日本の美術

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「築地明石町」から二年後に、鏑木清方は「新富町」を描いた。前作同様美人画で、前作が市井の女性をモチーフにしていたのに対して、この絵のモチーフというかモデルは、つぶし島田の髪型から知れるように、芸者である。新富町は、関東大震災までは、府内有数の三業地の一つだった。また、歌舞伎小屋があったりして、結構賑やかな土地であった。

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「築地明石町」は、昭和二年(1927)の第六回帝展に出展して、大変な評判となった。清方自身もいささか恃むところがあって、大きな反響を喜んだようだ。この絵は、鏑木清方の代表作として、いまでも評価が高い。

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大正八年(1919)、文展は解散して、新たに帝展が発足した。鏑木清方は、その前年に文展の審査員になっていたが、引き続き帝展の審査委員になった。張り切った清方は任務に精励したが、そのため自分の制作がおろそかになり、長い間のスランプに陥ったという。スランプから脱したのは、第四回帝展に「春の夜の恨み」を出した頃からだが、第六回の帝展に出展した「朝涼」で、完全にスランプから脱したと清方は「画心録」に書いている。

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大正十三年(1924)、朝日新聞が月めくりカレンダーのモチーフに美女画を採用することとし、清方にも注文がきた。そこで清方は、カレンダーらしく肩の凝らない絵として、女の何気ない表情を描いた。「襟おしろい」と題するこの絵がそれである。

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鏑木清方は、大正十二年(1923)の郷土会に「桜姫」と題する作品を出展した。清玄・桜姫ものに題材をとったものだ。これは清水寺の僧清玄が、高貴の姫君桜姫に懸想したうえで悶死し、死後も桜姫にまとわりつくという物語で、徳川時代には大変人気のある話として、さまざまな狂言の材料となっていた。もっとも有名なのは、四代目鶴屋南北作「桜姫東文章」、清方はこれを材料にして、この絵を描いたようだ。

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鏑木清方は、金鈴社に出展するかたわら、自分の門下生らが組織する郷土会というものへも出品した。ごく身内の自主展覧会といったものである。そこに出展した一枚に「刺青の女」というものがある。タイトルの通り、刺青を施した背中をもろ肌脱ぎに披露した女の表情を描いている。

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大正六年(1917)、鏑木清方は文展に出典していた画家仲間数名とともに、金鈴社という団体を作って、自主展覧会の開催を開始した。文展には、清方によると、うるさい制約があったようで、そうした制約を離れて自由に描きたいという動機から、そのような団体を作ったようだ。その第一回展覧会を、日本橋の三越で開いたが、そこに清方は「薄雪」と題した作品を出展した。

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文展へは毎年出展し、三回目以降は入選するようにもなった。清方は、文展をめざして大作を描くうちに、次第に挿絵画家から本物の画家になっていったという自覚を持ったという。実際、年を追って画風が変り、本格的な日本画家へと成長していったようだ。

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明治四十年(1907)、文展が創設された。これは京都を中心とする伝統的な日本画の団体日本美術協会と、岡倉天心らの日本美術院が合同したもので、今の日展の前身というべきものだ。その第一回の展覧会に、鏑木清方は「曲亭馬琴」と題する一点を出展した。結果は落選であった。入選した友人にそのわけを聞くと、語ること多きに過ぎたという批評を受けた。清方はその批評をもっともだと思ったが、後悔はしないと言った。自分としては自信があったのだろう。

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明治40年(1907)、鏑木清方は木挽町から浜町河岸に転居。同年催された東京勧業博覧会に「嫁ぐ人」を出展した。モチーフの嫁ぐ人とは、ほぼ中ほどで花束を持っている女性だろう。その女性を囲んで四人の女たちが描かれているが、彼女らは花嫁の心得を聞かせてみたり、あるいは自分自身の結婚のことを考えているのかもしれない。

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鏑木清方は樋口一葉をモチーフにした絵をいくつか描いている。18歳の時に読んだ「たけくらべ」に感動して以来、一葉に読みふけったようだ。この絵は、一葉女史その人ではなく、彼女の墓をモチーフにしている。その墓に抱き着くようにして寄り添う一人の女は、「たけくらべ」の主人公美登利だという。

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「孤児院」と題したこの絵は、明治35年(1902)に日本絵画協会の展覧会に出展して銀賞を得たもの。銀賞とはいっても、その会における最高の賞であった。この展覧会の審査は二段階方式になっていて、最初は協会の任命した委員、再審査は岡倉天心以下の実力者があたった。最初の審査では、上村松園の「時雨」が銀賞をとったが、再審査で清方が逆転したと、清方の「自作を語る」にはある。ともあれ、これで以て、清方は画家として本格的なデビューを飾ったのだった。

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鏑木清方は、挿絵画家として出発したこともあって、初期の絵には物語性を感じさせるものが多い。「雛市」と題したこの絵は、清方23歳の時の作品で、やはり物語性を感じさせる。モチーフは、雛市での一こまだが、その一コマの中に、ひな人形をめぐって人々の見せる表情が、何かを物語っているように見える。

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鏑木清方は、上村松園とならんで、近代日本画の基礎を築いた画家である。最後の浮世絵師とも呼ばれる。いずれにしても日本画の伝統を受け継ぎ、それを発展させたという意味で、日本の美術史上大きな役割を果たした。その神髄は美人画にあり、また風俗画も多く手掛けた。清方の風俗画は、瀟洒な随筆とあいまって、日本の一時期の断面を知るよすがとなっている。

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円山応挙は動植物の写生図を数多く残したが、これは「百蝶図」と題して、夥しい数の蝶を、同じ平面に並べたもの。個々の蝶をよく見ると、同じ時期に見られないものも含まれているから、厳密な写生ではないことがわかる。応挙は日頃描きためていた蝶の写生図を、ここに一同に集めて披露したのであろう。

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氷をモチーフにしたこの図柄は、まるで抽象画のようである。というのも、氷を数本の墨の線だけで表現しており、これを氷と認識するには、かなりの想像力がいるからだ。

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「保津川図屏風」は寛政七年というから、応挙が死んだ年に描いたもの。応挙の絶筆というべき作品だ。応挙はこの前年に三井家の注文で瀑布図を描いているが、この図はその延長上にあるもの。やはり保津川の瀑布とその先の水の流れをモチーフにしている。そのことから応挙を瀑布の画家とする呼び方もある。

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兵庫県香住の大乗寺には、応挙が一門をあげて多くの襖絵を制作した。これはその一部。寺の主室である大広間を飾るもので、全部で十六面あるうちの一部だ。

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「瀑布図」と題するこの絵は、応挙のパトロン三井八郎兵衛の注文で、金刀比羅宮のために描いたもの。表書院の床の間を飾ったものだ。

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天明八年(1788)一月、大火災が京都中を焼きつくし、焼き出された応挙は、故郷亀岡の金剛寺に身を寄せた。その折に、幼い頃に世話になったお礼も込めて、大規模な襖絵を描いて寄贈した。その規模は、寺の主要な三つの部屋のすべての襖に描くというものだった。

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