日本の美術

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四月は花見。向島堤の花見の様子を描いたもの。現在では、東京で花見と言えば上野の山だが、明治の半ばころまでは、向島堤が都下最大の花見の名所だった。向島にはまた、成島柳北を始め多くの文化人が住み、文化的な香りもただよっていた。この絵に描かれている女性たちは、雛妓なのだろう。色華やかな振袖姿で、枝に咲き誇る桜の花を見上げている。

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鏑木清方は昭和十年(1935)に、三越デパートで「明治風俗十二か月」と銘打った個展を催した。そこに清方は、月次風俗画十二点を出品したのだった。月次の風俗画は、室町時代からの伝統で、明治以降も浮世絵カルタなどの形で存続していたが、それを清方は大画面で展開してみせた。モチーフは、明治三十年頃の中流階級の生活ぶりだと、清方自身が語っている。

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第六回七弦会に出展した「初冬の花」は、二曲一隻の屏風に、装飾画として描いたもの。「妓女像」の中の鼓を打っている人をモデルにして、それに明治の装いをさせたと清方自身が言っている。タイトルの「初冬の花」とは、初冬に彩りをそえる花のような雰囲気の女性ということか。

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「銀世界」と題したこの作品は、雪の中にうずくまる女を描いたもの。女が高下駄を履いたままうずくまっているのは、どういうつもりか。その表情からは、あまり明るい雰囲気は伝わってこない。顔はやや紅潮し、茫然とした表情をしている。なにやら思い詰めているようである。

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「夏の女客」は昭和八年(1933)の尚美会に出展されたもので、題名通り、客間に通された女性の客を描いている。女性は団扇をもって座布団の上にかしこまり、主人の出て来るのを待っているようである。その表情は緊張を感じさせ、用向きになにか重要なことがあるのかと思わせる。

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石神井川が王子を流れるあたりは滝野川といって、多くの滝がかかっているほか、渓流沿いは、今では花見の名所になっているが、戦前は、徳川時代以来の紅葉の名所だった。それも楓の紅葉だから、実に色鮮やかだった。この絵は、その眺めを描いたものである。

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昭和初期の鏑木清方は、「築地明石町」を始めとして、人物画を好んで描いた。「三遊亭円朝」もその一点。清方は、円朝とは子どものころから見知っていた。父の経営するやまと新聞が、円朝の人情噺を筆記して、それを掲載していたということもあって、清方はその筆記を手伝ったこともあるようだ。また、十七歳の時には、円朝の旅行に随行して、各地を回ったりしている。そんな誼から、清方は円朝に非常な親しみを抱いていた。

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昭和五年の作品「浜町河岸」は、「築地明石町」、「新富町」とあわせて美人画三部作を構成する。構図も似ており、サイズも同じであることは、清方がこれら三つの作品をシリーズものとして意識していたことをあらわす。浜町河岸には、清方は五年ほど暮らしていたので、町の雰囲気は実感としてわかっていた。その町に相応しいのは、庶民の娘といわんばかりに、この絵のモチーフは平凡な町娘だ。

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「築地明石町」から二年後に、鏑木清方は「新富町」を描いた。前作同様美人画で、前作が市井の女性をモチーフにしていたのに対して、この絵のモチーフというかモデルは、つぶし島田の髪型から知れるように、芸者である。新富町は、関東大震災までは、府内有数の三業地の一つだった。また、歌舞伎小屋があったりして、結構賑やかな土地であった。

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「築地明石町」は、昭和二年(1927)の第六回帝展に出展して、大変な評判となった。清方自身もいささか恃むところがあって、大きな反響を喜んだようだ。この絵は、鏑木清方の代表作として、いまでも評価が高い。

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大正八年(1919)、文展は解散して、新たに帝展が発足した。鏑木清方は、その前年に文展の審査員になっていたが、引き続き帝展の審査委員になった。張り切った清方は任務に精励したが、そのため自分の制作がおろそかになり、長い間のスランプに陥ったという。スランプから脱したのは、第四回帝展に「春の夜の恨み」を出した頃からだが、第六回の帝展に出展した「朝涼」で、完全にスランプから脱したと清方は「画心録」に書いている。

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大正十三年(1924)、朝日新聞が月めくりカレンダーのモチーフに美女画を採用することとし、清方にも注文がきた。そこで清方は、カレンダーらしく肩の凝らない絵として、女の何気ない表情を描いた。「襟おしろい」と題するこの絵がそれである。

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鏑木清方は、大正十二年(1923)の郷土会に「桜姫」と題する作品を出展した。清玄・桜姫ものに題材をとったものだ。これは清水寺の僧清玄が、高貴の姫君桜姫に懸想したうえで悶死し、死後も桜姫にまとわりつくという物語で、徳川時代には大変人気のある話として、さまざまな狂言の材料となっていた。もっとも有名なのは、四代目鶴屋南北作「桜姫東文章」、清方はこれを材料にして、この絵を描いたようだ。

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鏑木清方は、金鈴社に出展するかたわら、自分の門下生らが組織する郷土会というものへも出品した。ごく身内の自主展覧会といったものである。そこに出展した一枚に「刺青の女」というものがある。タイトルの通り、刺青を施した背中をもろ肌脱ぎに披露した女の表情を描いている。

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大正六年(1917)、鏑木清方は文展に出典していた画家仲間数名とともに、金鈴社という団体を作って、自主展覧会の開催を開始した。文展には、清方によると、うるさい制約があったようで、そうした制約を離れて自由に描きたいという動機から、そのような団体を作ったようだ。その第一回展覧会を、日本橋の三越で開いたが、そこに清方は「薄雪」と題した作品を出展した。

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文展へは毎年出展し、三回目以降は入選するようにもなった。清方は、文展をめざして大作を描くうちに、次第に挿絵画家から本物の画家になっていったという自覚を持ったという。実際、年を追って画風が変り、本格的な日本画家へと成長していったようだ。

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明治四十年(1907)、文展が創設された。これは京都を中心とする伝統的な日本画の団体日本美術協会と、岡倉天心らの日本美術院が合同したもので、今の日展の前身というべきものだ。その第一回の展覧会に、鏑木清方は「曲亭馬琴」と題する一点を出展した。結果は落選であった。入選した友人にそのわけを聞くと、語ること多きに過ぎたという批評を受けた。清方はその批評をもっともだと思ったが、後悔はしないと言った。自分としては自信があったのだろう。

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明治40年(1907)、鏑木清方は木挽町から浜町河岸に転居。同年催された東京勧業博覧会に「嫁ぐ人」を出展した。モチーフの嫁ぐ人とは、ほぼ中ほどで花束を持っている女性だろう。その女性を囲んで四人の女たちが描かれているが、彼女らは花嫁の心得を聞かせてみたり、あるいは自分自身の結婚のことを考えているのかもしれない。

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鏑木清方は樋口一葉をモチーフにした絵をいくつか描いている。18歳の時に読んだ「たけくらべ」に感動して以来、一葉に読みふけったようだ。この絵は、一葉女史その人ではなく、彼女の墓をモチーフにしている。その墓に抱き着くようにして寄り添う一人の女は、「たけくらべ」の主人公美登利だという。

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「孤児院」と題したこの絵は、明治35年(1902)に日本絵画協会の展覧会に出展して銀賞を得たもの。銀賞とはいっても、その会における最高の賞であった。この展覧会の審査は二段階方式になっていて、最初は協会の任命した委員、再審査は岡倉天心以下の実力者があたった。最初の審査では、上村松園の「時雨」が銀賞をとったが、再審査で清方が逆転したと、清方の「自作を語る」にはある。ともあれ、これで以て、清方は画家として本格的なデビューを飾ったのだった。

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