映画を語る

田園に死す:寺山修二

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「田園に死す」は、寺山修治の自伝的な色彩の濃い映画だと言われている。恐山とか、イタコが出てくるから、恐らく寺山の故郷である下北を舞台にしているのだろう。下北といえば、日本の極北とも言えるところで、貧困と因習に付きまとわれたというイメージが強い。寺山はそうしたイメージを逆手にとって、日本とは何かを描きたかったようだ。この映画の中で寺山が描いているのは、時代的には戦争中であったり、戦後間もないころの時代であったり、焦点が定まらないのだが、それはこの映画の構成が、一人の映画人が自分の少年時代を回想するというところから来ている。回想のなかでは、えてして時間の前後関係が曖昧になるものだし、出来事の記憶も錯綜するようになるものだ。

心中天網島:篠田正浩

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篠田正浩の映画「心中天網島」は、近松門左衛門の同名の浄瑠璃を映画化したものである。この作品は近松の最高傑作でもあり、また心中物の頂点をなすものだ。男女の愛に女同士の義理を絡めた筋書きは、日本の芝居史上でも比類のない完成度を示していると言え、日本人なら誰が見ても感動せざるをえないように出来ている。いわば日本人の心の原風景をそのまま見える形に表現した理想的な芝居と言える。その芝居としての理想的な作品を、篠田は映画という形に転換してみせたわけである。

古都:中村登

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中村登の1963年の映画「古都」は、川端康成の同名の小説を映画化したものである。川端の原作であるから筋書きは退屈であるし、二役を演じている主演の岩下志麻の演技もぎこちないのだが、今でも十分に見る価値はある。というより、今でこそ見る価値がある。この映画は、オリンピック直前の京都の街を舞台にしており、開発で変化する前の、古き時代の京都の街のたたずまいがそっくりそのまま映し出されている。いわば映像を通じて京都の街を冷凍保存しているようなものなのである。

キューポラのある街:浦山桐朗

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「キューポラのある街」が封切られた1962年には、筆者は14歳の中学生だった。その中学生の筆者にも、この映画が描いていることは十分にわかった。当時はまだ、日本の社会には絶対的な貧困というものが蔓延していたし、そうした貧困によって押しつぶされている人が、自分の周囲にも大勢いた。だからこの映画の中に出てくる人々の苦悩や悲しみは、他人事ではなかった。吉永小百合演じるこの映画の中の主人公の少女は、そうした苦悩や悲しみに向き合いながら必死になって生きている。そうした彼女の生き方が、筆者の目には非常に身近に感じられた。この少女は、身近さを感じさせるとともに、尊さも感じさせた。その尊さとは、生きることの尊厳さを感じさせるようなものであった。

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「ゴッドファーザーPARTⅡ」は、コルレオーネ・ファミリーの二代目となったマイケルのその後の生き方と、父親のヴィートの少年時代を重ね合わせて描いた作品である。前作が、ヴィートとマイケルの父子二代にわたる原作の壮大な物語のうち、その中間部分を抜き出して映画化したために、そこからもれた部分について、改めて取り上げた格好だ。前作の評判が非常によかったので、二匹目の泥鰌を狙った形だが、この場合にはその狙いが功を奏した。前作と並んでアカデミー作品賞まで受賞している。

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フランシス・コッポラの映画「ゴッドファーザー」はアメリカばかりでなく世界中で大ヒットした。日本でもやはり大ヒットになった。公開から40年以上経ったいまでも、人気は衰えないという。この映画のなにが、それほど人々をひきつけるのか。

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マーティン・スコセッシの「タクシー・ドライバー」は不思議な映画である。タクシーの運転手といえば、普通人の目には退屈な下積み仕事という印象にうつるが、当事者にしてみれば、結構変化に富んだ仕事であるらしい。単に客を目的地に運ぶだけではなく、客とのさまざまなやり取りを通じて社会の情勢にも敏感になるし、時には社会に対して鋭い批判意識を持つようにもなる。そればかりではない、運転手によっては、そうした批判意識を実現しようとする者も現れる。この映画のなかのタクシー・ドライバーもそうした一人だ。彼はタクシーの運転という自分の仕事を通じて、社会に対する鋭い批判意識に目覚め、それを実現する為にすさまじいエネルギーを傾注する。その結果どんな事件が巻き起こるか、この映画はそうしたどきどきさせるようなストーリー展開からなっている。タクシー・ドライバーもなかなか棄てた商売ではない、そんなふうに観客に思わせるわけである。

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ミロス・フォアマン監督による1975年の「カッコーの巣の上で(One Flew Over the Cuckoo's Nest)」は、精神病院の運営における官僚的側面とロボトミー手術の非人間性を描いた作品である。ロボトミー手術というのは、外科的手術を用いて精神疾患の治療をするというもので、自傷他害の傾向が強い患者を対象に実施されたものだ。具体的には、こめかみに穴をうがち、そこから頭蓋内に手術用具を入れて大脳前頭葉の一部を除去する。現在では、人体への傷害行為として禁忌となっているが、この映画が公開された当時にはまだ行われていた。そんなロボトミー手術の禁止に向かって、この映画は一定の影響を与えたと評価されている。

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ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ(The long goodbye)」は、レイモンド・チャンドラーの同名の小説を映画化したものである。原作は、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にした一連の作品のうち最も人気の高いもので、日本でも古くからファンが多かった。近年は村上春樹の翻訳が出たりして、新たなブームを起こしている。筆者も村上春樹の翻訳を通じてその魅力を堪能した一人だ。

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「スケアクロウ( Scarecrow )」は、世の中からドロップアウトした二人の男の奇妙な友情を描いた映画だ。二人のうちの一人は刑務所を出たばかりで、預金の口座があるピッツバーグで人生のやり直しをしようと思っている。もう一人は、妻子を棄てて放浪していたが、五年ぶりに会いたくなって、妻子のいるデトロイトまで帰ろうと思っている。その二人が旅先で偶然出会って、行動を共にするようになり、さまざまな波乱を起こしながらついにデトロイトまでたどりつくと、そこには思いがけない事態が待ち受けていた、というものだ。

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映画「ダーティハリー(Dirty Harry)」は、クリント・イーストウッドを大スターにした作品である。イーストウッドといえば、テレビ西部劇「ローハイド」のロディ役として、我々団塊の世代には馴染みの俳優だったが、映画俳優としては芽が出ず、イタリアに渡っていわゆるマカロニウェスタンなどのB級映画ばかりに出ていたが、「ダーティハリー」の破天荒な刑事役を通じて、一躍国際的な人気を博した。

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フレンチ・コネクションとは、フランスとつながりのある麻薬密売組織のことを言う。その麻薬密売組織を摘発しようとするニューヨーク市警の警察官たちの奮闘を描いたのが1971年の映画「フレンチ・コレクション」だ。実際にあった出来事をもとに作られたという。

卒業:マイク・ニコルズ

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1967年公開の映画「卒業」は、一応アメリカン・ニューシネマの初期の傑作ということになっている。アメリカン・ニューシネマと言えば、ベトナム戦争を契機に盛り上がった政治不信を背景にして、社会への覚めた見方とか異議申し立てといったもので特徴づけられるが、この映画にそうした要素を認めるのは、多少の困難を伴うだろう。この映画が描いているのは、道徳の頽廃ともいうべきものだ。道徳の頽廃を描きながらそれを批判するわけでもない。むしろそれを受け入れたうえで、その頽廃ぶりを楽しんでいるフシがある。こんな投槍とも言える姿勢が、逆説的に社会批判につながっていると言えなくもないが、それにしては、この映画には曖昧なところが多すぎる。

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1967年の映画「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)」は、アメリカン・ニューシネマの魁となった作品である。アメリカン・ニューシネマとは、1960年代の末近くから70年代半ば頃にかけて盛んに作られた一連の傾向的な作品群をいい、アメリカ社会への懐疑とか政治体制への反抗といったものを主なテーマにしている。その背後にはベトナム戦争があったわけで、この戦争に不正を感じた人々が、アメリカへの意義申し立ての表現として作ったという側面がある。したがって、ベトナム戦争が終わり、アメリカ社会に一定の落ち着きが戻ってくると、アメリカン・ニューシネマは下火になっていた。

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スティーヴン・ソダーバーグの映画「KAFKA 迷宮の悪夢」は、20世紀を代表する作家フランツ・カフカを題材にした映画である。とはいっても、カフカの作品をもとにしたわけでもなく、またカフカの伝記的事実にもとづいたものでもない。この高名な作家の名前を借りて、一人の映画作家が自分勝手な映画の世界を作りあげたというに過ぎない。だからこの映画を、カフカに関連づけて解釈するわけには行かない。ただのミステリー映画として見るべきである。

女ざかり:大林宣彦

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少年少女たちの青春を描き続けた大林宣彦が、中年女性の生き方を描いたのが「女ざかり」だ。これは丸谷才一の同名の小説を映画化したものだが、原作はちょっとした社会現象のようなものを巻き起こした。まず「女ざかり」という言葉が目新しかった。それまでは壮年の男をさして「男ざかり」ということはあっても、「女ざかり」という言葉はなかった。女の命は娘盛りにあるので、それを過ぎた女はもはや「女」とは認識されなかった。ましてや中年の女に色気があるなどと、誰もが思わなかった。そういうような時勢の中で、四十を過ぎた女を「女ざかり」と表現した丸谷の原作は古い人間たちの度肝を抜いた。しかしその一方で、この言葉に拍手喝采した人々もいたわけで、それは自分たちの存在意義をそこに感じることのできた当の中年女性ばかりではなく、彼らと同世代の男たちにもうなずくべきところがあったのである。

青春デンデケデケデケ:大林宣彦

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大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」は、尾道三部作の延長上にある青春映画だ。舞台は尾道とは瀬戸内海を隔てた対岸の町観音寺。この町は地図で見ると尾道の南東にあたっているのがわかるが、島影によって遮断されていないので、お互いに良く見えるそうである。だから尾道三部作を、大林本人がいうように瀬戸内海を舞台とした青春映画とすれば、「青春デンデケデケデケ」もその範疇に治まる。

さびしんぼう:大林宣彦

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大林宣彦の映画「さびしんぼう」は、所謂尾道三部作の最後の作品であり、前二作同様尾道を舞台とした青春映画である。ここでは、高校二年生の初恋が描かれている。その初恋がいかにも思春期の少年少女のういういしさに包まれており、見ていて思わずほんのりとした気分になってしまう。筆者のような、はるか大昔に青春を通り抜けた老人にとっても、このような映画を見せられると、自分の初恋のときの思いがありありとよみがえってきて、ついうっとりとしてしまう。筆者の初恋も、この映画の中の少年少女と同じく、十六歳の出来事だった。

時をかける少女:大林宣彦

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大林宣彦は、青春映画が得意で、いまでも多くのファンがいるという。彼の映画には、子どもから大人になりかけている少年や少女たちが登場して、人生の中で一回限り出会う出来事に体をはってぶつかっていく姿が描かれている。そうした姿が、同年代の少年少女たちの共感を呼ぶのは無論、かつてそのような少年や少女だった大人たちをもノスタルジックな気分にさせるのだろう。同じ大人でも、もはや少年時代の生き生きとした記憶を失ってしまった筆者のような老人には、彼らの気持にはなかなか感情移入できないが、それでもほのぼのとした気持にはなれる。

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映画を発明して始めて公開したのはリュミエール兄弟ということになっているが、映画を映像芸術かつ大衆娯楽として確立したのはジョルジュ・メリエスといえよう。仮にメリエスが現れず、リュミエール兄弟の段階で映画製作がとどまってしまったとしたら、映画が今日のように世界的な規模で発展することはなかっただろう。なぜかといえば、リュミエール兄弟の作った映画は、動く写真とでもいうべきもので、現実の世界の写像に留まっていたからだ。そうしたものに人間は、いつまでも高い関心を持続的に抱き続けるわけにはいかない。人間の高い関心を持続的にひきつける為には、ファンタジーの要素がなければならない。映画にそのファンタジーの要素を持ち込んだのがジョルジュ・メリエスなのだ。

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