日本の美術

無著・世親立像:運慶と鎌倉彫刻

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無著・世親は、五世紀頃のインドで活躍した兄弟僧である。法相の教学を確立したとされている。その兄弟僧の立像を、興福寺北円堂の中尊弥勒仏の住持として運慶以下が作成した。弥勒仏台座の銘によれば、世親は運慶第五子運賀の担当とされている。無著のほうは、第六子運助の担当だろうと推測されている。

興福寺北円堂弥勒仏像:運慶と鎌倉彫刻

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治承四年(1180)の兵火で焼かれた東大寺や興福寺は、いち早く復興された。その過程で、康慶・運慶父子をはじめとした慶派の仏師も参加した。東大寺南体門の仁王像はその代表的なものである。興福寺のほうについても、運慶を中心に仏像の再建が行われた。北円堂の諸像はその代表である。

浄楽寺阿弥陀三尊像:運慶と鎌倉彫刻

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浄楽寺は、鎌倉幕府侍所別当和田義盛が文治五年(1189)に創建した寺である。その本尊として運慶が作ったのがこの阿弥陀三尊像であ
る。運慶はこれとあわせて、不動明王、毘沙門天の両像も作っている。これら三者は、願成就院でもやはりセットになっている。不動明王といい、毘沙門天といい、東国武士の好みを強く反映したものだ。

願成就院不動三尊像:運慶と鎌倉彫刻

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願成就院の不動三尊像は、阿弥陀如来像、毘沙門天像とともに、文治二年(1186)に運慶が北条時政のために作ったものである。不動明王とその従者、制多迦童子及び矜羯羅童子からなっている。X線写真で、二童子像の内部には、毘沙門天像の内部から取り出された木札と同様のものが入っていることが確認されている。おそらく制作経緯を記しているのだろうと思われる。

願成就院阿弥陀如来像:運慶と鎌倉彫刻

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運慶は、三十歳代半ばに鎌倉に下向して、結構多くの仏像を作っている。奈良仏師で、康慶と同世代の成慶が頼朝に招かれて仏像を作っているが、運慶も成慶を追うようにして鎌倉に下向し、頼朝の岳父北条時政のために仏像を作っている。今日伊豆韮山の願成就院に残っている阿弥陀像以下の諸像がそれだが、ほかにも浄楽寺の阿弥陀三尊像がこの時期の作である。

大日如来像:運慶と鎌倉彫刻

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運慶は年少時から父の康慶に師事して奈良仏師としての修行を積み、二十代の半ばには一人前の仏師になっていたと思われる。その成果を物語るのが、円成寺の大日如来像である。台座の蓮華板裏面に書かれた銘文には、大仏師康慶実弟子運慶が安元元年(1175)に作り始め、翌年十一月に完成したと記されている。実弟子とは、実の子でありかつ弟子であるという意味である。

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(康慶一門作興福寺南円堂持国天像 木造寄木 像高206.6cm)

興福寺南円堂には、本尊の不空羂索観音像を囲んで四天王像が安置されている。これらの像は、康慶が中心になって、彼の弟子たちが協力して作られた。この持国天像は、康慶の舎弟実眼が分担したとされているが、いずれにせよ康慶の構想によるものと考えてよい。

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(康慶作興福寺南円堂不空羂索観音像 木造寄木 像高342cm)

慶派の基礎を築いた康慶については、出自など詳しいことはわかっていない。興福寺と縁が深かったことから、奈良仏師の流れから出て来ただろうと推測されている。奈良仏師は、定朝のあと脈々と続き、藤原時代の末頃に成朝が活躍するが、成朝が死ぬと、それとは別の流れである康慶が出現し、その康慶の流れから、運慶を始め鎌倉彫刻を代表する仏師が輩出した。

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東大寺南大門仁王像のうち阿像については、一応快慶が担当したと推測されているが、両像のコンセプトにはかなりの共通性が見られるので、運慶による全体的な目配りがあったものと思われる。運慶が、全体に共通する方針を立て、それに従った形で快慶も制作にあたったというのが実際ではないか。

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東大寺は、治承四年(1181)の平家による南都焼き討ちで、伽藍の殆どが焼失したが、すぐさま重源による再建が始まった。その再建の過程で、運慶や慶派の仏師たちが造仏にかかわり、本堂の諸像や南大門の仁王像を造立した。そのうち本堂の諸像は、永禄十年(1567)の兵火で焼失したが、南大門は幸いにも焼けず、今日に伝わっている。その一対の仁王像は、運慶と快慶を中心にして造られたものであり、鎌倉彫刻の最高傑作といえるものだ。

運慶と鎌倉彫刻

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鎌倉時代の美術は、仏教彫刻を中心に展開した。それを主に担ったのは慶派と呼ばれる仏師集団である。慶派は、奈良仏師の流れで、藤原時代の末期に康慶が出て一派の基礎固めをし、その子運慶の代に盛隆を極めた。そして運慶の流れが鎌倉時代を通じて日本の仏教彫刻界を主導していった。

人丸図:白隠の文字絵

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これは万葉歌人柿本人麻呂の文字絵。白隠はこの図柄のものを結構の数作っている。柿本人麻呂は単に「人丸」とも言ったが、「ひとまる」が「火とまる」を連想させるところから、火災よけの神として庶民に信仰された。白隠はそんな信仰心に応えて、人丸の文字絵を量産したのだろう。

渡唐天神図:白隠の文字絵

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文字絵とは、文字で絵を表すもので、室町時代頃から作られていた。文字絵のテーマとしては、渡唐天神図と人麻呂図が好まれたようで、白隠もこの二つをテーマにいくつかの作品を描いている。この「渡唐天神図」はその代表的なもので、巨大な画面に勇壮な筆致で描かれた絵が、見る人に迫力を以て迫ってくる。

びゃっこらさ:白隠の漫画

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「びゃっこらさ」も「毛槍奴立小便図」同様、奴を風刺した絵と思われる。この絵の奴は、白狐の姿を借りており、その白狐の「びゃっこ」と奴の蔑称である「やっこらさ」を引っ掛けて「びゃっこらさ」としたわけであろう。

毛槍奴立小便図:白隠の漫画

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この絵は、毛槍奴が立ち小便している様子を子どもたちが見て囃したてているところを描いたもの。右側の賛に「毛槍をもって立てししす」とあるのは、「毛槍をもって立ち小便する」という意味。左側の賛には「しかも大きなしじじゃ、小じゃりが飛ぶは、あれ見よ」とある。「しかし大きなちんぽこじゃ、小便の勢いで小石が飛んでいる、あれを見てごらんよ」という意味である。

鷲頭山図:白隠の禅画

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鷲頭山は、伊豆半島の西側の付け根にあたるところにある。白隠が住職を勤める松陰寺からは、富士同様によく見える山だ。しかもこの山は仏教伝説ともゆかりがあるというので、白隠は特別の気持を抱いていたにちがいない。この山を描いた絵に、そうした白隠の気持ちが籠められている。

富士大名行列図:白隠の風景画

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白隠は、沼津の東海道に面した松蔭寺の住職をしていたから、そこからは富士が手に取るように見えた。そんな富士の姿を白隠は数多く描いている。これはそのうちの一枚。雄大な富士をバックに大名行列が通り過ぎるところを描いている。画面いっぱいに富士を描き、裾野に大名行列を描く。その行列は西へ向かって進んで行き、その先には川があり、川の近くにはそばだった岡も見える。

鍾馗鬼味噌図:白隠の漫画

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これは鍾馗が擂粉木で味噌を擂っている図柄。よくみると、擂鉢のなかにいるのは、四匹の鬼。これらの鬼は人間の煩悩の化身で、それらを擂りつぶした味噌を食えば、煩悩から解放されて成仏できるじゃろう、というのがこの絵の狙いだ。白隠なりの衆生教化の意図が籠められたものと言えよう。

鍾馗図:白隠の漫画

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白隠は鍾馗の図を数多く描いている。鍾馗は厄除けの神として親しまれ、端午の節句には子どもの厄をはらう守護神として尊重された。もともとは、中国に実在した人物で、それが神になったにはいわれがある。玄宗皇帝のときに科挙を目指したが落第を重ね、それを恥じて宮中で自殺した。ところが、どういうわけか、重い病気にかかった玄宗の夢の中に現れ、玄宗を悩ませていた悪鬼を追い払ったところ、玄宗の病気が治った。それに感謝した玄宗が、画工に鍾馗の姿を描かせて顕彰した。それ以来厄除けの神として庶民に慕われたというのである。

お福御灸図:白隠の漫画

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お多福女郎が客の尻にお灸を据えているユーモラスな図柄のこの絵には、「痔有るを以てたつた一と火」なる賛がある。そのまま虚心に読めば、「痔があるのでたった一つの火で治療してやろう」となるが、その裏には別の意図が隠されているという。この言葉は、当時の寺子屋の教科書でよく使われた言葉、「人肥えたるが故に貴からず、智有るを以て貴し」をもじっているというのである。

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