「西湖春景」は「銭塘観潮図屏風」とともに六曲一双をなす作品である。西湖・銭塘江とも南宋の都杭州近郊にある。大雅は無論実景を見たことはなかったが、これらは南宋の画家たちがこぞって画題とした眺めであり、日本の画家もそれに倣って描いた。大雅がどれをもとに描いたかはわかってはいないが、恐らくは中国から伝わった作品を手本として、それに大雅の想像をまじえたのだと思われる。
日本の美術
「蘭亭修禊図屏風」は、書聖といわれた王羲之が催した有名な詩宴「蘭亭修禊」をイメージ化したものである。王羲之自身はこの詩宴の様子を「蘭亭序」という文にあらわし、またそれを書とした。大雅は、その「蘭亭序」に書かれた内容をもとに、この作品を描いたわけである。画面左上に、その文章を写している。
「龍山勝会図屏風」は「蘭亭修禊図屏風」とともに六曲一双をなす作品である。宝暦十三年(1763)大雅馬歯四十一の年の作であり、所謂大雅様式の完成を告げる記念碑的な作品とされる。
「峡中桟道図」(蜀桟道図ともいう)は、険阻なことで知られる蜀の桟道を描いたもの。関中(陝西省)と蜀(四川省)との境の山中にあって、絶壁にへばりつくようにして通じた道だ。その様子が粗末な桟橋を思わせることから、蜀の桟道と称された。
大雅は、宝暦五年(1755)馬歯三十三の年に出雲地方に旅している。白隠門下の円桂に招かれたというが、その折に、円桂が住職を勤める松江郊外の禅寺天倫寺の庭から宍道湖を見下ろす構図の真景図を描いた。「林外望湖図」がそれである。この作品は、大雅の画業の中でエポックメーキングな意義を持つと評価される。この作品を契機にして、それまでのやや窮屈さを感じる作風から、今日「大雅らしさ」といわれるような、のびのびとした開放的な作風へと変化していった。
「浅間山真景図」は、信州の浅間山を描いたとする説と、伊勢の朝熊岳を描いたとする説と、ふたつある。ここでは、信州の浅間山を描いたものとする。池大雅は宝暦十年(1760)の夏から秋にかけて、親友の高芙蓉らとともに、白山,立山、富士山を上り巡る所謂山岳紀行の旅をした。その際に、信州の浅間山をスケッチしたものをもとに、あとで完成させたのがこの絵だと考えられる。
「指墨幽渓釣艇図」は、池大雅の指頭図の傑作である。指頭図というのは、筆のかわりに指を用いる描法で、墨を塗った指で色を置くというものである。大雅はこの技法を柳沢淇園から学んだという。席画として即興的に描いたものが多かったが、この作品は137×57.5cmと、かなりの大画面である。
楽志論とは、後漢の仲長統の書であり、乱れた世相を慨嘆し、隠遁の生活を賛美したものである。この絵は、その書の内容をイメージ化したもので、山荘のなかで悠々自適の生活をおくる隠者たちを描いている。なお、巻物の冒頭には柳沢其園による題字が書かれ、巻末には祇園南海によって全文が書かれている。
池大雅は寛延元年(1748)馬歯二十七の年に江戸へ赴き、足を伸ばして松島に遊んだ。その翌年、今度は金沢に遊んだが、その折に金沢藩士小堀永頼の願いに応じて、松島の風景を図巻の形にして描いた。図巻は長さ八メートル半に及び、そこに松島の遠景を、水墨を主体に、ところどころ淡彩を交えて、パノラマ模様のようにして展開して見せた。
池大雅は、赤壁をテーマにした作品を、生涯のそれぞれの時期に作った。「赤壁両遊図屏風」は、その中で最も早い時期のものの一つで、寛延二年(1749)大雅馬歯27の年の作品である。
池大雅は若い頃から絵の才能を発揮して、二十代の前半で傑作を描いている。特定の画風に限らず、さまざまな画風を学んだ。なかでも中心となったのは南宗画であり、この画風を洗練してゆく過程を通じて、彼独特の文人画といわれるものを創造していった。
(右隻 166.9×363.7cm 紙本銀地墨絵淡彩 六曲一双)
「銀地山水図屏風」は天明二年、すなわち蕪村馬歯六十七、死の前年の作で、蕪村の南宋画の集大成と言えるものである。紙の上に銀箔を貼り、その上に墨と淡彩で描いている。左右どちらも、右肩に七言絶句を書き、それらの詩意を絵の中で展開している。
「鳶烏図」双幅のうちの烏図。雪の降り積もった木の枝に二羽の烏がとまり、なにやら思案げふうに見えるこの絵は、芭蕉の句「日ころ憎き烏も雪の旦(あした)かな」をイメージ化したものだと思われる。烏は憎い生き物だが、このように風雪に耐えている姿はけなげに見えるという趣旨の句で、この絵はまさにその雰囲気をそのままに伝えていると言ってよい。
「鳶烏図」と題した双幅一対のうちの鳶を描いたもの。空中に突き出た枯れ枝に一羽の鳶がとまり、烈しい風雨に耐えているように見えるこの図は、去来の句「鳶の羽も刷(かいつくろ)ひぬ初時雨」をイメージにしたものだと指摘されている。
「富嶽列松図」は、延々と連なる松の林の背後に浮かび上がった富士の勇壮な姿を描いたもの。横に細長い画面を生かして、松林の長く連なるさまと、それに富士が覆いかぶさるように聳える様子が心憎く演出されている。富士が中心より右側に描かれている為、鑑賞者の視線は右から左へ動くように導かれ、その視線の先の左端の画面がわざとぼやけているのは、時雨を表現したのだと解釈される。
(右半分)
「峨眉露頂図巻」の「峨眉」とは、李白の詩「峨眉山月歌」で歌われた四川省の山、山容の美しさから美人の眉に喩えられた。この絵は、その峨眉山の頂上を描く。「露頂」とは、山の頂上があらわになった様子を言う。
「夜色楼台図」は、蕪村の山水画の到達点を示すもので、彼の代表作とされ、国宝にもなっている。山水画は中国の南宋画をモデルとし、蕪村もそれを手本にして出発したわけだが、この絵にいたって、南宋画の影響を脱し、蕪村独特の境地を描き出している。
(右隻 133.2×310.0cm 紙本彩色 六曲一双)
「竹林茅屋・柳蔭騎路図屏風」は、右隻が「竹林茅屋」を、左隻が「柳蔭騎路」を描く。「竹林茅屋」は、右端の曲面に「聯珠詩格」巻十二から「邨居」の詩文を記す。絵はその詩の内容を視覚化したものである。詩の内容は、「独木為橋過小村 幾竿脩竹護柴門 白頭不識王侯事 関把牛経教子孫」というものである。
蕪村の画業の大きな特徴として、道を繰り返し描いたことがある。その道を行く人は、深山幽谷に隠士を訪ねる人であったり、あるいは郊外や山里にピクニック気分で出かける人であったりする。「新樹郊行図」と題したこの絵は、後者のようである。
「竹渓訪隠図」は、題名からも明らかなとおり、山中に隠居する高士を人が訪ねるというモチーフを描いている。画面は霞の介在によって上下に分割され、下界には竹林と渓流とが、上界には峰々が聳え立っている。峰の描き方は、手前を明瞭に、遠くを青くぼかすことで、遠近感を演出している。
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