映画を語る

悪人:李相日

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李相日の映画「悪人」は、なんともやりきれない思いにさせられる作品だ。金持ちの男に捨てられた女がプライドを傷つけられ、自分を慕う貧乏な男に八つ当たりした挙句、メチャクチャな脅迫をする、そこで自分の身に危険を感じた貧乏な男は、とっさに女を殺してしまう。それはその男にとっては、外に選択の余地のない強いられた行為だった。それでも人を殺すという行為は、社会的に許されるものではない。人を殺した人間は悪人として、社会から指弾されねばならない。

千年の愉楽:若松孝二

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若松孝二の2013年の映画「千年の愉楽」は、中上健次の同名の小説を映画化したものである。この小説は、紀州の新宮にある路地と呼ばれる部落を舞台に、そこで生まれて死んだ六人の若者を、オリュウノオバという産婆の目を通じて、オムニバス風に描いたものだ。映画はその若者たちのうち、半蔵、三好、達男の三人を取り上げている。半蔵は原作の冒頭で出てくるキャラクターであり、三好はその次に、また達男は最後に出てくる。その達男に振り当てられている映画の中の時間はわずか十五分ほどだが、オリュウノオバが臨終の床で回想するという映画全体の枠組みは、原作のこの達男の部分から借りたものだ。

キャタピラー:若松孝二

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キャタピラーは、日本語でいうと「芋虫」のことだ。手足がなく胴体だけのズングリムックリした形。人間の目には気味悪くうつるが、人間も手足をもがれると同じように見える。この映画は、そんな手足をもがれた男と、その男の世話を押し付けられた妻の話である。男が手足を失ったのは、先の大戦中、中国戦線で負傷したためだ。戦線で重症を負うと、命取りになるのが普通だが、この男の場合には生き延びた。それは日本軍が中国戦線では比較的余裕があったからだろう。南方で手足を失うような重症を負っていたならば、生きて日本に戻れる見込みはなかったと思われる。

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2009年の映画「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」は、太宰治の短編小説「ヴィヨンの妻」の映画化である。筆者が原作を読んだのは半世紀も前の学生時代のことで、内容はほとんど忘れてしまったが、「人間失格」同様、太宰自身の自滅的な生き方が色濃く反映されたものだったと、おぼろげながら記憶している。今回映画でそれを見て、太宰の自滅的な生き方がかなり強調されているので、恐らく原作の雰囲気を生かしているのだろうと感じた次第だ。

ディア・ドクター:西川美和

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2009年の映画「ディア・ドクター」は、偽医者の無資格診療をテーマにした作品だ。偽医者というのは、日本の医療現場ではほとんど有り得ないと思うのだが、特殊な条件下では成り立ってしまうらしい。特に、僻地のようないわゆる無医村とか医療過疎地と呼ばれるところでは、どんな医者でも国家資格がありさえすれば、喜んで受け入れられる傾向が強いので、偽医者が資格を偽ってまともな医師の顔をしていることもありえないことではない。実際、そんな事件が起きて、世間を騒がしたことがあったのを、筆者は記憶している。この映画は、そうした記憶を思い出させるものだ。

紙屋悦子の青春:黒木和雄

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黒木和雄は、21世紀に入って、「美しい夏キリシマ」と「父と暮せば」を作り、戦争が普通の人々にとって持った意味を問うたが、遺作となった「紙屋悦子の青春」も、その延長上にあるものだ。この作品は、戦争末期におけるある女性の生き方を描いたものだが、その女性の生き方に過度に感情移入しているわけでもなく、また戦争を表立って批判しているわけでもない。たまたま戦争末期という時代を生きた一女性の、飾らない日常を描いたものだ。もっともその日常は、彼女にとってはいささか重すぎるものであったが。

フラガール:李相日

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李相日の2006年の映画「フラガール」は、常磐ハワイアンセンターのダンシングチーム結成にまつわる話を映画化したものである。常磐ハワイアンセンターというのは、1960年代半ばにできたアミューズメントセンターで、そこのアトラクションの切札として、フラダンスなど南洋風のダンスが人気をとった。この映画は、そのダンシングチームがどのようにして出来上がったか、その過程を人情味いっぱいに描いたものである。

父と暮せば:黒木和雄

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「父と暮せば」は、井上ひさしが二人芝居として書いたもので、1994年以降何度も舞台上映され、そのたびに大きな話題になった。それを黒木和雄が2004年に映画化した。細部で相違はあるが、舞台をそのままスクリーンに移したような出来栄えで、やはり大きな評判を呼んだ。原爆投下三年後の広島の被爆者を描いた作品で、テーマとしては歴史を感じさせるのだが、そこに描かれた人間の生き方が、今日の日本人にも大いに通じるものがあるので、共感を呼んだということなのだろう。

世界の中心で、愛を叫ぶ:行定勲

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行定勲の2004年の映画「世界の中心で、愛を叫ぶ」は、思春期の少年少女の恋愛を描いたものだ。その描き方がいわゆる少女マンガ風で、折からの少女マンガブームに乗って大ヒットした。少女マンガというものについて、筆者は余り読んだことがないのでたいそうなことは言えないのだが、愛する少年少女に焦点をあてるあまり、主人公たちが世界そのものの全体を占めるようになって、残余の部分がまったく見えなくなる、ということに特徴があるようだ。この映画もその特徴を共有していて、主人公の少年少女に焦点をあてるあまり、世界には二人のほかに誰も存在しないといったありさまを呈している。題名は「世界の中心で」とあるが、実質的には、「私たちしか存在しない世界で」といった雰囲気が伝わってくる。

美しい夏キリシマ:黒木和雄

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「美しい夏キリシマ」は、戦争映画のジャンルに分類される。戦争映画といっても、戦争そのものを描いているわけではなく、戦時下の庶民の生活を描いたものだ。その点では、山田洋次が21世紀に入って作った戦争批判映画や、降旗康男の「少年H」の魁となる作品だ。この映画は、2003年の公開で、戦後半世紀以上たっていたわけだが、その時間の経過が、戦争について相対的な視点を付与させている、という面が指摘できるのではないか。

GO:行定勲

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行定勲の映画「GO」は、在日コリアンをテーマにしたものである。この映画は21世紀の始めの年に上演されたのだが、世紀の変わり目が何らかの意味を持つと感じさせたものだ。20世紀の日本映画は、在日コリアンを正面から取り上げた作品を生み出さなかった(少なくともメジャーなものとしては)。ところがこの映画では、在日コリアンの生き方が正面から胸をはって描かれている。在日コリアンだって日本人と変らぬ人間なのだ、ということをこの映画は訴えているのだが、そういう映画を、日本人である行定勲が監督し、山崎勉や大竹しのぶら日本人の俳優が演じた。主演の男女カップルも日本人である。

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ウディ・アレンには、大都市の観光案内を思わせるような一連の作品がある。「僕のニューヨークライフ」とか、「それでも恋するバルセロナ」とか、「恋のロンドン協奏曲」といった作品がそれだ。「ミッドナイト・イン・パリ」もその系列に入る作品だが、この映画の場合には、同時代のパリの観光案内にとどまらず、パリの歴史も紹介してくれる。1920年代のパリ、そして1890年代のベル・エポックのパリが、ノスタルジックによみがえってくるという趣向になっているのだ。

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「それでも恋するバルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)」は、二人の若いアメリカ女がスペインのバルセロナを舞台にして繰り広げる恋のアヴァンチュールを描いた映画だ。アメリカ女たちの名前は、タイトルにあるとおりヴィッキーとクリスティーナ。二人はバルセロナへ観光旅行に来ている。その二人の前に、画家を標榜するスペインの色男が現われ、いきなり三人で乱交セックスをやろうと誘われる。さすがにすれた女たちも、この申し出をどう受け取っていいのか戸惑うのだが、そのうち男の魅力に屈服し、一人の男を二人の女が共有するという事態に発展する。男女のやりとりに熟達したスペイン男と、尻軽なアメリカ女たちが繰り広げる行動は、恋のアドヴェンチャーというよりは、セックス賛歌といったほうがよいかもしれない。

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「マッチポイント」は、ウディ・アレンの作品としてはシリアス・タッチなものだ。プロットの基本部分はセオドア・ドライザーの「アメリカの悲劇」を下敷きにしている。ブルジョア社会での成功をつかんだ男が、それを失いたくないために、邪魔になった恋人を殺すというのが、ドライザーの小説の基本プロットだが、この映画も、貧乏な青年がブルジョワ社会での成功を失いたくないために、邪魔になった愛人を殺すのである。

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ウディ・アレンの作品「世界中がアイ・ラヴ・ユー(Everyone says I love you)」は、ミュージカル仕立てのラヴ・コメディである。完全なミュージカルではないが、随所に歌と踊りを取り混ぜて祝祭的な雰囲気を演出している。テーマは無論男女の愛だ。アメリカのミュージカルといえば、男女の愛をテーマにしないものはない。ウディ・アレンもその伝統に倣ったということだろう。

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「ハンナとその姉妹(Hannah and her sisters)」は、「アニー・ホール」とともにウディ・アレンの代表作といってよい。どちらも、ニューヨークを舞台にしてアメリカ人のシティ・ライフを描いている。「アニー・ホール」では、アニー・ホールという名の女性とウディ・アレンとの、セックスを中心とした都会人の男女関係のあり方が描かれてきたが、「ハンナ」では、ハンナとその二人の妹たちを囲んで、いくつかのパターンの男女関係が描かれる。人間の生きざま、すくなくともニューヨークに生きている成年男女の生きざまは、究極的には男女関係に集約されるというのが、この映画の基本的なコンセプトである。

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ウディ・アレンの映画「マンハッタン(Manhattan)」は、アレンなりのニューヨーク賛歌といったところか。ガーシュウィンの曲に合わせながらニューヨークを賛美する言葉で始まるこの映画は、ニューヨークはセクシーな女と手馴れた男の街であり、白黒が似合う街だと締めくくる。その言葉通り映画はわざわざモノクロームフィルムで作られ、世事に手馴れた男アレンとセクシーな女たちとの恋のやり取りを描いてゆく。筋書きはほとんどないに等しい。男女のさやあてがとめどもなく続いてゆくだけだ。その点では、フィリーニの「甘い生活」やアントニオーニの「愛の不毛三部作」と似た雰囲気を持っている。

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「アニー・ホール(Annie Hall)」は、ウディ・アレンにとって転機となった作品だ。それまでは専ら軽いタッチのコメディ映画を作っていたアレンが、この映画では喜劇的精神をベースにしながらも、シリアスなことを語るようになる。その語り振りが独特で、しかも時代の雰囲気にマッチしていたというので、アレンは一躍メジャーな映画作家として認められるようになった。

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ウディ・アレンの1973年の映画「スリーパー(Sleeper)」は、1973年に凍結保存された男が200年後に目覚めるという話だ。彼が目覚めた200年後のアメリカは、独裁者が支配する全体主義社会ということになっている。それがオーウェルの「1984」の世界を想起させる。オーウェルの小説の主人公たちは、その世界で窒息させられてしまうわけだが、アレンのこの映画の主人公は、全体主義社会に挑戦し、その支配者たちを粉砕するということになっている。そこがオーウェルの悲観論とは異なったところで、コメディに相応しい幕引きになっている。コメディはこうでなくちゃ、というわけであろう。

ウディ・アレンのバナナ(Bananas)

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「ウディ・アレンのバナナ(Bananas)」は、ウディ・アレンが監督・主演した二本目の映画で、いわゆるウディ・アレンさが見られる最初の本格的な作品だと言うことだ。ウディ・アレンらしさというのは、ギャク漫画を映画に転換させたような軽いタッチのコメディで、それを小男のアレンが真顔で演じることで比類ないユーモアを感じさせるということらしい。そういう「らしさ」を、この映画は十分感じさせてくれる。

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