映画を語る

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マックス・ラインハルトとウィリアム・ディターレが共同監督した1935年の映画「真夏の夜の夢」は、シェイクスピア劇の映画化としては理想的な作品といえる。原作の雰囲気を十分に発揮しているし、それに加えてファンタジー劇に相応しいファンタスティックな雰囲気を醸し出している。原作では、ボトムとティターニアのエロティックな出会いが劇の核心をなしていたが、そうしたエロティシズムもそこそこに感じさせる。ただ、原作の妖精パックが成長した男で、したがってエロスの雰囲気を漂わせているのに対し、この映画の中の妖精パックは、声変わりしつつあるとはいえ、まだ稚い少年である。したがってパックにはエロティックな雰囲気はない。そのかわりにいたずらざかりの無鉄砲さを感じさせる。その無鉄砲さで、奇想天外でファンタスティックな話のなりゆきが展開されていくわけである。

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シェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬ならし」は結構人気があって、いまでも頻繁に舞台に乗せられるほか、何度か映画化されてもいる。なかでもメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスが共演した1929年版は、原作のうちの見どころを圧縮して、わかりやすい構成になっている。

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1936年にローレンス・オリヴィエ主演で作られた「お気に召すまま」は、シェイクスピア劇の原作を忠実に再現している。原作は若い男女の結婚を祝福する祝祭劇の性格を色濃く持っており、その男女の駆け引きが森の自然の中で展開される。しかも愛し合うカップルは一組ではなく、四組もある。その四組のカップルが様々な試練を乗り越えて見事に結ばれ、森の中で祝福されながら祝うという原作の雰囲気がほぼ忠実になぞられている。

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「金陵十三釵」は、日本では最悪の反日映画と受け取られたので、上映されることはなかったし、日本人向けのDVDが販売されることもなかった。そんなわけで小生は、英語圏向けのDVDを取り寄せて見た次第だ。たしかにこの映画の中の日本人はグロテスクなほどに、非人間的に描かれている。この映画は中国では空前のヒットを記録し、日本を除いた外国にも相当多数輸出されたようだから、中国はもとより世界じゅうに日本についてのマイナスイメージをばらまいたことになる。

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張芸謀の2010年の映画「サンザシの樹の下で(山楂樹之恋)」は、若い男女の純愛物語である。いまどき世界のどこかで、こんな純愛がありうるのかと、頭をかしげたくなるような映画である。なぜ、こんな純愛がなりたちうるのか。人の恋愛感情は、理不尽な制約があるときにもっとも盛り上がりやすいらしいが、現代の中国社会には、そうした恋愛への制約がまだ強くあるのらしい。その制約が、若い男女をやみくもな恋愛に走らせる、というふうにこの映画からは伝わってくるのである。

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張芸謀の2002年の映画「HERO」は、中国版ちゃんばら時代劇といった作品である。日本のちゃんばら時代劇は、正義の味方が悪人どもを成敗する勧善懲悪の仕立てになっているが、中国のちゃんばら時代劇であるこの作品は、必ずしも勧善懲悪とは言えない。この映画のテーマは、秦の始皇帝を付け狙う刺客たちの物語なのだが、ほかならぬその刺客たちが、いわば内輪もめのような形で、互いに戦うのだ。しかもその戦いには隠された意図がある、というようなちょっとひねった筋書きになっている。日本のチャンバラ映画の無邪気さに比べれば、かなりひねくれた作り方といえる。

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張芸謀の1999年の映画「初恋のきた道(我的父親母親)」は、「あの子を探して」と同年に作られた作品だが、内容がよく似ている。どちらも中国人女性のひたむきさを描いたものだ。「あの子」の場合には、自分の請け負った仕事(子供の教育)に対する若い女性のひたむきさがテーマだったが、こちらのひたむきさは恋一筋のひたむきさである。若い女性からこんなにひたむきに愛されたら、男冥利につきるというものだ。

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若松孝二の2012年の映画「海燕ホテル・ブルー」は、今様版怪談とでもいうべき作品だ。怪しげな雰囲気を持った女に、男が次々と滅ぼされていくという筋立ては、伝統的な怪談物語とは多少趣を異にするが、人をして背筋を寒からしめるところは怪談といってよい。若松はこの映画を、「キャタピラー」とか「千年の愉楽」といったシリアスな作品の合間に作ったわけだが、どういうつもりでこんなものを作ったか、他人にはいまひとつわからない。

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若松孝二は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を、自分の映画作りの総決算だという趣旨のことをいったそうだが、それから四年後に「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を作った。前作が日本の左翼をとりあげて、その異様な思想と行動を描いたものとすれば、後作は、左翼の対局としての右翼の異様な思想と行動を描いたものだ。若松は左翼だけでは片手落ちで、それとバランスをとるつもりで、この作品を作ったのだろう。

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鶴橋康夫の2016年の映画「後妻業の女」は、金を持っている老人の後妻に納まって、老人が死んだ後その財産を独り占めにしようと企む女を描いている。後妻業という言葉があるのかどうかわからぬが、こういう人間が映画の主人公に選ばれるということは、いわゆる高齢化社会の姿を反映していると言えよう。後妻に納まった相手を次々に殺して遺産をせしめた女の事件もあったから、そのほうも日本の高齢化の一断面だったといえなくもない。

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鶴橋康夫の2011年の映画「源氏物語 千年の謎」は、副題に「千年の謎」とあるが、何が謎なのか映画の画面からは伝わってこない。一体この作品は、「源氏物語」をテーマにしていながら、源氏の恋の遍歴を描くよりも、作者の紫式部のほうに焦点を当てているのではないか。紫式部の生きざまを描きながら、そこに彼女の物語である「源氏物語」のシーンを同時並行的に差し挟む。だからこれは「紫式部物語 千年の謎」と題したほうがよかったようだ。それなら、謎の意味も分かる。紫式部の生涯はそんなに詳しく明らかになっているわけではなく、ましてやこの映画が前提しているような道真と式部との男女関係があったということもたしかではない。その確かでないことをこの映画は、謎というかたちで取り上げた、ということならなんとか納得できる。

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鶴橋康夫の2007年の映画「愛の流刑地」は、渡辺淳一の同名の小説を映画化したものだ。渡辺は人気のポルノ作家だが、ただのポルノではなく、物語性を豊富に盛り込んだロマンチックなポルノで好評を博した。そのロマンチック性は時に逸脱することもあるが、この作品などはそのいい例だろう。これは、愛の絶頂を死で迎えようとする一対の男女の物語なのである。愛の流刑地とはだから、愛が連れて行く領域ということになろう。

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タイトルにある「永い言い訳」とは、他人に向かっての言い訳と言うより、自分自身への言い訳のように、この映画からは伝わってくる。何についての言い訳か。自分が生きていることの、自分自身への言い訳である。何故、そんな言い訳をしなければならなくなったのか。自分自身、自分が生きていることの意味を見失ったからだ。

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男が女を使って売春まがいのことをさせ、そのあがりで楽をすることをつつもたせなどというが、逆のケースは何と呼んだらいいか。女が男を使って、別の女を相手に売春まがいのことをさせ、それらの女が男に貢ぐ金をあてにする。そんな光景を描いたのが、西川美和の映画「夢売るふたり」だ。

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2003年の映画「蛇イチゴ」は西川美和の監督デビュー作である。西川は皮肉を利かせたブラック・コメディが得意だが、この映画はそういった西川の作風が早くも前面に出た作品だ。西川はこの映画で、典型的な日本人家族がもろくも崩壊していく過程を、皮肉たっぷりに描いている。

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2015年のハンガリー映画「サウルの息子」は、ナチスの絶滅収容所を舞台にして、そこに生きる一人のゾンダー・コマンドを描いた作品である。ゾンダー・コマンドとはドイツ語で特別部隊という意味だが、絶滅収容所に集められた囚人(ユダヤ人)の中から選抜され、ドイツ人に代わって、同僚のユダヤ人虐殺に従事した人々のことをいう。カポとも呼ばれた。

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反ナチス抵抗運動の悲劇を描いた映画「白バラの祈り」は、実際にあった出来事を映画化したものだ。1943年2月18日に、ミュンヘン大学の構内で反ナチスビラを配布したミュンヘン大学生の兄妹がゲシュタポによって逮捕され、その四日後に有罪判決を受けたうえで、その日のうちに死刑執行されたというもので、映画はこの四日間の出来事を忠実に再現したといわれる。原題の「ゾフィー・ショル 最後の日々(Sophie Scholl - Die letzten Tage)」は、逮捕された妹に焦点をあてて、まさに彼女の人生最後の四日間を浮かび上がらせたものだ。

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クリスエィアン・ペツォールトの2008年の映画「東ベルリンから来た女(Barbara)」は、ベルリンの壁が崩壊する以前のドイツを舞台にしている。日本語の題名からは、東ドイツから西ドイツへとやって来た女の物語かともとれるが、内容は東ドイツ国内でのことである。ベルリンから追放されて海岸沿いの小さな街にやってきた女性医師の物語なのである。日本語の題名はまぎらわしいが、原題では女主人公の名をとって、「バルバラ」となっている。

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ヴェルナー・ヘルツォークは、出世作となった「アギーレ」では南米を舞台に選んだが、1872年に作った作品「フィツカラルド(Fitzcarraldo)」もやはり南米を舞台にしている。しかも、目的は別にしても、南米の奥地を探検する所は共通している。この映画は、ひとりの野心家による壮大な探検の夢を描いているのである。実話を踏まえているのかどうかはわからないが、こんな夢を描いたヨーロッパ人がいても、不思議ではないと思わされるところがある。

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ヴェルナー・ヘルツォークの1974年の映画「カスパー・ハウザーの謎(Jeder für sich und Gott gegen alle)」は、十九世紀の初めごろに実在した孤児をテーマにした作品である。カスパー・ハウザーと名付けられたこの孤児は、生まれて以来牢屋のようなところに監禁され、人間世界との接触がいっさいなかった。そのため、人間として必要な知識や態度を身に着けていなかったといわれる。その少年が十六歳の時に、人間世界のなかに放り出される。かれは、十六歳にして初めて、人間として生きていくための知識や態度を身に着けるべく学習しなければならなかった。映画は、そんなかれの学習の過程を中心にして描いているのである。いわば野生児が文明人になる話である。

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