日本の美術

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狩野永徳は、十代の若い頃に細密画に凝った。この洛中洛外図がその成果の一つで、永徳二十歳の頃の作品である。この作品は、細川家の依頼で制作されたと思われるが、後に信長の手に渡り、信長から上杉謙信へ贈られた。

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狩野永徳はすでに十代の頃から非凡な才能を発揮し、祖父元信から狩野家の跡取りと期待された。その祖父から十七歳まで絵の手ほどきを受け、十歳のときには祖父に伴われて足利将軍義輝に謁見している。

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狩野秀頼は狩野元信の次男として生まれたが、当時絵仏師をつとめていた本郷家の養子になった。そんなこともあり、秀頼の画風は、狩野本流とはいささか違う趣を呈している。大和絵の影響を指摘できる。残された作品は少ないが、この高尾観楓図屏風はかれの代表作である。

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この四季花鳥図も、松栄が大徳寺の為に制作した一点。一対の衝立からなり、それぞれの裏表に図柄が描かれている。これは衝立の特性を生かした作りだ。表面二面には四季花鳥図を、裏面二面には人物図を描いている。

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狩野元信には三人の子があり、いずれも父に倣って絵を描いたが、長男の宗信が若くして死に、次男の秀頼が他家へ養子に出たため、三男の松栄が狩野の本流を継いだ。松栄は、父の元信、子の永徳に挟まれて軽く見られる傾向にあるが、なかなか味わい深い絵を描いている。また、後の狩野派の特徴となる金地の豪華絢爛たる様式のはしりのようなものも感じさせる。

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京都妙心寺塔頭霊雲院方丈の襖絵群は、狩野元信の作品である。この塔頭が建立されたのは天文十二年(1543)であるが、この襖絵群はその際に制作されたものと思われる。上の写真はそのうちの一点、霊雲観覧桃図である。

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狩野元信は、正信の嫡子として狩野家の繁栄を託された。しかし時代は戦国の世と変わり、かれは足利将軍家の保護を期待できなかった。一時は諸国を放浪するほど困窮したらしいが、やがて京都の有力寺院の保護を得て、狩野派の存続を図った。苦労しながら家を盛り立てていったのである。

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狩野派の創始者狩野正信は、室町幕府の御用絵師として活躍した。以後狩野家は、時の権力者と結びつき、その政治的影響力を駆使しながら、画壇を支配していくわけである。そういう意味では、正信は狩野派の創始者としての面目躍如といった趣を呈している。

狩野派は、室町時代の末期に出た狩野元信(1476-1559)に始まり、永徳(1543-1590)によって画壇の主流の地位を確固としたものとし、探幽(1602-1674)が徳川政権の御用画師としての地位を獲得し、以後徳川時代を通じて、画壇を支配した。いわば日本におけるアカデミーを主催したようなものである。

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鈴木其一は若くして酒井抱一の弟子となり、兄弟子で抱一の家扶であった鈴木蠣潭の養子となったことで、酒井家の士分に列した。抱一の付け人として常に身辺に在り、抱一の制作のほう助をした。そんなことから鈴木其一は、抱一の画風を誰よりもよく受け継いだと言ってよい。

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「葛秋草図屏風」は、「月に秋草図屏風」とも呼ばれている。図柄のなかの葛に重点を置くか、月に重点を置くかの違いによる。月の印象のほうがやや勝っているようにも見えるが、その月に覆いかぶさるように繁っている葛のほうもなかなかの存在感だ。

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酒井抱一は、尾形光琳よりほぼ一世紀後の人である。姫路藩主酒井忠以の弟として生まれたが、三十七歳の時に出家、しかしすぐに還俗して江戸浅草,下谷に閑居し、絵を描いて気楽な生涯を送った。当初は狩野派に学び、また歌川豊春について浮世絵も描いたが、その後光琳に私淑して、琳派の再興に尽くした。文化十二年(1815)には光琳の百年忌を行い、「光琳百図」などを記念刊行している。

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深江芦舟は光琳に直接師事した弟子だ。父親が銀座役人だったことから、同じく銀座役人で光琳の庇護者であった中村内蔵之助を介して光琳に近づいたと言われる。画風は、光琳の重々しい作品を思わせるものが多く、その点、光琳の軽快で衣装的な図柄を受け継いだ渡辺始興と対照的である。

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渡辺始興は、晩年の尾形光琳に師事し、そこから琳派的なものを学んだが、もともとは狩野派から出発し、やまと絵の素養もあった。そんな背景から、彼の絵には狩野派、やまと絵、琳派が混在し、それらがバラバラに共存しているという印象を与えるのだが、逸品と称される作品は琳派様式のものが多い。

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尾形光琳には「紅白梅図屏風」がもう一点あって、こちらは出光美術館が所蔵している。六隻一層の図屏風で、右隻には三本の梅が、左隻には一本の白梅の枝先が描かれている。どちらも金地を背景にしている。MOA美術館のものと比べると、構図的にはシンプルである。どちらが早く描かれたかははっきりしないが、こちらの方が早いと思われる。

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尾形光琳最晩年の作品である「紅白梅図屏風」は、光琳の代表作というにふさわしく、光琳生涯のすべてが込められている作品である。構図の綿密さ、色彩のあでやかさ、そして躍動するリズム感は、宗達を引き継ぎながらそれを超えるものを見る者に訴えかける。

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尾形光琳は水墨画にもすぐれた作品を多く残したが、この「竹梅図屏風」はその代表的なものだろう。単なる水墨画と異なって、金地に墨で丁寧に描いている。この手の水墨画としては、前後に例のない型破りの作品だ。

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「燕子花図屏風」の製作からほぼ十年後、尾形光琳はほぼ同じモチーフの作品を再び手掛けた。この「八橋図屏風」である。どちらも伊勢物語第九段八つ橋の場面に取材している。これらを見比べると、共通点と相違点とが浮かび上がる。共通点としては、八つ橋の場面で出てくる業平以下の人々が省かれ、ただ燕子花の花の群れのみが描かれていること、相違点としては八つ橋の橋の一部が描き足されていることだ。

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尾形光琳は宝永末年から正徳の始めにかけて、宗達の大作を相次いで模写した。それによって、自分自身大作の創作へと飛躍した。宗達の「松島図屏風」については、まず模写をしたうえで、それを自分なりに翻案したものをいくつか描いた。今日残っているのは四点である。その一枚が、ボストン美術館にあるこの「松島図屏風」である。

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竹に虎の組み合わせは、武家好みのモチーフとして、室町時代から多く描かれて来た。光琳のこの図は、小さな画面に虎の姿をいっぱいに描き、その周囲に竹を配したものであるが、虎の表情にはいかめしさと滑稽さとが同居していて、これだけを単独に描いても、絵にはならなかったと思う。周囲の竹があるおかげで、虎の大きさが引き立ち、虎らしい雰囲気が出ている。虎だけだったら、猫と区別はつかないだろう。

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