映画を語る

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2003年のギリシャ映画「タッチ・オブ・スパイス(Πολίτικη Κουζίνα タンス・プルメティス監督)」は、ギリシャ現代史の一齣を描いた作品。ギリシャ現代史については、テオ・アンゲロプロスが壮大な視点から俯瞰的に描いた映画があるが、これは、ギリシャとトルコの対立に焦点を当てたものだ。ギリシャとトルコは長らくキプロス島をめぐって対立してきた歴史があり、1955年と1964年には大規模な軍事衝突に発展した。一方、トルコの大都市コンスタンティノポリスには大勢のギリシャ人が暮らしており、そのギリシャ人がトルコによる迫害の対象になったりした。この映画は、迫害されてトルコを追われたギリシャ人家族の物語なのである。

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ギリシャ映画を代表する作品「日曜日はダメよ」は、1960年に公開され、日本では翌年封切られたが、映画そのものよりは、主題歌のほうが有名になった。映画のほうは、アテネの外港ピレエスを舞台に、メリナ・メルクーリ演じる陽気な娼婦とアメリカから来た男の奇妙な恋を描いたものだ。そのアメリカ男を監督のジュールス・ダッシンが演じていた。その男は、娼婦をまともな人間に更正させようとしてさまざまな努力をするのだが、娼婦のほうはかれを捨ててマッチョなイタリア男になびくと言った内容だ。

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1981年の映画「砂漠のライオン(Lion of the Desert)」は、ムッソリーニのリビア侵略をテーマにした作品。ムッソリーニが対トルコ戦争の一環として、トルコが支配していた北アフリカに植民地を獲得しようとする。それに現地のイスラム勢力が抵抗する。ムッソリーニは、それを無慈悲に粉砕して、イタリアの覇権を確立しようとする。しかしムッソリーニの野心には大義がなく、イスラム側の抵抗にこそ大義がある、というようなメッセージが伝わってくる作品である。

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2010年のトルコ映画「蜂蜜(セミフ・カプランオール監督)」は、農村部に暮す一少年の日常を描いた作品。トルコの農村地帯の豊かな自然を背景に、家族の絆とか子どもの世界が情緒たっぷりに描かれており、心がゆったりとさせられる映画である。

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2018年の韓国映画「はちどり(キム・ボラ監督)」は、思春期の少女を描いた作品。1994年に時代設定されているが、現代の韓国社会と受け止めてよいのだろう。その韓国社会は、希薄な人間関係と、その裏返しとして競争の激しい社会であり、そこで大人になるのはつらい体験だというメッセージが伝わってくる。

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2020年の韓国映画「KCIA南山の部長たち(ウ・ミンホ監督)」は、1979年に起きた朴正煕暗殺事件をテーマにした作品。これはKCIA(韓国中央情報部)の部長金載圭(映画では金規泙キム・ギョピョン)が起こしたものであるが、事件の動機や背景など全貌はよくわかっていない。個人的な怨恨が原因だとか、朴正煕独裁政権の転覆を狙ったアメリカの意向によるものだとか、いろいろ憶測が飛んだが、いまだによくわかっていない。

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2019年の韓国映画「長沙里9.15」は、朝鮮戦争の一こまを描いた作品。北に攻め込まれた南側を助けるため、アメリカ軍が仁川上陸作戦を決行する。この作戦は、戦争全体の帰趨に決定的な影響を及ぼすのだが、それを成功させるために、南側が陽動作戦を実施する。それは、朝鮮半島南東部の長沙里に上陸して、北側の注意をそらせている間に、仁川上陸を成功させようとするものだった。問題なのは、その上陸を担ったのが、南側の正規の軍隊ではなく、急遽かき集められた学生たちだったということだ。その学生たちが、まったく訓練も受けず、ろくな用意もないまま、決死の突撃を繰り返す。常識ではありあないと思われるこの話は、実際にあった話だというので、小生などはびっくりさせられたところだ。

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2014年の韓国映画「国際市場で逢いましょう(ユン・ジェギュン監督)」は、韓国現代史の一こまを描いた作品。北出身の一人の男とその家族を通じて、韓国という国とそこに生きる人々のあり方みたいなものを描いている。しかも、韓国現代史を象徴する出来事を背景にして。その出来事とは四つ、朝鮮戦争と国家の分断、貧しい時代における海外特にドイツへの出稼ぎ、ベトナム戦争への参戦、そして南北離散家族問題だ。そのすべてに、映画の主人公である男は、なんらかのたたちで巻き込まれるのである。

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蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)の2006年の映画「黒い眼のオペラ(黒眼圏)」は、もともとマレーシア出身だった蔡が、故郷のクアラルンプールを舞台に作った作品。テーマはマレーシアの貧民たちのみじめな生きざまである。貧民はどの国にもいるが、マレーシアの貧民はいちだんとすさまじい生き方をしている。しかもクアラルンプールは他民族都市であり、他国からやってきた貧民が加わって、社会の底辺はきわめて混沌とした様相を呈している、というようなことを感じさせる映画である。

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蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)の2005年の映画「西瓜」は、前作「楽日」同様ほとんどセリフのない映画である。セリフがほとんどないので、ドラマ性もない。ドラマというものは、言葉によって演出されるものだから、その言葉がないということは、ドラマが成り立たないということなのだろう。そういうのを何と称するのか。アンチ・ドラマとでもいえばよいのか。

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蔡明亮は1990年代から2000代にかけて活躍した台湾の映画作家だ。ユニークな作風で知られている。2003年に公開した「楽日(原題は<不散>)」は、セリフをほとんど省略している点で無言劇に近く、しかもモンタージュを全く無視するかのように、カメラの長回しを重ねることで成り立っている不思議な映画である。長回しは固定した視点から取られているので、観客はあたかも演劇の舞台を見ているような気持ちにさせられる。

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瀬々敬久の2022年の映画「とんび」は、瀬々にしてはめずらしく、地方の町を舞台にした人情劇である。無法松を思わせるような一徹な男が、妻を失った後、男手一つで息子を育て、その息子との間に強い絆を築き上げるというような内容の作品だ。その子育てに、周囲の様々な人たちが手助けをする。だからその子どもは、父親だけのものではなく、みんなの子なのである。そういった設定は、なかなか現実味を感じさせないので、これは願望を現実に投射したアナクロ映画のようにも映る。鋭い社会批判が持ち味の瀬々にしては、かなりゆるさを感じさせる映画である。

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2019年公開の映画「新聞記者(藤井道人監督)」は、東京新聞の記者望月衣塑子の同名の著作を原案とした作品。望月衣塑子といえば、官房長官時代の菅義偉に食い下がったことで有名になった人だ。その人が、安倍政権時代に起きたさまざまなスキャンダルについて、彼女なりの立場から批判的に描いたというのが、原作の意義だったようである。そういうスキャンダルは、ドキュメンタリー風に描くと迫力が出ると思うのだが、ここではあくまでもフィクションとして語られるので、ドラマとしてはともかく、社会批判としての迫力はほとんど感じさせない。

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2021年公開の映画「パンケーキを毒見する」(河村光庸)は、前首相菅義偉の政治姿勢をテーマにしたドキュメンタリー作品。菅という人間を、褒めたりけなしたり多面的な視点から描いている。結果伝わってくる印象は、菅という人間が、矮小でありながら強大な権力を握ったことのアンバランスの象徴のようなもの、ということである。菅本人は権力を振り回しているつもりが、かえって権力に振り回されているといった、とんちんかんな人間像が、この映画からは浮かび上がってくるのである。

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相米慎二の1998年の映画「あ、春」は、父と子の絆とは何かを考えさせる作品。それに1990年代末の金融危機を絡ませている。父と子の絆を結ぶのは普通は血のつながりだが、この映画は、血のつながりばかりが父子の絆ではなく、人間はもっと広い関係性を通じて絆を深めるものだというようなメッセージが伝わってくる作品である。

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相米慎二の1993年の映画「お引越し」は、思春期前期の少女の悩みを描いた作品。小学校六年生の少女レン子が主人公。両親の仲が悪く、離婚話に発展したあげくに、別居を始めた。レン子は、父親が大好きだ。無論母親も愛している。だから親子三人仲良く暮らしたいと願っている。そこで両親を仲直りさせようとしていろいろ智慧を絞るが、なかなかうまく行かなくて悩む、というような内容だ。

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恩地日出夫の1991年の映画「四万十川」は、四国の四万十川を舞台にしながら、ある少年の成長を描いた作品、四万十川を舞台にした少年の物語映画としては、東陽一の「絵の中の僕の村」が想起されるが、恩地のこの映画はそれよりも先に作られた。四万十川の美しい自然を背景にして、少年の瑞々しい感性を描いたこの作品は、少年の成長をテーマにした映画の中でも白眉といってよいだろう。

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セリーヌ・シアマの2021年の映画「秘密の森の、その向こう(Petite maman)」は、八歳の少女が同じ年ごろだった自分の母親と出会い、ひと時を過ごすというようなノスタルジックな気分を掻き立てる作品。小生は、娘の頃の自分の母親に出会ったという経験はないが、もしそんな体験ができたら、泣きたくなるくらいうれしいに違いない。自分自身の少年時代には、夢の中なりとも出会えることはあるが、自分が生まれる前に生きていた親と出会うというのは、全くありえないからだ。

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セリーヌ・シアマの2019年の映画「燃ゆる女の肖像(Portrait de la jeune fille en feu)」は、女性同士の同性愛をテーマにした作品。シアマは同性愛に深い関心を持っているようで、処女作の「水の中のつぼみ」でも、思春期の少女が同性愛に目覚める様子を描いていた。「水の中のつぼみ」は、現代のフランス社会を舞台としており、女性の同性愛はもはやタブーではなかったが、この「燃ゆる女の肖像」は、18世紀のフランスを舞台としており、従って、同性愛、とりわけ女性同士の同性愛は(表向きは)タブーだった。そんな時代に、若い女性が同性愛に目覚め、レズビアンとなっていく過程を描いたものだ。その時代のことだから、レズビアンとなることはかなりを勇気を要した。相手を同性愛に誘うには、それなりの慎重さが求められた。この映画は、互いにひかれながらも、なかなかカミングアウトすることができず、試行錯誤を重ねながら同性愛を確立する過程を描いているのである。だから、女はいかにしてレズビアンになるか、といった問題意識を感じさせる作品である。

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セリーヌ・シアマの2007年の映画「水の中のつぼみ(Naissance des pieuvres)」は、思春期の少女の性の目覚めというようなものを描いた作品。シアマにとっては、監督デビュー作である。思春期をテーマにしていることで、それなりの情緒を感じさせるが、小生のような老人には、未成年者のあぶなっかしさのようなものが気になるところだ。

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