をバックに、傘をさしや女性の半身像を大胆に配した構図である。眼鏡橋は、日本初といわれる石造りの橋で、中国から職人を呼び寄せて作ったという。橋を支える二つのアーチが、水に映って眼鏡のように見えることから「眼鏡橋」と呼ばれて親しまれた。

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大正七年(1918)の八月に、夢二はたまきに生ませた次男不二彦をつれて長崎に遊び、美術コレクター永見徳太郎の世話になった。永見は南蛮趣味を持っていて、夢二の南蛮趣味に共感する一方、芥川龍之介、吉井勇らと親交があった。地方の素封家の道楽のようなものであろう。

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「黒船屋」と題するこの絵は、夢二の美人画の頂点をなす作品。当時、夢二がかぶれていた南蛮趣味を表現したものだ。「黒船屋」は実在する店ではなく、想像上のものらしいが、そこに「港屋」の影を見る見方もある。

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「平戸懐古」と題したこの絵も、夢二の南蛮趣味の産物。夢二は、港屋を開店した1914年ごろ、南蛮趣味の作品を多く手掛けたが、その後、1918年頃に再びその趣味に戻った。その頃夢二は、たまきを避け、笠井彦乃をつれて京都へ行ったりしている。その延長で、神戸や長崎に旅したが、その折の体験が、夢二の南蛮趣味を復活させたのであろう。

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「蘭燈」と題するこの作品も、セノオ楽譜の表紙絵として制作されたもの。夢二はセノオ楽譜のために270点あまりの絵を制作したが、その中には自分で作詞したものもあった。「 蘭燈」も夢二が作詞している。


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