日本の美術

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上村松園は京都の伝統に強くこだわった。なかでも女性の髪形には強い関心を寄せ、自分自身で髪型を考案しては友人に結ってやったという。この「鴛鴦髷」と題する作品は、そんな松園の髪型へのこだわりをうかがわせるものだ。

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「母子」と題したこの絵も、母の死んだ年に、亡き母を偲んで描いた作品である。制作にあたっては、次のような逸話がある。あるとき、松園が京の町を歩いていたら、大店の軒先に唐簾がかかっていた。それを見た松園は、俄然母親を思い出し、この絵の構図を固めたという。

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「青眉」とは、眉毛を剃り取ったあとの青々とした状態をさして言う。昔は、女性が結婚して子どもが生まれると、そのしるしとして眉を剃り、青眉と称した。松園は自分自身の母親の若い頃の青眉を覚えていて、そのイメージをこの絵に込めたもののようである。

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松園は、蛍が好きだったとみえて、たびたび絵のモチーフに取り上げている。「新蛍」と題したこの作品は昭和七年のものである。大正二年には、歌麿の風俗絵を手本にした「蛍」を描いているが、若い女の色気を感じさせたものだった。それに対してのこの絵は、母子の蛍狩りの様子を描いている。

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「春秋」と題した二曲一双のこの作品は、徳川家の依頼で製作された。娘が高松宮家へ嫁ぐにあたり、その嫁入り道具としてであった。製作のための時間が限られていたので、松園は、四年前に聖徳太子奉賛美術展に出展した「娘」を差し出すこととし、それにもう一点を加え、二曲一双の屏風絵に仕立てるつもりであった。ところが、「娘」は海外巡回展からなかなか戻ってこず、松園はその絵をもとにして描き直すことを迫られた。

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「待月」とは、月見の折に月の出るのを待つことを言う。京都では古来庶民の風習になっていた。松園は京都人として、この待月の雰囲気を画面に定着したかったのだろう。

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上村松園は、日本風の美人を描く一方、若い頃から唐美人も好んで描いた。これは円山応挙以来の円山・四条派の伝統を踏まえたものだ。四条派は清から輸入した風俗的な美人画を手本として多くの美人画を製作した。それは商業的な成功を収めた。松園の場合には、商業的な動機はなく、美人画の一ジャンルとして割り切っていたようだ。

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「焔」と題するこの絵も、能に題材をとった作品。この頃松園はスランプ状態に陥っていて、なんとか新機軸を得たいと考えていた。その結果が、伝統的な能に題材をとりながら、人間の激しい感情を表現するというものだった。「焔」とは「瞋恚の焔」と言われ、激しい怒りの感情をあらわす言葉である。

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「花がたみ」と題するこの作品は、松園の画業の転機となったものと言われる。それまでは、浮世絵や徳川時代の美人画を参考に、古い時代の美人のたたずまいを淡々と描いた作風のものがほとんどだったのだが、この「花がたみ」を転機として、能に題材をとったドラマチックな作風へと変化していった。

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上村松園は、簾越しの美人の構図が好きだったとみえて、幾つも描いている。蒸し暑い京都に簾は欠かせない小道具であり、かつ古きよき日本を感じさせる風物詩でもあった。

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松園は京都人であったから、日頃から舞に親しんでいたようだ。能に取材し作品も多く手がけている。「舞支度」と題したこの絵は、舞や能をモチーフにした作品のなかで初期のものに属する。大正三年の第八回文展に出展して、二等賞を得た。

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「娘深雪」と題するこの絵は、人気歌舞伎「朝顔日記」に取材した作品。朝顔日記は、九州秋月家の娘深雪が、恋人の宮城阿曹次郎を慕って家出し、盲目の角付け芸人となって流浪するという話。深雪と宮城がたびたびすれ違うことから、メロドラマの原型といわれ、「君の名」などに影響を与えたといわれる。

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松園は蛍が好きと見えて、多くの作品に蛍を重要な小道具として登場させている。ずばり「蛍」と題したこの絵は、最晩年の「新蛍」や絶筆となった「初夏の夕」とともに、松園の代表作の一つである。

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松園には、浮世絵、肉筆画をとわず、先人特に徳川時代の著名な画家の作品を換骨堕胎して自分の絵のモチーフに取り入れることが多かった。「美人之図」と題されたこの絵もその一つ。これは三畠上龍の「灯篭美人図」をほぼそっくり真似たものである。今なら盗作呼ばわりされる可能性が強いが、明治の日本にはそんなにうるさいことを言うものはいなかった。

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上村松園には、絵画史上の先行作品を参考にし、それを換骨堕胎して自分の作品に取り入れる傾向があった。歌麿らの浮世絵美人画は、松園がもっとも利用したものだが、この「虫の音」と題する作品は、近世初期の風俗画「彦根図屏風」を踏まえた作品。

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松園は早くに父をなくし、母親の手一つで育てられたこともあって、母親への思慕を思わせる作品が多い。「月影」と題したこの絵は、母娘のむつましいたたずまいを表現した作品。母親が柱の影から顔を出して月を眺めあげ、その背後には幼い妹娘が控える一方、姉娘のほうは廊下に映った松の木影を見つめている。

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遊女亀遊は、横浜岩亀楼の遊女であったが、外国人を客にとることを潔しとせず自害して果てた。その折の辞世「露をだにいとふ大和の女郎花降るあめりかに袖はぬらさじ」は、あまりにも有名である。この絵は、そんな亀遊の心意気が伝わってくるような作品である。

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上村松園は生涯を通じて美人画一筋に描いたが、モチーフになったのは、和装の女性たちであり、しかも現代の女性というより、過去の女性が殆どだった。それも徳川時代の女性である。文明化した近代日本で、徳川時代の女性たちに美の典型を求めたわけである。

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上村松園は早熟な画家で、15歳にして画名をあげた。その年に行われた第三回内国勧業博覧会に出展した「四季美人図」が、折から来日中の英国の王子の目にとまり、買い上げられたのであった。そのことを地元の「日の出新聞(京都新聞の前身)」が報じたので、上村は一躍有名になったのであった。

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上村松園(1875-1949)は、明治以降の近代日本画の礎石を築いた画家の一人と評価される。決して日本画全体を代表するようなものではないが、これがなければ日本画が物足りなく感じるであろうことは誰もが認めるだろう。日本画の主流は横山大観ら、狩野派をはじめとした日本画の伝統を踏まえたものだったが、松園は鏑木清方とともに、風俗画風の美人画に新しい境地を求めた。美人画は徳川時代に既に、浮世絵としてある程度の完成を見せていたが、松園や清方によって、本格的日本画の中心に躍り出たのである。以後美人画は、日本画の有力なジャンルとして発展していく。

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