2022年11月アーカイブ

かつてトランプが大統領だった時に、日本を含めた同盟国に防衛予算の大幅増加を要請したのは、アメリカの負担軽減という意味合いもあったが、もっと露骨にいうと、増加した防衛予算で米軍需産業への注文を増やし,米国経済を潤したいという意向が働いていたと考えられる。その際、日本は聞こえないふりをして、トランプの要請にストレートに応えようとはしなかったものだ。

france47.maree2.jpg

1999年のフランス映画「クリクリのいた夏(Les Enfants du marais)」は、貧しいながら誇り高きフランス庶民のつつましい生き方を描いた作品。監督のジャン・ベッケルは、「モンパルナスの灯」などで知られるジャック・ベッケルの息子である。父親はエンタメ性の高い映画を手掛けたが、息子のほうは、ほのぼのとした人情劇が得意なようだ。

一休といえば、徳川時代に形成された頓智話の主人公としてのイメージが強い。加藤周一は、そうしたイメージには民俗学的関心をひき付けるものがあるといいながら、自分が一休にひかれるのは、詩人としての一休であるという。加藤は一休を「形而上学的詩人」と呼んで、日本の歴史上稀有な人物だと位置づけている。最高の詩人とはいわないで、型破りな詩人であるといい、かれの前後には、ほかに類を見ないというのである。

r3c.1728.rae1.jpeg

ジャン・シメオン・シャルダン(Jean-Baptiste Siméon Chardin 1699-1079)は、ロココ時代に活躍した画家であるが、いわゆるロココ風とは一線を画し、静物画や風俗画といった卑近な画題について、極めてリアリスティックな画境を追求した。時代の流れとは離れていたわけである。しかしどういうわけか各方面から高い評価をうけた。ロシアのエカテリーナ女帝が、サンクトペテルブルグの宮殿を、かれの作品で飾ろうとしたことは有名な逸話である。

france53.trou.jpeg

ジャック・ベッケルの1960年の映画「穴(Le Trou)」は、刑務所からの囚人の脱獄をテーマにした作品。実際に起きた脱獄事件について、その当事者の一人が書いた文章をもとに映画化したものである。当事者の証言に基いていることもあって、かなりな迫力を感じさせる。

鈴木大拙は、華厳経の三つの重要概念として、菩薩道、発菩提心及び菩薩の住処をあげている。菩薩道とは、声聞や縁覚といったいわゆる小乗の行者と比較した大乗の行者としての菩薩の道をいい、発菩提心は、衆生を救済すべく菩薩たらんとする決意をいい、菩薩の住処とは菩薩が到達した境地をいう。これら三つの重要概念の詳細な説明が、第二篇以下の課題である。

サルトルのボードレール論は、かれの言う「実存的精神分析」を適用したものである。これはフロイトの精神分析に対抗したものであって、その概要については、「存在と無」のなかで触れられている。それをごく単純にいうと、人間とは彼の自由な意思(意識の選択)の産物であるというものだ。フロイトは、無意識とか言語といった、個人の意識のコントロールに服さない要素が個人の生き方を決定づけると考えたわけだが、サルトルはそいいう考えを完全に否定し、個人はかれの自由な意思の産物であり、その自由な意思の担い手である意識の範囲が、かれの人生全体と重なり合うと考えた。そうならば、デカルト的な明晰な意識を分析すればすむ問題であって、なにもフロイトの無意識を思わせる精神分析というような言葉を使わずに済むだろうと思うのだが、なにしろフロイトの影響力はすさまじく、人間の精神を論じる時にそれを無視するわけにもいかない。そこでとりあえず精神分析という言葉を使いながら、それにサルトル得意の実存的という言葉を重ね合わせたわけであろう。

r2boucher1756.1.jpeg

ポンパドゥール夫人は、フランス国王ルイ十五世の公妾として、宮廷サロンを主宰し、学者や芸術家を庇護したことで知られる。フランスのロココ文化の華というべき女性である。もともと平民の出身であり、徴税請負人と結婚したのであったが、美しい女に目がなかったルイ十五世の心をとらえ、夫と別居して、国王の妾となったのであった。

プーシキンの短編小説集「ベールキン物語」は、正確には「故イヴァン・ペトローヴィチ・ベールキンの物語」といって、1830年の秋、ニジゴロド県ボルヂノ村の別荘で短期間で書き上げた。その時プーシキンはナターリア・ニコラーエヴナ・ゴンチャローヴァと婚約したばかりだった。だから精神的に充実していたはずだ。それまでプーシキンは主に詩を書いており、その延長で韻文の作品「エヴゲーニイ・オネーギン」を書いたりしていたのだったが、心機一転して散文の作品を手がけた。とりあえずは短編小説集という体裁をとったが、そこに収められた五つの短編小説は、ロシア文学最初の本格的なリアリズム小説であり、のちのロシア文学の、とくに小説の手本となったものである。

イーロン・マスクがツイッターを買収した後、ツイッターの存続にとって不利益になることばかりやっているので、マスクはツイッターをつぶすつもりだという憶測が流れているようだ。マスクはツイッターを買収するために四百四十億ドル(日本円で六兆円以上)もかけているので、まさかその大金をどぶに捨てような真似をするとはとても考えられないのだが、かれの実際にやっていることがツイッターをつぶす方向に左右するだろうことは確実に言えることである。

france52.casque.jpeg

ジャック・ベッケルの映画「肉体の冠(Casque d'or)」を小生が見たのはまだ若いころのことだが、そのさいには強烈な印象をもったことを覚えている。爾来小生はこの映画を、フランス映画を代表する作品の一つと思うようになった。

r2boucher1751.01.jpeg

「ヴィーナスの化粧(La Toilette de Vénus)」は、かつてポンパドゥール夫人の浴室兼化粧室の壁を飾っていた。「水浴のディアナ」もその部屋に一緒に飾られてあったという。この絵は、三人のキューピッドを従えたヴィーナスをモチーフにしている。ヴィーナスは、ブーシェ得意のモチーフで、繰り返し手がけている。

「クリーンなタカよりダーティなハトのほうがまし」という言葉が、一時メディア界ではやったことがあると聞いたことがある。おそらく田中角栄のような政治家を念頭においたものだと思う。田中角栄は、とかくダーティなイメージがつきまとっていたが、国際関係をめぐっては、平和主義者であって、中国との和解をすすめるなど、国際協調の精神も感じさせた。

france57.ane.jpeg

ジャック・ドゥミの1970年の映画「ロバと王女(Peau d'Âne)」は、シャルル・ペローの童話「ロバの皮」をミュージカル風に仕立てた作品。ペローは、古いおとぎ話「灰かぶり姫(別名シンデレラ)」をもとに、父娘の近親婚とか金の糞をひりだすロバの話を組み合わせた。この映画はそれをミュージカルに仕立てることで、実に楽しい雰囲気を醸し出している。文句なしに楽しめる映画だ。

加藤周一は、世阿弥の能楽論を評して、日本における芸術論の稀有なものだと言っている。日本には、平安朝以来の歌論の伝統があるが、それ以外では、芸術論として見るべきものがほとんどないというのである。しかも、世阿弥の芸術論は、通常の意味での芸術論ではない。通常の意味での芸術論は、一般の読者を想定して、芸術の意義を論じるものだが、世阿弥の場合には、自分の後継者に向かって、自分自身の個人的な体験を語っており、その目的は、家業としての能楽を自分の後継者に身をもってわかってもらうことであった。

r2boucher1742.01.jpeg

「水浴のディアナ(Diane sortant du bain)」と題されたこの作品は、「ヴィーナスの勝利」と並んで、ブーシェの最高傑作というべきもの。1742年のサロンに出展され、その際には「女従者とともに水浴を終えるディアナ」と題されていた。その後、簡略化され、「水浴を終えるディアナ」となった。日本では「水浴のディアナ」と呼ばれる。

france50.cherbourg2.jpeg

1964年のフランス映画「シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg)」は、フランス流ミュージカル映画である。ミュージカルはイギリスが発祥で、英語圏では人気のある演劇分野だが、フランスでは盛んではなかった。そんなこともあってこのミュージカル作品には、なにかとってつけたような不自然さを感じる。それでも当時は世界的な評判となり、カンヌでグランプリをとったほどだった。それにはミシェル・ルグランの音楽が大きな役割を果たしたといえる。

鈴木大拙は自分自身を禅者として認識している。その禅者としての立場から華厳経を研究したものが「華厳の研究」である。大拙が華厳経を禅と結び付けて考えるようになったきっかけは、二つあるように思える。一つは、禅そのものが体験本位のあまり文字を軽視する傾向がはなはだしい結果、ある種神秘主義に陥りがちになるので、その神秘主義が極端に陥らぬよう、ある程度文字による哲学的な支えが必要になる。華厳経は、その支えになる資格があると大拙はみた。もう一つは、大拙自身の禅の体験を、文字によって他人に知らせようとする場合、華厳経に描かれた世界の描写が非常に頼りになる。大拙は、禅定によってある種のさとりの境地に達するのを感じるのだが、そのさとりの境地を言葉で表せば、華厳経の描写する世界となるのではないか。つまり華厳経が描いた世界は、禅者が禅の境地として体験する世界なのではないか。そのように大拙は考えて、華厳経を禅と強く結びつけて考えたようである。

サルトルは「存在と無」を、ヘーゲルの「精神現象学」を強く意識しながら書いた。かならずしも大きな影響関係があったというわけではないが、即自・対自の概念セットとか、個人の他者との関係のモデルとしての主人と奴隷に関する議論をほぼそのまま受け容れている。だが、ヘーゲルの方法論の特長であった弁証法については、ほとんど考慮を払っていなかった。サルトルが弁証法と取り組むようになるのは、マルスス主義との対決を通じてである。

r2boucher1740.11.jpeg

「ヴィーナスの勝利(Le Triomphe de Vénus)」と題するこの作品は、ブーシェの最高傑作と呼ぶべきもの。かれはこれを1740年のサロンに出展した。その後、スウェーデンの駐仏大使で美術収集家だったカール・テッシンに買い取られ、更にスウェーデンの国家予算で買い取られた。テッシンが発注したとの説もある。

プーシキンは、ロシア近代文学の父といわれる。「エヴゲーニイ・オネーギン」は、そのプーシキンの代表作といってよいから、ロシア近代文学の模範となった作品だ。ヨーロッパの各国には、それぞれ近代文学の出発点となり、その後の民族の文学にとって手本となるような作品があるものだ。イタリアの場合にはペトラルカの詩集がそうだし(ダンテは近代文学とはいえない)、フランスではラブレーの「ガルガンチュア」がそうだし、イギリスではシェイクスピアの「ハムレット」がそうだし、スペインでは「ドン・キホーテ」がそれにあたる。それら各国のケースからはかなり遅れるが、ロシアではプーシキンの「エヴゲーニイ・オネーギン」を以て、ロシア近代文学の夜明けを画するものとする見方に異存はないと思う。

uk23.iris1.jpg

リチャード・エアの2001年の映画「アイリス(Elegy for Iris)」は、アルツハイマー病に襲われた妻と、そんな彼女を献身的に介護する夫の間の、感動的な夫婦愛を描いた作品。アルツハイマー病をはじめ認知症は、高齢化の進展もあって、いまでは誰にとっても身近な問題だ。自分自身いつ認知症にならぬとも限らぬし、また配偶者がならぬとも限らない。だからこの映画で描かれたような夫婦間の問題は、誰にとっても他人事ではない。誰もがいずれ自分自身が向き合わねばならなくなる境遇だ。

r2boucher1739.11.jpeg

ブーシェは、神話や伝説に題材をとった優雅でかつ壮大な作品が得意だったが、同時代の風俗を描いた作品もある。「昼食(Le déjeuner)」と題されたこの作品は、かれの風俗画の代表的なもの。ブルジョワ家族の昼食の一コマを描いている。

uk22.2.mary.jpeg

テレンス・デイヴィスの2016年の映画「静かなる情熱 エミリー・ディキンソン」は、アメリカの偉大な女性詩人エミリー・ディシンソンの半生を描いた作品。エミリー・ディキンソンは、エドガー・ポーと並んで、アメリカが生んだ偉大な詩人ということができるが、その生涯には不明な点が多い。わかっているのは、そう長くはない人生を静かに閉じたということくらいだ。そんなエミリーの伝記的な事実を掘り起こし、彼女の人間的な面を描き出そうというのが、この映画の目的のようである。監督のテレンス・デイヴィスはイギリス人で、この映画もイギリス映画として作られたが、エミリーの生きた19世紀半ばのアメリカ北部を舞台にして、当時のアメリカ人の生き方にも気を配っている。


戦後日本では、日本人論あるいは日本文化論が大いに流行ったことがあった。いろいろな原因があったと思う。あの無謀というべき戦争に負けたことがもっとも大きな要素だったと考えられる。敗戦のショックが、日本人を反省させて、そのような敗戦をもたらした日本人の心性あるいは日本文化の特徴について考えさせたのではないか。その反省は、日本人及び日本文化の特異性の強調に向かうか、あるいはその逆に、失われた自信を償うように、日本人及び日本文化の優秀性を喧伝する方向に向かうか、そのどちらかだった。

r2boucher1732.venus1.jpeg

ヴィーナスとその夫ヴォルカンをモチーフにした作品を、ブーシェはいくつも作っている。年代も長きにわたっている。「ヴィーナスとヴォルカン(Vénus et volcan)」と題したこの作品は、もっとも初期のもの。ローマ賞を受賞した翌年の1732年に制作している。

ウクライナ戦争をめぐって、自由でリベラルな国家と専制的な国家の対立という図式が流布されている。欧米をはじめとしたリベラルな国家は、自由と民主主義を奉じるウクライナが、専制的な国家であるロシアに侵略されるのを見過ごすことはできない、といった理由から、欧米諸国のウクライナ戦争への介入が正当化されている。それは、今の国際社会の深刻な分断を反映しているのであろう。そういう状況をどう考えるか。雑誌「世界」の最新号(2022年12月号)が、「分断された国際秩序」と題して、ウクライナ戦争をめぐる、世界の分断について特集している。

uk22.1.orange1.JPG

ジム・ローチの2011年の映画「オレンジと太陽(Oranges and Sunshine)」は、児童移民と称される子どもの人身売買をテーマにした作品。これはイギリス政府とオーストラリア政府が結託して実施していた制度で、イギリス国内の養護施設の児童を移民としてオーストラリアに送り込んできたというものだ。多くの場合送り込まれた児童は、虐待や強制労働など、ひどい待遇を受けたと見られる。イギリスにとっては、無用者の厄介払いになるし、オーストラリアにとっては人口不足対策になるというので、両国政府にとって都合のよい制度であった。

一遍聖絵は、成立後京都の歓喜光寺に伝わってきたが、現在は神奈川県藤沢の清浄光寺(通称遊行寺)が所蔵している。全十二巻のうち第七巻は、東京の国立博物館にある。遊行寺のものには、第七巻の後補物が含まれている。東京国立博物館では、全巻をデジタル映像にして、ネットで公開しているので、誰でも見ることができる。一部保存の状態が悪く、文字が判読できない部分があるが、それについては、複写本で補わねばならぬ。岩波文庫から出ている全文のテクストは、複写本を参照しながら足りないところを補なったものである。

サルトルの論文「方法の問題」は、もともと独立した論文として1957年に「レタン・モデルヌ」に発表されたものだ。それが1960年に「弁証法的理性批判」の刊行に際して、その冒頭に収録された。この大著にとっての緒論的な扱いであった。サルトルがそうしたわけは、この論文が実存主義とマルクス主義との関係、その革新的な問題としての弁証法の位置づけについてテーマとしていたからだろう。要するに「弁証法的理性批判」における問題提起を、この論文が先取りしており、したがってそれの緒論としてふさわしいと考えたからだと思われる。

r2boucher1730.1734.11.jpeg

フランソワ・ブーシェ(François Boucher 1703-1770)は、ヴァトーより一世代後の、ロココ最盛期を代表する画家である。芸術上の運動としてのロココは、フランスの宮廷を中心として発展したのだったが、ヴァトー自身は、民間のパトロンの庇護を受けるにとどまり、宮廷社会とは距離があった。それに対してブーシェ、宮廷の厚い庇護を受け、いわば宮廷画家としての名誉を享受した。その画風は、ロココのなかでももっともロココらしいといわれるように、華麗で絢爛なものであった。

「ボリス・ゴドゥノフ」は、詩人として出発したプーシキンにとって、散文による最初の本格的文芸作品である。これをプーシキンは、戯曲の形に仕上げた。プーシキンは若い頃からシェイクスピアの戯曲を愛読しており、この作品にはシェイクスピアの影響があると思われる。若い頃からといったが、この戯曲を書き上げた時、プーシキンはまだ二十六歳であった。

四方山話の会の全体会をおよそ半年ぶりに催した。会場は例の通り新橋の焼き鳥屋古今亭。集まったメンバーは八名。その中には初めて出席する神子も含まれていた。その神子と小生のほかに、赤、柳、梶、石、浦、岩の諸子が参加した。神子とは学校卒業以来はじめて逢うので、実に半世紀ぶりのことだ。

uk21.grader2.JPG

2011年公開のイギリス映画「おじいさんと草原の小学校(The First Grader)」は、ケニアの現代史に題材をとった作品。歴史の明るい面と暗い面とを対比させながら、ケニア現代史を複合的に捉えようとしたものだ。

r1w1721.1.paris1.jpeg

パリスの審判はギリシャ神話に取材したモチーフで、ルネサンス以降多くの画家が描いてきた。有名なものとしては、クラナッハとルーベンスのものがある。両者とも、ヴィーナス、ミネルヴァ、ジュノーの三人を並べて描いている。それに対してヴァトーのこの作品は、ヴィーナスに焦点が当てられ、ほかの二人の女神はわき役に撤している。

ire12.magda4.jpeg

2002年のアイルランド・イギリス合作映画「マグダレンの祈り(The Magdalene Sisters)」は、アイルランドにおける女性への社会的虐待をテーマにした作品。性差別意識に基づく女性への虐待は、21世紀のタリバンの例を持ち出すまでもなく、世界中に普遍的に見られた事象であったが、この映画で描かれた女性虐待は、家族から拒絶されたり社会に居場所を失った女性たちが、いかに悲惨な境遇に陥るかを、言語を絶するようなリアリティを以て描かれており、見ていてため息が出てくるほど陰惨な映画である。

2022年の総選挙の際に、奈良県で自陣営の候補者の応援演説をしていた安倍晋三元首相が、一民間人によって殺害される事件が起きた。この事件は個人的な怨恨による犯罪だとすぐにわかったが、その動機が世間の耳目を集めた。1970年台を中心に、いわゆる霊感商法を通じて多額の金を不当に集めたとされる統一教会がからんでいたからである。犯人の母親は統一教会の信者となって、多額の金を寄付するなどして家庭が崩壊した。そのことについて怨恨を抱いていた犯人は、安倍晋三元首相がこの団体と深いかかわりがあると思い込み、団体に対する怨恨を安倍個人に向けなおして殺害したというのである。

r1w1720.1.gersin1.jpeg

アントワーヌ・ヴァトーの作品「ジェルサンの看板(Enseigne de Gersaint)」は、彼の晩年の傑作であり、「シテールへの船出」と並んでフランスロココ美術の頂点をなすものとの評価が高い。

ire11.collins1.jpeg

1996年のアイルランド・英米合作映画「マイケル・コリンズ」は、アイルランドの伝説的な政治指導者マイケル・コリンズをテーマにした作品。コリンズは、1910年代における対英独立闘争を指導し、英蘭和解の後に勃発した内戦では、対英協調派の指導者として活躍し、1922年に反対派によって殺害された。映画はそんなコリンズの戦いの半生を描く。

中論第二十五章は「ニルヴァーナの考察」である。ニルヴァーナとは、漢訳で涅槃ともいわれ、釈尊が最終的にさとりを開いたところの境地をさして使われる言葉である。仏教では輪廻を解脱した世界というのが、だいたいの共通理解となっているが、その積極的な内容については、かならずしも明確ではない。中論をそれを明確にしようとするのであるが、しかしその説明の仕方はあいかわらず雲をつかむようであり、今一つ判然としないところがある。

サルトルが「唯物論と革命」を書いた1946年は、フランス共産党の権威が非常に高まっていた時期であり、また、革命への期待も高まっていた。そうした時代背景のなかで、サルトルは共産主義者たちと対決する必要を感じて、この文章を書いたといえる。サルトルがいう共産主義者は、革命者であって、かつマルクス主義者であった。サルトルの共産主義者への態度は、革命への原動力としては尊重する一方で、かれらの思想である唯物論については、厳しく批判するというものだった。それゆえこの書は、革命への情熱を煽る一方、唯物論を主張するマルクス主義を批判するという戦略をとっている。

r1w1719.3.11.jpeg

「フランス喜劇の恋( L'amour au Théâtre Français)」は、ヴァトーの数多くの演劇趣味のうちの一作。舞台上と思しき場所に、劇団の一座が集合した場面。よく数えていると、劇団員は16人いて、それらが半円状に並んでいる。その中心にいるのは、画面やや左手に立っている女性。彼女の視線の先には色男がおり、彼女とその色男のやりとりを、まわりのものらが見ているという構図である。

瀬戸内晴美が得度して寂聴を名乗ったのは昭和四十八年(1973)満五十一歳の年であった。出家の理由は煩悩から逃れることだったと本人も語っている。彼女は多感な女であって、つねに恋をしていた。その恋が彼女にとって煩悩のたねとなり、気の休まる時もなかった。五十の坂を超えたとき、さすがに煩悩に囚われた自分があさましく思われ、濁世を捨てて出家する気になったのだと思う。

kobayashi06.lear.jpeg

小林政広の2017年の映画「海辺のリア」は、シェイクスピアの有名な戯曲「リア王」を下敷きにした作品。「リア王」のテーマは、子による親捨だった。この映画もまた、子による親捨て、つまり子に捨てられた父親の嘆きをテーマにしたものである。時代も社会状況も全く違うから、この二つの親捨てを同じ平面で論じることはできないが、親捨てという普遍的な事象について、いくらかは考えさせてくれる。

r1w1719.2.pastral1.jpeg

「田園の楽しみ(Fête galante)」と題されたこの作品は、田園にピクニックに出かけた若い男女たちを描いたもの。多くのカップルたちが、森の中の空地に腰掛け、思い思いにくつろいでいる様子を描く。「シテールへの船出」とはまた異なった趣の田園趣味を表現した作品である。

kobayashi05.higeki.jpeg

小林政広の2012年の映画「日本の悲劇」は、2010年に起きた高齢者死後の年金不正受給事件に直接のヒントを得たものだ。これは、親の死後も、生きていると見せかけて、年金を不正に受給していたというものだったが、その背景には深刻な貧困問題があった。小林はその貧困問題のほうに焦点を当てて、この映画を作った。その貧困は、小泉政権の新自由主義的な政策のもたらしたものである。その政策は日本社会を勝ち組と負け組に分断した。この映画はその小泉の贈り物というべき負け組の怨念をテーマにしたものである。

小生がこの一文を書いているのは2022年の7月だ。ちょうど参院選があったばかりで、自民党が圧勝、改憲勢力が三分の二の多数を占める一方、政権批判勢力は大きく後退した。投票日直前に安倍晋三元総理大臣が元自衛隊員によって殺害されるハプニングもあった。安倍といえば、日本の右傾化を先導してきた人物であり、日本における右翼の定義として、安倍の個人的な言動が基準にされるほど、日本右翼の象徴的な存在である。その安倍の死は、右翼への打撃になるどころか、むしろ右翼の国民運動化へ向けてのモメンタムを強めるのではないかと思われるほどである。日本の右翼は安倍の殺害をテロリズムと位置づけ、右翼を批判するものもテロリストの一派と見なしている。しかもそんな安倍を国葬しようとする動きも、政権中枢の周辺で強まっている。安倍を国葬にすることで、安倍の体現する右翼思想を、日本の国是にしようとでもいうかのようである。

r1w1719.1.1.cithere1.jpeg

「シテールへの船出(L'Embarquement pour Cythere)」は、ヴァトーの代表作であるのみならず、ロココ芸術を代表する傑作である。ロココ的な典雅な雰囲気がもっとも豪華絢爛に表現されている。ヴァトーはこのモチーフを二点制作しており、パリにあるものが最初に作られ、その一年後にベルリンにあるものが作られた。

ガルブレイスは「ゆたかな社会」のなかでインフレーションの問題に大きな関心を寄せている。ガルブレイスがこの本を書いた時代、つまり第二次大戦後は、アメリカをはじめほとんどの先進資本主義国がインフレーションに悩んでいた。デフレが常態化していた近年の日本などでは想像もつかないが、かつては、日本でも深刻なインフレが経済学上もっとも大きな問題だったのである。

最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ