日本の美術

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光琳には草花をモチーフにした作品が数多くある。とりわけ初期の作品に多い。それらの図案は、単に自然の花を再現したと言うよりは、曲線の使い方や構図の配置などに装飾性が認められる。こうした装飾性は、燕子花図と通じるもので、光琳の実家雁金屋の家業である衣装の文様に通じるものだ。光琳は実家の衣装文様のデザインの特徴を、一方では燕子花図のような様式的な図柄に発展させるとともに、この図柄のように、自然を装飾的に描いたわけだ。

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尾形光琳といえばこの図屏風が浮かび上がるほど有名な作品で、光琳の代表作と言ってもよい。光琳が法橋の位を授かった元禄十四年(1701)頃の作品と考えられ、光琳の現存する作品のなかでは、もっとも早い時期に属するものだ。モチーフの燕子花は、伊勢物語の八つ橋の場面に取材した。はるばる東へとやってきた業平一行が望郷の念にかられながら、「かきつばた」の五文字を五つの句の頭に読み込んで歌を歌ったと言う、日本人なら誰でも知っている場面を絵画化したものだ。

琳派と言えば、俵屋宗達に始まり尾形光琳を頂点にして酒井包一に至る日本画の流れを指して言うが、この言葉自体は昭和以降に使われるようになったもので、当人たちがその言葉を意識していたわけではない。しかし、それぞれ百年を隔てたこの三人の画風には共通するものがあり、また本人たちも先駆者の画風に深く学ぶところがあったわけで、琳派と言う名前こそ存在はしなかったが、一つの流派を形成していたといってもよかった。その最大公約数的な特徴は、様式的な美しさと装飾的なデザイン性にあったと言ってよい。

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「玉兔 孫悟空」と題するこの図柄は西遊記の逸話を基にしたもの。玉兔は月に住む白ウサギで、木犀の木の下で仙薬をついているとされる。それが地球に下りてきて人間に化け、いたずらをしているのを、孫悟空が正体を見抜いて、これと戦う。

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吼噦とは狐の鳴き声をあらわし、転じて狐そのものをもあらわす。芳年はその狐をモチーフにした図柄を狂言「釣狐」をもとにイメージ化した。

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「月百姿」は、明治十八年から二十五年にかけて制作された芳年最後の大作シリーズで、全部で百図。芳年の死後に画帖の形でも出版された。まさに芳年の遺作と言ってもよい作品だ。テーマは月にことよせながら、和漢の物語や詩歌などを題材にしたもので、すべて過去のことがらを取り上げている。
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「かわゆらしさう」は、子どもを抱く母親を描く。かわゆらしさう、というのは、子どもの様子がかわゆらしそうなのか、それとも子供を抱く若い母親の様子がかわゆらしいのか、どちらともとれるようだ。

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明治二十一年に刊行した「風俗三十二相」は、様々な階層の女性たちの表情や仕草をテーマにしたもので、全部で三十二の図柄が作られた。描かれた三十二人の女性たちのうち、徳川時代の女性が二十三人、明治の女性が九人である。それぞれ、うれしそうとか、寒そうとか、痛そうとかいった具合に、女性の感情を「そう」ということばで表現している。

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渡辺綱は源頼光四天王の首座で、勇猛で知られる。さまざまな逸話があるが、最も有名なのは鬼退治の話。都の羅城門に鬼が出るというので、綱は頼光から授かった金札を立てるべく、羅城門に赴いた。すると鬼が現れて、背後から綱の兜をつかんだ。そこで綱はすかさず鬼の腕を切り落とし、それを持ち帰ったというもの。

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袴垂保輔は都を騒がせる大盗賊、鬼童丸は市原野に住む盗賊だ。この二人が妖術を競い合う場面を滝沢馬琴が読本「四天王剿盗異録」に書いた。芳年はその場面をイメージ化したものを縦二枚続きの錦絵にした。当時馬琴の読本は庶民に人気があったので、こういう図柄も喜ばれた。

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魯智深は水滸伝に出て来る梁山泊の英雄の一人。僧侶でありながら、筋骨隆々たる巨漢で怪力の持ち主、さまざまな逸話があるが、中でも有名なのは、町で酒を飲んで寺に帰って来た時に、門を閉ざされてしまったために、金剛力士像をこわしてしまったというもの。それでも仏罰を蒙ることはなかった。

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これは奥州安達ケ原の人食い鬼伝説に取材した一点。この伝説は能や歌舞伎に取り上げられたほか、さまざまな形で人口に膾炙していたものだ。それを芳年が視覚化した。

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月岡芳年は、明治十八年から同二十二年にかけて、縦二枚続きの細長い作品を十五図制作した。画題は多彩だが、芳年らしく武者絵が多い。オーソドックスな武者絵と比べて、独特の迫力を感じさせる。

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藤原保昌は平安時代の人物で、藤原道長の家司を努めていた。道長のすすめもあって和泉式部と結婚し、自身も歌人として歌を残している。色々な逸話があるが、なかでも大盗賊袴垂保輔との出会いが有名である。

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上杉輝虎(謙信)は、天文二十一年(1552)に弾正少弼の官名を賜った。二十二歳の年である。武田信玄との川中島の戦いを始めたのは、その翌年のことだ。この絵は、その際の謙信の勇姿を描いたものとされる。この時謙信は単身信玄の本陣にせまり、敵ながらあっぱれとたたえられた。

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相模次郎は将門の名相馬小次郎をもじったもの。その将門の勇猛な戦いぶりを描いたのがこの図柄だ。将門は戦のたびに無類の活躍をしたが、天慶三年の最後の合戦でも、その勇猛ぶりは衰えなかった。この戦いは、将門側が圧倒的に不利だったのだが、将門は先頭になって相手をなぎ倒し、味方の士気を高めた。

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「芳年武者無類」は、明治十六年から刊行した武者絵のシリーズで、全三十三図からなる。神話時代から戦国時代までの英雄たちを描く。武者無類には「むしゃぶるい」をかけている。言葉通り武者震いがするほど雄々しい英雄たちの活躍が、スナップショットのように切り取られている。

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「皇国二十四功」は、日本の歴史上忠孝で名高い人物二十四人を取り上げたシリーズ。師匠の国芳が、「本朝二十四功」と題して同じようなシリーズを刊行していたが、両者の間には、四人が共通しているだけで、大部分は異なった人物である。

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義経(牛若丸)と弁慶が五条橋で出会う場面は、古来日本人の心を捉え続けてきた。その様子は義経記に原点があるが、能の橋弁慶をはじめさまざまな語り物を通じて人口に膾炙した。月岡芳年はこのモチーフを、単発の錦絵で表現して見せた。

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「大日本史略図会」は、「大日本名将鑑」とほぼ同じ時期に刊行されたシリーズで、皇祖天照大神のほか歴代天皇をテーマにしている。

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