映画を語る

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石内都は日本を代表する女性写真家だ。衣装に強い関心を持っていたそうだ。その石内が、2011年10月から翌年2月まで、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学人類学博物館で、ひろしまをテーマにした写真展を開いた。展示された写真はみな、被爆者が生前身につけていたものである。それらを見ると、被爆して死んだ死者の姿を直視するに劣らない迫真性を感じる。それが見るものの心を直撃する。

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2009年のイタリア映画「やがて来たる者へ(L'uomo che verrà)」は、ナチスドイツによるイタリア支配の残忍さを描いた作品である。1943年7月にムッソリーニが失脚すると、ナチスはイタリアに介入し、ムッソリーニを復権させて傀儡政権を作り、北部イタリアに進出した。それに対して北部イタリアでは対ドイツ・レジスタンス運動が広範に起こった。ナチスは血の弾圧をもってそれを抑圧しようとした。この映画は、北イタリアを舞台として、ナチスに対抗する人々と、それに血の弾圧を加えるナチスの凶暴さを、一人の少女の視点から描いたものである。

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ナンニ・モレッティの2001年の映画「息子の部屋(La stanza del figlio)」は、イタリア人の家族関係を描いた作品。とくに父子関係に焦点をあてている。その父親役を、監督のモレッティ自らが演じている。映画で見る限り、モレッティはなかなかハンサムであり、しかも知的な雰囲気を感じさせる。

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エルマンノ・オンミの1978年の映画「木靴の樹(L'Albero degli zoccoli)」は、イタリアの貧しい農民たちの過酷な生活を描いた作品である。東ロンバルディアの農村地帯が舞台になっているが、どの時代かは明示されていない。作品の公式サイトには19世紀末ということになっている。その時代のイタリアでは、地主が大勢の小作人を使い、小作人の住まいを提供するかわりに、収穫の三分の二を取り上げたという。小作といっても、全人格で従属していることから、ロシアの農奴とかわらない。そんな農奴的な小作人たちの過酷な生活をドキュメンタリータッチで描きあげた作品である。

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タヴィアーニ兄弟の1977年の映画「父 パードレ・パドローネ(Padre Padrone)」は、サルデーニャ島の家族関係を描いたものだ。イタリアの家族関係は、ヴィスコンティの映画などからは、父権が強力だとは思われないのだが、この映画に描かれたサルデーニャ島の家族関係は、父親が絶対的な権力を振るっている。父親はその権力を振り回して、小学校に入ったばかりの息子を退学させて、羊飼いの手伝いをさせる。息子は20歳になるまで、一切教育を受けることがなく、文盲となる。しかし何とか努力して文字を覚え、しかも大学で言語学を専攻し、有名な言語学者になる、というような内容の話だ。実話をもとにした話だという。

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ジャンニ・アメリオの2004年の映画「家の鍵(Le chiavi di casa)」は、父とその障害を持った子との触れ合いをテーマにした作品。父子関係の意味とともに、障害を持った子どもの生きる意味のようなことを考えさせる映画である。

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フェデリコ・フェリーニの1980年の映画「女の都(La città delle donne)」は、後半生のフェリーニ映画を特徴づける祝祭的な猥雑さに満ちた作品である。女だけ、あるいはほとんどが女で構成されている世界で、一人の男が肉の冒険をするという設定で、その女たちの肉に囲まれて、なお辟易としない男を、マルチェロ・マストリヤンニが演じている。マストロヤンニがフェリーニ映画に出演したのは1960年の「甘い生活」だが、それから20年たって、ますます円熟味を増した彼の演技は、まさにフェリーニ的祝祭感にぴったりの雰囲気をたたえている。

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フェデリコ・フェリーニの1979年の映画「オーケストラ・リハーサル(Prova d'orchestra)」は、タイトルの通り、あるオーケストラ楽団の練習光景を描いたものである。トスカニーニと縁がありそうなこの楽団は、楽団員が楽団の経営者と仲が悪いばかりでなく、主任指揮者とも仲が悪い。その主任指揮者と経営者が、テレビ局の取材を受け入れ、楽団の練習光景を記録させるのだが、それが楽団員には気に入らない。ノーギャラのうえに、指揮者の傲慢さが我慢できないのだ。

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ジャコモ・カサノヴァは18世紀に実在した人物で、その数奇な女性遍歴からイタリアのドン・フアンと呼ばれている。かれは死後に自叙伝を残した。「カサノヴァ回想録」という題名で邦訳も出ているから、読んだ人もいることだろう。かく言う小生は読んでいないので、なんとも言いようがないが、非常に面白いという評判だ。フェデリコ・フェリーニが1976年に作った映画「カサノヴァ」は、その回想録から特に興味深い部分を抜きだして、かれの自由奔放な生き方を描いた。まさにカサノヴァのウィタ・セクスアリスである。

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フェデリコ・フェリーニの1973年の映画「フェリーニのアマルコルド(Amarcord)」は、フェリーニ自身の少年時代を回想したものと言われている。フェリーニの生まれ育った町はリミニといって、中部イタリアのアドリア海に面したところだった。その町で過ごした十五歳頃の自分自身が回想されているのである。フェリーニは1920年生まれだから、15歳といえば1935年ごろのこと。その頃のイタリアはムッソリーニのファシスト党が専制権力を振るっていた。

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ミヒャエル・ハネケの2005年の映画「隠された記憶(Caché)」は、ミステリー仕立ての復讐劇である。それに人種差別問題を絡ませてある。フランスを舞台に、支配者としてのフランス人が、被支配者としてのアフリカ人から、昔行われた不条理な差別に対して復讐されるというような内容だ。したがって、単なるミステリー映画ではなく、かなりメッセージ性の高い作品である。

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ミヒャエル・ハネケの2012年の映画「愛アムール(Amour)」は、夫婦間の老老介護をテーマとした作品である。配偶者を持つものにとって、誰でも直面する問題であるから、他人事には映らない。見るものはみな自分自身のこととして向き合うことを促すような映画である。

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ミヒャエル・ハネケの2009年の映画「白いリボン(Das weisse band)」は、第一次世界大戦勃発直前のオーストリア社会の一断面を描いた作品。舞台はオーストリアのさる農村地帯。男爵が地主として君臨するある村だ。その村は人口の半分が地主の小作人である。小作人たちは、地主に対して身分的に従属しており、農奴に近い境遇として描かれている。その頃のオーストリア社会のことはあまりわからないが、ある種の農奴制社会が支配的だったのだろう。

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「許されざる者」というタイトルからは、クリント・イーストウッドが1992年に作った映画が想起されるが、2005年の韓国映画「許されざるもの」は、それとは全く関係がない。イーストウッドの映画は、賞金目当てのガンマンたちを描いた西部劇だが、この映画は、韓国の兵役を描いている。

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ホン・サンスによる2010年の韓国映画「ハハハ」は、韓国人の日常生活をコメディタッチで描いた作品である。とくにこれといったストーリーはない。韓国南部の港町トンヨン(統営)を舞台に、二人の中年男が互いの境遇を慰めあうといったものだ。二人のうち一人は詩人で、もう一人は映画監督ということになっている。しかし彼らの職業意識はたまに吐露されるくらいで、映画の進行を支配するような迫力はない。映画を進行させるのは、男女の愛である。そういうわけでこの映画は、ラブ・コメディといった体裁をとっている。

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2003年の韓国映画「オールド・ボーイ」は、日本の漫画作品を映画化したもの。何者かによって誘拐され、15年間も監禁された男が、その理由を求めて奔走するという筋書きだ。

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「サマリア」では少女売春を、「うつせみ」では他人の家に勝手に住み着くヤドカリ人生を描いたキム・ギドクが、2012年の映画「嘆きのピエタ」では、消費者金融にからむあくどい取り立てをテーマに取り上げた。いずれも独特の社会的視点を感じさせるが、「嘆きのピエタ」もそうした社会的視線を強く感じさせる。この映画はヴェネツィアで金獅子賞を取ったが、韓国映画がいわゆる三大映画祭でグランプリをとるのはこれがはじめてのことだった。

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キム・ギドクの2004年の映画「うつせみ」は、台詞がほとんどなく、したがって無言劇を思わせるような映画である。時折台詞が入ることはあるが、それは周辺的な人物の口から、物語の進行上必要な説明として発せられるだけで、主人公の男女は一貫して言葉を発しない。それでいて、巧妙なゼスチャーが、言葉以上に雄弁に語りかけてくる。実験性の強い作品と言える。

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キム・ギドクの2004年の映画「サマリア」は、現代韓国社会の乱れた一面を描いている。テーマは女子高校生の売春と、娘の性行為を知った父親の苦悩というものだ。女子高生の売春は、援助交際という名称で、日本でも話題になったところだが、韓国でもそれなりに憂慮すべき事柄として捉えられているようだ。日本では、どんな形であれ売春は違法なので、それ自体が犯罪として検挙されるが、韓国では売春はかならずしも違法ではないという。女性を使役して売春させるのは違法だが、女性が自らの意志で売春するのは違法ではないらしい。この映画は、そうした韓国社会のルールを前提にして見ないと、わかりづらいところがある。

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イ・チャンドンの2002年の映画「オアシス」は、ヴェネツィア映画祭で銀熊賞を受賞した。韓国映画としては、メジャーな国際映画祭で受賞するのは初めてのことだった。これ以後、韓国映画は頻繁に受賞を重ね、国際的に認知されていくわけだが、この映画はその嚆矢となった作品である。

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