「観心本尊抄」は、正式には「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という。釈尊の滅後二千五百年目にしてはじめて、「観心本尊」について日蓮が説くのだという気負いの言葉である。二千五百年というのは大雑把な言い方で、正確には釈迦の滅後二千二百五十年である。それは末法の時代にあたる。仏教では、釈迦の滅後千年を正法の時代、続く千年を像法の時代、その後の五百年を末法の時代とする。だから釈迦滅後二千二百五十年目は末法の時代に属する。その末法の時代に日蓮という菩薩が現れて「 観心本尊」を説くというのが、この書の眼目である。
日本文化考
「開目抄」は、日蓮が自らの信念を説いたもっとも重要な書である。日蓮はこれを佐渡へ流された直後に書いた。流されるに先立って、鎌倉龍ノ口の法難と呼ばれる事件があって、日蓮は首を切られそうになったのだったが、折からの天変地異が刑吏を尻込みさせ、九死に一生を得たのだった。日蓮は死一等を減じられて佐渡に流される。その佐渡で、自分の過去を振り返りながら、法華経の行者として、法華経の教えをあらためて説いたのである。そんなわけでこの書には、法華経の行者としての日蓮の決意が延べられるとともに、法華経の教えの核心が説かれている。「立正安国論」以前には、折伏と称して、他宗(特に念仏)への攻撃が中心だったが、ここでは、法華経がいかに優れた教えであるかについて、積極的に説明するというスタンスをとっている。いわば論証の書である。その論証を日蓮は、法華経及び涅槃経を中心とした大乗経典を根拠にしながら行っている。つまり、法華経の優れている所以を、法華経自体に求めるというやり方をとっているわけで、その点では、西洋流の形式論理になれた者には、循環論法のように見えなくもない。
立正安国論は、文応元年(1260)、国主諫暁の書として、時の執権北条時頼宛てに幕府に呈上したものである。奥書によれば、正嘉元年(1257)の大地震に遭遇して国主諫暁を思い立ったという。この大地震に限らず、当時の日本はさまざまな天変地異が襲っていた。その原因を日蓮なりに考え、これは正法がすたれて謗法が横行していることに仏や神々が怒っているためだと結論した。したがって謗法を退け正法を復活させることが求められている。時の権力者が中心となってそれをおこなうべきである。その場合に日蓮が謗法として糾弾したのが法然の念仏宗であり、復活すべき正法としたのが法華経・涅槃経を中心とした釈迦の教えであった。しかし、日蓮の議論が時の政権を動かすことはなかった。逆に法敵の怒りをかい、命を狙われるのだった。以後日蓮は、法華経の行者として謗法と戦い続け、それがもとで常に命の危険を感じながら生きたのである。
「守護国家論」は、日蓮のまとまった論書としては最初のものである。正元元年(1259)鎌倉での著作である。時に日蓮三十八歳。比叡山での修行を終え、法華の行者としての自覚を深めた日蓮が、法華信仰の意義を説き、かつ邪法を退けるべき所以を説いたもの。邪法として名指しされるのは念仏と禅だが、ほとんどが念仏への非難に費やされている。その意図を日蓮は、邪智の聖人(法然)が、「末代の愚人の為に一切の宗義を破して選択集一巻を作り・・・実教を録して権経に入れ、法華真言の直道を閉じて浄土三部の隘路を開く」ことは赦せんと言っている。
岩波書店の「日本思想体系」シリーズの「日蓮」の編には戸頃重基と高木豊による解説が付されている。新書一冊分ほどのボリュームがあって、日蓮へのガイドブックとして手頃である。戸頃が日蓮本人の生涯と思想について、高木が日蓮の後世への影響について述べている。日蓮へのガイドとしては、ほぼ同じ時期に出た「仏教の思想」シリーズの日蓮特集「永遠のいのち」もあり、この両者を読めば、宗派の立場とは別の視点から、日蓮の大まかな姿を捉えることができよう。
日蓮は宗教者であって、われわれ普通の日本人にとっては日蓮宗という鎌倉仏教の宗派を創始した人、つまり教祖という位置づけだろう。日蓮自身は、自分をそんなふうには思っておらず、あくまでも法華経の行者という意識を持ち続けた。もっとも晩年には、蒙古大襲来などもあって、日本の現状に対する危機意識が高じた余り、自分こそがその日本を救うべき人であり、日本人の師、父母であると言い、あげくは上行菩薩の生まれ変わりとしての日蓮大菩薩であると言うまでになった。
紀野と梅原は「日蓮の思想と行動」と題して、日蓮について語り合うのだが、二人とも熱心な日蓮ファンだから、おのずと日蓮賛美の合唱といった体裁を呈する。日蓮には、人を熱中させるものがあるというように。たしかに、日蓮には人を熱中させるものがあるのだろう。熱中の真逆は反発だが、日蓮ほど強い反発を受けたものもまたない。存命中は度重なる迫害(法難)を受けたわけだし、現代人、とくに日本のインテリには日蓮を嫌うものが多い。それは日本文化にとってよくないことだ、と二人は口を揃えて言う。日蓮を正しく評価することなしには、日本文化の望ましい発展はないというわけである。
日蓮を取り上げた「仏教の思想シリーズ」の最終巻「永遠のいのち」の第三部を、梅原猛は「日蓮の人生と思想」と題して、日蓮の人生の歩みを梅原なりに振り返りながら、日蓮の仏教思想の展開をたどっている。梅原は、やはり日蓮が好きらしく、その語り方には、日蓮に対する熱い思い入れが込められている。
「仏教の思想」シリーズ最終巻(第十二巻)は、「永遠のいのち」と題して日蓮を取り上げる。担当は、仏教学者の紀野一義と哲学研究者の梅原猛である。このシリーズでは、仏教学者が当該テーマについて、思想を体系的に語り、哲学研究者が多少文学的に、仏教者の人間像について語るという役割分担であったが、この最終巻においては、紀野が日蓮の人間像を余すところなく語りつくしたので、梅原のほうが日蓮の思想を語るというはめになったという。
仏教の思想シリーズ第十巻「絶望と歓喜」における著者対談のテーマは法然と親鸞の比較である。この二人の関係についての著者たちの見方は、増谷は連続性を重視し、梅原は断絶を重視したと言ったが、ここでは両者の比較が中心となるので、おのずから差異が意識的に論じられる。その差異を通じて、浄土宗と浄土真宗の相違も浮かび上がってくるようになっている。
梅原猛が親鸞を、その生き方と思想の両面から考察しているのは、増谷文雄と同じである。ただその視点は梅原らしくユニークだ。増谷はオーソドックスなやり方で親鸞の生涯を振り返り、それを踏まえて著作活動の展開や、そこに盛られた親鸞の思想を追っていくという方法をとっている。それに対して梅原は、親鸞の生き様を聖徳太子と関連付け、親鸞の思想については、「歎異抄」や晩年の著作ではなく、関東時代の「教行信証」をもとに考察している。切り口が狭いのである。
「仏教の思想」シリーズ第十巻は、「絶望と歓喜<親鸞>」と題して、親鸞を取り上げている。担当は、このシリーズの第一巻を担当した増谷文雄と梅原猛のコンビ。梅原はこのシリーズのコーディネーターだが、仏教では浄土系、仏教者では親鸞をとくに畏敬しているらしく、かれとしてはとりわけ気合が入っている。

「二人大名」は、一応大名狂言に分類されているが、ここに出てくるのは、およそ大名らしくない者どもである。それでも見栄だけは張っていて、通りすがりのものをその見栄に付き合わせようとするが、かえってその者からこけにされて、さんざんな目に合うというものだ。

NHKが定例の番組で能「恋重荷」を放送した。老人の失恋をテーマにしたものだ。身分の低い、しかも老人が身分の高い女性に恋をして、失恋するというのは、いかにも能らしい話で、現実味の高い文芸ではあまり例を見ないだろう。一応世阿弥の作品ということになっているが、世阿弥はすでに存在していた「綾の太鼓」という曲をもとにこれを作ったという。同じような内容の能に「綾鼓」があり、これは作者不明だが、やはり「綾の太鼓」を原作としていると考えられる。「綾鼓」は、自分を悩ませた女を徹底的に責めさいなむのに対して、この「恋重荷」は、死んだ老人の幽霊が恨み言を述べたのちに、女の守護神になることを約束するという趣向になっている。
空海と最澄は同時代人であり、それぞれ真言・天台という平安仏教の創始者ということもあって、よく対比される。しかも二人はともに遣唐使に同行して唐に留学し、密教を学んでいる。宗教的にも似たところがある。最澄のほうが七歳年長ということもあり、この二人を対比するときには最澄と空海という具合に最澄を前に置くのが普通だが、ここでは空海の真言密教をテーマにしているので、空海を前に置いた次第だ。
密教は、大日如来の教えを説いたものといわれる。その教えをあらわしたのが曼荼羅であるが、曼荼羅は視覚的イメージだ。大日如来の教えは、主として大日経と金剛頂経に説かれているが、それらは言葉を媒介にした教えである。ところが大日如来の教えは、言葉だけではその全体をつかむことが出来ない。言葉はあくまでも理知的なものである。大日如来の教えには、理知の枠をはみ出す部分もある。そうした部分を含んだ教えの全体像をつかむには、シンボルを通じて接近するしかない。そのシンボルとなるのが曼荼羅なのである。
角川書店版「仏教の思想シリーズ⑨」は、「生命の海<空海>」と題して空海を取り上げながら、空海が完成させた密教について考察している。例によって仏教学者と哲学研究者のコラボレーションである。仏教学者としては真言密教の専門家宮坂宥勝、哲学研究者は梅原猛。二人はともに、空海と真言密教の復権に熱心である。というのも、真言密教は明治以降勢力が弱まり、空海のほうは宗教者として尊重されなくなった風潮を嘆きながら、じつは空海は日本の思想史上もっとも偉大な人物といえるのであり、その空海が集大成した真言密教は仏教の究極的な姿を現しているのであり、したがって仏教を問題にする場合には、空海と真言密教は軽視することができないと考えるからである。
梅原猛は中国浄土論を「仏教のニヒリズムとロマンティシズム」という表題で論じている。ニヒリズムとは浄土教のもつ現世否定の傾向をさし、ロマンティシズムとは浄土への憧れとしてのユートピア思想をさしているようだ。そしてニヒリズムを鳩摩羅什によって代表させ、ロマンティシズムを善導によって代表させている。梅原は中国の浄土宗を、鳩摩羅什によって始められ、善導によって完成されたというふうに整理しているのである。その中国の浄土教が日本に伝わって日本風の浄土宗が生まれたわけだが、梅原は日本の浄土宗についてはあまり触れることはない。
「仏教の思想」シリーズ第八巻は、「不安と欣求<中国浄土>」と題して、中国における浄土信仰を取り上げている。担当は浄土教研究の第一人者塚本善隆と哲学研究家の梅原猛。塚原が中国浄土教の歴史的な展開を俯瞰し、梅原が日本の浄土諸宗に直接影響を与えたとされる曇鸞、道綽、善導の思想を解釈している。そのうえで、浄土をユートピアと位置づけての両者の対談がさしはさまれるという体裁になっている。
日本の禅は、栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を導入・布教したことから始まる。栄西は比叡山で天台宗を学び、二度にわたって宋に留学した。最初の留学は、密教理解の深化が目的で、禅についてはそれほど力を入れていない。二度目の留学の際に、臨済宗を研究・修行し、それを日本で布教した。臨済宗は、南宗禅系統の禅で、当時の中国では禅の主流であった。
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