日本文化考

「提婆達多品」第十二は、法華経が全二十七章として成立した後、かなりな年を経て追加されたものである。法華経本体の成立は二世紀の頃、提婆達多品が追加されたのは天台智顗の頃だと思われるから、四百年ほどの時間差がある。そのため、この章を法華経本体に含めるべきではないという意見もあり、また偽経ではないかとの疑問も出た。確かに、そんな疑問を抱かせるようなところがある。お経の様式が法華経本体のそれとは違っているし、盛られている内容もユニークなものだ。

「見宝塔品」第十一は、「法師品」第十に引き続き、法華経の功徳を説く。法華経は、釈迦仏の教えを説いたものであり、これを読めば釈迦仏自身から教えを受けたと同じ功徳があるとされる。だが、その釈迦仏の教えは、たんに釈迦仏その人の教えたるにとどまらない。というのも、仏は釈迦仏に先立つ永遠の昔から無数に存在し、それらの仏はみな同じ教えを説いていたからだ。つまり法華経とは、すべての仏の教えに共通する教えなのだ。そのことを強調するために、「見宝塔品」は、過去仏としての多宝如来を登場させるとともに、同時代のさまざまな仏国土を主宰する無数の仏を登場させて、釈迦仏を含むすべての仏が、同じ教え、すなわち法華経を説くさまを語るのである。

法華経を構成する各章を、内容的・成立年代的に分類すると三つの部分からなると先述した。最も古層に属するものは「方便品」第二から「授学無学人記品」第九までの八章で、これは仏弟子たちの成仏を約束する授記を中心にしていた。どんな人も成仏するための資格をもち、それは人間に生まれながらに備わっている仏性の賜物だというのが、これらの諸章を貫く根本思想だった。

「授学無学人記品」は「学無学人授記品」とも標記できる。「五百人弟子授記品」の「五百人弟子」のところに「学無学人」を入れた形である。意味は「学無学人」への授記ということ。「学無学人」とは学人と無学人を意味する。学人はこれから学ばなければならない人、無学人はもはや学ぶべきものがない人をいう。この章は、そうした人々二千人への授記について語られる。舎利弗への授記に始まった一連の授記が、これで一応の締めくくりを迎えるわけである。なお、この後に、「提婆達多品」で提婆達多へ、「勧持品」で喬答弥と耶輸陀羅への授記が行われて、法華経における授記はすべて終了する。

釈迦仏は、舎利弗以下の高弟に授記したばかりか、大勢の比丘たちにも授記する。その数千二百人という。「五百弟子授記品」第八は、その様子を伝えたものである。釈迦仏はまず富楼那に授記し、ついで憍陳如以下五百人の比丘たちに授記し、さらにこれらの五百人を含んだ千二百人の比丘たちすべてに授記すると宣言する。題名を「五百弟子授記品」としたのは、釈迦仏とかれらとの譬喩をまじえたやりとりがこの章のハイライトとなるからである。その譬喩とは、「衣裏の宝珠」のたとえと呼ばれる。

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(狂言末広がり)

今年のNHK新春能楽の番組は、観世流の脇能「老松」の舞囃子と大蔵流狂言「末広がり」だ。NHKは近年能楽の放送をさぼるようになっていたが、ついに正月番組にまで手を付けて、能の番組を舞囃子で代用した。我々能楽ファンとしては、如何にも手を抜かれて残念な思いだ。

「化城喩品」第七は、「五百弟子授記品」へのつなぎの役を果たす章である。釈迦仏は、五人の高弟に授記した後、大勢の人々を次々と授記していく。授記とは、成仏を約束することだが、人はなぜ成仏できるようになるのか、その因縁を語るのがこの「化城喩品」なのである。つまりこの「化城喩品」は、仏になるための条件と、実際に仏に成った人たちの行いについて語るのである。例によって譬喩を通じて語られる。「化城宝処の譬え」である。

法華経「授記品」第六は、五大弟子のうち舎利弗の授記に続いて、ほかの四人の高弟に釈迦仏が授記するさまを語る。授記とは、成仏を約束することである。その授記について法華経は、五大弟子のほか多くの修行者にもあいついで行うさまを語る。「五百弟子授記品」においては、富楼那、憍陳如など千二百人に対して、「授学無学人記品」においては、阿難、羅睺羅など二千人に対して、「勧持品」においては、喬答弥、耶輸陀羅など大勢の比丘尼たちへの授記が行われるさまを語るのである。このように大勢の人々が成仏できるというのは、あらゆる衆生には仏性が宿っていて、だれでもそれなりの修行をつめば成仏できるとする法華経の思想の現われということができる。

法華経「草喩品」第五は、「譬喩品」、「信解品」との一連の流れの中で位置付けられる。「譬喩品」では、仏による衆生の救済が仏の立場から説かれ、「信解品」では仏によって救済される衆生の喜びが、修行者の立場から語られた。「薬草喩品」は、そうした仏による救済を、再び仏の立場から説いたものである。それは、例によって譬喩を通じて行われる。薬草の譬えがそれである。大雲が降らす雨は、大地の植物を一様に潤すが、それを受ける植物は、それぞれのあり方に応じてそれを受け止める。仏と衆生との関係もそれと同じことである。仏の教えの本質は一相一味といって、すべてのものに平等に与えられるのだが、衆生にはそれぞれ能力の相違があるので、その能力に応じて受け取るのであり、仏も又そうした能力に応じた方便を用いて教えを説く、というのが薬草喩品の基本的な内容である。

法華経「信解品」第四は「譬喩品」第三の続編あるいは姉妹編のようなものだ。「譬喩品」においては、仏から授記を受けて、未来の成仏を確約された舎利弗について、本人の舎利弗が喜んだのは無論、その場に居合せた他のものたちも歓喜した。自分らにも、舎利弗同様成仏の可能性があると思ったからだ。これについて釈迦仏が、仏の立場から衆生の救済について語る。それを三界の火宅という譬喩を通じて語ったので、「譬喩品」といわれるわけである。それに対して「信解品」は、弟子の立場から救済されることの喜びについて語る。それを同じく譬喩を通じて語るのだが、その譬喩というのが長者窮子の譬えである。この譬えを通じて、長者が息子を常に思いやっているように、仏が仏子をつねに思いやっていることへの確信が語られる。題名にある信解とはその確信をさして言うのである。

法華経「譬喩品」第三は、その題名が示唆するとおり、仏の教えを、比喩を用いて説いたものである。お経には、比喩を用いたものが多い。最古の大乗経典といわれる般若経などは、その主張するところの理由として、大部分の場合譬喩を持ち出しているほどである。理由のかわりに比喩を示されても、人間というものはわかったような気持ちになるように出来ているらしい。

法華経のうち最初に成立し、しかも中核部分ともいうべき「方便品第二」から「授学無学人記品第九」までの八章のうちで、「方便品第二」は、この中核部分の総論にあたるものである。法華経の中でも最もポピュラーな章であり、日蓮宗の寺では、法要の席上かならず読まされる。

法華経を読む

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法華経の構成や成立年代については、先稿「法華経の構成」で言及した。その稿は仏教学者田村芳朗の説に依拠したものだが、その内容を簡単に再説しておこう。田村によれば、法華経を構成する二十八品は、三つの部分に分類できる。第一の部分は、第二品「方便品」から第九品「授学無学人記品」まで、第二の部分は、第十品「法師品」から第二十二品「嘱累品」まで、第三の部分は、第二十三品「薬王菩薩本地品」から第二十八品「普賢菩薩勧発品」まで。この三つの部分のうち最も早く成立したのは第一の部分で、紀元50年前後のことだったとする。第二の部分はそれに遅れて成立したが、第十二品の「提婆達多品」は天台智顗によって後世に追加されたものである。第三の部分は、紀元150年ごろまでに、順次個別に成立・追加されたのであろうと考えられている。なお、全体の序文にあたる「序品」は、第二の部分が成立した際に、第一・第二の部分に共通する序説として置かれたのであろう。

柳宗悦は、他力を自力と比較する一方、他力内部の発展について分析する。柳は他力を代表する信仰として、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗を上げるのであるが、これら三つの宗派を並行的に並べるのではなく、発展の各段階として見る。しかして一遍の時宗を、他力門の発展の頂点とする。時宗はいまや勢力が衰え、浄土宗や浄土真宗に比較して信者も少ないのであるが、しかし宗旨のうえでは他力門の行き着くところまで発展したものだという見方を柳はするのである。もっともこの三つの宗派は、いずれも不可欠のものであって、どれを欠いても三者は互いにその歴史的意義を失う、と柳は言う。

柳宗悦は、民芸の研究者として知られている。その柳宗悦が念仏に深い関心を抱いたのは、宗教的な動機からではないらしい。本人が、自分は宗教的な人間ではないといっているから、それはそうなのだろう。その柳がなぜ、念仏に深い関心を寄せるようになったのか。それは民芸の担い手たちの多くが、念仏衆が言うところの「妙好人」の面影をたたえているからだと思ったことによると、本人は言っている。こんなすばらしい民芸を生む出すことができるのは、名もない人間でありながら、深い宗教心に支えられたその生き方が、作品となって表現されるからだ。そんなすばらしい生き方を、念仏が実現している。そう考えたからこそ柳は、念仏に深い関心を持つようになったということらしい。

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狂言「茸」に続き、能「道成寺」を紹介する。能自体の概要については、別稿で解説しているので触れない。ここでは見ての印象を書く。その印象としては、もしオリンピック見物にやってきた外国人を観客に想定しているのなら、この曲は相応しくないということだ。というのも、一応劇的な見せ場はあるものの、動きに乏しい部分が多くて、よほど忍耐強い人でないと、最後まで見続けるのがむつかしいと思うからだ。

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能楽諸流派では、今年予定されていたオリンピックの記念公演として、大規模なイベントを計画していたが、オリンピックが中止になったことで、どうするか鳩首協議したところ、コロナ騒ぎで世の中が暗くなっているいま、世間を勇気づけるために、趣旨のスローガンを変えて実施しようということになったそうだ。スローガンを「能楽公演2020」と称し、千駄ヶ谷の能楽堂を舞台にして、オリンピックの当初計画期間に合わせて公演を行った。その中から狂言「茸(くさびら)」と能「道成寺」を選んで、NHKが放送した次第である。

鈴木大拙が英文で書いた「禅」は、禅とは何かについて欧米人にわかりやすいように書いたものであったが、この「禅とは何か」は、日本人を対象にした講演を編集したものである。相手が日本人であるから、禅をまったく知らないわけではない。少なくとも言葉としての禅は知っているだろう。だが宗教的実践としての、あるいは修業としての禅について、そう深くは知らないだろう。そういう人たちを対象にして、宗教的な実践あるいは体験としての禅について語るというのが、この講演の目的だったようだ。

小乗、大乗を問わず、仏教全体に共通することとして、涅槃を最終的目的とする考えがある。涅槃というのは、悟りを通じて輪廻から解放されることである。輪廻とは、仏教に特徴的な考え方で、この世の生き物はほぼ永遠に輪廻転生、つまりたえざる生成消滅の運命につながれているとする考えだ。仏教は、生きることを苦しみと捉えるから、輪廻転生から逃れられないというのは、ほぼ永遠に苦しみに繋縛されていることを意味する。この繋縛から逃れるためには、悟りを得て涅槃の境地に達し、そのことで輪廻転生から解放されることが必要である、と考えるのである。涅槃とはだから、あらためていうと、輪廻転生から離脱して、永遠のやすらぎを得ることだということになる。ところが鈴木大拙の涅槃観は、それとはだいぶ違った内容のものとなっている。

「大乗仏教概論」は、欧米人を対象として書いたということもあり、大乗仏教をキリスト教と比較しながら解説している。そうすることで、宗教としての大乗仏教の特色をよく理解してもらえると思ったからだろう。キリスト教といえば、神を中心とした宗教である。それにイエス・キリストがからみ、更にキリスト教会の存在が絡んで、いわゆる三位一体説が確立された。キリスト教の教義は、この三位一体説によって代表されるといってもよい。そこで大拙は、仏教にも三位一体説と似たようなものがあることを指摘して、欧米人の仏教理解を促そうというわけなのである。

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