映画を語る

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ジョン・フォードの1964年の映画「シャイアン(Cheyenne Autumn)」は、いわゆるインディアンもの西部劇の集大成といってよいような作品。フォードは、「駅馬車」など初期の作品では原住民をインディアンと呼んで、悪と決めつけ、かれらを殺すことに何ら良心の痛みを感じなかったのだったが、次第にその考えを改め、白人による原住民への虐待に疑惑の目を向けるようになる。騎兵隊三部作には、そうした批判的な視線をうかがわせるものがあったが、この「シャイアン」において、批判が原住民への同情にかわり、かれらもまた白人と同じ人間なのだとする視点が前面に出ている。インディアンを悪人としてとらえるステレオタイプは、1960年代まではまだ根強かった。そうしたステロタイプをつきくずしていく上で、フォードのこの映画も一定の役割を果たしたといえるのではないか。

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ジョン・フォードの1948年の映画「アパッチ砦(Fort Apache)」は、戦後の彼の西部劇三部作の最初の作品。テーマは、カーター率いる騎兵隊が、アパッチ族との戦いに敗北して全滅した事件だ。カーターはじめ登場人物の名前は変えてあるが、実際に起きたことをモデルにしている。これは、経験不足の指導者が、アパッチの実力を軽視して無謀な作戦をたて、殲滅されたという事態を踏まえたもので、西部劇としてはめずらしく、インディアンの前に白人が屈服するというテーマである。そこに、ジョン・フォードの冷めた視線を感じさせられる。

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ジョン・フォードの1935年の映画「男の敵(The Informer)」は、1920年代のアイルランド独立戦争を背景にして、仲間を売った男の末路を描いた作品。ジョン・フォードはアイルランドの出身であり、祖国に強いこだわりをもっていた。西部劇作者として出発したフォードだが、アイルランドへの思い入れが、このような作品を作らせたのであろう。

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2018年の映画「焼肉ドラゴン」(鄭義信監督)は、在日コリアンのコミュニティを描いた作品。在日コリアンを描いた映画としては、「パッチギ」や「月はどっちに出ている」といった作品があったが、在日コミュニティのありさまを正面から描いたものは少なかった。北野武が在日の主人公を演じる「血と骨」(崔洋一監督)が、その少ない作品を代表するものだったが、この「焼肉ドラゴン」も、「血と骨」とよく似たところがある。在日の出身者が監督し、在日の姿を赤裸々に描いたことだ。相違点もある、「血と骨」は、在日コリアンを差別する日本社会への批判意識は感じさせないのに対して、この映画は、日本人による差別に屈して自殺する在日少年を通し、日本社会への痛烈な批判を打ち出している。

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石井裕也の2021年の映画「茜色に焼かれる」は、格差社会現代日本を舞台に、いわゆる負け組のみじめな生き方を描いた作品。今の日本は、いったん負け組になったら、とことん負け続けることになり、徹底的にみじめな生き方をしのばねばならない、そんな痛切な痛みが伝わってくる作品である。

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2018年公開の日本映画「おみおくり(伊藤秀裕監督)」は、副題に「女納棺師という仕事」とあるとおり、納棺師をテーマにした作品。同じ趣旨の映画としては、滝田洋二郎が2008年につくった「おくりびと」がある。「おくりびと」は、納棺師という職業が社会的な差別にさらされていることを、批判的な視点から描いていたが、こちらにはそうしたものはない。納棺師という仕事の内容を淡々と描きながら、その職業を選んだ女性たちの生き方について丁寧に描いている。

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2019年のドキュメンタリー映画「主戦場」は、韓国人の慰安婦問題をめぐる日本国内の政治的な対立に焦点をあて、左右両派へのインタビューを中心にして組み立てた作品。ほとんどがインタビューの紹介で、その合間に日本国内のナショナリズム運動の高まりに注目するという方法をとっている。インタビューの内容は、回答者の個人的な信念を率直に語らせるというもので、そこには作為性はないと思われる。にもかかわらず、右派からは強い反発が出て、藤岡信勝ら一部の出演者から訴えられる騒ぎになった。かれらがなぜそこまで逆上したのか、よくはわからない。

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2008年のアメリカ映画「フード・インク(Food, Inc. ロバート・ケナー監督)」は、食料の生産・流通・販売をめぐる巨大企業の影響力とそれのもたらす深刻な社会的弊害をテーマにしたドキュメンタリー映画である。タイトルの「フード・インク」とは、そうした巨大企業を意味する言葉である。それらがもたらす弊害は、農薬による健康被害、ファストフードの普及に伴う肥満問題、労働者や契約農家の奴隷的境遇、そして世界の食料需給のアンバランスなどといった現象として現れる。この映画はそうした現状に警鐘を鳴らし、健全で持続可能な食糧供給システムの構築を訴える作品だ。

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2014年のアメリカ映画「シチズンフォー スノーデンの暴露(Citizenfour ローラ・ポイトラス)」は、アメリカ政府職員で、アメリカ政府による国民のプライバシー侵害を暴露したエドワード・スノーデンの闘いぶりを追ったドキュメンタリー映画である。スノーデン本人のほか、暴露記事を発信したジャーナリスト、グレン・グリーンウィルドが素顔で出てくる。ということは、かれらは最初から世界に向かって自分らの活動を公開する前提でこのドキュメンタリー映画を作ったということになる。だから見方によっては、大向こう受けを狙った自作自演といえなくもない。

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2018年のアメリカ映画「ブラック・クランズマン(BlacKkKlansman スパイク・リー監督)」は、白人至上主義団体KKKをモチーフにした作品。1970年代のコロラドを舞台にして、警察とKKKの戦いを描いている。そこに、黒人の警察官を登場させ、アメリカの警察組織がもつ問題も絡めて取り上げている。アメリカの警察自体が非常に人種差別的で、黒人に対して暴力的だった歴史があるので、そのアメリカの警察が黒人を使って人種差別団体を取り締まるという発想が、非常に強いインパクトをもった。もっとも、この映画が作られたのは、2018年のことで、その時代には黒人の警察官も珍しくはなかった。しかし、警察の人種差別体質が根強いものであり、黒人をわけもなく殺していることは、近年のフロイド事件はじめ多くの事件が明らかになっているとおりである。

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2016年のアメリカ映画「ムーン・ライト( Moonlight バリー・ジェンキンス監督)」は、現代アメリカの黒人社会の一面を描いた作品。一黒人の少年時代、思春期、青年時代を描きながら、アメリカ社会における黒人の生きづらさのようなものを描いている。それに、陰惨ないじめとか同性愛を絡めている。見ての強い印象は、いじめにしろ人間同士の触れ合いにしろ、この映画に出てくる黒人たちは、ほとんど黒人だけで完結した社会に生きているということだ。いじめや暴力は、黒人が黒人相手に行うのであり、白人は全くかかわらない。大体がこの映画には、白人はほとんど出てこないのだ。出てくる白人は、暴力的な黒人を取り締まる警察官だけである。

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2001年のアメリカ映画「アイ・アム・サム(I am Sam ジェシー・ネルソン監督)」は、精神薄弱者の子供に対する養育権をテーマにした作品。アメリカは、児童の権利を守るとして、子供の養育能力に欠けるとみなされるものから、子供を引きはがす文化が普及しているらしく、この映画はそうしたアメリカの文化に一定の批判を加えたもののようである。だが、何が言いたいのかよくわからぬ不徹底さがある。子供の立場に立っているのか、精神薄弱者の親にも言い分があるといいたいのか、どうもよくわからぬのである。

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1999年のアメリカ映画「ディープ・ブルー(Deep Blue Sea レニー・ハーリン監督)」は、人工的に知能を高度化されたサメが、その高度な知能を駆使して、人間に逆襲するというような内容の作品である。とりあえずは頭のよいサメが人間を弄ぶということになっているが、このサメをAIと読み替えると、今問題になっているAIの脅威につながるものがある。AI技術の発展はすさまじく、いまやAIは人間のコントロールを超えて自己発展し、もしかしたら人間にとって深刻な脅威になるかもしれない、だからAIの技術を、人間のコントロール下に置かねばならないという議論まで起きている。この映画は、そうした議論を先取りするものと受けとることができる。もっとも、制作者に当時そんな問題意識があったようには思えず、ただ単にSFホラー映画の材料として思いついたのであろうが。それにしても、この映画は奇妙な現実感をもって、われわれ人間に反省を迫るのである。

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2020年のルーマニア映画「アカーサ僕たちの家」は、ブカレストに生きるロマ人一家を描いたドキュメンタリー映画。ドキュメンタリーとはいっても、多少ドラマチックな要素も盛り込んである。そのためかなりな迫力を感じさせる。その迫力は、ルーマニアに暮らすロマ人への差別意識に発するのだと思う。この映画の中のロマ人一家は、文明の名のもとで、ロマ人として生きるに必要な尊厳をはく奪され、ルーマニア人社会への適応を強要されるのである。

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2019年のルーマニア映画「コレクティブ 国家の嘘」は、ルーマニアの医療システムの腐敗を追求するドキュメンタリー映画である。ユーマニアの医療について、小生はほとんど知るところがないが、このドキュメンタリー映画を見る限りかなりひどいという印象を受ける。医療システムが、少数の特権的な連中によって食いものにされ、国民の安全を犠牲にして一部の人間のふところを潤すという構造になっているらしい。

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2016年のルーマニア映画「エリザのために(クリスティアン・ムンジウ監督)」は、娘のために必死になる父親をテーマにした作品。それに現代ルーマニア社会への批判を絡ませてある。ルーマニアには個人が人生をかけるような意味がない、そう考えた父親が娘に明るい未来を託す。ところが娘には思いがけない試練が待っていて、未来へと順調にはばたけないかもしれない。そんな事態に直面した父親が、自分のすべてをかけて娘のために必死になる。そんな父親の姿を、映画は淡々と写しだすのである。

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2007年のルーマニア映画「4ヶ月、3週と2日」(クリスティアン・ムンジウ監督)は、女子大生の堕胎をテーマにした作品。ルーマニアでは堕胎は違法になっており、望まぬ妊娠をした女性は、出産するかあるいは違法な堕胎処置をするか、どちらかを選ばねばならない。国内で正式な医療処置を受けられる可能性はないので、闇の堕胎師しに頼ることになる。闇の堕胎師にはいかがわしい人間もいる。この映画は、そうしたいかがわしい堕胎師にめぐりあったために、ひどい心の傷を負う羽目になった女子大生たちを描く。

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クリスティアン・ムンジウによる2012年のルーマニア映画「汚れなき祈り」は、女子修道院での生活ぶりを描いた作品。時代背景は明示されていないが、現代のルーマニア社会を描いていることはわかる。その現代のルーマニアで、きわめて因習的な制度である修道院が、昔ながらの姿で保守されており、理屈よりも信仰がすべてを律するといった事態がいまだにまかり通っていることに、この映画は批判的な目を向けているというふうに伝わってくる作品である。

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2006年の中国映画「天安門、恋人たち(颐和园 婁燁監督」は、中国人女子大生の奔放な性遍歴を描いた作品。邦題に「天安門」とあり、また時代背景が1989年前後に設定されているので、例の天安門事件をテーマにしているかと思ったら、そうではなく、中国の大学生たちの糜爛した性関係を描いている。原題の「颐和园」は、そうした性関係の舞台の一つなのである。「颐和园」には小生も、観光ツアーで訪れたことがあるが、北京西北部にある巨大な庭園である。

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張楊(チャン・ヤン)の2005年の中国映画「胡同のひまわり」は、前作「こころの湯」に続き、中国人の家族関係をテーマにした作品。それに1876年以後の中国現代史を絡めてある。とはいっても、毛沢東の死や唐山大地震は触れられているが、1989年の天安門事件は、慎重に避けられている。そのかわりに、深圳に象徴される現代化の流には触れている。

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