世界の文学

プーシキンは、ロシア近代文学の父といわれる。「エヴゲーニイ・オネーギン」は、そのプーシキンの代表作といってよいから、ロシア近代文学の模範となった作品だ。ヨーロッパの各国には、それぞれ近代文学の出発点となり、その後の民族の文学にとって手本となるような作品があるものだ。イタリアの場合にはペトラルカの詩集がそうだし(ダンテは近代文学とはいえない)、フランスではラブレーの「ガルガンチュア」がそうだし、イギリスではシェイクスピアの「ハムレット」がそうだし、スペインでは「ドン・キホーテ」がそれにあたる。それら各国のケースからはかなり遅れるが、ロシアではプーシキンの「エヴゲーニイ・オネーギン」を以て、ロシア近代文学の夜明けを画するものとする見方に異存はないと思う。

「ボリス・ゴドゥノフ」は、詩人として出発したプーシキンにとって、散文による最初の本格的文芸作品である。これをプーシキンは、戯曲の形に仕上げた。プーシキンは若い頃からシェイクスピアの戯曲を愛読しており、この作品にはシェイクスピアの影響があると思われる。若い頃からといったが、この戯曲を書き上げた時、プーシキンはまだ二十六歳であった。

「都会と犬ども」におけるバルガス・ジョサの小説の語り口は、現在と過去を交互に語るというものである。メーンプロットははっきりしていて、それは継時的な進行として語られるのだが、その合間に登場人物たち個々の過去が差し挟まれる。過去の部分には継時的な連続性はない。断続的に取り上げられるのだ。その取り上げられ方には、二つのパターンがある。一つは三人称で語られている現在進行形の物語の合間に、やはり三人称の語り  方で過去のことが語られる。もう一つは、登場人物の独白という形で、過去のことが語られる。独白するのは、準主人公の立場にあるジャガーと、かれの親しい仲間であるボアだ。この独白の部分は、第二部で現れる。小説全体が二部構成になっていて、第一部ではもっぱら三人称の形で語られ、第二部では一人称の独白を交えながらの語りが混在しているのである。

マリオ・バルガス・ジョサは、ガルシア=マルケスと並んで、ラテンアメリカ文学の騎手といわれる作家だ。二人ともノーベル文学賞を貰っている。ガルシア=マルケスはジョサより八年年上だが、出世作を書いたのはジョサのほうが先だった。「百年の孤独」が出版されるのは1967年、「都会と犬ども」が出版されたのはそれ以前の1963年のことだ。ジョサはまだ、二十代だった。

カルペンティエールの小説「失われた足跡」の根本的テーマは、文明と非文明との対比を描くことにあると言ったが、その場合、文明と非文明とは、価値の差とは考えられていない。人間の生き方の相違として捉えられている。ふつう我々文明社会に生きているものは、文明人である自分自身を基準にして、それとは異なる生き方をしているものを、発達の遅れた野蛮人として捉えがちである。じっさいこの小説の主人公も、最初はインディオたちを一段劣った存在として捉えていた。それは、同行者が自分の冒険譚をするとき、「いささかの悪意もなく、ごく自然な調子で、『我々の一行は、三人の<男>と十二人の<インディオ>だった』という言い方をしていた」(牛島信明訳)ことについて、主人公がその奇妙な区別を受け入れていたことにあらわれていた。

ラテン・アメリカ文学の顕著な特性としてのマジック・リアリズムを、最初に体現した作家はアストゥリアスとされるが、それを自分の創作方法として意識的に追求したのがアレホ・カルペンティエールである。カルペンティエールは、ラテン・アメリカでは、現実に起きていることが、西欧的な感覚ではマジックのように見えるので、それをそのまま描けばマジック・リアリズムになると考えた。そうしたマジカルな現実をカルペンティエールは「驚異的現実」と呼んでいる。

ボルヘスは、パスカルの球体についての「パンセ」の中の言葉に異常に拘っている。それは、「至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体」という言葉なのだが、たしかに無限の球体であるならば、どこにも周縁は見つからないだろうし、したがって中心も定まらず、いたるところにあるということになる。しかし、そんなものが意味を持つというのか。意味をもつとしたら、どんな意味だというのか。そうボルヘスは疑問を持って、パスカルのこの言葉に異常なこだわりをもつらしいのである。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、アルゼンチンに生きるユダヤ人だが、自分をアルゼンチン人とは意識しておらず、コスモポリタンなユダヤ人として意識しているようだ。アルゼンチンについては、軽蔑というよりも、無視する態度を徹底している。そんなものがこの地球に存在することさえ不可思議だといった露骨な嫌悪感がかれの文章からは伝わってくる。原住民たるインディオなどには、犬とかわらぬ存在意義しか感じていないようである。

アルゼンチンは、ラテンアメリカ諸国のなかでは、メキシコと並んで文学が盛んな国といわれる。その文学的な伝統は幻想文学と表現され、それをホルヘ・ルイス・ボルヘスが代表しているとされる。1944年に出版した「伝奇集」はかれの代表作である。これは短編小説を集めたものだが、かれは、文学者としては、短編小説の作者であって、長編小説は一つも書いていない。だからこれを読めば、ボルヘスの作風は一応納得できるといわれているのだが、小生が読んだ限り、これを「幻想文学」と定義するのは適当でないように思われる。

中南米諸国は、政情が不安定なこともあって、数多くの独裁者を生んだ。そういう国で文学活動を行うと、政治的な迫害を受けることが多く、またそれに反発して独裁者を批判する政治的なメッセージの強い作品群が生まれた。ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの「大統領閣下」は、ガルシア=マルケスの「族長の秋」と並んで、そうした専制政治批判の代表的なものである。

ラテンアメリカ文学は、魔術的リアリズムとか幻想文学といった呼ばれ方をされる。その呼ばれ方を通じてラテンアメリカ文学は、ある種の親類関係によって結ばれた強固な文学共同体のような観を呈している。その共同体を形成した始祖的人物というべきものが、M・A・アストゥリアスである。彼が1930年に発表した「グアテマラ伝説集」は、八篇の短文と一篇の脚本から構成されているのだが、いづれも魔術とか幻想を想起させる不思議な雰囲気の作品ばかりである。従来の文学の伝統から著しく逸脱していたので、面食らう読者が多かったのだが、20世紀最大の知性とされたポール・ヴァレリーが絶賛したこともあり、たちまち世界的な評判を呼んだ。後にアストゥリアスがノーベル文学賞を獲得するのは、この作品の成功に負うところが大きい。

「予告された殺人の記録」は、ガルシア=マルケスに特有のおとぎ話的な意外さはない。別の意味の意外さはある。それは事実そのものに潜む意外さだ。この小説のテーマは、妹が侮辱されたと信じ込んだ双子の兄弟が、妹を侮辱したと彼らが思いこんでいるある男に復讐することなのだが、その男が妹を侮辱したという明確な証拠がない。侮辱というのは、その男が妹の処女を奪ったということなのだが、かりにそれが事実だったとしても、なぜ処女を奪うことで殺されなければならないのか、その理由が薄弱なのだ。

ガルシア=マルケスの短編小説集「エレンディラ」は、「百年の孤独」と「族長たちの秋」の合間に書かれた。「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」以下七篇の短編小説からなっている。「無垢なエレンディラ」は比較的長く、中編小説といってもよいほどだが、その他はみな短い。どれもガルシア=マルケスらしい意外性に満ちた作品である。

ラテン・アメリカ文学には、独裁者小説というジャンルがあって、ガルシア=マルケスの「族長の秋」はその代表作のひとつだ。ラテン・アメリカは、安定した統一政権がなかなか生まれず、地方軍閥が交互に権力を握るといった事態が長い間続いた。そうした軍閥をカウディージョと呼ぶ。ラテン・アメリカ諸国の近代史はカウディージョの興亡の歴史である。

ラテン・アメリカ諸国の歴史は、数多くの独裁政権によって彩られている。もともとが、ヨーロッパからやってきた白人たちによって人為的に作られ、その白人たちの国家が全国民を統合するだけの力を持たなかったので、専制的な独裁政権ができるのは自然な流れだった。ひとくちに独裁政権といっても、色々なタイプがある。もっとも多いのは、軍事力を持った地方的な勢力が、互いに抗争を繰り返しながら政権交代するというものだろう。そういう軍閥のような勢力を、カウディージョという。ラテン・アメリカ文学には、こうしたカウディージョに焦点をあてて、ラテン・アメリカ的な独裁体制を強く批判した一連の作品群がある。ガルシア=マルケスの小説「族長の秋」もそうした作品の一つであり、アストゥリアスの「大統領閣下」と並んで、いわゆる独裁者文学の最高傑作とされている。

「大佐に手紙は来ない」は、ガルシア=マルケスの最初の本格的な小説である。そんなに長くはないので、長編小説とまではいえない。中編というべきだろう。だから、入り組んだ筋書きにはなっていない。筋らしいのものはほとんどないに等しい。コロンビアの港町で手紙が来るのをひたすら待ち続ける男の話である。男はもと軍人であって、大佐として活躍していたので、いまでも人々から大佐と呼ばれている。その大佐が待っている手紙とは、軍人恩給の決定通知書だ。貧乏なうえに息子を失ったばかりの大佐は、いまや七十五歳にもなって、妻と二人で貧乏生活を送っている。ただ一つの望みは、軍人恩給をもらって気楽に生きることだ。しかし、その軍人恩給の決定通知書がなかなか来ない。大佐には軍人恩給の受給資格があり、そのことは当局も認めているのだから、かならず決定通知書が来るはずだ。それを信じて大佐は、毎週金曜日に町にやって来る郵便物を確認するために、郵便物を運んでくる船が着岸する港まで出かけていくのだ。じっさい大佐は、この小説が続いているかぎり、その郵便物を待ち続けるのだが、それはついにやってこないのだ。「大佐に手紙は来ない」というタイトルは、そんな事情を手短に表現したものなのである。

「百年の孤独」は、ブエンディア家の七代にわたる記録という体裁をとっており、代々の男たちの生きざまが中心になるのだが、女たちも男たちに劣らぬ存在感を発揮している。彼女たちは、それぞれが個性的で、自分自身の信念にしたがって生きており、したがって自立した女たちであり、けっして男に従属してはいない。それどころか、自分の意志で男たちを動かす強さをもっている。そんな女たちに読者は、ラテン・アメリカの女の意地を見ることができるのではないか。

「百年の孤独」の後半部分は、ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリアノ・セグンドの双子の兄弟を中心に展開していく。ハイライトとなるのは、ホセ・アルカディオ・セグンドがバナナ会社の労働者のストを扇動し、そのストが官憲によって粉砕されるところを描いた部分である。バナナ会社はアメリカ資本であり、その苛酷な搾取に怒った労働者がストに訴えると、官憲が、アメリカ資本を守るために国民を虐殺するという構図は、19世紀におけるアメリカ資本のラテンアメリカ支配に共通したものである。その構図にガルシア=マルケスは怒りを覚え、ホセ・アルカディオ・セグンドを反アメリカ資本の闘いの英雄にしたのであろう。

「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリアノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものと見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない」。小説「百年の孤独」はこんな文章で始まる。アウレリアノ・ブエンディ大佐とは、ブエンディア家の初代でマコンドの創設者であるホセ・アルカディオの次男である。そのアウレリアノ大佐の闘いに明け暮れた人生が、小説前半の骨格をなしている。

「百年の孤独」は、ラテン・アメリカ文学を象徴するような作品である。この作品が発表された1967年以前から、アストゥリアスやボルヘスなどが、ラテンアメリカ文学の旗手として知られていたが、ラテン・アメリカ文学はまだまだマイナーでローカルな分野だと受け止められていた。ガルシア=マルケスのこの小説は、そんなラテン・アメリカ文学を20世紀の世界文学の中心に据えたのである。いってみれば、ラテンアメリカ文学の輝かしい確立宣言の役を担ったわけである。

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