日本の美術

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大日本名将鑑は明治十年から十五年にかけて刊行されたシリーズで、日本史上の偉人や賢人をテーマにしている。当時は明治維新にともなって日本の歴史への関心が高まっており、政府も国民に対する歴史教育に力を入れていた。このシリーズはそうした動きに乗ったもので、庶民の人気を博した。

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明治十年の西南戦争は、新聞出版業界を大いに賑わした。この戦争の報道に庶民の関心が高まり、新聞は発行部数を大いに伸ばした。日露戦争や太平洋戦争でも同じような現象が起き、戦争が新聞の需要を高めるという法則のようなものが確認されるにいたっている。
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「江水散花雪」と題した三枚組のこの作品は、いわゆる桜田門外の変を描いたものだ。桜田門外の変とは、安政七年に水戸の浪士ら十数名が大老井伊直弼の一行を江戸城桜田門外で襲撃した事件だ。直弼は安政の大獄など強権的な手法で反対者を弾圧し、開国政策を推進していたが、それを攘夷派に恨まれ、当時の攘夷派の中心だった水戸の浪人たちによって排撃された。

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晁蓋は水滸伝に出てくる英雄のこと。晁蓋は東渓村に住んでいた。そこから谷を隔てた隣の西渓村には、夜ごと怪物が出て人々を苦しめていた。そこで西渓村の人々は仏塔を建てて怪物を折伏したところ、怪物はたまらくなって東渓村に逃げてきた。その事に怒った晁蓋は、西渓村から仏塔を盗んできて東渓村に立てたところ、怪物は逃げ去っていった。以後晁蓋は托塔天王と呼ばれるようになった。この絵はその物語をイメージ化したものだ。

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「一魁随筆」とは題していても、文集ではない。錦絵のシリーズである。ここでいう「随筆」とは、勝手気ままに描いたものというほどの意味らしい。全部で十三図からなる。いずれも題名を記した枠を配しているが、その枠の左側には北斗七星の第一星「魁星」が、右側には北斗七星の「斗」の字があしらわれている。

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「和漢豪気術」は明治元年に刊行された武者絵のシリーズもので、全十図からなる。和漢と題しているが、「和漢百物語」が主に妖怪をテーマにしているのに対し、こちらは武者をはじめ講談の世界の英雄たちを描いている。

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秦桐若は戦国時代の武将で、黒田官兵衛の家臣だった。無類の勇者として知られ、三十三人の首をとったと言われる。一丈の旗指し物に唐団扇が目印で、これを見た敵は近づくことをためらったとされる。

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森力丸は、蘭丸、坊丸とならんで森三兄弟として知られ、ともに織田信長の小姓をつとめた。天正十年の本能寺の変では、信長の脇に従い、最後まで戦って討ち死にした。享年十五歳であった。

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会津黄門景勝とは、上杉景勝のことである。景勝の父長尾政景は上杉謙信の武将であったが、景勝が九歳の時に死亡。その後景勝は謙信の養子として仕えた。そして謙信が死ぬと、その家督相続を巡って上杉景虎と激しく対立。武田氏や北条氏を巻き込んだ相続争いの末に勝利し、上杉氏の家督を相続した。そんな具合で景勝の前半生は血にまみれていた。

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堀井恒右衛門とは鳥居強右衛門のこと。戦国時代の武将である。長篠の戦いの際、強右衛門は徳川方奥平氏の武将として長篠城に籠城していたが、武田軍に囲まれて今にも城が落ちようとするとき、城を抜け出して家康に援軍を求めに行った。その帰りに武田側にとらえられ、援軍は来ないと伝えよと強要されたが、強右衛門は城に向かって援軍はすぐにも来るからそれまで持ちこたえよと叫んだ。

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佐久間大学は戦国時代の武将。もともと織田信長の弟信之の家来であったが、信之と信長の喧嘩が起ると優勢な信長方に寝返った。その後桶狭間の戦いの際には、その前哨戦の戦いで戦死した。主君を捨てたということで、あまり評判の良くない武将といってよい。

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「魁題百撰相」は、月岡芳年の「血みどろ絵」の代表作だ。明治元年から翌年にかけて、六十五図が刊行された。これらはいずれも歴史上の人物にこと寄せてはいるが、実は上野戦争における彰義隊の戦いぶりを描いたものとされる。彰義隊の各兵士の戦いぶりを、歴史上の人物の戦いぶりにこと寄せて描いたというわけだ。したがって、芳年の視線は官軍側ではなく、彰義隊側に大きく傾いているように見える。

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幡随院長兵衛は、徳川時代初期の江戸で町奴として名を高めた人物だ。後の時代の侠客の原型となったといわれる。旗本奴水野十郎左衛門との対立は、講談や芝居に取り入れられて、長い間人気を博してきた。

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「東錦浮世稿談」は、幕末期に人気のあった講談に取材したもので、五十図からなる。慶応三年から四年にかけて、錦盛堂以下五つの版元から出版された。すべてではないが、多くの図柄に血みどろの光景が描かれている。

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「英名二十八衆句」には、正徳年間の仇討ち事件をとりあげた作品がある。これは遠城治左衛門と安藤喜八郎の兄弟が、末弟宗左衛門の仇を討とうとして返り討ちにあったというもので、「崇善寺の仇討ち」と呼ばれて、浄瑠璃や歌舞伎の題材になっていた。この仇討ちのうち、兄を芳年が、弟を香機が担当し手描いた。兄弟の名をそれぞれ入れ替えているのは、本名を表に出さない工夫である。

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月岡芳年と言えば「血みどろ絵」が思い浮かぶほど、血なまぐさい絵が好きだったように思われるが、芳年がこうした絵を描いたのは、慶応元年から明治二年までの五年間に過ぎない。それには、こうした絵を求める時代の背景があったと考えられる。すなわち幕末・維新にかけて、血なまぐさい事件が頻発したために、その事件の真相とともに、事件をいろどった血なまぐさい行為に、庶民の関心が向いたという事情があったわけだ。

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高木午之助は、名古屋山三、不破伴作とともに茂林家三勇士と言われて、講談や読本の題材とされていた。師の国芳は「本朝三勇士」と題して取り上げており、芳年自身も和漢百物語の中で不破伴作を単独で取り上げていた。

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慶応二年から三年にかけて出版された「美勇水滸伝」は、師国芳の「水滸伝」シリーズを踏まえたものだが、題材は当時流行の読本などに登場する人物にとっている。その数五十図。画集の趣旨を芳年は序文に次のように記した。

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「和漢百物語」は、月岡芳年の初期の代表作といえるもので、慶応元年(1865)に出版された。目録には二十五葉からなると記されている。いづれも和漢の妖怪をテーマとしたものだ。百とあるのは、一種の語呂合わせで、「多くの」というほどの意味らしい。

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秀吉の朝鮮征伐も武者絵の格好の題材となった。月岡芳年の「正清三韓退治図」と題する作品もその一点。題名にある正清とは加藤清正のことをさす。このようにひねった命名をしたのは、大石内蔵助を大星由良之助としたのと同じ趣向である。

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