読書の余韻

この題名は聊かトリッキーに映る。というのも「保守」と「リベラル」は、普通は対立する概念であって、融合するものではないとされているからだ。特にこの一対の概念が政治的な対立軸として流通しているアメリカでは、「保守」は共和党、リベラルは民主党が体現しているということになっている。アメリカのこの二大政党は、アメリカ建国の理念を共有するという点で、共通の地盤に立っているともいえるのだが、政治的には互いに対立しあい、排斥しあうものとして受け取られているし、政党自らもそのように自己認識している。

内田樹の「街場のアメリカ論」はさまざまな角度からアメリカを論じたもので、なかなか啓発される。とくに日米関係に関したところは、この正反対といえる両国が、如何に歴史の腐れ縁で深く結ばれているということを、説得的に論じている。ここでは、そんな内田のアメリカ論の視点のうちから二つを取り上げてみたい。ひとつはアメリカ人の原理主義的な姿勢とそれが日本に及ぼした余波、もう一つはアメリカの西漸志向とそれがどのようにして日本を巻き込んだか、ということだ。

中国語学者の高島俊男が著した「漢字と日本人」という本を、丸谷才一が激賞したということを聞いて、丸谷が激賞するくらいだからきっと有意義な本に違いないと思って、読んでみた次第だ。読んでの印象は、期待を裏切らない有意義な本だというものだった。日本語としての漢字に関心を持っている人は、是非一読の価値があると思う。

脳学者養老孟司氏の啓蒙的著作「バカの壁」は、「話せばわかるは大嘘」ということから始まるので、のっけからずっこけてしまう。筆者も含めて普通の人は、人間同士というのは「話せばわかる」と何となく思い込んでいると思うのだが、氏はそれを根拠のない思い込みであり、そんなことを主張するのは「大嘘」だと言うのである。

表面的には相手を褒めていると見せかけて、その実はけなしているというレトリックを、俗に「ほめころし」という。それなら、その反対、つまり相手をけなしているように見えて、実は褒めている、ということもあってよさそうだが、こちらの方はあまり聞いたことがない。ところが、そういう例を探し出して来て、それに名前まで付けた人がいた。ユニークな文芸批評で知られる斎藤美奈子女史だ。

内田樹と白井聡の対談「日本戦後史論」を読んでいたら、先の敗戦について内田がユニークな説を展開しているところが強く印象に残った。内田は、この敗戦には、しかるべき理由があった、それは薩長藩閥勢力に対する旧賊軍のルサンチマンともいうべき感情が齎したものだという。つまり、この敗戦は、日本人自身が選んだものなのであり、その背景には、明治維新以降、薩長勢力が中心になって築き上げてきた近代日本のシステム全体を壊そうとする反薩長勢力=旧賊軍勢力の怨念が働いていたというのである。

内田樹の著作「寝ながら学べる構造主義」は、「寝ながら学べる」とうたってあるだけに、非常にわかりやすく書かれている。これなら、たしかに布団の中で読んでもわかりそうな気がする。書いてあることが、子供でも分かるほど単純なことだというわけではない、書かれている内容は、話題が哲学のことだから、結構複雑だ。その複雑なことを、わかりやすく噛み砕いて書いてあるから、寝ながらでも読めそうな気がするのだ。

内田樹のユダヤ人論「私家版・ユダヤ文化論」を読んだ。日本人の内田が何故ユダヤ人に強い関心を抱くようになったか。内田自身は、自分の師であるエマニュエル・レヴィナスがユダヤ人であり、ユダヤ人であることに強くこだわり続けてきたことに感化を受けたという趣旨のことを言っているが、それのみではないようだ。ユダヤ人が、知の分野から金儲けの分野に至るまで、広い領野で圧倒的な存在感を示し続けてきたことに、ある種の畏敬を感じ、それがユダヤ人への強烈な関心につながっていったということらしい。

ジョン・ロールズは、刑罰を正当化する理論的根拠は二つあると言う。一つは応報的見解と呼べるもので、悪行は刑罰に値するという道徳的な根拠によって刑罰が正当化されるというものである。この見解によれば、刑罰の厳しさは、犯された悪行の悪質さの程度に応じて課せられる。もう一つは、功利主義的見解と呼びうるもので、(犯罪がなされた)過去のことはさておいて、刑罰は将来の社会秩序の維持に寄与する限りで正当化されるというものである。この見解によれば、刑罰は将来の犯罪の発生を抑止するために、その政治的・社会的影響の度合いに応じて課せられる。

ジョン・ロールズの「格差原理」は、分配における正義を巡る議論であるが、同じような議論を展開したものとして、パレートの理論がある。「パレート最適」あるいは「パレート均衡」と呼ばれ、厚生経済学の重要概念の一つとされているものである。

ジョン・ロールズは、立憲民主制のもとでも市民的不服従は正当化されると考えた。その理由として彼は、「正義にかなった憲法の下においてもなお、正義に反した法律が可決され正義に反した政策が実施されうる」(ロールズ「公正としての正義」所収論文"市民的不服従の正当化"平野仁彦訳)ということを挙げている。

ジョン・ロールズが正義の概念を巡って展開した一連の議論は、とりあえずは、アメリカのリベラリズムといわれる政治的潮流に理論上の根拠を与えるという歴史的意義をもっていたといえる。だが、それにとどまらず、政治哲学の議論に新たな方向性を満ち込み、政治哲学全体を活性化させる役割をも果たした。20世紀の政治哲学、とくに英米圏のそれは、長い間功利主義の罠にはまりこんで、沈滞していたのであるが、ロールズの正義論によって、眼を覚まされたといわんばかりに、俄に議論が活性化したのである。

マイク・サンデルは、ジョン・ロールズにおいて極限形態をとったと思われる自由主義的正義論に異議を唱え、共通善と言う伝統的な概念を改めて正義論に持ち込んだ。その際に彼が依拠したのは、アリストテレスの目的論的な見解である。アリストテレスの目的論的な正義論にあっては、個人の自由などということはそもそも問題にならない。個人というのは、共同体の一員としてしか存在しえないのであるから、正義とは、ロールズが言うように個人の選択の自由に根差すのではなく、共同体の一員としての望ましい在り方を示すということになる。正義とは、共同体全体の道徳的な目的と離れてあるものではないのだ。

マイク・サンデルといえば、一時期日本でも大流行したから、筆者も名前だけは知っていた。サンデルが流行した当時は、同じく政治思想家のジョン・ロールズも、サンデルとセットのようにして流行した。ロールズは、アメリカのリベラルの考え方を哲学的に基礎づけたと言われており、現代思想の流れの中ではそれなりの位置を占めていた。サンデルは、そのロールズの思想を高く評価しながら、その限界を指摘し、リベラルな政治思想に共同体的な要素を持ち込もうとした、というのが大方の批評だったように思う。

革命は、少なくとも西洋文明にとっては、近代化の巨大な推進力だという理解が支配的だが、ハンナ・アーレントはその理解に対して異議を唱えた少数者の一人である。彼女は、「革命について」と題する書物の中で、革命を戦争と並列させ、この両者は暴力を「公分母」としていると書いている。つまり、両者とも、その本質は暴力にあり、したがって基本的には、なくて済ますべきものだと考えるわけである。彼女の革命に対する忌避感情は、とりわけフランス革命について極端に現れている。彼女にしたがえば、フランス革命は、人間性という言葉を使いながら、人間性に悖るものだったのであり、したがって、人間の歴史にとってプラスの側面よりも、マイナスの側面の方が大きかったのだと断定するのである。

「世界疎外」の概念は、アーレントの近代社会批判のキーワードだが、彼女はそれを、マルクスを意識しながら展開した。しかし、同じく「疎外」という言葉を使っていても、そのニュアンスはだいぶ違う。マルクスの場合には、人間が自分のあるべき姿(類的本質)から逸脱している事態をさして「自己疎外」と言っているのに対して、アーレントは、人間が自分の居場所であるところの「世界」から追放されている事態を「世界疎外」と言っている。そしてこの「世界疎外」という事態は、近代に特有の事態だとして、次のように言う。

公的領域と私的領域をめぐるアーレントの議論は、人間の活動力をめぐる議論と同じく、ギリシャのポリスをモデルにした議論である。ギリシャにおいては、公的領域はポリスの領域として、私的領域は家族の領域として捉えられ、両者は截然と区別されていた。その上で、公的領域たるポリスの領域、それは政治の領域と言い換えてもよいが、それが優位を占め、私的領域たる家族の領域は、価値の劣るものとして認識された。

アーレントの政治思想の基礎付けともいうべき「人間の条件」についての考察を、彼女はマルクスとの鋭い対立を意識しながら展開している。マルクスの人間観の基礎には、労働を人間の本質とみなす考え方があったわけだが、彼女はその考え方を正面から否定して、労働は人間の本質どころか、人間の諸活動のうちもっとも程度の低い活動なのであり、したがって自由な人間ではなく、奴隷が従事するのに相応しいと断言したのである。

「人間の条件」という日本語は、人間が人間であるために必要な前提条件といった意味合いに聞こえるが、アーレントはこの言葉を、かならずしもそういう意味合いで使っているのではないようだ。この言葉の英語の原文は Human Condition であり、文字通り訳せば「人間的な条件」ということになる。人間には生き物として動物と共通の側面もあるが、人間特有の生き方というものもある。そうした人間の生き方を人間らしくさせているもの、それをアーレントは「Human Condition(人間の条件)」といっているようである。

ハンナ・アーレントは、早い時期から日本に紹介され、「全体主義の起源」を始めとした主要著作もほとんど翻訳されてきたが、そのわりには、いまひとつ評価が芳しくなかった。彼女は日本では、保守的な思想家として受け取られ、広範な読者を獲得することがなかったからだろう。ところが、最近になって、日本でも幅広い層に読まれるようになってきた。

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