日本の美術

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月次絵はやまと絵の伝統的なジャンルの一つだったが、室町時代の末期になると、そこに風俗を描いた月次風俗図が生まれた。本図はその代表的なもので、室町時代末期に作られたものと思われる。製作者は、土佐派系の地方絵師ではないか。もともとは十二か月分あったと推測されるが、現在は八曲一隻の図屏風として伝わっている。岩国の吉川家が伝えて来た。

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洛中洛外図は、六曲一双の屏風図形式のものが多く、現存するものは百点以上にも及ぶが、その中で良質なものは三・四十点である。室町時代の後期、十六世紀の前半から徳川時代の初期頃にかけて盛んに制作された。その殆どは京都の町と郊外の光景を描いている。それを仔細に見ると、近世初期の京都の街並みの様子や、そこで暮らしていた人々、とくに庶民の暮らしぶりとか風俗がうかがわれるので、歴史資料としても貴重である。

日本の絵画の歴史の中で風俗画が本格的に作られるのは室町時代末のことだ。京都の町並の様子や人々の風俗を詳細に描き入れた洛中洛外図が数多く作られた。その代表的なものは狩野永徳の洛中洛外図で、これはあの信長が上杉謙信との誼を求めてプレゼントしたことで有名だ。当時の権力者である信長が、プレゼントとして選んだのが、同時代の日本人の風俗を描いた作品だったというのが面白い。俺は日本じゅうの人間たちの暮らしを、この手中に握っているのだと言いたかったかのようだ。

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月下渓流図屏風は、海北友松最晩年の作で、友松水墨画の究極の境地を描いたものとされる。現在はアメリカのネルソン・アトキンズ美術館が所蔵しており、日本では見られない。

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六曲一双のこの図屏風は、左隻が三酸図、右隻が寒山拾得図である。三酸図は、桃花酸を舐めて顔をしかめている三人の隠者をテーマにしたもの。正式には三聖吸酸図という。三聖とは蘇東坡、黄山谷、仏印禅師人をさすが、この三人でそれぞれ儒教、道教、仏教をさし、三経一致を表わすとされる。
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海北友松が京都妙心寺のために描いた琴棋書画図は、中国の伝統に従って、高士が琴棋書画をたしなむ様子を描いている。六曲一双の屏風絵で、金地が施されているが、絵の主要部分は素地に描かれている。

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琴棋書画図は、高士のたしなみをテーマにしたもので、古来中国では人気のある画題だった。それを日本人も真似をして、多くの琴棋書画図が作られた。海北友松のこの琴棋書画図は、高士ではなく婦女が楽しむ様子を描いている。その婦人たちの服装は中国風であり、このテーマが中国からの舶来であることを物語っている。

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京都妙心寺にある花卉図屏風は、左隻に籬に梅を、右隻に牡丹を描いている。どちらも金地に鮮やかな色彩で花卉を表現している。友松の彩色画のなかでは、もっとも華やかで、かつ装飾性に富んだ図柄である。

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海北友松の網干図屏風には、佐野美術館蔵のものと、皇居三の丸収蔵館所蔵の皇居御物がある。上の図柄は、皇居御物の右隻。青々と茂る芦を配して春夏の景色を描く。一方左隻のほうは、秋冬の景色を描いている。

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「楼閣山水図」は、六曲一双の屏風絵であるが、それぞれ細字で款記が施されており、左隻には是古寺之廊門緑樹図依御好染玄墨者也と、右隻には惟高亭之麻柳蓬舟承御望穢白楮者也と記されている。いづれも晋奉亀井武蔵守様との添え書きがある。亀井武蔵守茲矩は戦国時代末期の武将で、秀吉の覚えが目出度かったといわれる。友松には庇護者として接していたのだと思われる。

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建仁寺本坊の障壁画のうち最も迫力を感じさせるのが「雲竜図」だ。玄関に最も近い礼の間を飾っており、北面には咆哮とともに雲間から姿を現した龍(上の図)が、西面にはそれを待ち構えるように対峙する龍が描かれ、両者あいまって並々ならぬ緊張感を醸し出している。どちらの図も四面づつの襖に描かれているが、北面のもののほうが上下の比率を大きくしている。

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建仁寺本坊には、海北友松の手になる障壁画五十面がある。そのうちの八面で、一の間を飾っていたのがこの花鳥図。松の巨樹と、その根方にいる孔雀を描いているこの図柄はその一部だ。海北の水墨画のもっとも典型的な図柄である。

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京都建仁寺の塔頭禅居庵に、松竹梅を描いた襖十二面がある。松竹梅のそれぞれを四面づつの画面に描き分けたものだ。そのうちの四面がこの「松に叭々鳥図」。松をメーンにして、それに叭々鳥を点景として加えている。

海北友松は、狩野永徳、長谷川等伯と並んで安土・桃山時代の日本美術を代表する巨匠である。その画風は、永徳の豪放さ、等伯の絢爛さに比べて、繊細な風情を感じさせるもので、しかも装飾的な要素にも富んでいた。従来は、永徳や等伯より低く評価されがちだったが、近年は永徳らに負けない高い評価を受けるようになってきている。

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長谷川等伯は龍虎図を何点か手掛けている。桃山時代から徳川時代の初めにかけて、龍虎図が流行ったので、等伯にもその注文が来たのだろう。この作品は、やはり「自雪舟五代長谷川法眼等伯」の署名があり、六十八歳の時のものである。左右両隻に龍と虎とが向かい合っている構図は、互いに視線を交差させているところなど、なかなか迫力を感じさせる。

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「鴉鷺図屏風」は、両隻の両端に「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆」の署名があることから、等伯晩年の作品とわかる。左隻に五羽の鴉、右隻に十二羽の白鷺をあしらったこの屏風絵は、「松に鴉・柳に白鷺図屏風」と比較すると、やや硬直したところを感じさせる。線描を主体として、表現の仕方も様式的だ。

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永観堂として知られる京都禅林寺に伝わる波濤図は、もともと仏間の南北両側面の襖に描かれていたが、後に掛幅に改装された。古くは狩野元信作といわれたが、特徴的な岩の描き方からして、長谷川等伯作と認められた。

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妙心寺の塔頭隣華院は、祥雲寺開山南化玄興の庵居として、慶長四年(1599)に建立された。その客室周囲二十面にわたり、長谷川等伯が襖絵を描いた。等伯六十歳頃のことである。これはその一部で、客室北側の四面。この作品は後に、天保三年(1832)の再建の際に、狩野永岳によって補筆されているという。

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妙心寺雑華院所蔵の「古木猿猴図」は、前出の「竹林猿猴図屏風」と同様、牧谿の猿の図柄に強く影響された作品である。こちらのほうが完成度が高い。牧谿の模倣を脱して、等伯独自の境地から、猿を描いたためだろう。その完成度の高さは、場面の躍動感となって表れている。

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「松林図屏風」を等伯は、息子久蔵と一門を連れて祥雲寺の障屏画を制作して間もない頃に描いた。日本の水墨画史上最高傑作の一つのとされるこの作品を等伯は息子の死の直後に描いたのだったが、この作品には等伯の息子を失った悲しみが込められているようである。

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