日本の美術

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(41景 市ヶ谷八幡)

市ヶ谷八幡神社は、いまの市ヶ谷駅の北西、小高い台地の上にある。文明八年(1476)、太田道灌が江戸の鎮守として、鎌倉の鶴ケ丘八幡宮を勧請して作った。もとは市ヶ谷御門の内側にあったが、寛永年間に現在地に移された。丘の上にあることもあって、鶴ケ丘八幡にちなんで亀ヶ丘八幡と呼ばれるようになった。

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(39景 吾妻橋金龍山遠望)

吾妻橋は安永三年(1774)、墨田川の五番目の橋としてかけられた。徳川時代では最後の橋である。この絵は、その吾妻橋を、金龍山浅草寺とともに眺めた構図。背景に富士山が見えることから、吾妻橋の上流から眺めたかたちだ。手前に舟がつないであるから、おそらく竹屋の渡しに係留されているのだと思う。

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(37景 隅田川橋場の渡かわら竈)

橋場の渡しは、今の言問橋のやや上流で、浅草の橋場と向島の寺島を船で結んでいた。荷風散人の小説「隅田川」の舞台となったところ。隅田川の渡し場としては、最も古いといわれる。かの在原業平も、この渡しで舟に乗ったものだ。その折に京を懐かしんで詠んだ歌、「名にしおはばいざこととはん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」。言問橋の名称は、この歌から来ている。

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(35景 隅田川水神の森真崎)

水神の森は、いまの墨田川神社のことで、もとは浮島神社といった。東京都が整備した白髭東防災拠点の中にある。梅若伝説で有名な木母寺の南側である。浮島神社と呼ばれたわけは、この地が一段と高くなっていて、墨田川が氾濫して洪水になっても、ここだけは水没しなかったからだという。

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(33景 四ツ木通用水引ふね)

四ツ木通用水とは徳川時代の上水の一つで、元荒川の瓦曽根から水を引いて、四ツ木を通って向島まで水を供給していた。しかし水質が悪く、時に海水が交ったりしたので、飲用には適さず、廃止されてしまったが、用水路そのものは、後々迄残った。それを埋め立てたのが、現在の曳舟通りである。

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(31景 吾嬬森連理の梓)

吾嬬の森は、今の墨田区の北東部、東武亀戸線の沿線にあった。北十軒川が旧中川に合流するあたりである。そこに日本武尊の妃弟橘媛をまつった吾嬬権現社があって、その境内に巨大な楠がたっていた。大きく二股に別れていたので、人々はそれを連理の楠と呼び、神木として仰いだ。

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(29景 砂むら元八幡)

砂村は、いまでは砂町と呼ばれ、江東区の東側にある。その一角に八幡神社があって、元八幡と呼ばれている。この神社は平安時代の末期からあった古いものだが、寛永六年(1629)に今の深川の地に移されて富岡八幡宮となった。そこで古い社殿を元八幡と呼ぶようになったのである。

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(27景 蒲田の梅園)

蒲田は梅作りに向いた土壌を生かして、多くの梅園があった。鑑賞用ではなく、梅干しが目的の白梅が栽培されていたが、花の盛りの時期には、近隣のみならず、各地から大勢の人々が訪れた。東海道を行く旅人や、参勤交代の大名行列も立ち寄ったという。

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(25景 目黒元不二)

こちらは目黒の元不二。これを元不二というのは、近藤重蔵の別荘の富士より古くからあることによる。これは伊右衛門という町人が組織した富士講によって、文化九年(1812)に作られたという。

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(23景 目黒千代が池)

目黒千代が池は、島原藩下屋敷にあった小さな池。いまの目黒駅の北方面にあった。台地の上にあり、湧水が集まって池となったらしいが、結構古い歴史をもっていたようだ。名称の由来となった千代とは、南北朝時代の武将新田義興の愛人の名である。その千代が、恋人義興の死を悲しんで身を投げたことから、千代が池と呼ばれるようになった。

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(21景 芝愛宕山)

芝愛宕山は、かつてはNHKの放送センターがあったところ。徳川時代には、愛宕神社で有名だった。愛宕神社は家康が作ったもので、将軍地蔵を祭っている。その祭礼は出世の石段のぼりと言って、神輿が急な石段を上がっていくことで知られている。

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(19景 王子音無川堰棣世俗大滝ト唱)

音無川は、飛鳥山と稲荷神社の高台の間をぬって流れている。その上流部にはいくつかの滝が連なっていることから、滝野川とも呼ばれる。滝野川は、北区の南部を総称する地名にもなっている。

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(17景 飛鳥山北の展望)

飛鳥山はいまの王子駅の南西にあたる台地で、徳川時代には桜の名所として知られていた。いまでも桜は植えられていて、大勢の花見客が集まる。また、北側を音無川が回りこむように流れており、一帯は山あり谷ありの複雑な地形を呈している。そんなところから、徳川時代から人気のある観光スポットだった。

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(15景 日暮里諏訪の台)

谷中から道灌山に伸びる台地の北外れに諏訪神社がある。太田道灌が灌頂したものだ。この神社の名にちなんで、そのあたりを諏訪の台と呼ぶ。東側が崖になっていて、非常に眺めがよい。また、神社の境内には桜が植えられていて、花見を楽しむこともできた。

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(13景 下谷広小路)

下谷広小路は、上野山下の南側に連続したところ。いまでもその名で呼ばれている。ここは将軍が寛永寺に行くときに通ることからお成道とも呼ばれた。明暦の大火後に、日よけ地として整備された広場だ。

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(11景 上野清水堂不忍ノ池)

上野の清水堂は、京都の清水寺にまねて、舞台の上につくられた。そこからは不忍池が見下ろせる。これを琵琶湖に見たてて、その中に竹生島に模した中島と弁天堂を作った。

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(9景 筋違内八ツ小路)

筋違御門は昇平橋の南詰にあった。そこは大きな広場になっていて、防火の役割を果たしていた。この広場からは、八方に道が通じていたので、八ツ小路と呼ばれた。

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(7景 大てんま町木綿店)

大伝馬町は、徳川時代初期には奥州街道の最初の宿場になっていた。その宿場に多くの伝馬が用意されていたことから大伝馬町と名づけられた。慶長二年(1597)に千住大橋がかけられて以降、最初の宿場は千住に移ったが、大伝馬町は引き続き栄えた。


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(5景 両ごく回向院元柳島)

両国を含む本所の町は、明暦の大火以後にできた。まず隅田川に橋がかけられ、その東詰めに、大火で死んだ約十万人の人びとを弔うため、回向院が作られた。その回向院では、無縁仏を回向するために、年に二回勧進相撲が催された。それが今日の大相撲へと発展するわけである。

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(3景 山下町日比谷外さくら田)

外桜田とは、日比谷門から半蔵門にかけての内堀の外側一帯をさしていった。今日でいえば、国会や裁判所を始め、日本の中枢機能が集中しているところ。徳川時代には、大名や大身の旗本の屋敷が集まっていた。

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