山本薩夫の1966年の映画「氷点」は、三浦綾子の同名の小悦を映画化した作品。原作は朝日新聞に連載され、大きな反響を呼んだ。山本による映画化のほか、テレビドラマとして繰り返し取り上げられており、海外でもリメークされている。テーマが、継母による継子いじめというわかりやすく、しかも普遍的なものだからであろう。
映画を語る
山本薩夫の1962年の映画「忍びの者」は、大映の永田雅一に招かれて作った作品である。それまでメジャーの映画会社と縁のなかった山本を、共産党嫌いの永田が招いたのは、山本の実力を評価したからだといわれる。その評価と期待に応えるようにして、山本はこの映画を、大衆受けのする娯楽映画として作った。実際この映画は大ヒットし、後続編が作られたほどである。
山本薩夫の1961年公開の映画「松川事件」は、1949年に起きた国鉄列車転覆事件をテーマにした作品。この事件は戦後最大の冤罪事件といわれた。20人が起訴され、第一審では死刑の五人を含め全員が有罪となったが、最終的には全員無罪となった。そのことから仕組まれた冤罪といわれ、そこに国家権力の意思を見るものもある。この事件が起きた1949年ごろは、共産党や労働組合の影響力が高まり、革命を感じさせるような雰囲気もあったので、それをおそれた権力がつぶしにかかったのではないか、という憶測がなされたものである。
山本薩夫の1960年の映画「武器なき斗い」は、左翼代議士山本宣治の半生を描いた作品。半生といっても、大正十四年(1925)から、右翼に殺された昭和四年(1929)までの四年間をカバーしているだけなので、晩年を描いたといってよい。しかしこの四年間に、大学での弾圧にまきこまれて追放されたり、小作人の騒動にかかわったり、官憲の追跡を受けたり、また、昭和三年(1928)の第一回普通選挙に労農党から立候補して代議士になったりする。そのあげく、過激な行動を憎まれて右翼のテロリストに殺されるという、実に波乱に富んだ四年間だったのである。
山本薩夫の1959年の映画「荷車の歌」は、全国農協婦人部の寄付金で作られた作品だそうだ。どういう意図から農協がかかわったのか。おそらく農村における女性の地位向上を目的としたのではないか。この映画を見ると、農村の女性は二重の意味で抑圧されている。一つは家庭における処遇の厳しさであり、一つは社会的な性差別である。家庭での抑圧は、姑によるいじめにあらわされ、社会的な差別は女が自立できる仕事がないことであらわされる。この映画の女性主人公は、経済的な自立をいくらかでも得たいと思えば、男と同じ仕事をするよう迫られるのである。一方、女性主人公は、好きな男と一緒になって添い遂げることになっているから、一応意に沿った生涯を送ったといえる。亭主に浮気されることもあったが。いづれにしても、抑圧されて苦しむばかりでもなかったというふうに描かれている。だから、不自由なことがあったとはいえ、農村婦人としては成功した例ではないかと思わせるのである。
山本薩夫の1950年の映画「暴力の街」は、戦後の混乱期における暴力組織の暗躍にメスを入れた作品。暴力団と結んだ町の有力者が警察や検察と手を組んで町の政治を牛耳る。それに対して正義漢のある新聞記者が立ち向かい、その心意気に様々な人々が応えて、腐敗した町の政治を刷新するといった内容である。
賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の2018年の映画「帰れない二人(江湖儿女)」は、現代の中国人女性の生き方を描いた作品。中国人女性の伝統的なイメージは、纏足に代表されるようなさまざまな束縛にしたがい、受動的にふるまう姿であったが、この映画に出てくる女性は、自立した女であり、男に従属するのではなく、男を従属させる。そんな女性が現代中国社会の主流なのかどうか、外国人の小生にはわからない。しかし、巨大な社会変動を経験しつつある現代中国において、そのような新しいタイプの女性が現れても不思議ではない。
賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の2015年の映画「山河ノスタルジア(山河故人)」は、経済発展の過渡期における中国庶民の命運のようなものをテーマにした作品。改革開放後の経済発展は、地域相互の格差のほか、発展のプロセスにうまく乗ったいわゆる勝ち組と、乗り損なった負け組との分断をももたらした。勝ち組の中でも、申し分のない成功を満喫した連中と、物質的な成功のかわりに精神的な価値を失ったものもいる。この映画に出てくる中国人には、そうしたさまざまなタイプの人間を指摘できる。伝統的な中国社会から、近代的な社会へと転換する過程の中で、中国人としてどのように生きるべきか、というような問題意識が込められている作品である。
賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の2004年の映画「世界」も、オフィス・キタノの協力を得て、日本資本が加わって作られた作品。同時代の中国の若者たちの生態を描いている。前作の「青の稲妻」では、内陸部の発展が遅れた地域で暮らす若者たちの、豊かさへのあこがれがテーマだったが、この映画では、北京に暮す若者たちの生きざまがテーマである。もっともかれらのほとんどは、北京出身ではなく、地方から出稼ぎにきたのである。
賈樟柯(ジャ・ジャンクー)は、中国映画の第六世代を代表する監督だ。1997年のデビュー作「一瞬の夢」が早くも世界的な注目を集めた。二作目の「プラットホーム」(2000年)は、日本の北野たけしオフィス北野と連携した作品で、1980年代の中国に生きる若者たちを描いた。
2016年のイタリア映画「海は燃えている(Fuocoammare)」は、イタリア最南端の小さな島ランペトゥーサを舞台にしたドキュメンタリー映画である。島に暮らす人々の日常を追う一方で、アフリカからの難民の苦境を映し出す。この小さな島に、過去40万人のアフリカ人が上陸し、15000人がおぼれ死んだとアナウンスされる。そんなにも大勢のアフリカ人がやってくるのは、アフリカ大陸から最も近いからだろう。チュニジアから50キロしか離れていない。それでも海を渡るのは命がけのようで、大勢の人々が死ぬという。
2016年のイタリア映画「はじまりの街(La Vita Possibile)」は、家族が解体の危機に陥り、母子が再出発に向けて模索するさまを描く。その過程で、13歳の少年が次第に自己を確立していく。現代イタリアの家族関係を、少年のイニシエーションを絡ませながら描いたヒューマンドラマである。監督はイヴァーノ・デ・マッテオ。
2016年のイタリア映画「おとなの事情(Perfetti sconosciuti)」(パオロ・ジェノヴェーゼ監督)は、スマホ社会におけるプライバシーの脆弱性を嘲笑的な視点から描いた作品。仲の良い友人仲間が、パーティの席上、スマホの中身を互いに公開するというゲームを始める。すると当然のことながら、不都合な事実が次々と暴露されて、居合せたメンバーはみな窮地に陥る。スマホがプライバシーの拠点となっていることは分かっているのだかから、それを公開することは、自分をさらけ出すことを意味する。だから、プライバシーが暴かれて窮地に陥った人間は自業自得なのだという冷笑的な視線が伝わってくる映画である。
2003年のイタリア映画「輝ける青春(La meglio gioventù )」は、イタリア人の家族の37年間の時の流れを描いた作品。日本でいう「大河ドラマ」だ。大河ドラマの特徴は、特定の事象に焦点をあてて、それを劇的に表現するのではなく、時間の流れを追うことで、その時代が帯びていた雰囲気をなんとなく分からせるところにある。この映画の場合、その雰囲気とは、イタリア人家族特有のあり方が醸し出すものだ。この映画を見れば、イタリア人の家族関係の特徴がわかる。それは濃密な触合いに支えられたものだ。そうした濃密な家族関係は、いまの日本では珍しくなってしまったので(あるいはほとんどなくなってしまったので)、非常に新鮮にうつる。
1949年のイタリア映画「にがい米(Riso amaro)」は、ロンバルディア地方の水田地帯を舞台に、イタリア人女性の季節労働をテーマにした作品。それに、二組の男女の数奇な関係を絡ませてある。
2019年のアメリカ映画「SKIN/スキン(Skin)」は、アメリカのネオナチの暴力をテーマにした作品。トランプの登場によってアメリカの極右団体が勢いづき、ナオナチやKKKといった人種差別主義者が暴力的な活動を激化させていった。2021年1月6日におきた連邦議会襲撃事件は、その象徴的な出来事だった。この極めて異様な現象に対して批判的な目を向け、頭のおかしくなったアメリカ人たちに反省を迫ろうというのが、この映画の趣旨のようである。
トッド・フィリップスの2019年の映画「ジョーカー(Joker)」は、人気漫画バットマンのキャラクターであるジョーカーがどのようにして生まれたかをモチーフにした作品と捉えられているようだが、小生のようにバットマンを知らない人間にとっては、アメリカの格差社会のひどい現実を描写したもののように受け取れる。
アンドレイ・ズビャギンツェフの2017年の映画「ラブレス(Нелюбовь)」は、現代ロシア社会における家族の崩壊をテーマにした作品。それに警察の腐敗を絡ませてある。ズビャギンツェフには、地方行政の権力の腐敗をテーマにした作品「裁かれるは善人のみ」があり、権力の腐敗ぶりによほど意趣を持っているようである。警察も権力そのものなので、それを批判することは、政権批判を意味するだろう。じっさいズビャギンツェフはプーチン政権に眼の仇にされているそうだ。
アンドレイ・ズビャギンツェフの2014年の映画「裁かれるは善人のみ(Левиафан)」は、カフカの不条理小説を思わせるような作品だ。悪徳市長から家財産を略奪されそうになった男が、モスクワから古い友人の弁護士を呼び寄せて戦おうとする。弁護士はいろいろな手を使って市長を倒そうとするが、返り討ちになって尻尾を巻いて逃げ去り、男も妻を殺害した容疑で裁かれる。妻は海で死んだのだが、どのようにして死んだのかわからない。だから男は冤罪を着せられたともいえる。その男はまた、信頼していた弁護士に妻を寝取られた。そんなわけで、男にとっては往復びんたをくらったようなものだ。男は善人なのだが、その善は市長が体現する悪の前では何ものでもない。正義は権力にあり、裁かれるのはいつも善人なのだ。
チェコ・ウクライナ合同制作による2019年の映画「異端の鳥」は、ナチス時代のユダヤ人への迫害をテーマにした作品。一人のユダヤ人少年が、ナチス支配下の東欧において、途端の苦しみをなめながら放浪するさまを描く。せりふがほとんど発せられないので、観客は強いストレスを感じる。かれが迫害される理由がユダヤ人であることも、映画がかなり進んだ時点で理解されるのである。そのたまに発せられるせりふというのが、インタースラヴィックという、スラヴ諸国語を合成した人工言語だというから、よけいにわけのわからぬところがある。実験的な色彩の強い映画といってよい。
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