2022年9月アーカイブ

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瀬々敬久の2021年公開の映画「護られなかった者たちへ」は、生活保護制度をめぐる人間の怨念をテーマにした社会派ドラマ。それに東日本大震災をからませてある。社会問題を背景にして人間相互の葛藤を描くのは、瀬々の基本的な傾向として指摘できるが、この映画はそうした瀬々らしさを最もストレートにあらわれた作品。

敗戦後、日本に進駐したGHQは、日本の戦争指導者やその協力者を対象に一連の措置をとった。まず東条英機や近衛文麿を最高戦争指導者として戦犯指定し、逮捕した。ついで、戦争遂行体制に多大な役割を果たした右翼も責任を追及され、次々と逮捕状が出された。右翼の大物について言えば、鹿子木員信、児玉誉志夫、笹川良一、大川周明、徳富猪一郎ら、その数60人ほどに及んだ。児玉は、終戦の直後に成立した東久邇内閣の内閣参与として迎えられたほどの政治力をもっていたが、GHQの眼には、許しがたい軍国主義者として映ったのである。

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瀬々敬久の2020年の映画「糸」は、中学生一年生のときの初恋の感情に生涯拘った男女の物語を描いた作品。究極の恋愛映画といってよい。瀬々はピンク映画から出発したとはいえ、社会派の巨匠としてのイメージが強いので、このような恋愛映画は場違いに見えなくもないが、これはこれで見る者を泣かせる迫力ある映画に仕上がっている。さすが映画作りの名人芸というべきであろう。

安倍晋三元首相の国葬があった日(9月27日)、小生はパソコンが壊れてしまい手持ちぶさただったせいもあり、その様子をテレビ中継で垣間見た次第だった。パソコンが壊れた理由は、ウィスキーのハイボールをぶちまけてしまったこと。そのためハードディスクがクラッシュし、BIOSが駆動しなくなってしまった。こうなると、もうお手上げである。重要なデータのいくつかは前日にバックアップをとっておいたので、全滅にはいたらなかったが、それでも今年分の日記とか備忘録的なデータが消滅してしまった。そういうわけで、国葬を見て感じたことを、当日中にブログに載せることができなかった。だが、あたらしく取り寄せたパソコンが二日後には届いたので、今日(7月29日)には、こうしてネットにアクセスすることができるようになった。

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瀬々敬久の2017年の映画「8年越しの花嫁 奇跡の実話」は、冒頭に「実話にもとづく」ということわり書きがあるように、実際にあったことを映画化したものである。その実話とは、結婚直前に脳の難病により意識不明に陥った恋人の回復を願い、寄り添い続けた若者の話である。若者の執念が実を結び、恋人は意識を取り戻したが、恋人との関係はなにも覚えていなかった。しかし、恋人の献身的な姿を見ているうちに、その姿に感動し、あらためて彼を好きになるというものである。意識を失ってから、二人が再び結ばれるまで、八年かかったというわけである。

中論第十三章「形成されたものの考察」及び第十五章「それ自体の考察」は、自性と無自性とについての考察である。自性というのは、それ自体として存在しているもので、他に原因を持たないものをいう。それに対して無自性というのは、別のものによって形成されたもので、それ自体のうちに原因をもたないものをいう。自性は、基本的には不変である。無自性には生起・存続・消滅の相がある。ここでナーガールジュナが自性と呼んでいるのは、永遠不変の概念のようなもので、したがって人間の思考の産物である。それに対して無自性は、具体的な存在物であって、たえず生成変化していると考えられている。そのように抑えたうえで、自性も無自性も成立しないと断ずるのが、この二つの章の目的である。

岸田政権が発足して以来、小生は表立っての批判を差し控えてきた。岸田政権に大きな期待を寄せているわけではないが、安倍晋三やその亜流に比べれば、ずっとましだろうと思い、当面は彼に政権をゆだねて余計なことは言わないようにしようと考えたのだ。だが、最近の彼の振舞いを見ていると、そうした期待が裏切られたと感じざるを得ない。その理由は二つある。一つはかれの独善的な傾向が目立ってきたということだ。もう一つは、かれが鳴り物入りで喧伝した「新しい資本主義」の具体的な内容が見えてきたことだ。

共同存在についてのサルトルの議論は、「われわれ」についての議論である。サルトルは即自存在としての自己(わたし)から出発して、その即自存在の無化としての対自存在へと移行し、対自存在の他者にとってのあり方としての対他存在を経て、共同存在へと到達するのである。だからサルトルの「われわれ」は、対他存在が対自存在に根拠づけられているように、個人によって根拠づけられる。まず共同体があり、そこから個人が抽出されるというのではなく、あくまで個人が先にあって、その個人の集まりとしての「われわれ」が現れてくるのである。

ウクライナ戦争をめぐる報道を見る限り、プーチンの意図は破綻し、敗北の色が濃厚になってきた、というような見方までされているが、果たしてそうなのか。そこにはプーチン憎しの感情にもとづく希望的観測が含まれていないか。そんなことを思っていた矢先に、ウクライナがかえって深刻な窮状に陥っており、ウクライナ自体が敗退するばかりか、そのウクライナを支援する西側諸国も深刻な事態に直面するだろうという見通しを述べた記事に遭遇した。アメリカの保守系雑誌 The American Conservative に寄せられた Holding Ground, Losing War :Zelensky's strategy of defending territory at all costs has been disastrous for Ukraine. By Douglas Macgregor という文章である。

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ホッパーは、荒々しい自然の中にぽつんと存在する人工的な構築物を描くのを好んだ。「サウス・カロライナの朝(South Carolina Morning)」と題したこの絵は、果てしなく広がるビーチの中にぽつんと立っている小さな家と、その家の玄関にぽつんと立っている女性を描いたものだ。

瀬戸内晴海の短編小説「みれん」は、「夏の終わり」で始めて描かれた三角関係の終わりをテーマにした作品である。題名「みれん」からは、瀬戸内自身この三角関係に複雑な感情を抱いていることが伝わってくる。彼女は、八年間一緒に暮らしてきた男に、理性では別れなばならぬと納得しておりながら、感情ではなかなかわりきれない。むしろ強い「みれん」を感じている。頭とは全く逆のことを、下半身が迫ってくるのである。

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リンゼイ・アンダーソンの1987年の映画「八月の鯨(The Whales of August)」は、人間の老いをテーマにした作品。老いた姉妹の生き方を通じて、人間が老いることの意味を考えさせるように作られている。その姉妹を、リリアン・ギッシュとベティ・デヴィスが演じている。リリアン・ギッシュはサイレント映画の大女優であり、この時には93歳になっていた。またベティ・デヴィスは、トーキー映画初期の大女優であり、その風貌とか演技ぶりは、小生のようなものも魅了されたものだった。この映画の時点では79歳になっていた。

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「線路際のホテル(Hotel by a railroad)」と題したこの絵も、閉じられた空間にいる人物をモチーフにしている。おそらく夫婦だろう。夫婦が二人きりになっているのだが、かれらは互いに意識していない。それぞれ自分の世界に閉じこもっている。そこに我々は、アメリカ人の人間関係のドライさを感じる。そのドライさは、夫婦のような、本来親密であるべき関係にあっても支配的なのだ。

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1967年のアメリカ映画「招かれざる客(Guess Who's Coming to Dinner)」は、アメリカにおける白人と黒人との人種間結婚をテーマにした作品である。その頃のアメリカは、公民権運動の高まりの中にあったが、まだ白人と黒人との結婚など考えられなかった。なにしろ、ジャッキー・ロビンソンが大リーグでプレイするだけのことで国中が大騒ぎになったのは、わずか20年前の1947年のことだ。野球でさえそんな騒ぎになるのだから、黒人男が白人女性と結婚するなどありえないとされていた。つまりタブーだったわけだ。そのタブーをあざわらうかのように、この映画は黒人の男が白人女性との結婚に成功する姿を描いている。今日では、人種間結婚の問題を正面から取り上げた作品として高く評価されているが、当時の評価は賛否極端に分かれた。評価するものも、けなすものも、自身の人種的な偏見に無縁ではなかったのである。

日本の敗戦をめぐっては、軍の一部にこれを認めず、徹底抗戦を叫んでクーデタを計画するものがいた一方、右翼のなかにもこれを否認して抗議する動きがあった。しかしどちらも大した成果もなく失敗している。このうち右翼の抗議行動として知られているのは、愛宕山事件、松江騒擾事件、代々木練兵場事件である。

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ホッパーは、ケープ・コッドの自分の別荘をモチーフにして多くの絵を描いた。「ケープ・コッドの朝(Cape Cod Morning)」と題したこの作品もその一つ。別荘の建物の出窓から、朝日の昇るさまを見つめる女性が描かれている。この女性が妻のジョーであることはいうまでもない。ホッパーはひたすら妻のジョーを描き続けたのである。

木村幹の「韓国現代史」(中公新書)は、戦後韓国の大統領になった李承晩、尹潽善、朴正煕、金泳三、金大中、李明博に焦点をあて、かれらの生き方とからませながら戦後韓国政治の動きを分析したものである。政治史の叙述には、社会のダイナミズムに焦点をあてる客観的な叙述と、政治家個人の野心に焦点をあてる主観的なやり方とが、両極端にあるが、この本は主観的なやり方の極端なものといえる。あまりにも、政治家個人の野心の解明にのめりこんでいるおかげで、かれらの野心は彼らの個性に解消され、時代の抱えていた社会的な条件は無視されがちだ。したがって読者は、この本を読むことで、政治家個人の個性の一端はかいまみることはできるが、韓国政治を動かしてきたダイナミックな社会的条件については、あまり理解を深めることはない。

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1953年のアメリカ映画「シェーン」は西部劇の名作である。日本でも大ヒットし、小生のような団塊の世代に属する人間は、見ていないものがいないほどである。この映画のどこがそこまで日本人の心を掴んだのか。西部劇に普通の日本人が期待したものは、チャンバラ映画とたいしてかわらぬ勧善懲悪劇だったと思うのだが、この映画にはそれがふんだんに盛り込まれているばかりでなく、それ以外にさまざまな工夫がみられる。その工夫がなかなか行き届いているので、当のアメリカ人はともかく、日本人までが魅了されたということだろう。

中論第九章「過去の存在の考察」及び第十章「火と薪との考察」は、第八章「行為と行為主体との考察」における議論のバリエーションみたいなものである。第九章では、「見るはたらき・聞くはたらき・感受作用」などについて、それらのはたらきそのものとその働きの主体との関係について論じられ、第十章でははたらきとしての火とその主体あるいは担い手としての薪との関係について考察される。

「存在と無」におけるサルトルの対他存在論は、サルトルなりの他者論である。サルトルはそれを、ヘーゲルの他者論から導き出している。ほとんどヘーゲルの精神現象学における自己と他者の相克の議論の焼き直しといってよい。ヘーゲルはその相克関係を、主人と奴隷の関係で代表させたが、サルトルもまた同じような議論を展開している。

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「夏の夕べ(Summer Evening)」と題するこの作品は、奇妙な空間をモチーフにしたものだ。奇妙というのはほかでもない。ホッパーは、これより以前の作品では、ある閉じられた空間内にいる人々をモチーフにしていたのだったが、この作品では、閉じられた空間ではなく、といって開かれた空間でもない。その両極の合間にある空間である。ベランダは、外部から内部への境目にある。その境目に一組の男女を立たせたところにこの作品の特徴がある。

瀬戸内晴美の短編小説「あふれるもの」は、「夏の終わり」の延長上にある私小説だ。「夏の終わり」は、八年間奇妙な同棲生活をしてきた男と、最初の結婚の破綻の原因を作った年下の男との三角関係を描いていたが、この「あふれるもの」は、その年下の男が十二年ぶりに現れ、瀬戸内が激しく恋慕の感情を抱くようになるところを描く。平野謙が言うところの、瀬戸内の私小説の第二のグループのモデルとなった事件にとって、時系列的には発端となった出来事をモチーフにしているわけである。

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2019年のフィンランド映画「世界で一番しあわせな食堂」(ミカ・カウリスマキ)は、フィンランド人と中国人の触れ合いを描いたものだ。いわば両国間の交流促進を目的としたような映画である。同じ北欧でも、ノルウェーは国家関係の悪化がもとで、両国民の相互感情はよくないが、フィンランドでは、国民の対中感情はよいらしい。そうでなければ、わざわざ中国との交流を強調するような映画が、フィンランドで作られるはずがない。

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「サマータイム(Summertime)」と題されたこの絵は、ホテルと思われる建物の入り口に立った若い女性をモチーフにしたものだが、そこにホッパーはさまざまな意味を込めた。若い女性は、肌が透けてみえるようなシースルーのドレスを着ているが、これはこの時代の若い女性の開放的な気分を表している。この絵が描かれた1943年はまさに第二次大戦の最中であり、その限りでアメリカ人は戦争気分に浸っていたわけだが、その気分は暗鬱なものではなく、開放的なものだったのだ。1930年代には、大恐慌の影響でアメリカは沈み込んだいた。第二次大戦はそんなアメリカに、空前の好景気をもたらしたのだ。

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今年初めて秋空らしい晴天がのぞいたので、近所にある行田公園まで散歩に出かけた。この公園は、旧海軍無線基地の跡地の一部であって、敷地全体は、上から見るとほぼ完全な円形である。その理由は、アンテナの情報収集能力を高めるためには、複数のアンテナを円形に配置するのが有利だからという。
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2012年の映画「アイアン・スカイ」は、フィンランド、ドイツ、オーストリアの共同制作ということになっているが、監督のティモ・ヴォレンソラがフィンランド人なので、一応フィンランド映画として分類してよい。とはいえ、フィンランド人ではなく、アメリカ人が活躍し、映画を流れている言語は英語である。そんなわけで、無国籍映画といった観を呈している。

1940年10月に、総力戦を効果的に遂行するための国民組織として大政翼賛会が結成される。これは当初は自主的な団体という性格をまとっていたが、実体は、国家権力による国民生活全体の統制を目的としたものだった。その目的を達成するため、政党などの政治結社はもとより、経済団体、労働団体、宗教・文化団体、地域共同体など、国民生活にかかわるあらゆる団体・組織が大政翼賛会に統合されていった。右翼団体も例外ではない。右翼団体の中には、石原莞爾の影響を受けた東亜連盟のように、組織としての自主性にこだわったものもあったが、多くは自主的に解散して、政府の意向にしたがった。

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ホッパーは妻のジョーと二人でアメリカじゅうをスケッチ旅行し、ホテルやモテるによくとまった。その際にホテルの様子をモチーフにした作品を作った。「ホテルのロビー(Hotel Lobby)」と題するこの作品はその一つ。安っぽいホテルのロビーでの様子がスナップショットふうに描かれている。

藤原帰一の「不安定化する世界」(朝日新書」は、藤原が朝日新聞に月一のペースで連載してきた時事評論を一冊にまとめたものである。「時事小言」と題したそのコラムの記事を小生は欠かさず読んでいた。それらを一冊にまとめたもので、新奇な工夫はないらしいが、読んでみると、始めて読むようなものが多い。新聞で月一のペースで読むのとはまた違った味わいがある。新聞ではそれ自体完結した文章が、こうしてまとめて一冊になると、記事相互の間に関連が生まれ、それが新たな光を放ってくるからだろう。

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アキ・カウリスマキの2017年の映画「希望のかなた」は、フィンランドにおける難民問題をテーマにした作品。それに一フィンランド人の生き方をからませている。その二つのテーマには、密接な関係はない。生き方を変えたフィンランド人がたまたま難民の男と出会い、その男との間に友情を築くということになっているが、なぜ、その二人が出会うことになったのか、そこにはたいした理由があるわけではない。

中論の第七章は「行為と行為主体との考察」と題して、表向きは行為・作用とその主体との関係についての議論のように見えるが、本当の論題は、概念的な存在の空虚さをめぐる議論である。概念的な存在の空虚さをめぐる議論は、有為と無為の関係をめぐる第六章においてもなされていたが、それを別の形で言い換えたものと言ってよい。

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2015年のデンマーク映画「ある戦争」は、デンマーク軍人の戦争犯罪をテーマにした作品。デンマークは、ブッシュの始めたアフガンの対タリバン戦争につきあって、多国籍軍に加わる形で参戦したのだが、そのデンマークの一軍人が、アフガンの民間人11人を殺害した容疑で起訴され、裁かれる。その裁判の結果、容疑者は無罪になるのであるが、自分が犯したことに対しては、割り切れない気持ちを抱えたままだ、というような内容である。

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「湘南風景」と題されたこの絵は、冬枯れの自然をモチーフにしていることから、「窓」を描いた年の晩秋か初冬の景色なのだろう。松の葉を除いては、寒々しい冬枯れの眺めが広がっている。

「夏の終わり」は、瀬戸内晴美が私小説作家として自己確立した作品である。瀬戸内は、事実上の処女作といえる「花芯」が文壇に受入れられず、文芸雑誌からも長い間締め出されていたのだったが、この小説によって、ようやく一人前の作家と認められるようになった。時に瀬戸内は、四十歳だった。

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「ナイトホーク(Nighthawks)」と題したこの作品は、ホッパーの代表作であり、またアメリカン・リアリズムの最高傑作といわれる。都会の安っぽいレストランの夜の光景を、スナップショット的に描いたものだ。タイトルの「ナイトホーク」とは、このレストランの名前ではなく、女と並んでカウンターに座っている中年男のとがった鼻を意味しているということらしい。店自体の名前は、建物上部の壁面に「PHILLIES」と書かれている。

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「ファニーとアレクサンデル(Fanny och Alexander)」は、イングマール・ベルイマンの最後の作品である。その作品をベルイマンは、映画としては異例の五時間超の長大作に仕上げた。ふつう五時間を超える長さの映画は、一時の鑑賞に堪えるものではない。そこで、独立した五つの部分からなるというような構成をとったりして、長時間観客を引きとどめておくための工夫も見て取れる。しかし、作品自体に魅力がなければ、そんなに長い時間見続ける者はいないだろう。この映画には、人をかくも長時間くぎ付けにするだけの魅力があるのである。

サルトルの存在論は意識に定位した議論であるが、その議論の中核をなすのは、意識の即自存在と対自存在という一対の概念である。この概念セットをサルトルがヘーゲルから受け継いだのは間違いない。しかし、その使い方はかなり異なっている。ヘーゲルは、即自と対自との対立を、認識の弁証的発展過程の段階と見たのに対して、サルトルはそれを存在の様相のようなものとしてみた。ここでサルトルが存在という言葉で扱う対象は、意識である。その意識に、即自存在と対自存在の対立があると考えるわけである。

大川周明といえば、5.15事件を中心とする軍部内の一連のクーデター計画に深くかかわっていたことで知られる。大川はまた、板垣征四郎などを通じて満州事変にも関わっていた。それら軍部内の動きは、日本の国家社会主義化とアジア侵略をめざしたものだった。その二つの目標を大川も共有していた。国家社会主義については、北一輝の存在があまりにも大きいため、大川はとかく北の影に隠れ、その分アジア侵略をめざす大アジア主義者としての側面が強調されるきらいがある。

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イングマール・ベルイマンの1978年の映画「秋のソナタ(Höstsonaten)」は、母娘間の葛藤をテーマにした作品である。ベルイマンはこの映画をノルウェイで作ったのだが、それは当時色々な事情でスウェーデンにいられなかったためで、映画自体はスウェーデン語で語られており、スウェーデン人の母娘関係がテーマということになっている。もっとも、画面の中にはフィョルドの風景なども出てきて、ノルウェイを感じさせる部分はある。

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「窓」と題するこの作品は、茅ケ崎の自宅の窓から外を見た眺めだ。この頃、鉄五郎はまだ体調がよく、「水着姿」など数多くの制作を手掛けていた。これは、アトリエから眺めた庭の様子。もともと医者が診察室として使っていた部屋を、鉄五郎はアトリエとして使ったという。

藤原帰一の著作「デモクラシーの帝国」(岩波新書)が分析の対象としているのは、同時代のアメリカである。この本が出版されたのは2002年9月のことで、例の9.11から丁度一年がたっていた。その一年の間に、ブッシュ(息子)がテロとの戦争を宣言し、国際社会の動向を気にすることなく、いわゆる一国行動主義によって、アメリカによる大規模な戦争に突き進んでいた。そのアメリカに対して、他の国はなすすべがなく、ただその言い分に唯々諾々と従うだけだった。そのように一方的な力の行使をするアメリカを藤原は「帝国」という言葉で表現する。帝国という言葉は、歴史的に由緒ある言葉であり、いろいろな解釈がまとわりついているが、藤原は一応、圧倒的な力を持つ大国が、世界を意のままに動かそうとする行動を帝国主義と名付け、今の(同時代の)アメリカは、まさに帝国であると喝破するのである。

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「夜のオフフィス(Office at Night)」と題するこの作品も、閉じられた空間を描いたもの。事務室の狭い空間に二人の人物が描かれている。一人はデスクに向かっている中年男で、もう一人はその男を見下ろしている若い女。女はオフィスにいるにしては、肌や体の線を露出させるような挑発的ななりをしている。それに対して中年男のほうは、女の存在をまったく気にしていないようだ。書類を扱っているところから、弁護士とか会計士を連想させる。

中論第七章は、「つくられたもの(有為)の考察」と題して、「つくられたもの(有為)」と「つくられたものでないもの(無為)」についての考察である。ここで「もの」としてテーマになっているのは「生」である。その生が「つくられたもので」であるとは、なんらかのかたちで原因をもっているという意味である。原因のないものは生じないからである。それを「有為」という言葉であらわす。一方、「無為」は「有為」の反対であって、それは「つくられたものではない」。どういうことかというと、その存在に原因がないということである。原因がないとは、その存在がそれ自身の本性に基いてあるようなことをさす。具体的には、抽象的な概念のことである。抽象的な概念は、因果の連鎖から離れて、個々の概念がそれ自体で存在している。つまり抽象的な概念は自性をもつ。

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イングマール・ベルイマンの1963年の映画「沈黙(Tystnaden)」は、「鏡の中にある如く」(1961)、「冬の光」(1962)とともに「神の沈黙」三部作といわれる。「冬の光」にはたしかに神の沈黙を思わせる表現ぶりを感じることができるが、この映画を見る限り、神がテーマになっているわけでもなく、また登場人物は決して寡黙ではない。かえって饒舌なくらいである。

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「水着姿」と題したこの絵は、日傘をさした女性をモチーフにしていることから、「若い頃の作品「日傘の裸婦」を想起させるが、「日傘の裸婦」には前衛芸術への気負いがみなぎっているのに対して、この絵は単純な平明さが持ち味である。背景の海も、またモチーフの人物も単純化され、色彩は清明である。

先般馬歯百歳を以て成仏した瀬戸内寂聴尼は、俗人の頃は小説家であった。本名の瀬戸内晴美名義で作家活動をしていた。「花芯」はその瀬戸内晴美の出世作となったものである。原稿用紙七十枚ほどの短編小説で、テーマは女の官能の解放であった。女の官能の解放といえば、この小説が書かれた頃は、ほとんどありえないことだったので、瀬戸内のこの作品はかなりスキャンダラスなものとして受け取られたはずだ。はずだ、というのも、瀬戸内よりはるかに後の世代に属する小生のような人間には、瀬戸内が生きた時代の社会的雰囲気がいまひとつ伝わってこないからだ。

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ホッパーは、自然と文明の境界のような眺めを描くのが好きだった。「ガソリン・スタンド(Gas)」と題するこの作品も、その一例だ。ガソリン・スタンドは、この絵が描かれた1940年には文明の象徴のようなものだった。それが自然そのものである森林に接してたっている。その森林は、樹木の個別性を感じさせず、鬱蒼とした緑の塊として描かれている。そのことで、人工を加えない原始的な自然を表現したつもりだろう。

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イングマール・ベルイマンの1958年の映画「魔術師(Ansiktet)」は、19世紀半ばのスウェーデンを舞台に、旅の魔術師一座の受難を描いた作品。19世紀もなかばともなれば、科学的な思考が普及して、伝統的な魔術はうさん臭い目で見られるようになっていた。そういう時代状況を背景にして、魔術師たちが迫害されるところを描いたわけである。21世紀の今日では、魔術は手品のようなものと思われて、娯楽として消費されるのであるが、19世紀の半ばのスウェーデンにおいては、魔術はまだ民衆の心をとらえるものをもっており、単なる娯楽とは思われていなかった。そんな魔術使いたちを、権力者たちが迷妄と決めつけ、迫害するのである。

かつてエリツィンとともにロシア現代史を彩った男ゴルバチョフが死んだ。エリツィンが死んだとき、小生は一文を草してその死を惜しんだことがあったが、ゴルバチョフに対しては、そんな気にはなれない。エリツィンには人に愛される能があった。ゴルバチョフにはそれがない、ということでもない。だが何といってもゴルバチョフは、ロシア史に巨大な足跡を残した男だ。何らかの形で言及せねばなるまい。

サルトルの言う「無」とは、要するに意識のことである。何故意識が無と同義になるのか。その理屈はわかりにくい。サルトルは基本的には意識絶対主義者であり、意識こそが存在を基礎づけるという考えに立っている。デカルトは「我思うゆえに我あり」と言って、とりあえず意識が自己の存在の根拠となるとしたうえで、意識の対象である物質的世界も意識によって基礎づけられるとした。デカルトは、精神と物質との二元論を主張したというのが、哲学史の常識であるが、その二つの実体としての精神と物質がいずれも意識によって根拠づけられている点では、意識一元論といってよい。それを唯心論と呼ぶかどうかは、趣味の問題に過ぎない。

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