2021年3月アーカイブ

中国が第一次世界大戦に参戦したのは、戦勝国となることで、列強との不平等条約を改正し、国権を回復することを期待してのことだった。特に、日本による21か条要求は全面的に撤回させたかった。ところが、中国の要求はことごとく退けられた。そのため中国はヴェルサイユ条約の締結を拒んだのだった。こうした動きは、中国国内のナショナリズムに火をつけた。その結果起きたのが5・4運動である。

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エルマンノ・オンミの1978年の映画「木靴の樹(L'Albero degli zoccoli)」は、イタリアの貧しい農民たちの過酷な生活を描いた作品である。東ロンバルディアの農村地帯が舞台になっているが、どの時代かは明示されていない。作品の公式サイトには19世紀末ということになっている。その時代のイタリアでは、地主が大勢の小作人を使い、小作人の住まいを提供するかわりに、収穫の三分の二を取り上げたという。小作といっても、全人格で従属していることから、ロシアの農奴とかわらない。そんな農奴的な小作人たちの過酷な生活をドキュメンタリータッチで描きあげた作品である。

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崋山は儒者としての教育を受け、また終生儒者たちと交わったので、孔子に親しんだことはいうまでもない。そんな彼が、求めに応じて描いたのが、この孔子像である。依頼してきたのは、田原藩の藩校成彰館。納入された作品は、藩校の講堂に掲げられた。

森嶋通夫は、1999年に書いた「なぜ日本は没落するか」の中で、日本が没落を免れるための施策として「東アジア共同体」構想を提起した(アイデアそのものは1995年に「日本の選択」の中で提示していた)。その構想を、中国人に向かって直接説明したのが、「日本にできることは何か」(2001年)である。これは、天津の南開大学で行った講演をもとにしたものである。森嶋は、中国の大学生は日本のそれよりずっと優秀だから、自分の構想を前向きに受けとめてくれるのではないかと期待していたようだ。

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パガニーニは、ヴァイオリンの演奏技法に革命的な変化をおこしたヴァイオリニストとして知られる。また、作曲もした。かれの残したヴァイオリン曲は、超難度の演奏技術を必要とされている。そんなパガニーニの能力について、その演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだという噂が立ったという。

「分別功徳品」以下で、仏の教えである法華経を受持し、それを他人に広めることで、どんな功徳が得られるのかについて説かれた後で、実際にそれを実践して、功徳を得た人の話が説かれるのが「常不軽菩薩品」第二十である。いわば理論編に対する実践編といったところだ。

フランスが生んだ天才少年詩人アルチュール・ランボーは、普仏戦争の勃発からパリ・コミューンの成立と崩壊という歴史的な事件に遭遇し、自分自身パリ・コミューンに深くかかわった。その体験の中から、輝きを放つ一連の作品を書いた。そのランボーは、マルクスとは全く接点を持たないと言ってよかったが、パリ・コミューンを介して何らかの因縁のようなものを感じさせるので、ここに取り上げて見る次第である。

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タヴィアーニ兄弟の1977年の映画「父 パードレ・パドローネ(Padre Padrone)」は、サルデーニャ島の家族関係を描いたものだ。イタリアの家族関係は、ヴィスコンティの映画などからは、父権が強力だとは思われないのだが、この映画に描かれたサルデーニャ島の家族関係は、父親が絶対的な権力を振るっている。父親はその権力を振り回して、小学校に入ったばかりの息子を退学させて、羊飼いの手伝いをさせる。息子は20歳になるまで、一切教育を受けることがなく、文盲となる。しかし何とか努力して文字を覚え、しかも大学で言語学を専攻し、有名な言語学者になる、というような内容の話だ。実話をもとにした話だという。

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「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。

「雪の練習生」は、ホッキョクグマによる語りという体裁をとっている。語っているのは、親子三代にわたるホッキョクグマたちだ。最初は祖母が語り、ついでその子が語り、最後に孫が語るという構成に、基本的にはなっている。基本的にはというわけは、子のパートにおいては、語り手が分裂しているからだ。まずウルズラという名の人間の女性が、サーカスの相棒であるホッキョクグマのことを語り、ついでそのホッキョクグマがウルズラと自分のことを語るというふうになっている。しかもそのトスカという名のホッキョクグマは、自己同一性を保った存在ではなく、途中で生まれ変わったということになっている。

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東京九段の桜は数日前に満開になったようだが、小生の住む船橋でも、今日(3月26日)満開になった。そこで小生は、例年通り近所のすし屋ですしを握ってもらい、花見に出かけた次第だ。

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ドラクロアは、20歳代の終わり頃に、虎やライオンなどの動物画に関心を示し、数多くのスケッチや石版画を制作している。パリにある王立植物園には、虎やライオンが飼われていたので、ドラクロアは友人の動物彫刻家バリーとともに出かけていって、観察したそうである。

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ジャンニ・アメリオの2004年の映画「家の鍵(Le chiavi di casa)」は、父とその障害を持った子との触れ合いをテーマにした作品。父子関係の意味とともに、障害を持った子どもの生きる意味のようなことを考えさせる映画である。

パリ・コミューンの20周年を記念して発行された1891年版の「フランスの内乱」に、エンゲルスが緒言を寄せている。これは、マルクスによるパリ・コミューン論の核心的な部分を再確認するものだが、エンゲルスが最も強調しているのは、パリ・コミューンが崩壊した理由と、それに関連して、プロレタリアートの国家に対するかかわり方についてである。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。これには袁世凱の中国政府は中立の政策をとったが、日本は参戦した。根拠は日英同盟であった。日英同盟には、一方の国が他国と交戦した場合には同盟国に参戦義務を負わせる規定があった。日本はこれに基づいて参戦しようとしたのだが、イギリスは中国における日本の利権の拡大を望まず、日本の参戦には消極的だった。だが、日本が条約の規定を盾に強く参戦を望んだので、イギリスはそれを受け入れたのである。日本としては、ドイツが中国に持つ利権を横取りする絶好の機会と受け止めて、参戦したのであった。

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フェデリコ・フェリーニの1980年の映画「女の都(La città delle donne)」は、後半生のフェリーニ映画を特徴づける祝祭的な猥雑さに満ちた作品である。女だけ、あるいはほとんどが女で構成されている世界で、一人の男が肉の冒険をするという設定で、その女たちの肉に囲まれて、なお辟易としない男を、マルチェロ・マストリヤンニが演じている。マストロヤンニがフェリーニ映画に出演したのは1960年の「甘い生活」だが、それから20年たって、ますます円熟味を増した彼の演技は、まさにフェリーニ的祝祭感にぴったりの雰囲気をたたえている。

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「渓澗野雉図」は、崋山の花鳥図の大作。渓澗すなわち谷川に羽を休める雉の夫婦を描いている。オスは身を乗り出して、谷川の水を飲もうとし、メスはオスの背後に安らってオスの方を見つめている。長閑な光景である。

トランプを贔屓する日本人がいるように、サッチャーを贔屓する日本人もいた。トランプやサッチャーを贔屓するのは、だいたいが右翼だと思うのだが、右翼というのは民族主義的心情を強く持っていて、したがって排外的なのが普通である。排外主義者同士が面と向き合うと、それぞれ自国中心の立場から反発しあうのが自然なはずなのに、事情によっては惹きつけあうこともあるらしい。そのへんは人間のことだから、合理的に割り切ることが出来ないということか。

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「民衆を導く自由の女神(La Liberté guidant le peuple)」は、ドラクロアの代表作たるのみならず、ロマン主義絵画あるいは世界の美術史を代表する作品といってよい。歴史の教科書の常連ともなっている。

「法師功徳品」第十九は、「随喜功徳品」第十八に続いて、仏の滅後に仏の教えたる法華経を受持することの具体的な功徳について説く。このお経では、法華経を受持しその教えを他人に説く者を法師と呼んでいる。かならずしも脱俗した僧のみならず、法華経を教え広める人はすべて法師と呼ばれている。その法師が、法華経を教え広めることで得られる具体的な功徳を説いているのである。

「フランスの内乱」は、パリ・コミューンの歴史的な意義を主張した政治的パンフレットである。マルクスはこれを、パリ・コミューンが崩壊した直後(おそらく数日以内)に書き上げたといわれる。マルクス自身による奥書には「1871年5月13日 ロンドン」とあるが(新潮社版マルクス・エンゲルス選集第10による)、これは何かの勘違いだろう。というのは、パリ・コミューンが最終的に崩壊したのは1871年5月28日のことで、マルクスの文章はその日までカバーしているからだ。

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フェデリコ・フェリーニの1979年の映画「オーケストラ・リハーサル(Prova d'orchestra)」は、タイトルの通り、あるオーケストラ楽団の練習光景を描いたものである。トスカニーニと縁がありそうなこの楽団は、楽団員が楽団の経営者と仲が悪いばかりでなく、主任指揮者とも仲が悪い。その主任指揮者と経営者が、テレビ局の取材を受け入れ、楽団の練習光景を記録させるのだが、それが楽団員には気に入らない。ノーギャラのうえに、指揮者の傲慢さが我慢できないのだ。

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市河米庵は、漢詩人市河寛斎の長男で、自身漢詩人であったとともに、幕末を代表する書家であった。篆刻を好み、全国に50以上の石碑が残されている。崋山との関係は、あまり深いものではなかったらしい。崋山が蛮社の獄で捕らえられ、証人尋問を受けた時には、そんな画家は知らぬと答えたそうだ。絵画が二人を結びつけていたようだ。

尼僧というと、小生などは修道院で禁欲的に暮す女性を思い浮かべ、したがってカトリックと結び付けてしまう。じっさいそのとおりらしく、プロテスタントには原則として修道院はないそうだ。原則として、というのは、例外もあるということで、この小説が描いているのは、そうした例外的な修道院で暮す尼僧たちの生き方なのである。ドイツでは、ルソーが宗教改革を起したとき、カトリック教会を攻撃したが、修道院をあえてつぶそうとはしなかった。それで一部の修道院が生き残り、そこに生きていた尼僧たちも生活拠点を失わないでもすんだという。この小説が描いているのは、そんな古い修道院に暮す尼僧たちなのである。

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ドラクロアは、女性の裸体をそれ自体としてモチーフにしたいわゆる裸体画を、あまり描かなかった。時代が要求しなかったからだ。当時女のむき出しの裸体画は、たいてい猥褻と受け取られた。猥褻でないと認められるのは、ルネサンス風の極度に抽象化されたフォルムであって、たとえばアングルの「泉」などはその例である。「泉」には、ほとんど性的な雰囲気を感じることはない。その「泉」でさえ、完成したのは1850年代のことだ。

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ジャコモ・カサノヴァは18世紀に実在した人物で、その数奇な女性遍歴からイタリアのドン・フアンと呼ばれている。かれは死後に自叙伝を残した。「カサノヴァ回想録」という題名で邦訳も出ているから、読んだ人もいることだろう。かく言う小生は読んでいないので、なんとも言いようがないが、非常に面白いという評判だ。フェデリコ・フェリーニが1976年に作った映画「カサノヴァ」は、その回想録から特に興味深い部分を抜きだして、かれの自由奔放な生き方を描いた。まさにカサノヴァのウィタ・セクスアリスである。

資本主義的生産様式を基盤とする社会システム=資本主義システムが終わりを告げたあとにはどのような社会システムが現われるのか、資本論では具体的なイメージには触れていない。抽象的なスローガンが置かれているだけである。それは一つには原始共産制の発展形態としての新しい共産主義社会の到来であると言われたり、必然性の国から自由の国への進化と言われたりする。しかしそれらはあくまでもスローガンにとどまっており、読者はそこから具体的で明確なイメージを得ることはできない。

辛亥革命の前年(1910)、日本は韓国を併合した。これは基本的には日本と韓国の問題で、清国は直接の関係はもたなかった。日清戦争の敗北を受けて、清国は従来朝鮮とのあいだで持っていた宗主権を放棄していたからである。その朝鮮は1897年に国号を大韓帝国に改めていた。これにともない従来の朝鮮王は大韓帝国皇帝となった。皇帝への変化は、清国への服属から脱して独立国になったことをアピールしていたとともに、絶対主義的な君主制の確立を目指したものであった。しかし独立の夢はかなわなかった。韓国は日本によって併合されてしまうのである。

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フェデリコ・フェリーニの1973年の映画「フェリーニのアマルコルド(Amarcord)」は、フェリーニ自身の少年時代を回想したものと言われている。フェリーニの生まれ育った町はリミニといって、中部イタリアのアドリア海に面したところだった。その町で過ごした十五歳頃の自分自身が回想されているのである。フェリーニは1920年生まれだから、15歳といえば1935年ごろのこと。その頃のイタリアはムッソリーニのファシスト党が専制権力を振るっていた。

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「鷹見泉石像」は、崋山肖像画の最高傑作である。この肖像画を崋山は、天保八年に描いたと款に記したが、考証の結果異論が出されている。その時期泉石は大阪に住んでいた。また画中に描かれている脇差に藩主の門がついており、その脇差が付与された時期などから、天保十二年の作である可能性が強いという指摘がある。

森嶋通夫が「イギリスと日本」(正・続)で取り上げたのは、いわゆるイギリス病の問題だった。イギリス病を森嶋は、資本主義の自然に行き着く先として、ある種避けられない事態として見ていたようだ。イギリスは確かに、昔に比べれば病的になったと指摘できるかもしれない。だが、日本と比べてそんなに悪い社会ではない。かえって善いところのほうが多い。だから、イギリス病を頭から否定するのは間違っている、というようなスタンスが伝わってきたものだ。

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ドラクロアの本領は躍動感のある人物主体の歴史画とか宗教画にあって、静物画はあまり描いていない。苦手だったわけではないが、静的な事物を描くことが、かれには物足りなかったのだろう。その中でこの「海老のある静物(Nature morte au  homard)」は、彼の静物画の代表作である。

「分別功徳品」第十七と「随喜功徳品」第十八とは、総論と各論の関係にあるといえる。「分別功徳品」は、法華経が仏の教えを記したものであることを前提にして、仏の滅後に法華経を受持することによる功徳を総論的に説いたのであるが、それを踏まえてこの「随喜功徳品」は、その功徳を具体的に説いたものである。題名から推察される通り、ここで説かれる功徳は、末後の五品のうちの初随喜である。

資本論を通じてマルクスが目指したことは、資本主義的生産様式の歴史的な制約を明らかにし、資本主義には終りがあるということを明らかにすることだった。そこで、その終わりがいつどのようにしてやってくるのか、また資本主義が終わった後にはどのような社会が到来するのか、が問題となるが、それについてマルクスは、こういうことがあるかもしれないといった、憶測めいたものを控え目に書いているだけで、詳細に展開して見せることはなかった。とりわけ、かれが資本主義以後の姿として思い描いていた共産主義社会のイメージについては、詳しく語ることはなかった。

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ミヒャエル・ハネケの2005年の映画「隠された記憶(Caché)」は、ミステリー仕立ての復讐劇である。それに人種差別問題を絡ませてある。フランスを舞台に、支配者としてのフランス人が、被支配者としてのアフリカ人から、昔行われた不条理な差別に対して復讐されるというような内容だ。したがって、単なるミステリー映画ではなく、かなりメッセージ性の高い作品である。

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滝沢琴嶺は、馬琴の長男である。崋山とは、画家金子金陵門の同輩である。後に崋山の肖像画を描いた椿椿山も、金陵の同門だった。崋山は琴嶺と付き合う一方、その親の馬琴とも、親しい友人になった。その馬琴に依頼される形で、琴嶺像を描いたのである。

「ボルドーの義兄」は小説とエッセーの中間のような作品だ。中間という言葉は相応しくないかもしれない。中間というと、純粋な小説でもなくまた純粋なエッセーでもなく、両者の谷間のようなイメージがあるが、この作品は小説の要素も持っているし、エッセーの要素も持っている。だからその両者の中間と言うよりは、合成と言ったほうがよいようだ。合成ということになれば、小説的エッセーあるいはエッセー的小説といったほうが実情に合っている。

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「サルダナパロスの死(La mort de Sardanapale)」と題するこの大作は、ロマン主義絵画最高の傑作との評価が高い。だが、1827年のサロンに出展されたときは、散々な批判を浴びた。当時流行していた新古典派風の優雅さとは無縁であること、すなわち遠近法を無視した構図、けばけばしいほどどぎつい色彩、混沌を感じさせるような人物の動き、そういったものが当時の観客の度肝を抜いたのである。見物人を代表する形で、当時の芸術担当大臣はドラクロアに向って、「公的な仕事を請け負いたければ、別の表現で描かねばならぬ」と言ったくらいだ。

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ミヒャエル・ハネケの2012年の映画「愛アムール(Amour)」は、夫婦間の老老介護をテーマとした作品である。配偶者を持つものにとって、誰でも直面する問題であるから、他人事には映らない。見るものはみな自分自身のこととして向き合うことを促すような映画である。

資本―利子、土地―地代、労働―労賃という定式化をマルクスは資本主義的三位一体と呼ぶ。三位一体とはもともとキリスト教の用語であって、キリスト教信者の信仰を基礎づけるものだった。同様にしてこの資本主義的三位一体は、資本家や土地所有者たちの、資本主義への信仰を基礎づけるというのが、マルクスの見方である。

辛亥革命は、孫文の指導のもとに計画的になされたという印象が強いが、実際には偶然によるところが多く、また強力な指導者がいたわけではない。孫文自身、辛亥革命が勃発した1911年10月10日にはアメリカのデンバーにいて、募金活動に従事していたのである、かれが革命勃発の報を聞いたのはアメリカの新聞を通じてであり、上海に戻ったのは12月下旬のことだった。

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ミヒャエル・ハネケの2009年の映画「白いリボン(Das weisse band)」は、第一次世界大戦勃発直前のオーストリア社会の一断面を描いた作品。舞台はオーストリアのさる農村地帯。男爵が地主として君臨するある村だ。その村は人口の半分が地主の小作人である。小作人たちは、地主に対して身分的に従属しており、農奴に近い境遇として描かれている。その頃のオーストリア社会のことはあまりわからないが、ある種の農奴制社会が支配的だったのだろう。

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松崎慊堂といえば、小生などは「慊堂日歴」がまず思い浮かぶ。この日記は荷風散人も愛読していたもので、徳川時代後期における武士の生活ぶりがよくうかがわれるものである。渡辺崋山との関係で言えば、蛮社の獄で崋山が窮地に立たされたときに、崋山の行く末を案じる気持ちを記している。

近代経済学とマルクス経済学とは水と油の関係だというのが常識的な見方だが、森嶋通夫はマルクスの経済学を、近代経済学の流れの中に位置づける。ということは、近代経済学者はマルクスを毛嫌いするのではなく、きちんと学ぶべきだと言っているわけだ。マルクスの何を学ぶのか。森嶋は、経済学を含む社会科学を、ウェーバーのいうような理念型の分析と価値判断をともなった分析とにわけ、科学的な分析は理念型でなければならないというのだが、マルクスの経済学には、価値判断を伴った分析のほかに、理念型の分析も含まれており、その部分は十分参考するに耐えると評価するのである。

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ドラクロアは非常に早熟で、二十歳頃には教会から宗教画の注文を受けていた。「風格の聖母」とか「サクレクールの聖母」といったそれらの作品は、ラファエロなどイタリアのルネサンス絵画の影響を色濃く刻んでいる。「オリーヴの園のキリスト」と題したこの作品は、いかいもドラクロアらしい、ロマン主義的雰囲気を感じさせる逸品である。

法華経の伝統的な解説では、「分別功徳品」第十七から流通分が始まるとする。流通分とは、原理論を踏まえた実践論というべきもので、正しい信仰を持てばどのような功徳があるか、また、正しい信仰を得るにはどのような実践をなすべきかを説いたものである。

建築用の土地や鉱業用の土地など非農業用地の地代も、農業用地の地代と同様の法則があてはまるとマルクスは考える。「建築用の土地については、すでにアダム・スミスが、その地代の基礎がすべての非農業地の地代と同様に本来の農業地代によって規制されていることを論じている」とマルクスは言って、非農業用地の地代にも、差額地代や絶対地代といった農業用地の地代に相当するものが指摘できると考えるわけである。

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「許されざる者」というタイトルからは、クリント・イーストウッドが1992年に作った映画が想起されるが、2005年の韓国映画「許されざるもの」は、それとは全く関係がない。イーストウッドの映画は、賞金目当てのガンマンたちを描いた西部劇だが、この映画は、韓国の兵役を描いている。

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(釜原)

渡辺崋山は、文政八年(1825)武蔵、下総、常陸、上総の各地に遊び、旅の風景などをスケッチした。「四州真景図」として今日に伝わっている。これは幅12~14センチの巻物に、墨で自在にスケッチし、それに淡彩を施したものだ。風景を見る崋山の視線がなかなか科学性のようなものを感じさせる。

エクソフォニーという言葉は、母語の外へ出た状態一般をさすのだそうだ。だから移民として外国へ出た人とか、移民という範疇ではなく単に母国を離れて外国で暮らしている人の状態も含まれる。今の世界ではそういう人達の割合が増えてきて、そこから文化的に面白い現象が起きているということらしい。多和田葉子がこの言葉にこだわるわけは、彼女自身エクソフォニーの状態に自分自身を置いているからであろう。自分自身を置いているというのは、自分の決断にもとづいて自分をそのような状態に置いているという意味で、したがって自覚的な姿勢を感じさせる。

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「ミソロンギの廃墟に立つギリシャ(La Grèce sur les ruines de Missolonghi)」は、「キオス島の虐殺」に続き、ギリシャ独立戦争に取材した作品。ミソロンギは、アテネの西方パトラス湾に面した要塞都市で、1821年に独立戦争が勃発して以来、トルコ軍の攻撃の標的となっていたが、1826年の4月に陥落した。この絵は、その直後から制作にとりかかり、その年のうちに完成した。ギリシャ独立戦争に寄せるドラクロアの関心の深さを物語るものだ。

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ホン・サンスによる2010年の韓国映画「ハハハ」は、韓国人の日常生活をコメディタッチで描いた作品である。とくにこれといったストーリーはない。韓国南部の港町トンヨン(統営)を舞台に、二人の中年男が互いの境遇を慰めあうといったものだ。二人のうち一人は詩人で、もう一人は映画監督ということになっている。しかし彼らの職業意識はたまに吐露されるくらいで、映画の進行を支配するような迫力はない。映画を進行させるのは、男女の愛である。そういうわけでこの映画は、ラブ・コメディといった体裁をとっている。

リカードの地代論は、差額地代に限定されていて、絶対地代の概念は含んでいない。差額地代というのは、基準となる土地と比較しての、土地の収益の超過分を源泉とするのであるが、基準となる土地自体は地代を生まないと前提していた。マルクスはこれに異議を唱え、資本主義的生産関係においては、地代なしに土地が貸し出されることなどありえない、すべての土地は地代を要求する、と考える。リカードは、地代を生まない土地の例として、アメリカの未墾の土地をあげているが、それは極端な例であって、ヨーロッパのような伝統を背景にしたところでは成り立たないし、アメリカにおいてさえ、一時的で例外的なことだと言った。土地が地代をとらずに貸し出されることはないのである。

日露戦争での日本の勝利は、立憲君主制の専制君主制への勝利というふうに中国では受け取られた。というのも、ロシアが負けたのは、軍事力で劣っていたというよりは、革命に伴う内乱の勃発で、対外戦争どころではなくなったからであり、その革命を引き起こしたのは専制政治への民衆の氾濫だったからだと解釈されたからである。ロシアが内乱に陥ったのに対して、日本は国をあげて戦争に臨んだ。それは立憲制のもとで国民の政治参加の意識が高かったからだ。そのように解釈された。そこで日露戦争後の中国では、立憲君主制に向けての政治改革の動きが高まった。その際目標とされたのは日本の明治憲法体制だった。

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2003年の韓国映画「オールド・ボーイ」は、日本の漫画作品を映画化したもの。何者かによって誘拐され、15年間も監禁された男が、その理由を求めて奔走するという筋書きだ。

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「白鵞遊魚図」と題するこの絵を、崋山は文政六年(1823)に田原藩主に献上したと思われる。款記に「臣渡辺登謹写」とあるからである。崋山は、文政二年に和田倉門の修築工事監督を仰せつかって、文政六年にその仕事を終えた。この絵は、その崋山をねぎらう藩主の謁見のさいに、献上されたのであろう。

森嶋通夫の「思想としての近代経済学」は、近代経済学の歴史をわかりやすく、しかもユニークな視点から解説したものだ。その視点には二つの特徴がある。一つは近代経済学を、単なる社会科学の一分野と見るのではなく、思想として見ること、もう一つは、従来近代経済学とは水と油の関係にあると見られていたマルクス経済学を、近代経済学の中に含めていることだ。

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「キオス島の虐殺(Scène des massacres de Scio)」と題するこの作品は、ギリシャの独立戦争の一齣に取材したものだ。ギリシャの独立戦争は1820年に始まったが、それはフランス革命がもたらした自由の精神にギリシャ人が目覚めたからだといわれる。そうした精神は、当時ヨーロッパ社会がある程度共有していたものである、大部分のヨーロッパ人は、ギリシャのトルコからの独立を目指す戦いに共鳴した。みずから戦場に飛び込んだバイロンは、その象徴ともいえる人物だった。

「如来寿量品」第十六は、「従地湧出品」第十五の続きである。「従地湧出品」では、釈迦仏はわずか八十年の間生きただけなのに、無数の菩薩を教化したのはどういうわけか、弥勒菩薩が釈迦仏に問うた。無数の菩薩を教化するには無量の時間を要する。だが釈迦仏が生きて存在したのは八十年間であり、さとりを開いて以降は四十年あまりである。その短い時間に無量の菩薩を教化することができるとは、とても考えられない。弥勒菩薩のこういう疑問に、釈迦仏が答えた内容を記すのが、「如来寿量品」である。

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