映画を語る

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イングマール・ベルイマンの1958年の映画「魔術師(Ansiktet)」は、19世紀半ばのスウェーデンを舞台に、旅の魔術師一座の受難を描いた作品。19世紀もなかばともなれば、科学的な思考が普及して、伝統的な魔術はうさん臭い目で見られるようになっていた。そういう時代状況を背景にして、魔術師たちが迫害されるところを描いたわけである。21世紀の今日では、魔術は手品のようなものと思われて、娯楽として消費されるのであるが、19世紀の半ばのスウェーデンにおいては、魔術はまだ民衆の心をとらえるものをもっており、単なる娯楽とは思われていなかった。そんな魔術使いたちを、権力者たちが迷妄と決めつけ、迫害するのである。

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大林宜彦の2020年の映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」は、大林にとって遺作となった作品。大林が最初の商業映画「HOUSEハウス」を作ったのは1977年のことだから、それから40年以上も経っているわけである。その間に作った長編映画の数は44作というから、実に多産な監督だったといえよう。

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濱口竜介の2018年の映画「寝ても覚めても」は、かれにとって出世作というべき作品だ。「ドライブ・マイ・カー」が面白かったので、ついでに見たのだったが、これもやはり面白く感じた。その面白さは、最近の若い日本人の、異性愛の変化を、この映画が敏感に反映しているからだろう。異性間の恋愛は、女性がリードするというのは、日本では昔から一定程度散見されることではあったが、近年の日本人は、男の引っ込み思案が高じて、異性間恋愛が始まるためには女がリードしなければならないし、その成功の度合いも女の努力にかかわる割合が大きくなってきている。この映画は、そうした近年の日本の異性愛の傾向を象徴的に示しているように思えるのである。

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橋口亮輔の2008年の映画「ぐるりのこと」は、なんとなく結婚している若い夫婦の日常を描いている。タイトルからして、かれらの周囲を描いているというふうに伝わってくる。ただ、全く無風な生活というわけではない。生れてきたばかりの子供が死んでしまうし、そのこともあって妻はうつ状態になってしまうし、夫のほうは、趣味の絵を仕事にできたはいいが、その仕事が法廷画家というやつで、被疑者の表情を身近に見て描かねばならない。ただ描くだけではなく、裁判の進行も見せられる。裁判にはひどい内容のものもあって(たとえば人肉食)、気の弱いものには直視できない。

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橋口亮輔の2001年の映画「ハッシュ」は、ゲイのカップルの共同生活にセックス好きの女が割り込みややこしい三角関係を形成するという話。何といっても、ゲイカップルのセックスライフをあけすけに描いたところが見どころ。この映画以前には、特殊なポルノ映画を除いては、ゲイのセックスライフを正面から取り上げた作品はなかった。おそらく、デレク・ジャーマンあたりの影響だと思う。

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河瀬直美の2020年の映画「朝が来る」は、特別養子縁組を通じてさずかった子どもを大事に育てる夫婦の物語と、その子どもを産んだ母親の物語を交差させながら描いた作品。色々と考えさせるところの多い映画である。だが、見方によっては、受け取り方に違いが出てくるタイプの作品だ。それだけ、含蓄に富んでいるともいえる。

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安藤桃子の2014年の映画「0.5ミリ」は、安藤自身の小説を映画化した作品。原作は老人介護をテーマにしているそうだが、映画は、介護もさることながら、老人を巧みにあやつって快適なホームレス生活を送る一人の女の生き方をテーマにしている。主演を演じた安藤さくらは、桃子の実の妹だそうで、この映画はそのさくらの圧倒的な存在感の上に成り立っている。なにしろ、三時間を優に超える大作であるにかかわらず、時間の長さを感じさせない。ストーリーが単純なわりには、充実感がある。傑作といってよいのではないか。

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2016年の日本映画「シン・ゴジラ」は、1954年公開の有名な映画「ゴジラ」の焼き直しである。初版のゴジラは原水爆実験による地球汚染への批判的な意識を感じさせたものだが、この焼き直し作品には、そうした批判意識はほとんど感じることがない。放射能とか、マッチョな怪獣への熱核攻撃とかいったアイデアはあるが、あまり切迫感をあたえない。純粋な娯楽映画として作られたようである。

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沖田修一の2020年の映画「おらおらでひとりいぐも」は、若竹千佐子の同名の小説を映画化したもの。かなりな脚色を施している。原作は、老女がただひたすらに亡夫を追憶するというもので、全くと言ってよいほど劇的な要素はなく、そのままでは映画にならない。だから脚色を施すのは無理もない。だがあまり不自然さは感じさせず、原作の雰囲気を大きく損なっているわけではない。原作の読ませどころは、東北弁でまくしたてる老女の独白にあるのだが、映画ではその老女を田中裕子が演じていて、なかなかの見せ所を作っている。

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万田邦敏の2008年の映画「接吻」を、小生が見る気になったのは、小池栄子が主演しているからだった。小池栄子は目下NHKのドラマ「鎌倉殿の十三人」に、北条政子役で出ていて、なかなか見せる演技で楽しませてくれている。そこで、彼女の若いころの映画を見たいと思っていたところ、この映画の評判を聞きつけたというわけだった。

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2002年の映画「OUT](平山秀幸監督)は、桐野夏生の同名の小説を映画化した作品。桐野の原作を小生も読んだが、すさまじい迫力を感じたものだ。その迫力は、主人公雅子のニヒルな生き方から伝わってくるものだ。だから、映画化にあたってはキャスティングが大事だと思うのだが、この映画で雅子を演じた原田美枝子は、無論すぐれた女優には違いないが、雅子を演じる柄ではないようだ。原田の顔は、どちらかというと可憐さを感じさせるほうだし、不幸な女性の哀愁を感じさせもする。ところが原作の雅子は、そういったものとは全く無縁なのだ。

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1949年の中国映画「カラスと雀(乌鸦与麻雀)」は、国共内戦末期における上海を舞台にして、横暴な支配者に苦しめられる中国庶民を描いた作品。横暴な支配者とは、国民党一派であり、その腐敗した政治とか公私混同によって、中国の庶民は塗炭の苦しみを舐めさせられているといったメッセージが強く伝わってくる映画である。公開されたのは、毛沢東が新国家建設を宣言した1949年10月1日より一か月あとのことであるが、制作は10月以前からなされていたらしい。それでも、国民党を否定的に描いているのは、共産党の勝利がゆるぎないものと思われていたからだろう。

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国共内戦時代に作られた中国映画「小城之春」(1948)は、中国流のメロドラマである。メロドラマには二種類あって、一つは男女の純愛をすれ違いという形で描いたもの、もう一つは男女の激しい性愛を不倫という形で描いたものである。この「小城之春」は不倫ものに属する。中国映画史では名作の誉れ高く、いまだに上映されているという。

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1987年の中国映画「芙蓉鎮」(謝晋監督)は、毛沢東一派のいわゆる階級闘争路線に翻弄される庶民を描いたものだ。毛沢東が生きていた頃は、戦後の一連の動乱や共産党の統治を批判的に描くことは許されなかったが、1978年に毛沢東が死に、鄧小平のもとで改革開放路線が進むと、中国にもやや自由の風が吹くようになり、毛沢東時代を批判する映画も作られるようになった。それを称して「傷跡ドラマ」というそうだが、「芙蓉鎮」はそれを代表する作品との評価が高い。

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2017年のフィンランド映画「アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場」は、第二次世界大戦の一環として行われたフィンランドとソ連との戦争(通称ソ芬戦争」をテーマとした作品。この戦争は二つの段階からなる。一つは1939年11月にソ連軍のフィンランド侵略に始まったもので、冬戦争と呼ばれる。これは三か月後に停戦が成立し、フィンランドは独立を守ったが、カレリア地峡など領土の一部を失った。もう一つは、1941年6月から44年9月まで行われたもので、継続戦争と呼ばれる。この継続戦争をフィンランドは、ナチスドイツの同盟軍という形で戦った。ナチスがソ連に勝つことを予想して、そのナチスの力を利用して失われた領土を取り戻そうとしたわけである。しかしナチスドイツは敗北し、フィンランドもまた枢軸国側の敗戦国となった。そうした歴史の皮肉を、クールなタッチで描いた作品である。

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2020年のボスニア映画「アイダよ、何処へ?」は、ボスビア・ヘルツェゴビナ紛争のなかで1995年に起きたスレブレニツァの虐殺をテーマにした作品。この虐殺は、のちに国連司法機関によってジェノサイドと認定されたほどのもので、8000人以上のムスリムが、セルビア人勢力によって虐殺されたとされる。この映画は、虐殺を露骨に描いているのではなく、逃げ場を失って右往左往するムスリムたちの絶望を描いている。

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1969年のユーゴスラビア映画「ネレトバの戦い」は、第二次世界大戦の一こまを描いた作品。チトー率いるパルチザン部隊が、枢軸軍を相手に善戦する様子を描いている。枢軸軍を構成するのは、ナチス・ドイツ、ファッショ・イタリア、クロアチアのほかユーゴの王党派チェトニクである。1943年になって、連合軍の圧力が高まる中、ユーゴスラビアでは、チトーの勢力が強まっていた。そこで枢軸側としては、ユーゴスラビアを引き続き制圧するためにチトーの勢力を破壊する必要があった。枢軸軍は、一気にチトー派の撃滅にとりかかったのである。それに対して、チトー派のパルチザン部隊は果敢に戦い、枢軸側の野心を打ち砕くといった内容である。

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1928年公開のフランスのサイレント映画「裁かるるジャンヌ(La Passion de Jeanne d'Arc )」は、原題にあるとおり、フランスに生まれた聖女ジャンヌ・ダルクの殉教をテーマにした作品。サイレント映画の傑作として、日本でも話題となり、自然主義作家徳田秋声も、絶筆となった小説「縮図」の中で、ヒロインの銀子がこの映画をみて感動した様子を子細に語ったほどである。

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1966年の映画「アルジェの戦い(La Battaglia Di Algeri)」は、アルジェリアの対フランス独立戦争の一コマを描いた作品。アルジェリア人たちがフランスの植民地支配に抵抗して起こしたこの戦争を、どういうわけか、イタリア人のジャーナリストたるジッロ・コンテポルロが映画化した。当然のことのように、フランスによる暴力的な植民地支配を徹底的に批判する視点をとっている。そういう視点からの映画は、フランス人には期待できないだろう。この映画がヴェネツィアの映画祭で上演されたとき、フランス人は、フランソワ・トリュフォー一人を残して全員抗議のデモンストレーションを行ったそうである。

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タヴィアーニ兄弟の2012年の映画「塀の中のジュリアス・シーザー(Cesare deve morire)」は、イタリアの刑務所生活をテーマにした作品。イタリアは日本と違って、囚人は基本的に禁固されるだけで、懲役はない。ということは、日常が退屈だともいえる。中には20年も刑務所暮らししている者もいるから、毎日を退屈せずに過ごせるかは、かなり深刻な問題だ。この映画の中の刑務所当局は、囚人たちの退屈をまぎらわせてやろうという親心から、囚人たちに気晴らしの機会を与えてやる。毎日芝居の稽古をして、その成果を地域の人々に披露しようというのだ。懲役が基本の日本の刑務所では決して出てこない発想だ。だが、これから日本でも、懲役ではなく禁固が基本になるようなので、イタリアの刑務所のこうした試みには学ぶべきことがあるように思える。

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