日本の美術

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白い幕の前で二人の女が座っている。右側の女は鉄漿をつけている最中で、左手の女が頭の上に鏡をかざして協力している。その鏡をのぞきながら、鉄漿の具合を確かめているわけだ。

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右手は前画面に続く黒布の妖怪で、その左手には龍頭の紺布妖怪が対面している。紺布妖怪の背後には、傘の妖怪が杖をついて歩いており、その前には、トカゲ馬に乗った草鞋の妖怪がいる。

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右は琵琶の妖怪で、琴の妖怪をひっぱっている。琵琶の妖怪の胴体は、赤鬼のように赤い。琵琶には色々な種類があるが、これは四弦琵琶。その琵琶が琴をひっぱっているのは、捨てられた同士の誼からか。

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青鬼の前を行くのは赤鬼。大幣を持っている。赤鬼と青鬼は、節分の行事でセットで出て来ることが多い。鬼にはそのほか、黄、緑、黒もあり、それぞれが人間の五つの煩悩を体現しているとされる。ちなみに赤鬼は、貪欲をあらわしている。

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百鬼夜行絵巻は、鬼や妖怪をテーマにしたもので、おどろおどろしたものたちが集団で夜行するさまを描いている。室町時代から徳川時代にかけて多くの絵巻が作られ、明治以降にも、河鍋暁斎による百鬼夜行絵巻とか、水木しげるの妖怪漫画が作られた。日本人の原像の一つとも言うべきイメージの世界を表現したものである。

南蛮屏風

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近世初期には、長崎にやってきた南蛮船をテーマにしたいわゆる南蛮屏風が多数作られた。数十点現存するそれらの南蛮屏風のうち、これはもっともすぐれたもので、保存状態もよい。構成は、左隻に南蛮人の、おそらく中国における行楽の様子を描き、右隻に、長崎に到着した南蛮船を、人々が迎える様子を描いている。

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二曲一隻のこの屏風絵は、寛永年間に流行した婦女有楽図の一つ。右側の第一扇には四人の女が描かれ、左側には禿に語り掛けられる男が描かれる。この男が本多平八郎ではないかと言われ、以後本多平八郎姿絵と呼ばれて来た。

湯女図

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元和から寛永にかけて、京都では湯女が流行った。湯女とは、湯屋で働く女のことで、当初は客の垢を流したり髪を洗ったりしていたが、そのうち酒席にはべったり、容色を売るようになってゆき、風俗を乱すとして取り締まりを受けるようになった。その代りに男の三助があらわれたというわけである。三助なら昭和の頃まで存在したものだ。

舞踊図

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六曲一隻の小屏風「舞踊図」は、それぞれの扇面に扇を手にして舞う女性の姿を配したものだ。ひとりひとり違ったポーズで、画面に変化をもたらしている。その変化は、女性たちがまとっている衣装の模様でも表現され、女性たちはそれぞれに多彩な衣装を披露している。一方、彼女らの持っている扇は、いずれも白い面に墨絵をあしらったものだ。
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松浦屏風は、平戸藩主松浦氏に伝わって来た。作成されたのは、やはり徳川時代初期寛政年間だろうと推測される。左隻に十人、右隻に八人の女性を配し、それぞれにポーズをとらせている。ポーズには、「琴棋書画」図を参考にして、三味線、囲碁盤、硯と筆、カルタなどを組み合わせ、遊びの感覚をあらわしている。また女性たちの衣装は、みな華やかなもので、この当時の女性たちの好みを表現するものになっている。衣装の模様を強調しているところは、後に盛んになる誰が袖屏風への移行を指摘できる。

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彦根屏風は、彦根藩主井伊家に伝わってきたことからそのように呼ばれるようになった。作成されたのは徳川時代初期寛永年間と推測されている。表装されていない状態で、三重箱に保存されてきた。

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京都の四条河原は、室町時代から徳川時代にかけて、芸能のメッカのような様相を呈し、河原に設けた舞台で様々な芸能が催された。この四条河原図屏風は、そうした四条河原での芸能の様子を、観客の表情ともども克明に描き出したもので、単に風俗画であるにとどまらず、芸能史の研究にも貴重な手掛かりを与えてくれる。

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この図屏風は、歌舞伎の祖出雲の阿国を描いたもの。阿国は、一座を率いて四条河原などでやや子踊りとか歌舞伎踊りを披露していた。その踊りが後に歌舞伎に発展したといわれる。慶長八年には北野天満宮の能舞台を借りて常設の興行を始めた。この図柄は北野天満宮での興業の様子を描いたもので、おそらく慶長八年に近い時期に制作されたと考えられる。

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花見鷹狩図屏風は、左隻に武士たちの鷹狩の様子を、右隻に庶民の花見行楽の様子を描き分けたもので、桃山時代の風俗の一端をあらわしている。作者は、雪舟の後継者を自認していた雲谷等顔。等顔の画風は謹直なことが特色と言われるが、この作品にも線の描き方を始め、等顔らしい謹直さがうかがわれる。

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犬追物図は、武家風俗の画題として、桃山時代以降好んで描かれた。十数点が現存するが、そのなかで最も古く、また作品として優れているのは、常盤山文庫所蔵のこの図屏風である。六曲一双の図屏風で、左隻には、大繩の外に出た犬を追っているところが描かれ、右隻には、馬場の中央に引き立てられた犬を、大繩沿いに並んだ騎馬武者が待機するところを描いている。

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京都蓮華王院三十三間堂を横一列に配しためずらしい構図の図柄である。描かれた年代は、方広寺南大門があるところから、慶長五年(1600)以降と思われる。色調や人物描写の特徴から見て、土佐派の作品であろう。土佐光信のものとする見方もある。

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洛中洛外図屏風舟木本は、永徳作の上杉本と並んで、洛中洛外図の最高傑作である。初期の洛中洛外図屏風とは異なって、左右両隻の図柄が一定の視点から描かれている。すなわち、両隻をつなぐ中心部に鴨川の流れを配し、右隻には洛東の光景を、左隻には洛中の光景が描かれている。そして両隻の右端には秀吉の象徴方広寺大仏殿を配し、左端に家康の象徴である二条城を配して、一つの連続した画面の中に、この両雄がにらみ合うような布置を展開しているわけである。この二つのものを象徴として極端に大きく描いているおかげで、京都の町はかなり歪曲して表現されている。

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これは徳川黎明会に伝わる豊国祭礼図で、豊国神社所蔵のものとほとんど同じ構図の図柄である。岩佐又兵衛作と伝えられている。上の図は左隻。方広寺の大仏殿を背景に、いくつかの円陣にわかれて群舞がなされる様子が描かれている。その描き方には、狩野内膳のものより躍動感が感じられる。

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慶長九年(1604)の八月に、豊臣秀吉の七回忌の臨時祭礼が豊国神社で催された。その祭礼の様子を描いた図屏風が、すくなくとも三点伝わっている。上はその一点。豊臣秀頼が片桐且元に命じて、豊臣家恩顧の絵師狩野内膳に描かせたものである。狩野内膳は狩野松栄の弟子で、豊臣家の隆盛期に大いに活躍した。この祭礼図は彼の代表作である。

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これは月次風俗図屏風第五扇。初夏の風俗を描いたもので、上は加茂の競馬、下は庶民の衣更。加茂の競馬は、もともとは神事であるが、この時代には、庶民にとっての得難い娯楽ともなっていた。衣更は旧暦四月一日と十月一日になされた。これは四月一日の衣更を描いたもので、人々が反物屋に出入りして、夏の涼しい衣装を求めるさまが描かれている。

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