映画を語る

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ヴィム・ヴェンダースの2015年の映画「誰のせいでもない」は、日本人にとっては理解しがたい内容の作品である。交通事故で小さな子どもを死なせた男が、法的には何の責任を負うこともなく、また死んだ子の母親からも責められることもなく、自分自身良心の呵責を感じている様子にも見えない。彼は作家なのだが、自分が犯したことよりも、自分自身の職業的な成功のほうが大事、というふうに伝わって来る。こういう話は、日本人には理解しがたいものだ。日本では、過失の程度が軽い場合にも、小さな子を交通事故で死なせた人間が無罪放免になることはほとんど考えられないからだ。

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アトム・エゴヤンの2015年の映画「手紙は憶えている」は、ナチスのホロコーストをテーマにした作品である。アルメニア起源のカナダ人であるアトム・エゴヤンが何故ナチスの犯罪を描いたのか。この映画の制作にはドイツ資本も加わっているので、ドイツ側からのアクセスがあったのか、よくはわからないが、ホロコースト映画としては一風変わっていて、ナチスの犯罪を糾弾するというより、ホロコーストに名を借りて、風変わりなミステリー映画に仕上げたといった趣の映画である。

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アラン・J・パクラの1982年の映画「ソフィーの選択」は、ナチスの絶滅収容所をテーマにした作品である。アウシュヴィッツを生き延びた女性が、自分の過酷な体験を物語るというのがメーン・プロットだが、その体験は彼女にとっては、克服できないトラウマとなり、最後にはそのトラウマに押しつぶされるようにして自殺してしまう。なんとも陰惨で、救いのない人生を描いており、大方の観客は、後味の悪い脱力感にひきこまれるはずだ。
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「シャーロック・ホームズ」シリーズは、小生が子供の頃はよく読んだことを覚えているが、いまでも人気は衰えず、世界中で読み継がれているそうだ。映画ドラマにも相性がよくて、これまで大変多くの映画が作られた。なかでも、バジル・ラズボーンをホームズ役にした1940年代半ばの映画のシリーズものは、もっとも洗練されているとの評判である。これは、日本では公開されなかったが、英米では大ヒットしたそうだ。

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ビリー・ザ・キッドは、ワイアット・アープやバッファロー・ビルと並んで、アメリカ西部開拓時代の英雄である。英雄とはいっても、強盗や殺人を繰り返した男なので、アンチ・ヒーローと言うべきだろう。かれが、アンチ・ヒーローとはいえ、なぜ英雄視されるようになったのか、その理由は、日本の鼠小僧と共通したところがあるらしい。鼠小僧は、強きをくじき弱きを助けるところに、人気の秘密があったが、ビリー・ザ・キッドにもそういうところがあったのだろう。サム・ペキンパーの1973年の映画「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯(Pat Garrett and Billy the Kid)」は、そんなビリー・ザ・キッドをテーマにしたものだ。ビリー・ザ・キッドを描いた映画は、数えきれないほどあるといわれるが、この映画はそのなかでも最高傑作と言われるものだ。

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西部劇ばかり作って来たサム・ペキンパーにとって、1971年の作品「わらの犬」は、はじめての現代劇だが、これは暴力描写が得意のペキンパーの映画のなかでも、とりわけ暴力的な作品だ。その暴力は、ほかの作品の暴力より一段度を超した印象を与える。西部劇の暴力は、だいたい拳銃を通じて行われるので、ある種メカニックな印象を与えるが、この映画の中の暴力は、棍棒とか鉄棒とか、いわば人間の身体の延長を通じて行使されるので、露骨に人間的な暴力といった観を呈しているのだ。

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「昼下がりの決斗」は、西部劇の名手サム・ペキンパーが1962年に作ったもので、彼の西部劇の特徴をよく見せたものだ。ペキンパーの西部劇は、良心的な拳銃使いが、粗暴なガンマンを相手に、ひと働きするというのが定番で、そういう筋書きの西部劇を、かれはテレビ映画として夥しい数の作品を作った。この「昼下がりの決斗」は、そうしたテレビ西部劇の延長にあるもので、迫力には欠けるが、一応楽しめるようにはできている。もっともこの映画は、興行的には失敗で、製作費の回収もできなかったそうである。

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小泉堯史の2008年の映画「明日への遺言」は、大岡昇平の小説「ながい旅」を映画化したものである。原作は、一BC級戦犯の裁判をテーマにしている。東海軍司令官だった岡田資が、名古屋空襲中に捕虜になった米兵たちを簡易裁判で有罪にし、斬首して処刑したことが、戦争犯罪に問われた事件だ。岡田自身はこの裁判の結果絞首刑になったが、法廷で米軍による無差別空襲の非人道性を指弾し、また罪を一人でかぶるなど、人間として高潔な態度を終始とったことを、大岡なりの視点から評価した作品だ。映画は大岡のそうした意図を、よく表現し得ていると思う。

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赤目四十八滝とは、三重県の山中にある大小多くの滝の総称だそうだ。そこへ小生は行ったことがないが、この映画「赤目四十八滝心中未遂」で見る限り、なかなか見どころの多いところらしい。この映画は、そこを心中の舞台に選んだ男女の恋を描いているのだが、その恋というのが、なんとも言われず物悲しいのだ。

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吉田大八の2014年の映画「紙の月」は、不倫にのめりこんで男に貢ぐあまり横領を繰り返した銀行員の話である。同じようなことが実際の事件としてあったので、それに触発されたところもあるのだろう。また、中年女が若い男に入れ込むことはよくあるようなので、これを見た観客には、思い当たるところがあるに違いない。

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題名の「百円の恋」からは、百円くらいにしか値しない恋といったイメージが浮かんでくるが、この映画のなかで描かれている恋は、別に金がどうのこうのというものではない。安藤さくら演じる女主人公が、ひょんなことから百円ショップに努めることになり、そこを舞台にして彼女の恋が展開する、ということらしいのだ。

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東陽一の2010年の映画「酔いがさめたら」は、アルコール依存症がテーマだ。アルコール依存症になった男が、そのことが理由で妻子に去られたのだが、その妻子の励ましを受けながら立ち直ろうとするものの、アルコール依存症とは別の病気、癌で命を落とすところを描いている。その描き方がやや違和感を抱かせるように感じるのは、主人公のアルコール依存症患者の人格が、かなりゆるく描かれているためだろう。この男は、自分自身に甘えがあるのだが、その甘えを別れた妻子までが助長している。また、かれが治療のために入院した精神病院のスタッフや患者たちも、かれを励ます役割を果たしていて、これで立ち直れないようでは、どうしようもないと感じさせるからだ。実際、かれは癌で死ぬことになるわけだから、何のために治療を受けたのか、腑に落ちないと思わせるところが、この映画にはある。

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東陽一の2004年の映画「風音」は、沖縄戦がテーマである。沖縄戦といっても、戦争シーンが出て来るわけではない。沖縄戦そのものを描いているのではなく、それが後日に及ぼした影響のようなものに言及しているだけである。それも、直接的な影響ではない。何故なら、この映画に出て来る人々は、沖縄戦そのものを全くと言ってよいほど意識していない。沖縄戦の残した遺産とでもいうべきものに、心の一部を捉われているようなのだ。

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東陽一の2003年の映画「わたしのグランパ」は、筒井康隆の同名の小説を映画化したもの。思春期の少女と、その祖父の交流を描いている。祖父は13年ぶりに刑務所から娑婆に出て来たことになっている。その祖父が、いじめられている孫を励ましたり、不良少年たちを更生させたり、悪人たちと戦う姿を、少女は見ながら、次第に強い人間に成長していく過程を描いている。そんな少女が成長した姿を見送るように、祖父は最後に死んでしまう。それも川でおぼれた小さな女の子を救った後で、自分自身が溺れてしまうのだ。そんな祖父の死にざまを、孫の少女は自殺願望の実現だったのではないかと解釈する。

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1979年の日本映画「もう頬づえはつかない」は、東陽一の出世作になった作品であり、またユニークな女優桃井かおりが初めて主演した作品だ。若い女性のセックスライフともいうべきものを描いたこの映画は、同じような体験を共有している女性たちを中心にして大いに反響を呼び、一種の社会現象まで起こしたと言われる。その割に、ドラマチックな内容ではない。むしろほとんど物語らしさのない退屈な作品というべきである。にもかかわらず大きな社会的反響を呼んだのは、そこに日本人の新しい生き方が反映されていたからではないか。

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是枝裕和の2018年の映画「万引き家族」は、一種の社会現象といえるようなブームを巻き起こした。カンヌでパルム・ドールをとったということもあるが、なによりもこれが、今の日本社会を如実に映し出しているからであろう。今の日本社会は、かつて言われたような総中流社会ではなく、アメリカ流の格差社会である。金持ちと貧乏人とが、勝ち組と負け組とに截然と別れ、負け組は野良犬のようなみじめな生き方を強いられる。そうしたあり方は、今の日本社会に生きている人のほとんどにとって他人事ではなく、いつかは自分の身に降りかかってくるかもしれない。この映画に出て来る家族は、そういう惨めな人々なのだが、そうした人々に、この映画を見た観客は明日の自分を見たのではないか。それがこの映画が、ある種の社会現象を引き起こした原因だと思う。

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2008年公開の映画「エレニの帰郷」は、テオ・アンゲロプロスの遺作となった作品だ。かれは「エレニの旅」に始まる20世紀シリーズ三部作の構想をもっていたが、これはその二作目。三部作とはいっても、一作目と二作目では、筋書きの連続性はないようなので、それぞれが完結した話と言えそうである。テーマは、ギリシャを含めたヨーロッパ現代史ということらしい。

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テオ・アンゲロプロスの2004年の映画「エレニの旅」は、ギリシャ現代史を生きた一女性の過酷な運命を描いた作品だ。ギリシャの現代史は、戦争と内戦で彩られていたわけで、多くの不幸な人間を生んだ。この映画の主人公エレニも、そうした不幸な人間の一人だ。その不幸は、女性にとっては、自分の力ではいかんとも為しがたい運命として、彼女に襲い掛かる。それに対して彼女は、なすすべもないままに、ただ絶叫するだけなのだ。この絶叫を聞きながら映画を見終わった観客は、なんともいえない脱力感にとらわれるに違いない。とにかく、迫力あるアンゲロプロス作品のなかでも、もっとも迫力に富んだ傑作といってよいのではないか。

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テオ・アンゲロプロスの1998年の映画「永遠と一日」は、ある老人の一日を描いたものである。その老人は癌が悪化して明日入院することになっている。そのことを老人は、旅に出ると言う。だから映画を見ている者は、どこか遠くへ旅するのだろうかと勘違いするのだが、老人にとっては、もしかしたら再び病院から出られぬかもしれない予感があるので、帰らざる旅に譬えているわけだろう。

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ユリシーズはギリシャ語ではオデュッセーアといって、もともとは古代ギリシャの壮大な叙事詩の題名である。ホメロスのその叙事詩は、英雄オデュッセーアの海の放浪を描いたものだが、現代のホメロスとも称されるテオ・アンゲロプロスは、1996年の映画「ユリシーズの瞳」のなかで、一人の男の陸の放浪を描く。男が放浪するのはバルカン半島諸国で、時期は1994年、ユーゴスラビアが解体して、大規模な民族紛争が勃発していた時だ。

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