読書の余韻

民主主義(デモクラシー)という言葉がギリシャ語のデーモクラティアに由来するように、民主主義を議論する際に、ギリシャのデモクラシーの意義を軽視することはできない。そこで、ギリシャ人が、デーモクラティアという名前で何を観念していたかが問題になるが、それは文字通りに受け取れば、デーモス(民衆)のクラティア(権力)を意味した。つまり権力の主体が民衆であることを表す概念であったわけだ。その点で、権力の主体が一人である君主制、複数である貴族性との、対立関係において表象され、理解された概念である。

民主主義という言葉には二つの意味が込められている。一つは統治システムにかかわるもので、多数者としての人民を統治の主体とするものをさして民主主義と言う場合である。この意味での民主主義は、歴史的には、ひとりによる統治である王制や、少数者による統治である貴族制と対立する。もうひとつは、政治理念にかかわるもので、これには自由と平等があげられる。これらの理念は、歴史上たまたま民主主義と結びついてきたのであって、かならずしも論理必然的に結びつかねばならない筋合いではないといえる。だが、少なくとも今日の民主主義を語るさいには、この二つの理念は民主主義にとって欠かせない要素となっている。

サッチャー、レーガン、小泉らのいわゆる新保守主義的な政権が、一方ではポピュリズムの性格を持っていたことはよく指摘されることである。ポピュリズムの定義は必ずしも明らかではなく、民主主義との関連も多義的であるが、ゆるやかに解釈すると、政治と民衆とをストレートにつなげようとする動きだといえよう。民衆の要求をストレートに政治に反映させようとする点で、民衆による下からの運動という形態をとることもあろうし、あるいは民衆の要求を上から吸い上げる形をとることもあろう。いずれにしても、政治を民衆にとって身近なものにする試み、それがポピュリズムだと言えなくもない。


グローバル化とナショナリズムは一見正反対のように見える。グローバル化は基本的には経済をめぐる現象であり、ナショナリズムのほうは政治的な現象だという違いはあるけれど、グローバル化が進めば国境の壁が低くなり、したがってナショナリズムも弱くなるのではないか。というのも、ナショナリズムとは基本的には国境の壁があることを前提にした現象だから、今後、グローバル化がいっそう進んでいけば、国境の壁が低くなることでナショナリズムはいよいよ足場を失い、「世界はひとつ」に向かって進んでいくのではないか。こんな期待が生まれるのも無理ではないように思える。

冷戦終結後に登場したサッチャーやレーガンの政権を、「新保守主義」ということができる。新保守主義はやがて国境を越えて広がり、日本にも押し寄せてきた(小泉政権)が、その登場は革命的といってもよいような衝撃を伴っていた。その衝撃の大きさを、政治学者の森政稔氏は「保守革命」と表現している(「変貌する民主主義」)。

1980年代以降、いわゆる新自由主義的な潮流が政治の分野にも押し寄せてきたことで、民主主義の変貌が云々されるようになった。そうした流れのなかで、民主主義はもはや万能の思想ではなく、人間の自由をとことん追求する自由主義的な思想こそが時代をリードすべきだとする極端な考え方が生まれるまでになった。筆者はそうした潮流を、冷戦の終了によって、社会主義の権威が失われ、資本主義が唯一のものとして残った結果の現象であると考えていた。唯一の制度として残った資本主義が、もはや人間の平等とか生存への権利といった社会民主主義的要請を気にせず、資本家の欲望追及が無制限に許されるような時代になった。新自由主義はそうした時代の自己主張と考えたわけである。

廣松渉といえば、「物象化論の構図」とか「事的世界観への前哨」とか「世界の共同主観的存在構造」とかいった著作を若い頃に読んだものだが、それらを通じて筆者が抱いた印象としては、マルクスの思想に新カント派やフッサールの現象学を接ぎ木したようなものだというものだった。物象化論はマルクスが資本論の中で展開したところであるし、事的世界観というのはマルクスの言う関係性やカッシーラーの関数概念とつながるところがあり、共同主観にいたってはフッサールの現象学に非常に近い。

「天皇制ファシズムの成立は、北一輝、大川周明、西田税、井上日召、橘孝三郎、天野辰夫など、民間の行動的右翼の思想と運動をぬきにして論ずることはできない」(<近代の超克>論、第五章)廣松渉はこういって、日本の天皇制ファシズムの成立に果たした民間右翼の「貢献」を強調する。

廣松渉は「近代の超克」論を目して、日本における上からのファシズムに下から呼応する動きとしたのであるが、日本ファシズムの二大要素たる全体主義的「国体」と対外戦争のうち、後者を見事に合理化したものとして、京都学派の学者高山岩男を取り上げている。

廣松渉がこの本で取り上げた<近代の超克>というのは、雑誌「文学界」の昭和17年10月号に掲載された伝説的に有名な座談会のテーマとなったものだが、その座談会というのが、日本思想史の上で重要な意義をもったというのが大方の評価になっている。評価といっても積極的なつまりプラス方向の評価と、消極的なマイナス方向の評価があるわけだが、この座談会はどちらかと言えば、マイナスの評価の方が強い。というのも、時節柄やむを得ない面があったにしても、日本の対外侵略や国内の全体主義を合理化しているという点で、上からのファシズムに下から呼応した民間のファシズムのひとつの現れだという評価が強いのである。

丸山真男が「日本の思想」の中で展開した議論の中で、「実感信仰」とともに最も大きなインパクトを与えたものは「ササラ型とタコツボ型」の対比を巡るものであろう。(日本の思想第三章「思想のあり方について」)

丸山真男は、日本的思考(日本の思想の疑似形態ともいうべきもの)への国学の影響を大いに問題視している。丸山は国学を、儒仏の思想へのアンチテーゼとして出発したと抑えたうえで、それの基本的な特徴を、儒仏がイデオロギー的な体系性なり理論的な性格を持っていたのに対して、非イデオロギー的であり感覚的であることに求めた。

丸山真男の「日本の思想」は不思議な本である。この本はいまや、日本の思想というテーマに関する古典の一つとしてゆるぎない名声を獲得しているといってよい。それ故、日本の思想を学ぶ学生にとっての必読書にもなっている。ところがこの本を読んでも、日本の思想というテーマについて、具体的な知見が得られるかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ期待が裏切られることの方が多いかもしれない。というのもこの本は、「日本の思想」をテーマにしていながら、日本には厳密な意味で思想といえるようなものは存在しなかったというのだから。

丸山真男と加藤周一の対話「翻訳と日本の近代」(岩波新書)を読んだ。これは、日本の近代化を支えた翻訳というものについての対話形式による省察だ。何を、どのような人がどのように訳したか、また日本では何故翻訳が巨大な役割を果たし、その影響も広くかつ深かったのか、ということについて、主に加藤が問題を投げかけ、丸山が応えるという形で進んでいく。その過程で、興味あるワキ話も出てきて、むしろ本題よりも面白かったりする。知的刺激に富んだ面白い対話だ。

古在由重と丸山真男の対話「一哲学徒の苦難の道」(岩波現代文庫)を読んだ。体裁の上では丸山真男が聞き手になって、戦前・戦中のあの思想弾圧の困難な時代を生き抜いた一知識人の生きざまを聞こうというものだが、丸山自身もこの時代に深い個人的な思い入れがあるために、一方的なインタビューではなく、二人が共同して、時代分析にあたるといった観を呈している。要するにこの時代についての同時代人の回想といった趣がある。

福沢諭吉の小論「丁丑公論」は、西南戦争で逆賊とされた西郷隆盛を弁護し、併せて時の政府の横暴を非難したものである。福沢はこの小論を西南戦争の起きた明治十年に書いた。しかしてその年の歳次丁丑を以て題にあてたのであるが、その内容の過激にわたるのを憚って公刊を見合わせ、長く抽底に眠らせていたものを、弟子の石河幹明が明治三十四年に発表したのであった。

福沢諭吉の小篇「瘦我慢の説」は、勝海舟と榎本武揚の生きざまを痛烈に批判したものである。両者ともに幕臣として幕末に生き、それぞれの信念に従って行動したとはいえ、その行動に疑うべきものがあるのみならず、維新後新政府に身を屈して立身出世を貪ったのはまことに鼻持ちならぬ卑劣な輩である、というのである。

福沢諭吉の思想については、丸山真男が「"文明論の概略"を読む」の中で詳細に説明しているから、それを読むのが最も手っ取り早い理解の方法である。その本の中で丸山も言っているとおり、福沢の思想はそんなに複雑なものではない。一国が独立するためには個人が自立する必要があるというもので、その自立とは簡単に言えば、封建的な奴隷根性から脱して、西洋人並みに自由な人間になることだというものである。そこから有名な「脱亜入欧」という言葉が生まれてくるわけだが、これは別に自らを卑下した言い方ではなく、日本の文化の底にあるアジア的な奴隷根性を排して、ヨーロッパ並みの人権感覚を身に着ける必要があるということを、一言で言い現わしたのに過ぎない。

福沢諭吉は、自分が自伝を著したのは、子どもたちのために父親や祖先の来歴を伝えるのが主な目的だったといっている。かといってそれは単なる系図の延長のようなものではない。系図なら血筋の連綿たるを記せば済んでしまうが、福沢が行なったのは、それにとどまらない。自分の生き方について飾らずに書き、自分がどんな人間であったか、どんな考え方をして、どんな風に生きたか、それを詳細に描き出している。ということは、子どもや孫たちに、父親乃至祖父の生き方をさらけ出して、彼らが生きていくうえでの一つの参考にしてもらいたい。そんな思惑が込められているのだと思う。つまり福沢は、一種の家族愛から出発して、この自伝を書いたということになる。

福沢諭吉は明治維新の激流に自ら飛び込んで主体的に活動するということをしなかった。終始傍観者として過ごしたといってよい。幕府に仕官することはあっても、政治を云々することは一切慎み、かたわら洋学塾を経営して、塾生たちに洋学を教授することに専念した。熟を経営した人間のたちの中には、吉田松陰のように塾生を煽動して、極めて政治的な活動をした者がいなかったわけでもなかったが、福沢は自分自身が政治に膾炙することを慎むのは無論、塾生たちにも政治を云々することを望まなかった。

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