映画を語る

de40.es1.JPG

オリヴァー・ヒルシュビーゲルの2002年の映画「es」は、ある特殊な実験をテーマにしたものだ。その実験とは、ある種の行動科学実験で、疑似監獄を舞台にして、囚人と看守に別れた被験者が二週間を過し、どのような行動上の特徴が見られるかを分析しようというものだ。その結果、看守側の人間は、秩序維持のために抑圧的になり、囚人側は、初めは抵抗の姿勢を見せるが、やがて従順になっていく。しかし、看守側の抑圧的な姿勢は一層極端化し、最後には自分たちの雇い主まで攻撃するばかりか、殺人行為にまで発展するという異常な事態に陥るというのが、この映画のミソである。そんなことからこの映画は、人間の中に潜んでいる攻撃衝動をあぶり出したともいえる。そういう攻撃衝動は、かつて強制収容所で見られたのと同じタイプのものだ、というメッセージが伝わってくるように作られているようである。そういう攻撃的な人間を見せつけられると、ドイツ人というのは、誰もがナチス的な資質をもっていると思わされる。

de39.2.gavras01.holo1.JPG

コスタ・ガヴラスの2002年の映画「ホロコースト アドルフ・ヒトラーの洗礼(原題はAmen)」は、仏独米の協同制作として作られ、言語には英語が用いられている。ガヴラスがフランスを拠点として活動しており、映画の舞台が主にドイツであり、金の出どころがアメリカだということか。テーマは、日本語の題があらわしているとおり、ナチスによるホロコーストだ。

de39.1.warku1.JPG

「オペレーション・ワルキューレ(Stauffenberg)」は、ドイツのテレビ局が2004年に制作・放映した作品だ。それがDVDになっているので、映画感覚で見ることができる。テーマはヒトラー暗殺計画だ。ヒトラー暗殺計画は、規模の大小併せて40以上もあったそうだが、これは中でも最大規模のもの。なにしろドイツ軍部が組織的にかかわっていたものだ。

de38.eich1.JPG

ラース・クラウメによる2015年のドイツ映画「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男(Der Staat gegen Fritz Bauer)」は、いわゆるアイヒマン裁判をテーマにした作品。アイヒマン裁判といえば、アウシュヴィッツの所長としてホロコーストを推進した男であり、戦後アルゼンチンに潜伏していたところを、イスラエルの諜報機関モサドによって逮捕され、イスラエルで裁判された結果、絞首刑になったのだが、そのアイヒマンの裁判に、ドイツ人の検事が一役かっていたというのが、この映画のミソである。

uk21.flute5.JPG

2006年のイギリス映画「魔笛」は、モーツァルトの有名なオペラを映画化したものだ。設定に一部脚色は見られるが、原作のストーリーをほぼ踏襲しており、また歌の聞かせどころも満遍なく披露されているので、原作の雰囲気を別な形で享受できる。なかなか楽しい作品である。

jap77.iiko1.JPG

呉美穂の2015年の映画「君はいい子」は、親による子どもの虐待とか、学校現場における子どもたちの間のいじめとか、学級崩壊などをテーマにした作品である。親による子どもの虐待をテーマにした映画としては、松本清張の小説を映画化した「鬼畜」が古典的な作品として想起されるが、野村芳太郎の作った「鬼畜」は、妾が育児放棄した子供たちを本妻が虐待するというもので、いささか古風な時代設定だった。それに対して呉美穂が作ったこの「君はいい子」は、実の母親による子どもの虐待がテーマであり、そこに時代の変化を感じさせる。実の親による子どもの虐待は、いまでも報道を賑わせているように、極めて現代的なテーマであり続けている。

sese01.kansen3.JPG

瀬々敬久の2009年の映画「感染列島」は、感染症によるパンデミックを描いた作品である。この映画が公開されたのは、2009年の1月だが、その年の春頃から豚インフルエンザが世界的に流行し、一年近くにわたって猛威を振るった。その規模や深刻さから、国連がパンデミックに指定したほどだった。そのパンデミックを、この映画は先取りしたような形で描いていたというので、世界的な注目を浴びた。

hukasaku16.yotu2.JPG

忠臣蔵と四谷怪談は、お互いに全く関係のない話だ。一方は元禄時代に起きた実話だし、一方は架空の怪談話だ。その本来関係のないものを結びつけて、深い関係があるかのように仕立てた映画を、深作欣二が1994年に作った。それが「忠臣蔵外伝・四谷怪談」である。

hukasaku15.kataku1.JPG

深作欣二の1986年の映画「火宅の人」は、檀一雄の同名の小説を映画化したものだ。原作は檀自身の自伝的な私小説というべきもので、女にだらしない男の半生を描いている。映画もその雰囲気をよく表現していて、ある種の日本人男性の典型的な姿を垣間見せてくれる。こういうタイプの男、つまり自我が確立していなくて、常に誰かに支えられていないと生きていけないような男は、日本社会においてはかつてはよく見られたタイプであり、今日でも、あたりをよく見渡せば、まだ多く見られるのではないか。そういう男、つまり檀一雄の分身を緒形拳が演じているが、緒方はこういう役をやらせると天下一品だ。「鬼畜」におけるなさけない父親役と並んで、彼の代表的な演技といってよい。

hukasaku14.bans3.JPG

深作欣二の1984年の映画「上海バンスキング」は、日中戦争下の上海を舞台に、ジャズ・ミュージシャンたちの青春群像を描いた作品だ。ミュージカル仕立てになっていて、しかもコミカルタッチで展開されており、視覚と聴覚の二重に楽しめる映画だ。

hukasaku13.jinsei1.JPG

尾崎史郎の小説「人生劇場」は、劇的な要素に富んでいることもあり、数多く映画化された。その中で深作欣二が1983年に作ったものは、十三作目にあたるというが、これを最後に映画化されたことはない。いまのところ最後の「人生劇場」ということになる。深作はこの作品を一人で監督したわけではなく、佐藤純弥、中島貞夫との共作である。理由は、劇場公開のスケジュールに向けて時間がなかったこと。それゆえ、全体を三分して、それを三人で並行してとり、時間を節約しようとしたわけだ。しかし映画を見ての印象は、継ぎはぎというふうには見えない。きちんと線が通っている。そこは深作の職人としてのこだわりの産物だろう。

hukasaku12.douton1.JPG

深作欣二の1982年の映画「道頓堀川」は、宮本輝の同名の小説の映画化。大阪道頓堀界隈に暮らす人々の人生模様というか、生きざまのようなものを描いたものだ。ドラマチックな筋書きはない。鰥寡孤独の身で、アルバイトをしながら美術学校に通う青年(真田真之)と、偶然かれと出会ったことでやがて恋に落ちてゆく女(松坂慶子)を中心にして、真田が住み込みアルバイトをしている喫茶店の主人(山崎務)とその出来損ないの倅で、真田とは高校の同窓生だったという青年(佐藤浩市)がからんで、それぞれの人生模様が紡ぎ出されてゆくというような演出になっている。

hukasaku11.hakaba2.JPG

深作欣二の1976年の映画「やくざの墓場 くちなしの花」は、映画はさることながら、主演俳優渡哲也の歌った主題歌「くちなしの花」のほうが、圧倒的に有名だろう。いまだに歌われている。この主題歌は映画の中では、エンディングのところで一コーラスが歌われるだけで、目立った扱いはされていないのだが、それ自体が独立した歌謡曲として、大ヒットしたものだ。

jap81.gundan1.JPG

山下耕二は東映やくざ映画を代表する監督で、「山口組三代目」など実録物を多く作った。1975年の作品「日本暴力列島京阪神殺しの軍団」は、彼の代表作だ。映画の冒頭でフィクションと断っているが、それは方便で、実際には山口組の全国制覇の一幕を描いている。この映画には、日活の人気俳優だった小林明が、主演のやくざとして出演して話題となった。

jap80.rireki1.JPG

加藤泰はいわゆる任侠映画が得意で「緋牡丹博徒シリーズ」などを作っているが、1967年の作品「男の顔は履歴書」は一風変った任侠映画だ。これを任侠映画といえるのかどうか異論があるかもしれないが、一応義理と人情の板挟みになった主人公が、やくざ者を相手に大暴れするという点では、任侠映画の延長上の作品といってよいのではないか。

shinoda.sakura2.JPG

篠田正浩の1975年の映画「桜の森の満開の下」は、坂口安吾の同名の短編小説を映画化したものだ。原作は、無頼派作家とよばれた坂口の代表作というべきもので、桜の妖気に取りつかれた人間の魔性のようなものをモチーフにしている。短編小説ながら物語展開に劇的な要素があって、映画化にはなじむ。それを篠田は映画化したわけだが、一部脚色をまじえながらも、ほぼ原作に忠実な演出といってよい。

visconti14.kazoku4.JPG

ルキノ・ヴィスコンティの1974年の映画「家族の肖像(Gruppo di famiglia in un interno)」は、ある引退教授と奇妙な人々との触れ合いを描いた作品だ。バート・ランカスターが演じるこの引退教授はローマの高級マンションに一人暮らししているのだが、そこへ奇妙な人々が入りこんできて、老教授の静寂な生活を乱す。老教授は、初めは迷惑を感じるのだが、いつのまにか彼らが好きになる、という筋書きである。映画はこの老教授のマンションの部屋を舞台に展開する。野外の場面は一切ない。ただ老教授の部屋のバルコニーから、ちらりと垣間見られるだけである。部屋の内部を舞台にした映画としては、ヒッチコックの「ロープ」とか、コクトーの「恐るべき親たち」があるが、この映画はそれら先行作品に劣らぬ出来栄えである。日本で上映された際には大ヒットになった。

visconti13ludwig2.JPG

ルキノ・ヴィスコンティの1972年の映画「ルードヴィヒ」は、数奇な行動で知られるバイエルン王ルードヴィヒの、即位から死までのほぼ生涯を描いたものである。ほとんどドラマ性はないと言ってよい。一人の王の生涯を淡々と描きだしている。そのせいかやたらに長い。オリジナルテープは四時間もあった。それを劇場公開用に三時間に短縮したのだが、それでも長い。小生はDVD用に復元されたオリジナル版を見たのだが、そんなに長くは感じなかった。そこはやはり映画作りの名人ヴィスコンティのこと。観客を飽きさせないように作ってある。

visconti12.yuja1.JPG

ルキノ・ヴィスコンティの1969年の映画「地獄に堕ちた勇者ども(The damned)」は、ハリウッドのワーナーの金で作った映画で、オリジナルは英語である。俳優もダーク・ボガードやイングリッド・チューリンはじめ、ハリウッド俳優だ。テーマは、ナチス台頭時期における、大財閥内の権力争い。財閥は、鉄鋼界のクルップをモデルにしていると言われるが、事実とはかなり異なった脚色をしている。というのも、ナチス台頭期にクルップを率いていたグスターフは、ナチスに協力して戦後まで生き残り、ニュルンバルグ裁判でも戦犯指名されているが、映画のなかでは、権力を狙うものたちによって殺害されたことになっている。もっとも、クルップという名は出てこないし、一応架空の話というような扱いになっているのだが、しかしドイツの歴史を知っている者にとっては、そういう扱いはある程度の違和感を持たされるところだろう。

visconti11.wakamono3.JPG

ルキノ・ヴィスコンティの1960年の映画「若者のすべて(Rocco e i suoi fratelli)」は、イタリアのいわゆる南北格差をテーマにしている。豊かな北にあこがれて南部の貧しい地域からミラノにやってきた家族が、必死に生きるところを描いている。その中で感動的な家族愛と、一人の女をめぐる兄弟同士の相克がサブプロットとして差し挟まれる。三時間に及ぶ大作だが、筋の進行によどみがなく、観客を飽きさせない。そういう点では傑作といってよい。

Previous 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

アーカイブ