映画を語る

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万田邦敏の2008年の映画「接吻」を、小生が見る気になったのは、小池栄子が主演しているからだった。小池栄子は目下NHKのドラマ「鎌倉殿の十三人」に、北条政子役で出ていて、なかなか見せる演技で楽しませてくれている。そこで、彼女の若いころの映画を見たいと思っていたところ、この映画の評判を聞きつけたというわけだった。

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2002年の映画「OUT](平山秀幸監督)は、桐野夏生の同名の小説を映画化した作品。桐野の原作を小生も読んだが、すさまじい迫力を感じたものだ。その迫力は、主人公雅子のニヒルな生き方から伝わってくるものだ。だから、映画化にあたってはキャスティングが大事だと思うのだが、この映画で雅子を演じた原田美枝子は、無論すぐれた女優には違いないが、雅子を演じる柄ではないようだ。原田の顔は、どちらかというと可憐さを感じさせるほうだし、不幸な女性の哀愁を感じさせもする。ところが原作の雅子は、そういったものとは全く無縁なのだ。

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1949年の中国映画「カラスと雀(乌鸦与麻雀)」は、国共内戦末期における上海を舞台にして、横暴な支配者に苦しめられる中国庶民を描いた作品。横暴な支配者とは、国民党一派であり、その腐敗した政治とか公私混同によって、中国の庶民は塗炭の苦しみを舐めさせられているといったメッセージが強く伝わってくる映画である。公開されたのは、毛沢東が新国家建設を宣言した1949年10月1日より一か月あとのことであるが、制作は10月以前からなされていたらしい。それでも、国民党を否定的に描いているのは、共産党の勝利がゆるぎないものと思われていたからだろう。

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国共内戦時代に作られた中国映画「小城之春」(1948)は、中国流のメロドラマである。メロドラマには二種類あって、一つは男女の純愛をすれ違いという形で描いたもの、もう一つは男女の激しい性愛を不倫という形で描いたものである。この「小城之春」は不倫ものに属する。中国映画史では名作の誉れ高く、いまだに上映されているという。

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1987年の中国映画「芙蓉鎮」(謝晋監督)は、毛沢東一派のいわゆる階級闘争路線に翻弄される庶民を描いたものだ。毛沢東が生きていた頃は、戦後の一連の動乱や共産党の統治を批判的に描くことは許されなかったが、1978年に毛沢東が死に、鄧小平のもとで改革開放路線が進むと、中国にもやや自由の風が吹くようになり、毛沢東時代を批判する映画も作られるようになった。それを称して「傷跡ドラマ」というそうだが、「芙蓉鎮」はそれを代表する作品との評価が高い。

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2017年のフィンランド映画「アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場」は、第二次世界大戦の一環として行われたフィンランドとソ連との戦争(通称ソ芬戦争」をテーマとした作品。この戦争は二つの段階からなる。一つは1939年11月にソ連軍のフィンランド侵略に始まったもので、冬戦争と呼ばれる。これは三か月後に停戦が成立し、フィンランドは独立を守ったが、カレリア地峡など領土の一部を失った。もう一つは、1941年6月から44年9月まで行われたもので、継続戦争と呼ばれる。この継続戦争をフィンランドは、ナチスドイツの同盟軍という形で戦った。ナチスがソ連に勝つことを予想して、そのナチスの力を利用して失われた領土を取り戻そうとしたわけである。しかしナチスドイツは敗北し、フィンランドもまた枢軸国側の敗戦国となった。そうした歴史の皮肉を、クールなタッチで描いた作品である。

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2020年のボスニア映画「アイダよ、何処へ?」は、ボスビア・ヘルツェゴビナ紛争のなかで1995年に起きたスレブレニツァの虐殺をテーマにした作品。この虐殺は、のちに国連司法機関によってジェノサイドと認定されたほどのもので、8000人以上のムスリムが、セルビア人勢力によって虐殺されたとされる。この映画は、虐殺を露骨に描いているのではなく、逃げ場を失って右往左往するムスリムたちの絶望を描いている。

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1969年のユーゴスラビア映画「ネレトバの戦い」は、第二次世界大戦の一こまを描いた作品。チトー率いるパルチザン部隊が、枢軸軍を相手に善戦する様子を描いている。枢軸軍を構成するのは、ナチス・ドイツ、ファッショ・イタリア、クロアチアのほかユーゴの王党派チェトニクである。1943年になって、連合軍の圧力が高まる中、ユーゴスラビアでは、チトーの勢力が強まっていた。そこで枢軸側としては、ユーゴスラビアを引き続き制圧するためにチトーの勢力を破壊する必要があった。枢軸軍は、一気にチトー派の撃滅にとりかかったのである。それに対して、チトー派のパルチザン部隊は果敢に戦い、枢軸側の野心を打ち砕くといった内容である。

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1928年公開のフランスのサイレント映画「裁かるるジャンヌ(La Passion de Jeanne d'Arc )」は、原題にあるとおり、フランスに生まれた聖女ジャンヌ・ダルクの殉教をテーマにした作品。サイレント映画の傑作として、日本でも話題となり、自然主義作家徳田秋声も、絶筆となった小説「縮図」の中で、ヒロインの銀子がこの映画をみて感動した様子を子細に語ったほどである。

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1966年の映画「アルジェの戦い(La Battaglia Di Algeri)」は、アルジェリアの対フランス独立戦争の一コマを描いた作品。アルジェリア人たちがフランスの植民地支配に抵抗して起こしたこの戦争を、どういうわけか、イタリア人のジャーナリストたるジッロ・コンテポルロが映画化した。当然のことのように、フランスによる暴力的な植民地支配を徹底的に批判する視点をとっている。そういう視点からの映画は、フランス人には期待できないだろう。この映画がヴェネツィアの映画祭で上演されたとき、フランス人は、フランソワ・トリュフォー一人を残して全員抗議のデモンストレーションを行ったそうである。

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タヴィアーニ兄弟の2012年の映画「塀の中のジュリアス・シーザー(Cesare deve morire)」は、イタリアの刑務所生活をテーマにした作品。イタリアは日本と違って、囚人は基本的に禁固されるだけで、懲役はない。ということは、日常が退屈だともいえる。中には20年も刑務所暮らししている者もいるから、毎日を退屈せずに過ごせるかは、かなり深刻な問題だ。この映画の中の刑務所当局は、囚人たちの退屈をまぎらわせてやろうという親心から、囚人たちに気晴らしの機会を与えてやる。毎日芝居の稽古をして、その成果を地域の人々に披露しようというのだ。懲役が基本の日本の刑務所では決して出てこない発想だ。だが、これから日本でも、懲役ではなく禁固が基本になるようなので、イタリアの刑務所のこうした試みには学ぶべきことがあるように思える。

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ケン・ローチの2019年の映画「家族を想うとき(Sorry We Missed You)」は、夫婦共稼ぎでもまともな収入が得られず、苛酷な労働環境のせいで家族にかかわる時間ももてず、そのおかげで家族が解体の危機に瀕する、といった現代イギリス社会に普通にみられる光景を、鋭い批判意識を込めて描いた作品だ。

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ケン・ローチは、アイルランドの独立と内戦をテーマにした「麦の穂を揺らす風」を2006年に作ったが、それから八年後の2014年には、同じくアイルランドの内戦にかかわりのある作品「ジミー、野を駆ける伝説(Jimmy's Hall)」を作った。ケン・ローチ自身はアイルランド人ではないのだが、アイルランド問題を現代イギリス社会の矛盾を象徴しているものととらえ、強いこだわりを持ったのであろう。

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ケン・ローチの2012年の映画「天使の分け前(The Angels' Share)」は、イギリスにおける反社会分子の社会包摂をテーマにした作品。さまざまな非行で、裁判所から反社会的分子と認定された人間が、社会復帰の機会を与えられて、正常の生き方を取り戻す過程を描いている。

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ケン・ローチの2010年の映画「ルート・アイリッシュ」は、イラク戦争の一コマを描いた作品。イラク戦争は、ブッシュの狂気が始めた大義なき戦争で、汚い戦争と呼ばれている。その戦争を、ブッシュは国連を巻き込んで行うことができなかったので、有志連合によるイラクへの戦争として始めた。その戦争にイギリスのブレアが付き合った。そのことについて、いまではブレアの失敗だったとの評価がほぼ固まっているが、この映画はそうした評価の形成にひと肌脱ぐ役割を果たしたということができる。大義なき戦争を告発するという意図が強く感じられる映画である。

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ケン・ローチの2009年の映画「エリックを探して(Looking for Eric)」は、自信を喪失した冴えない中年男が、すこしずつ自信をとりもどす過程を描いた作品。かれが自信を喪失したのは、父親との関係が失敗したこと、それとのかかわりで恋人との関係を築けなかったこと、里子として育てている息子たちから馬鹿にされていることなどに起因している。つまり、この中年男は家族関係につまづいて自信を喪失したわけで、そういう意味では、イギリスの家族関係のあり方が真のテーマといってよい。

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ケン・ローチの2002年の映画「Sweet Sixteen」は、家族が崩壊して育児放棄のような状態に陥った少年が、次第に犯罪者の境遇に落ちていく過程を描いた作品。こうした育児放棄に伴なう問題(児童の貧困と呼ばれる)は、日本でも近年可視化されるようななったが、格差社会の進行が早くあらわれた英国では、他国に先がけて大きな社会問題になったようだ。社会問題に敏感なケン・ローチがそれをいち早く映画化したということだろう。

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ケン・ローチの2000年の映画「ブレッド&ローズ(Bread and Roses)」は、アメリカの労働問題をテーマにした作品。それに違法移民とか人種差別といった、いかにもアメリカ的な問題を絡ませてある。こんな映画は、アメリカ以外の国ではなかなか作られないだろう。この映画が描いているのは、資本主義システムの非人間性である。その無常で非人間的な労働者搾取がアメリカほど徹底的に行われているところはない。ケン・ローチはイギリス人だが、資本主義の矛盾について誰よりも鋭い問題意識をもっている。その問題意識を、アメリカという最も典型的な資本主義社会を舞台にしてあぶりだしたということだろう。

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ケン・ローチの1995年の映画「大地と自由(Land and freedom)」は、スペイン内戦の一コマを描いた作品。スペイン内戦は、左派の連合政権である人民政府に、ナチスやファッショの支援を受けたフランコが仕掛けたもので、1936年7月に始まり、1939年4月にフランコ側の勝利に終わった。この内戦には、フランコに反発する人々が、欧米各地から義勇兵として参加した。ヘミングウェーやオーウェルなどが知られている。ヘミングウェーが自分の行為の意義をどの程度理解していたかについては疑問があるが、オーウェルの場合には、自由を守るという大義があった。しかし、彼が味方した人民政府側が、雑多な勢力の寄せ集めであり、その勢力のなかで親ソ連派が優位に立つと、反フランコよりも親ソ連派のヘゲモニー確立のほうが優先され、かえって敵を利することになった事態に、オーウェルが深い幻滅を感じたことは、よく知られている。

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ケン・ローチの1969年の映画「ケス(Kes)」は、かれにとっては二作目である。ケン・ローチは21世紀に入って活躍した印象が強いのだが、映画作りは1960年代から始めたのである。しかし色々な事情があったらしく、20世紀中はなかなか活躍できなかった。それが21世紀にはいるや、俄かに巨匠と呼ばれるような活躍を始めるのである。それには時代の変化があったのだと思う。ローチは社会的な視線を強く感じさせる作風であり、社会の矛盾を描くことに情熱を感じていたが、20世紀の後半はそうした矛盾が一時遠のいていた感があり、21世紀にはいって以後、グローバリゼーションの広がりの中で、格差とか分断といったものが深刻化した。そうした時代の変化が、ローチに活躍の機会を与えたと言えなくもない。

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