日本の美術

honen1867.1.jpg

月岡芳年と言えば「血みどろ絵」が思い浮かぶほど、血なまぐさい絵が好きだったように思われるが、芳年がこうした絵を描いたのは、慶応元年から明治二年までの五年間に過ぎない。それには、こうした絵を求める時代の背景があったと考えられる。すなわち幕末・維新にかけて、血なまぐさい事件が頻発したために、その事件の真相とともに、事件をいろどった血なまぐさい行為に、庶民の関心が向いたという事情があったわけだ。

honen1866.2.jpg

高木午之助は、名古屋山三、不破伴作とともに茂林家三勇士と言われて、講談や読本の題材とされていた。師の国芳は「本朝三勇士」と題して取り上げており、芳年自身も和漢百物語の中で不破伴作を単独で取り上げていた。

honen1866.1.jpg

慶応二年から三年にかけて出版された「美勇水滸伝」は、師国芳の「水滸伝」シリーズを踏まえたものだが、題材は当時流行の読本などに登場する人物にとっている。その数五十図。画集の趣旨を芳年は序文に次のように記した。

honen1865.1.jpg

「和漢百物語」は、月岡芳年の初期の代表作といえるもので、慶応元年(1865)に出版された。目録には二十五葉からなると記されている。いづれも和漢の妖怪をテーマとしたものだ。百とあるのは、一種の語呂合わせで、「多くの」というほどの意味らしい。

honen1864.2.1.jpg

秀吉の朝鮮征伐も武者絵の格好の題材となった。月岡芳年の「正清三韓退治図」と題する作品もその一点。題名にある正清とは加藤清正のことをさす。このようにひねった命名をしたのは、大石内蔵助を大星由良之助としたのと同じ趣向である。

honen1864.1.1.jpg

源頼光とその家来たちによる酒呑童子退治は能や歌舞伎の格好の題材となったほか、浮世絵師の武者絵にも大きく取り上げられた。芳年の「頼光四天王大江山鬼神退治之図」と題するこの作品も、その代表的な一点。頼光一家があたかも酒呑童子に襲いかかる場面を描いている。

honen1860.1.jpg

浮世絵師といえば、役者絵を描くのが当たり前であった。大衆の需要が大きくて、手っ取り早く金を儲けることができた。なにしろ写真もなく、当然週刊誌もない時代だから、浮世絵が芸能界を大衆に結びつける最大の媒体だった。

honen1859.1.2.jpg

月岡芳年は若干二十歳の頃には一人前の浮世絵師として人気を博していたようである。その頃の彼は、武者絵を中心として色々なジャンルに挑戦していた。「桃太郎豆蒔之図」と題するこの作品はその一点。三枚組のそれぞれに「一魁齋芳年」の署名がある。芳年は師国芳の一字をもらったものだ。

honen1853.1.1.jpg

月岡芳年は早熟な絵師だった。今に伝わる作品の中で最古のものは、嘉永六年(1853)満十四歳のときのものだ。この時芳年は国芳に入門して三年目だったが、すでに先輩にひけをとらないような技術の冴えを見せていた。

月岡芳年

| コメント(0)
honen00.jpg

月岡芳年(1839-1892)は、最後の浮世絵師と呼ばれる。明治維新は彼が三十歳のときのことであり、その頃に画家として独り立ちしていた芳年は明治二十五年に満五十三歳で死ぬまで日本の浮世絵界をリードしたのであるが、それは浮世絵史の最後の段階にあたっていた。浮世絵は芳年の死とともに長い歴史に幕を閉じたのであって、したがって芳年は最後の浮世絵師と呼ばれてしかるべき存在だったのである。

kawa033.jpg

「暁斎楽画」シリーズの一枚「地獄太夫」。地獄太夫といえば一休伝説の中で出てくる遊女のことだが、この絵では一休を省いて地獄太夫だけを登場させている。それとともに、一休と縁の深い骸骨も多数登場させている。その数たるや夥しい。そんなわけでこの絵は、地獄太夫をダシにして骸骨を描くのが目的だったと思わせるほどだ。

kawa032.jpg

「達磨の耳かき図」も、「一休と地獄太夫図」同様、高僧と美女の戯れあう姿を描いたもの。高僧が美女にうっとりとしたり、浮かれたりするところを描くのがミソだ。

kawa031.1.jpeg

地獄太夫とは、一休さん伝説に出てくる遊女。一休さんが和泉の国の境の町である遊女と逢ったときに、その遊女との間で歌のやりとりをするが、そのうち遊女が名高い地獄太夫であることを知り、「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」と詠んだところが、地獄太夫は「しにくる人の落ちざるはなし」と下句をつけた、と伝わっている話だ。

kawa030.jpg

これは、蛙ならぬ猫を眺め入っている美人を描いた一枚。美人は横たわって、両肘をついて顎を支えた姿勢で無心に猫の姿に見入っている。猫のほうは人に見られているのが気にならぬようで、何事もないようにうずくまっている。もっとも美人のように寝そべっているわけではないので、多少の緊張は感じているのかもしれぬ。

kawa029.1.jpeg

幕末から維新前後にかけては美人画の浮世絵が流行ったこともあって、暁斎は美人画を多く手掛けている。結構需要があったのだろう。ほかのジャンルの絵同様、美人画にも戯画の調子が感じられる。そこが暁斎らしいところだろう。

kawa028.1.jpeg

河鍋暁斎は、妖怪や地獄の絵と並んで、極楽往生の様子も描いた。「北海道人樹下午睡図」と題するこの大作は代表的なものだ。普通の釈迦の涅槃図とは異なり、遊び心が込められている。その遊び心は、涅槃に午睡の字を当てているところにもうかがえる。この絵は釈迦ならぬ北海道人が樹下に昼寝をしている様子を描いているのだ。

kawa027.1.jpeg

これは浄玻璃鏡に映った罪人たちの生前の所業を確認している閻魔大王の様子を描いたもの。先にとりあげた地獄極楽図のうち、閻魔大王と浄玻璃鏡をアップにして描いたものだ。

kawa026.1.jpeg

河鍋暁斎は幽霊の絵とともに地獄の絵もよく描いた。幽霊と地獄の間にどんな関係があるか、いまひとつはっきりしないが、幽霊の方が日本古来の迷信に根差しているのに対して、地獄のほうは仏教、とりわけ浄土信仰と密接な結びつきがあったことは言えるようだ。地獄は浄土の正反対として、成仏できない罪深い人たちが落ちてゆくところとしてイメージされていた。そういう目に合わないためにも、人は阿弥陀様を深く信仰せねばならぬと言いきかれてきたわけだろう。

kawa025.1.jpeg

風神雷神図は、琳派や狩野派が好んで描いたが、河鍋暁斎も狩野派のはしくれとして手掛けた。風神雷神図は非常に人気があったので、注文も多かったのだろう。暁斎は数多く手掛けている。この図はそのなかでももっとも有名なものだ。

kawa024.jpg

画面の中央に描かれている狐は九尾の狐といって、中国の伝説上の怪物である。それが日本に伝わって様々な伝説と結びついたが、なかでも謡曲「殺生石」で語らえている伝説が有名である。それによると、九尾の狐は中国では妲己となって殷王朝を亡ぼし、天竺では華陽夫人となって残虐の限りを尽くし、日本では玉藻の前となって鳥羽上皇をたぶらかそうとしたが、見破られて那須野の殺生石に封じ込められたということになっている。

Previous 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

アーカイブ