日本の美術

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(東京新大橋雨中図 明治九年)

清親が明治九年に松木から刊行した東京名所図シリーズ五点のうちの一点。清方の作品のなかではもっとも有名なもののひとつである。

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(東京銀座街日報社、明治九年)

銀座通りに洋風の建物がつながる街が形成されたのは明治六年以降のこと。前年の火事で古い街並が焼けてしまったことと、開通したばかりの新橋駅の駅前通りとして洋風の景観を整備しようとする意向と、この二つの事情によって作られた街だ。清親が東京名所図のためにスケッチした明治九年頃には、大分整備が進んで、近代的な街並の景観を完成させつつあった。

小林清親の東京名所図

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小林清親は、光線画と呼ばれる画法を駆使して明治初年の東京を版画という形で表現した作家である。幕末から明治初年の江戸―東京を絵画の世界に定着した画家としては、安藤広重や河鍋暁斎という先輩がいたが、清親は自分なりの独特の画法で、明治初年の東京、それは徳川時代の田園的な雰囲気を残した江戸の名残としての東京から、西洋風の近代的な都市へと変貌しつつあった東京だが、そうした過渡期の東京の姿を、如実に見える形で残したことは、絵画の歴史の上のみならず、日本の歴史の上でも貴重な貢献であったといわねばならない。

小島湾真景図:池大雅の世界

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小島湾は、瀬戸大橋児島・坂出ルートの本州側の起点に当たるところにある。いまの岡山市の南側にあたる。古来風景の美しいところとして知られていた。池大雅は40歳代の半ばに友人の韓天寿と共に山陽を旅したことがあったが、この絵はその際に描かれたものだろうと推測される。

瀟湘八景図屏風:池大雅の世界

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瀟湘八景は徳川時代の文人画の好みのモチーフであり、池大雅も多く手がけたが、この作品は瀟湘八景のすべてを一つの画面の中に描いた珍しいものである。どの部分がどこに相当するかは、裏に貼り付けられた大雅の書簡に記されている。それによれば、向かって右より、遠浦帰帆・瀟湘夜雨・漁村夕照・洞庭秋月・平砂落雁・山市晴嵐・遠寺晩鐘・江天暮雪ということになる。

五百羅漢図:池大雅の世界

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宇治の黄檗宗寺院万福寺には、池大雅の手になる障壁画や壁貼画が数十点描かれていた。万福寺は大雅が少年時代からかかわりのあった寺院で、大雅は生涯の折節にこの寺のために障壁画等を製作した。五百羅漢図もその一部で、もともと開山の間に四面ずつ向かい合って、八面の襖に描かれていた。40歳代の作品である。現在は掛軸に仕立て直されている。

洞庭赤壁図巻:池大雅の世界

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「洞庭赤壁図巻」は、日本の文人画が到達した記念碑的な作品だとの評価が高い。国宝にもなっている。大雅生前から文人仲間の話題となり、多くの文人たちがかかわりをもった。すなわち、韓天寿が題簽(九霞山樵法唐人之筆洞庭赤壁図)を、宮崎筠圃が題字(乾坤日夜浮)を、細合半斎と頼春水が跋文を、木村兼霞堂が箱書(池貸成洞庭赤壁図)を、それぞれ寄せており、この作品が文人仲間のシンボル的なものだということを表明している。

柳下童子図屏風:池大雅の世界

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「柳下童子図屏風」は八曲一隻の大画面に、粗末な橋の上から水面を覗き込む二人の童子を描いたもの。水面をはさんで、彼岸には柳の葉が垂れ、此岸には笹の葉が繁る。柳の葉は水面に影を落としているが、このような水面の描き方は、従来の日本の絵には見られないところで、大雅の独創性が指摘される。この絵をモネの睡蓮の絵の先駆的作品と言う者もある。

倣王摩詰漁楽図:池大雅の世界

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「倣王摩詰漁楽図」は、画題の通り王摩詰の漁楽図を手本にした絵である。王摩詰とは盛唐の大詩人王維のこと。王維は画家としても有名だった。漁楽図とは、老荘思想が理想とする脱俗の境地を描いたもので、古来画題として好んで取り上げられてきた。池大雅もそれに倣ったと自ら言っているわけだが、ここには彼独自の境地がある。

白雲紅樹図:池大雅の世界

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「白雲紅樹図」は、池大雅の傑作として古くから名高い作品である。大雅の作品としては早い時期に重文に指定された。画題のとおり、白雲たなびく山中の秋の紅葉を描いたもので、描法はきわめて緻密でありながら、しかもゆったりとした雰囲気を失わないという点で、大雅の特徴がもっともよく発揮された一点である。

山中雅会図:池大雅の世界

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高野山の塔頭遍照光院の大広間を飾る襖絵十枚を総称して「山水人物図」と言うが、そのうちの四面がこの「山中雅会図」である。この絵は、山中の小亭で雅会を楽しむ高士たちを描き、残りの六面のうち四面はこの小亭に向かっている人物たちを描き、二面が老松を描いている。遍照光院の建物自体は消失してしまったが、この襖絵は幸いなことに残された。

酔翁亭図屏風:池大雅の世界

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「酔翁亭図屏風」は「楼閣山水図屏風」のうちの一隻である。酔翁亭とは北宋の詩人欧陽脩が安徽省の滁州に作った亭。彼は皇帝の不興をかってこの地に左遷されたときに、この亭に文人たちを招いては、ともに詩を作って無聊を慰めたという。「酔翁亭記」と題した紀行文は、長らく文章の模範とされ、日本人にも愛された。

岳陽楼図屏風:池大雅の世界

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「岳陽楼図屏風」は「酔翁亭図屏風」とともに「楼閣山水図屏風」として六曲一双をなすものである。金箔地の屏風面に岩絵の具による濃彩を施しており、非常に豪華な感じがするのは、宗達や光琳に影響されたのだろうと考えられる。

銭塘観潮図屏風:池大雅の世界

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「銭塘観潮図屏風」は杭州の郊外を流れる川銭塘江の海嘯というものを描いたものである。海嘯とは、満潮時に川の水が逆流し、それが巨大な波となって押し寄せる現象で、すさまじい音を伴うことから、海嘯と呼ばれる。池大雅が描いたのは、秋の海嘯で、中秋の満潮にともなう珍しい現象を、人々が眺めている様子を描いている。

西湖春景図屏風:池大雅の世界

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「西湖春景」は「銭塘観潮図屏風」とともに六曲一双をなす作品である。西湖・銭塘江とも南宋の都杭州近郊にある。大雅は無論実景を見たことはなかったが、これらは南宋の画家たちがこぞって画題とした眺めであり、日本の画家もそれに倣って描いた。大雅がどれをもとに描いたかはわかってはいないが、恐らくは中国から伝わった作品を手本として、それに大雅の想像をまじえたのだと思われる。

蘭亭修禊図屏風:池大雅の世界

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「蘭亭修禊図屏風」は、書聖といわれた王羲之が催した有名な詩宴「蘭亭修禊」をイメージ化したものである。王羲之自身はこの詩宴の様子を「蘭亭序」という文にあらわし、またそれを書とした。大雅は、その「蘭亭序」に書かれた内容をもとに、この作品を描いたわけである。画面左上に、その文章を写している。

龍山勝会図屏風:池大雅の世界

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「龍山勝会図屏風」は「蘭亭修禊図屏風」とともに六曲一双をなす作品である。宝暦十三年(1763)大雅馬歯四十一の年の作であり、所謂大雅様式の完成を告げる記念碑的な作品とされる。

峡中桟道図:池大雅の世界

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「峡中桟道図」(蜀桟道図ともいう)は、険阻なことで知られる蜀の桟道を描いたもの。関中(陝西省)と蜀(四川省)との境の山中にあって、絶壁にへばりつくようにして通じた道だ。その様子が粗末な桟橋を思わせることから、蜀の桟道と称された。

林外望湖図:池大雅の世界

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大雅は、宝暦五年(1755)馬歯三十三の年に出雲地方に旅している。白隠門下の円桂に招かれたというが、その折に、円桂が住職を勤める松江郊外の禅寺天倫寺の庭から宍道湖を見下ろす構図の真景図を描いた。「林外望湖図」がそれである。この作品は、大雅の画業の中でエポックメーキングな意義を持つと評価される。この作品を契機にして、それまでのやや窮屈さを感じる作風から、今日「大雅らしさ」といわれるような、のびのびとした開放的な作風へと変化していった。

浅間山真景図:池大雅の世界

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「浅間山真景図」は、信州の浅間山を描いたとする説と、伊勢の朝熊岳を描いたとする説と、ふたつある。ここでは、信州の浅間山を描いたものとする。池大雅は宝暦十年(1760)の夏から秋にかけて、親友の高芙蓉らとともに、白山,立山、富士山を上り巡る所謂山岳紀行の旅をした。その際に、信州の浅間山をスケッチしたものをもとに、あとで完成させたのがこの絵だと考えられる。

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