日本の美術

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明兆(1352-1431)は、室町時代中期の日本水墨画を代表する画家。東福寺を拠点として活躍し、多くの弟子を育成するなど、当時の画壇の中心的な存在として知られ、足利四代将軍義持からも愛された。

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良全は、可翁よりややあとの時代に東福寺を拠点に活躍した画僧だったと思われる。生涯の詳細は明らかでないが、その作品に乾峯士曇の賛があることから、臨済宗と深いかかわりがあったと推測される。また、その落款に海西人良全筆とあり、海西が九州をさすことから、九州出身だとも推測される。乾峯士曇は一時博多の禅寺にいたことがあるから、その時に乾峯士曇と知り合い、一所に京へ出てきたのかもしれない。

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鉄舟徳済は室町時代前期の臨済宗の僧侶。夢窓疎石に師事し、後には入元して、月江正印らのもとで参禅した。帰国後は、京の天龍寺、万寿寺に住し、禅の傍ら水墨画を楽しんだ。水墨画は元で学んで来たもので、禅の余技としてたしなんだようである。可翁とは元で見知りになったと思われる。鉄舟はまた、草書の名人としても有名であった。貞治五年(1366)に亡くなっている。

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黙庵は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての禅僧で、嘉暦(1326-28)頃に入元し、至正五年(1345)彼の地に没した。かれの入元の目的は、当時人気のあった禅僧古林清茂に師事することだったが、古林はすでに死去していたので、その弟子の了庵清欲に師事した。禅を体得するかたわら、水墨画を楽しみ、かれの死後それが日本に輸入された。日本では長らく黙庵を、中国人の高僧と思い込んでいたが、大正時代に日本人と判明し、以後可翁と並んで、日本の初期の水墨画を代表する画家という位置づけが与えられた。

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可翁は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した。我が国の水彩画の伝統の先駆者ともいえる存在である。初期の水墨画は禅寺を舞台にして展開されたが、可翁も東福寺所縁の禅僧だったと思われる。その画風は禅味を感じさせるもので、我が国初期の水墨画が、それ以前の白墨画と呼ばれるものから、本格的な水墨画に移行していく結節点のような位置付けがなされている。

日本の水墨画は中国の影響を強く受けながら発達した。鎌倉時代には、白画といって、線描主体の絵が中心だったが、室町時代に入ると本格的な水墨画が描かれるようになり、雪舟において芸術的な頂点に達する。安土桃山時代には、狩野派や長谷川等伯のような名手を出し、徳川時代にも綿々とその流れは続いた。そうした日本の水墨画の歴史にあって、室町時代は大きな転換期といえる時期だ。

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百鬼夜行絵巻は、だいたいが朝日を最後に描いている。妖怪たちは、日の出のやや前に籠から抜け出してさまよい歩き、日の出とともに籠に戻るというのがパターンだった。真珠庵本も、そのパターンにしたがい、巻物の最後に朝日を描いている。

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右端に、幣帛の下にいるのは、猫の妖怪。なにやら巻物を読んでいる。その前の銅鈑子の化け物も、やはり巻物を手に持って読んでいる。銅鈑子は和製カスタネットというべきもので、その名のとおり銅でできている。これを手に挟み持って、左右の銅を打ち付けながら音を鳴らすわけだ。

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前の部分で出て来た唐櫃から逃げ出した妖怪たち。右端は、狼と黒犬の妖怪。その前を行くのは五徳の妖怪である。五徳とは、火鉢の真ん中に、熾火の上にかぶせるように置かれたもので、これに鍋や薬缶をかけて湯を沸かしたり、簡単な料理を作ったりした。昭和時代の中頃までは見慣れた道具だったが、いまはほとんど見ることがなくなった。この五徳は、火をおこすための筒をくわえている。仕事熱心な五徳というべきである。

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白い幕の前で二人の女が座っている。右側の女は鉄漿をつけている最中で、左手の女が頭の上に鏡をかざして協力している。その鏡をのぞきながら、鉄漿の具合を確かめているわけだ。

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右手は前画面に続く黒布の妖怪で、その左手には龍頭の紺布妖怪が対面している。紺布妖怪の背後には、傘の妖怪が杖をついて歩いており、その前には、トカゲ馬に乗った草鞋の妖怪がいる。

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右は琵琶の妖怪で、琴の妖怪をひっぱっている。琵琶の妖怪の胴体は、赤鬼のように赤い。琵琶には色々な種類があるが、これは四弦琵琶。その琵琶が琴をひっぱっているのは、捨てられた同士の誼からか。

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青鬼の前を行くのは赤鬼。大幣を持っている。赤鬼と青鬼は、節分の行事でセットで出て来ることが多い。鬼にはそのほか、黄、緑、黒もあり、それぞれが人間の五つの煩悩を体現しているとされる。ちなみに赤鬼は、貪欲をあらわしている。

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百鬼夜行絵巻は、鬼や妖怪をテーマにしたもので、おどろおどろしたものたちが集団で夜行するさまを描いている。室町時代から徳川時代にかけて多くの絵巻が作られ、明治以降にも、河鍋暁斎による百鬼夜行絵巻とか、水木しげるの妖怪漫画が作られた。日本人の原像の一つとも言うべきイメージの世界を表現したものである。

南蛮屏風

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近世初期には、長崎にやってきた南蛮船をテーマにしたいわゆる南蛮屏風が多数作られた。数十点現存するそれらの南蛮屏風のうち、これはもっともすぐれたもので、保存状態もよい。構成は、左隻に南蛮人の、おそらく中国における行楽の様子を描き、右隻に、長崎に到着した南蛮船を、人々が迎える様子を描いている。

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二曲一隻のこの屏風絵は、寛永年間に流行した婦女有楽図の一つ。右側の第一扇には四人の女が描かれ、左側には禿に語り掛けられる男が描かれる。この男が本多平八郎ではないかと言われ、以後本多平八郎姿絵と呼ばれて来た。

湯女図

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元和から寛永にかけて、京都では湯女が流行った。湯女とは、湯屋で働く女のことで、当初は客の垢を流したり髪を洗ったりしていたが、そのうち酒席にはべったり、容色を売るようになってゆき、風俗を乱すとして取り締まりを受けるようになった。その代りに男の三助があらわれたというわけである。三助なら昭和の頃まで存在したものだ。

舞踊図

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六曲一隻の小屏風「舞踊図」は、それぞれの扇面に扇を手にして舞う女性の姿を配したものだ。ひとりひとり違ったポーズで、画面に変化をもたらしている。その変化は、女性たちがまとっている衣装の模様でも表現され、女性たちはそれぞれに多彩な衣装を披露している。一方、彼女らの持っている扇は、いずれも白い面に墨絵をあしらったものだ。
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松浦屏風は、平戸藩主松浦氏に伝わって来た。作成されたのは、やはり徳川時代初期寛政年間だろうと推測される。左隻に十人、右隻に八人の女性を配し、それぞれにポーズをとらせている。ポーズには、「琴棋書画」図を参考にして、三味線、囲碁盤、硯と筆、カルタなどを組み合わせ、遊びの感覚をあらわしている。また女性たちの衣装は、みな華やかなもので、この当時の女性たちの好みを表現するものになっている。衣装の模様を強調しているところは、後に盛んになる誰が袖屏風への移行を指摘できる。

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彦根屏風は、彦根藩主井伊家に伝わってきたことからそのように呼ばれるようになった。作成されたのは徳川時代初期寛永年間と推測されている。表装されていない状態で、三重箱に保存されてきた。

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