日本の美術

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列子は中国春秋時代の思想家で、道家の系列に属し、荘子よりやや以前に活躍した。その活動ぶりについては、「荘子」の中でも触れられている。それを読むと、虚を尊び、心身を空しくして天地自然と一体となり、風に乗って大空を飛行するのを好んだという。

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「琴高群仙図」は、琴高とその弟子たちにまつわる故事をテーマにした作品。琴高とは、中国の列仙伝に登場する仙人で、つぎのような逸話がある。琴高は趙の人であったが、山奥に住み、多くの弟子を持っていた。ある時弟子たちに向って、これから湖に潜って龍の子をとってくるから、皆は私の帰りを潔斎して待っていなさい、と。弟子たちが言われたとおりにして待っていると、赤い鯉に乗った琴高が水中より現われて、斎場の祠の中に座った。

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「叭叭鳥図」は、雪村の作品で唯一制作年が明らかである。着賛に天文二十四年(1555)九月とある。この年、雪村は満五十歳前後で、もっとも脂ののったときだった。着賛は、鎌倉円覚寺黄梅院の僧景初周隋で、四印同人と号した。かれは本図を、易の卦「泰」にことよせて解釈した。泰の卦は、順風をあらわし、季節としては早春にあたる。この絵はだから、早春のおだやかな季節感をモチーフにしていると考えられる。

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松に鷹は、戦国時代に好まれた画題。鷹の勇猛で精悍な姿が、戦国武士たちの嗜好にかなったからだ。この「松に鷹図」も武将の求めに応じて描いたものだろう。雪村の画法の神髄がよく発揮されている作品である。双福一対からなる。上は左手のもの。松の老幹に、一羽の鷹がこちらに背を向けて止まっているところ。その表情は精悍そのものである。

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「夏冬山水図」のうち冬図は、雪山と川と月をモチーフにしている。画面奥に切り立った雪山があり、月はその背後から上っているところ。ちょうど満月だ。この月があるために、画面に独特の趣が出ている。

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「夏冬山水図」双福は、「風濤図」とだいたい同じころに描かれた。夏図には、深山幽谷の奥をめざす高士とその従者を、冬図には、わが家への道を急ぐ農夫と漁夫が描かれている。どちらも、単に山水を描くにとどまらず、人間の生活をただよわせているわけである。

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「風濤図」は、天文十七年(1548)前後に円熟期を迎えた雪村の代表作。風に騒めく波を超えて進む帆掛け船のけなげな様子を描く。本図を収めた古い箱の表に「山水帆掛け船 雪村筆」と記されていることから、もともとは山水帆掛け船と題されていたことがわかる。「風濤図」という題は、近年つけられたものである。

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「百馬図帖」は、雪村が鹿島神宮に奉納したもの。画帳に馬の絵を貼り付けたもので二種類ある。一つは横長の図面を貼り付けたもの、もう一つは縦長の図面を貼り付けたものである。奉納の時期は記されていないので明らかでないが、雪村が小田原に滞在した頃に、北条氏の武運を念じて奉納したと考えられている(鹿島大神宮は武神である)。そうだとすれば、天文17年前後ではないか。

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「楊柳水郭図」は、中国の画風に倣った初期の作品。江岸の楊柳の陰で、碧水に浮かんだ水郭を描いたこの絵の構図は、伝馬遠作「周茂叔愛蓮図」を基にしていると思われる。構図を借りながらも雪村は、動静と陰影を加え、自分らしさを表現している。

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「辛螺に蘭図」は、落款に「中居斎雪村老翁筆」とあるところから、雪村四十歳頃の作品と考えられる。当時は齢四十をもって老人と称するのが普通だったからだ。モチーフは、辛螺の貝殻に植えられた蘭の花。辛螺は田螺に形の似た巻貝で、そんなに大きくはない。そこに欄を植えるというのだから、小さな種類の蘭なのだろう。

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雪村の初期作品としては、いくつかの動物図がよく知られている。これはそのうちの一点。茶色の絹本地に、水墨と岩絵具で、兎、芙蓉、竹を精緻に描いている。水墨は輪郭を描くほか、影をつけるのにも使っている。その輪郭線の内部を、岩絵具で丁寧に塗っている。芙蓉の花の色は胡粉で表現している。

雪村の世界

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雪村は雪舟と並んで室町時代の日本の水墨画を代表する画家である。雪村に私淑してその名の一部を借用したほど尊敬していたが、雪舟と会ったという記録はない。雪村が生まれたのは雪舟より六十四年もあとのことであり、雪舟が死んだとき雪村はまだ二歳だったのである。にもかかわらず雪村は、雪舟の絵をこよなく愛し、自分も又その画風にあずかろうと願って雪村と名乗ったのであろう。

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達磨は禅宗の開祖であるから、禅僧たちによってその像が描かれてきた。達磨像のポーズにはいろいろのものがあるが、もっとも多いのは、上の絵のような半身像であり、大きな目をぎょろりと向いている姿である。この絵は、こうした構図の達磨像の最も初期のもの。作者は墨渓である。

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二天は剣豪宮本武蔵の雅号で、水墨画の印として用いていた。また武蔵の剣法の流儀名として二天一流と称した。武蔵は剣法家ではあるが、絵や彫物にも才能を示し、素人の余技ながら優れた作品を残している。徳川時代初期の人ではあるが、室町時代の墨画の延長として、ここに紹介しておきたい。

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室町時代には、相国寺を中心とした禅僧たちによる芸術アカデミーと並行して、将軍の近侍として仕える同朋衆と呼ばれる者たちも、独自のサークルを作っていた。彼らは、もともと将軍の身辺をめぐる雑役に従事していた者たちだが、その中には絵師、工芸師、庭師、能・狂言師など特技を持った芸能人の一団があった。彼らは禅僧と比べて身分は低かったが、将軍の権威を背景にして、一定の勢力を誇っていた。

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文清は15世紀半ばに活躍した人で、周文の弟子筋にあたり、松
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赤脚子は霊彩同様、東福寺系の明兆一派に属する画僧だったと考えられる。十点余りの作品が伝わっており、いづれも赤脚子印を押してある。生涯の詳しいことはわかっていないが、その作品には、建仁寺の古心慈柏や東福寺の愚極礼才の賛がある。

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霊彩は、室町時代中頃に活躍した禅宗系の画僧。東福寺を拠点とした明兆の後継者的な位置づけの人である。詳しいことはわかっていないが、朝鮮側の文献から、寛正四年(1643)に外交使節として朝鮮を訪れ、その際に自作の「白衣観音図」を朝鮮王世宗に献上したとある。朝鮮王は代々儒教を信奉していたが、この世宗だけは仏教への信仰があつかった。そのことを知った霊彩は、白衣の観音図を自ら描いて献上し、世宗の歓心をかったというわけであろう。

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周文は如拙の後継者として、相国寺を中心とした官学アカデミーの主催者的な立場にあった人である。また足利将軍家お抱え絵師として、幕府から俸禄を貰っていたようだ。要するに一時代における日本画壇のリーダーであったわけだ。しかしその割に彼の作品ははっきりしない。現存する作品として、周文の真筆と断定できるものは一点もないのである。そんななかで、周辺的な証拠を手掛かりに、周文の作品と思われるものの発掘がなされてきたが、決定的なものは現われておらず、伝周文作と呼ばれるものが、何点かあげられるに過ぎない。

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如拙は室町時代の中頃に京都の相国寺を舞台に活躍した画僧である。当時相国寺は、足利幕府との関係が深く、相国寺の画僧たちは幕府の保護も受けて、いわば官学アカデミー的な立場を築いていた。如拙はそのアカデミーの主催者のような地位にあり、彼の下からは周文やその弟子格の雪舟といった、室町時代の日本画を代表する画家が輩出した。

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