世界の文学

「罪と罰」は、ラスコーリニコフの犯した殺人をテーマにしたもので、殺人の実行とかその動機については最初からあまさず描写されている。したがって通俗的な探偵小説のような謎解きサスペンスの要素はない。ところが、そこに予審判事のポルフィーリー・ペトローヴィチが一枚からむことによって、サスペンスの雰囲気が生まれてくる。ドストエフスキーは、巧妙なやり方で読者をポルフィーリー・ペトローヴィチに感情移入させ、そのことでポルフィーリー・ペトローヴィチの視点からこの殺人事件のなぞ解きをしているような気分にさせるのである。これはなかなか高度なテクニックである。

ラスコーリニコフを「回心」させたということで、ソーニャという女性は、この小説の登場人物の中ではもっとも重要な役割を持たされている。ドストエフスキーには、自身は不幸でありながら、ひとを精神的に高めさせるような不思議な魅力をもった女性を好んで描く傾向があるが、この小説のなかのソーニャはそうした女性像の典型的なものであろう。ドストエフスキーは、この不幸な女性を、聖母のような慈悲深い女性として描いているのである。聖母は、掃きだめの中でうごめいているような惨めな人間たちに慈愛の眼を向け、温かく包み込み、生きる勇気を与える。ソーニャは、ラスコーリニコフに対してそんな聖母のようなイメージで接しているばかりか、ラスコーリニコフが収容された監獄の囚人たちにまで強い影響を及ぼすのである。

「罪と罰」は、ドストエフスキーの五大長編小説の最初の作品である。この作品を契機に、ドストエフスキーの小説世界は飛躍的に拡大し、かつ深化した。それを単純化して言うと、登場人物の数が増え、その分物語の展開が複雑になったこと、また、登場人物ごとの語り手の描写が綿密になったことだ。これ以前のドストエフスキーは、原則として一人の主人公を中心にして、かつその主人公の視点から語るというやり方をとっていた。極端な場合には、主人公の独白という形で語られもした。そういう叙述のやり方は、主観的な描写といえるだろう。語り手と主人公とが一体となっているからである。ところがこの「罪と罰」では、主人公のほかに多くの人物が出てきて、語り手はそれらの人物の視点に立っても語るようになる。つまり、語り手は、小説の世界にとっては第三者の立場に立っているのであり、その立場から登場人物たちの考えとか行動をなるべく客観的に描写しようとしている。つまり、客観的な描写につとめているわけである。もっとも、この小説では、主人公であるラスコーリニコフの存在感が圧倒的であり、かれの視点からの描写が大半を占めているので、まだ完全な意味での客観描写とはいえないかもしれない。そうした客観的な語り方への志向は、「白痴」以降次第に高まり、「カラマーゾフの兄弟」において頂点に達するのである。

ドストエフスキーは小説「白痴」のなかで、自分自身の思想を表明して見せた。この小説を書いた頃には、ドストエフスキーの自由主義的な傾向は放棄され、ロシア主義ともいうべき伝統的な保守主義を抱くようになっていた。そのロシア主義思想を表明するについて、かれはムイシュキン公爵ほどそれに相応しいキャラクターはいないと思ったようだ。なぜか。ムイシュキン公爵は自他ともに認める白痴であって、精神的な能力は極度に低いとされているので、そのかれが高尚な思想を抱くというのは考え難いのであるが、しかし白痴であるからこそ、ロシアの民衆の間に根強くはびこっている因習的な考えを体現するには適していた。そう考えてドストエフスキーは、あえてムイシュキン公爵にロシアの因習的な思想であるロシア主義を語らせたのであろう。

小説「白痴」の中でドストエフスキーは、当時流行りつつあったロシアの自由主義思想を正面から批判している。おそらくドストエフスキーの本音だったと思われる。彼自身若いころにその自由主義思想にかぶれたのであったが、色々な事情があってそれを捨てて、ロシアの伝統を重視する保守主義者に転向した。かれは、この小説の中で、自由主義思想を攻撃する一方で、「白痴」のはずのムイシュキン公爵を一人前の思想家にしたてて、かれにも自由主義思想への攻撃とロシアの伝統を擁護する考えを滔々と述べさせているのである。そのムイシュキン公爵の演説は別に取り上げるとして、まず自由主義思想への攻撃について見ておこう。

アグラーヤ・イヴァーノヴナは、ムイシュキン公爵とともにこの小説の主人公だと作者はわざわざ断っている。だが、作者がそういう割には、アグラーヤの人物像は鮮明ではない。もうひとりの重要な女性ナスターシャ・フィリッポヴナと比べると、その性格は曖昧だし、行動にも筋がとおっているようにも思えない。ナスターシャ・フィリッポヴナを駆り立てていたのは、生きることへの絶望だったと前稿で指摘しておいたが、アグラーヤ・イヴァーノヴナを駆り立てていたものはなんだったのか。小生の印象では、女の意地だったように思う。彼女は非常に自尊心の強い女性で、その自尊心が自分に対するムイシュキンの曖昧な態度や、また、ムイシュキンがほかの女を愛することをゆるさなかったのだ。その自尊心は非常に情動的なものなので、小生はそれを女の意地と呼んだわけである。

小説「白痴」の中でもっとも強い存在感を発揮しているのは、主人公のムイシュキン公爵を除けばナスターシャ・フィリッポヴナという女性である。この女性は、ドストエフスキーの小説で初めて登場する新しいタイプの女性である。この女性は非常に複雑な性格に描かれており、一筋縄の理解を拒むような謎に満ちた存在なのだが、それでもあえて彼女の特質を単純化していえば、自滅型の女性ということになるのではないか。彼女の行動には、とても合理的に説明できないような部分が多すぎるし、というより、自分にとって不利な行動に走り、そのために破滅しかねない目にたびたび合う。その挙句に、ロゴージンの手にかかって死ぬのであるが、その死に方には自殺の影がただよっている。彼女はだから、死ぬために生まれてきたといってよいほどなのだ。こんなタイプの女性は、ドストエフスキーの他の小説には見られないし、また、ロシア文学の伝統からも大きく逸脱した人物像というべきである。

ドストエフスキーの小説「白痴」は、ムイシュキン公爵という青年を中心に展開するのだが、そのムイシュキン公爵というのがきわめて特異な人間像として造形されている。小説のタイトルである白痴としての人間像だ。その白痴という言葉が、小説のいたるところで、ムイシュキン公爵の基本的な属性として言及されている。なにしろ、小説の中に出てくるすべての人物にとって、ムイシュキン公爵が白痴であるということは、疑い得ないことであり、共通認識になっているのである。では、その白痴という言葉で、どのような性格なり知的な能力なりが表象されているのだろうか。性格という点では、ムイシュキン公爵は裏表のない天衣無縫というべきお人よしであり、したがって人に騙されやすい。世の中ではそういうタイプの人物を評して「ばか」と呼ぶので、ムイシュキン公爵が馬鹿とよばれるのは不自然ではない。ロシア語では、「馬鹿」と「白痴」は同じ言葉(Идиот)で表されるからである。一方、知的な能力という点では、ムイシュキン公爵の知能が幼児並に低いということはない。たしかにかれは、常識をわきまえないようなことを繰り返すが、自分のしていることや発言の内容に関して自覚的であるし、判断も常軌を逸しているとは言えない。だからかれを、低能という意味での「白痴」と断定するのは不当というべきだろう。

「白痴」は、ドストエフスキーのいわゆる五大小説のうち、「罪と罰」に続く二作目の作品。「罪と罰」でほぼ確立した客観描写の手法を一層大規模に展開したものだ。客観描写とは、いささか便宜的な概念で、登場人物の心理や行動を、第三者の視点から客観的に描写するというものだ。初期のドストエフスキーは、主人公の独白であったり、あるいは特定の人物になりかわっての第三者の説明であったり、要するに特定の人物の視点からする語りという点で、主観描写といってよかった。そうした主観的な方法を棚に上げて、あくまでも多数の登場人物の心理や行動を第三者の視点から客観的に描写するという方法をドストエフスキーは「罪と罰」において確立したのだった。「白痴」においては、その方法をより一層大規模に展開している。そういう点では、「悪霊」以下の晩年の大作群への橋渡しともいえる。

江川卓はロシア文学者であって、ドストエフスキーの作品も多数翻訳している。その江川がドストエフスキーを論じたのが、岩波新書に入っている「ドストエフスキー」だ。ドストエフスキーの作品世界を、伝記的な事実と絡ませながら論じている。たいして独創的な知見はうかがわれぬが、いくつか興味をひく指摘がある。

中村健之介は「永遠のドストエフスキー」の中で、ドストエフスキーの反ユダヤ主義を取り上げて論じている。ドストエフスキーの反ユダヤ主義が大きな論争の対象となったのは、ゴールドシュテインの1979年発行の著作「ドストエフスキーとユダヤ人」がきっかけだったと中村は言う。その著作の中でゴールドシュテインは、様々な例を取り上げながら、ドストエフスキーの反ユダヤ主義を激しく攻撃したのだった。それが非常に大きな反響を呼んで、いまやドストエフスキーを論じるについて、その反ユダヤ主義的傾向を無視するわけにはいかなくなったという。

中村健之介のドストエフスキー論「永遠のドストエフスキー」(中公新書)は、副題に「病という才能」とあるとおり、ドストエフスキーについて、その「パーソナリティの特徴は病である」と言っている。「病い」とは心の病いのことである。ドストエフスキーが癲癇を患っていたことはよく知られており、その病的な体験が「白痴」などの作品に表現されていることは、かねがね指摘されている。中村は、ドストエフスキーが癲癇を患うことになったのは、シベリア流刑中のことだと言ったうえで、彼の作品には、「貧しき人びと」のような初期のものからすでに、心の病を感じさせるものがあると指摘し、ドストエフスキーは若いころから統合失調症を患っていた、その異様な体験が、かれのすべての作品を彩っているとした。つまり、ドストエフスキーは作家としての生涯を通じて精神病患者だったのであり、その患者としての異様な体験がそのまま作品に反映されている。かれの作品のなかの、登場人物たちの異常な振る舞いは、かれ自身の体験をそのまま語っているというのである。

「地下生活者の手記」は、手記の作者のみじめで情ない生き方を自虐的につづったものだ。とにかくそういうみじめで情けない話をうんざりするほど読者は聞かされるのである。そうした話のなかでも、もっともみじめで情ないのは、リーザという若い娼婦にまつわる話である。この娼婦は、人間の原罪を一身に背負った聖母のような女性として描かれており、その聖母のような女性が、この手記の作者のようなどうしようもない悪党に凌辱されるというのは、キリスト教徒にとっては、非常にショッキングなことに違いない。じっさいこの女性にまつわる話は、じつにショッキングでスキャンダラスなのである。

「地下室の手記」は風変わりな人間の手記という体裁をとっている。その点では、「二重人格」と同じである。二重人格は、頭のいかれた人間の手記で、読んでいるほうといえば、とてもまともなふうには受け取れなかった。頭がいかれた人間の言うことなので、前後に脈絡があるわけではなく、しかも精神病院をスペインの王宮と間違えるような、支離滅裂ぶりである。それに比べればこの「地下室の手記」は、たしかに異様ではあるが、理解できないわけではない。この手記の作者のような人物は、そうざらにいるものではなかろうが、しかしそんな人間がいても別に不思議ではないと思わせられる。

小説「虐げられた人々」は、犬を連れた老人の野垂れ死の場面から始まり、その老人の孫娘ネリーの死で終わる。しかもネリーと老人をめぐっては、それ自体にドラマ性が潜んでいるので、かれらの存在がこの小説の枠組をなしているともいえる。だが、小説のメーンプロットは、あくまでもワルコフスキーとイフメーネフの対立であり、その延長としてのアリョーシャとナターシャの愛の破綻であって、ネリーをめぐる物語はあくまでもサブプロットの位置づけである。そのメリーはしかし、語り手とは特別の関係にもあるので、その存在感は、メーンプロットの人物たちに劣らない。

小説「虐げられた人々」には、虐げられる立場の人と虐げる立場の人が出てくる。虐げる立場の人の振舞いが非人道的であればあるほど、虐待は凶悪化し、虐げられる人々の苦悩も深くなる。だから、虐待をテーマに小説を書こうとしたら、虐待する側の人間を、思い切り悪人として描写せねばならない。この小説で、その悪人を代表するのは(というより唯一の悪人は)、ワルコフスキー公爵である。たしかにワルコフスキー公爵は、悪を悪として楽しんでいるふうがあり、かなりな悪人には違いない。ところがその悪党ぶりが、どうも中途半端なのである。かれはイフメーネフ一家や、ネリーの死んだ母親をひどい目にあわせはしたが、それはケチくさい打算によるものであって、悪事としてはスケールが矮小なのである。だからかれは、悪人とはいっても中途半端な悪人、世にいうところの小悪党にすぎない。

ドストエフスキーの小説「虐げられた人々」のメーンプロットは、イフメーネフ老人一家がワルコフスキー公爵によって迫害され、ついにはウラル地方の片田舎に夜逃げすることを強いられるというものだ。彼らが公爵に迫害される理由は、公爵にとって彼らが不都合な存在になったことだ。特に娘のナターシャが公爵の息子アリョーシャと恋仲になったことが公爵には許せない。公爵は息子に金持の娘をめあわせ、その娘の財産を手に入れようとするのだが、それにはナターシャの存在が邪魔になる。そこでなにかにつけ、ナターシャを貶めるようなことをし、息子の愛に歯止めをかけようとするのだが、なかなかうまくいかない。その挙句、娘を含め、一家全体を破滅に追いやろうと考える。そういう腹黒い打算が働いて、イフメーネフ一家は没落させられるのである。

ドストエフスキーが「虐げられた人々」を雑誌「ヴレーミャ」に連載したのは1861年のことで、「死の家の記録」を発表した翌年のことである。ドストエフスキー四十歳の年のことだ。この小説は、色々な点でドストエフスキーの転機を画すものとなった。まず、大勢の人物を登場させ、それら相互の関係を立体的に描こうする姿勢が見られることだ。ドストエフスキーの初期の作品は、少数の人物に焦点を当て(「貧しき人びと」は二人の人物の往復書簡という形をとっている)、きわめて単純な物語設定だった。「死の家の記録」には大勢の人間が出てくるが、それらは互いに結びあわされることはなく、語り手の目に映ったさまが平面的に描写されているだけだった。ところがこの「虐げられた人々」は、大勢の人物を登場させて、しかもかれら相互の間に何らかの結びつきが設定されている。要するに小説の構造が立体的なのである。その立体的な小説の構造は、その後のドストエフスキーの小説世界の大きな骨組みとなっていくわけで、その意味で彼の小説の転機となったと言えるのである。

監獄、とりわけロシアのような国の監獄は耐え難いものだと思うが、この小説に出てくる監獄は、司令官である所長(少佐と呼ばれる)がどうしようもない悪党ということもあって、耐えがたさは異常なものだった。その所長を、記録作者は憎しみを込めて描いている。たとえば、「その赤黒い、にきびだらけの、凶悪な顔が、わたしたちに何とも言えぬ重苦しい印象をあたえた。まるで残忍な蜘蛛が、巣にかかった哀れな蠅をめがけて飛び出してきたかのようであった」(工藤精一郎訳)といった具合である。

ロシアの監獄に収監された囚人は三種類に分類される。既刑囚、未刑囚、未決囚である。既刑囚はすでに刑罰の執行が終わったもの、未刑囚は刑罰の執行がまだ終わっていないもの、未決囚は判決が出ていないものである。未決囚はともかく、既刑囚とか未刑囚とかは何を意味するのか、日本的な感覚ではわからない。日本では懲役刑に服することが刑罰そのものだから、既刑囚と未刑囚を区別する理由がない。ところがロシアでは、懲役刑は単独ではなく、笞刑と組み合わされる。その笞刑を終えたものを既刑囚といい、まだ終えていないものを未刑囚というわけだ。笞刑は怖ろしい刑罰で、囚人たちは死と同じように恐れている。笞で叩き殺されることも珍しくはないのである。じっさいこの小説でも、笞刑を受けて死んだ者が出てくる。

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