日本文化考

南方熊楠の小論「巨樹の翁の話」は、巨樹にまつわる伝説や不思議譚を世界中から集めて比較したものである。まずは熊楠の地元紀州に伝わる伝説の一つとして、次のような話が紹介される。谷の奥に齢数千年の巨大な欅があって、これをやむを得ず伐ることになったが、九人かかって切っても一日では切りきれぬ。そこで翌日行ってみると、木の切口が塞がって、木はもとのようになっている。不思議だと思って夜中に様子をうかがっていると、坊主がやってきて木の切屑をもとに戻して木を継ぎ合わせているのがみえた。そこで、木を切ったあとに切屑を焼き払ったところ、さすがの坊主も致し方が無く、木はついに倒された、という話である。

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能「求塚」は観阿弥、世阿弥親子の合作といわれる。観阿弥によって作られた曲に世阿弥が手を入れたというが、たしかに前半部分には世阿弥らしい優雅ささが伺えるのに対して、後半部分は荒々しさが溢れているところが、観阿弥らしさを感じさせる。

「建築土工等を固めるため人柱を立てることは今もある蕃族に行われ、その伝説や古跡は文明諸国に少なからぬ」南方熊楠はこう切り出して、世界中から人柱の例をあげていく。インドなどではいまでも人柱が行われおり、またヨーロッパの文明国でも15世紀ころまでは行われていた。日本も例外ではなく、徳川時代まで行われていたことは間違いない。先日も皇居の二重橋の櫓下から白骨が出てきたが、これも人柱の跡に違いない。こういって、南方の例証は留まるところがない。南方の学問の特徴は、とにかく世界中に類似の現象を求めて列挙し、それらを相互に比較することにある。

南方曼荼羅

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この図は、民俗学者の間で「南方曼荼羅」と呼ばれているものである。この奇妙な図を南方熊楠は、土宜法龍宛明治36年7月18日付書簡の中で描いて見せた。この書簡の中で熊楠は、例の通り春画やらセックスやらとりとめのない話題に寄り道をした挙句に突然仏教の話に入るのであるが、この図はその仏教的世界観(熊楠流の真言蜜教的な世界観)を開陳したものとして提示されたのであった。

南方熊楠の生涯の中で神社合祀反対のために費やしたエネルギーは並大抵なものではなかった。彼はこのために、研究のための貴重な時間を割いたのみならず、乏しい生計資金の中から七千円を費やし、また官吏を威圧したかどで投獄されもした。彼をそれまでに駆り立てた理由は、神社合祀によって多くの神社が無くなる結果、その神社に付属していた森林が伐採されつくすことへの危機感だった。森林伐採によって、生態系のバランスがくずれ、植物の生息に悪い影響が出るのみならず、さまざまな問題を生じさせる。熊楠はそれを座視できなかったのである。
鶴見和子女史の労作「南方熊楠」は、南方熊楠を包括的に取り上げて論じた最初の単行本だと女史自身が述べている。柳田国男と並んで日本民俗学の創始者と目されている南方であるが、柳田についての研究が百花繚乱なのに比較すると、南方についての研究はあまり進んでいなかったということを、女史は示唆しているわけである。女史自身もまず柳田の研究から始め、その延長上に南方にたどり着いたが、たどり着いてみるとすっかりその魅力に取りつかれてしまった、ということらしい。
南方熊楠の履歴書を読むと、ところどころ話が脱線して、猥談に及ぶことが多い。それが少しもわざとらしくなく、話の筋道の上でも自然に受け取れるのであるが、ただ単にわざとらしくないにとどまらず、非常に裨益されるところが多い。要するに面白いのである。
南方熊楠は履歴書というものを残している。これは、体裁上は58歳の時に書いた手紙なのであるが、その中で自分の半生を詳しく振り返っている。これがあるがために、南方熊楠の研究者は、南方の生涯のあらましについて知ることができる。筆者は先日鶴見和子女史の「南方熊楠研究」を読んだばかりだが、その本の中の南方の伝記の部分も、この履歴書を最大の頼りにしている気配が伺われた。

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安達が原の人食い鬼伝説を能にしたものを、観世流では「安達が原」といい、他の流派では「黒塚」という。両者をあわせると「安達が原の黒塚」となり、鬼の住処を表すというわけである。しかし伝説と言っても、古来あったものではなく、能が先にあって、其れが民間に広まったということらしい。

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能「春日龍神」は、春日神社の龍神の口を通して、天竺の仏より日本の神の方が御威光があると、国粋主義的な主張を述べ立てたものである。すなわち、入唐渡天の志を抱いた明恵上人が春日神社にいとまごいにやってくると、宮森に化けた龍神が現れ、上人に入唐渡天の志を思いとどまらせようとする。その理由として龍神は、仏在世のときなら渡天の御利益もあっただろうが、仏が入滅したいまでは、この春日山こそが霊鷲山であり、春日野は鹿野苑、比叡山は天台山、吉野・筑波は五台山をうつしたものだからという。そして、入唐渡天を思いとどまるならば、自分が仏法の眷属を引き連れて、釈迦の誕生から入滅までの一代記を見せてやろうと約束する。

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能「雷電」は菅原道真の怨霊をテーマにした能である。藤原時平らの陰謀によって失脚し、大宰府に流された道真が、死後怨霊となって都にあらわれ、時平らを呪い殺したり、自然災害をもたらして人々を恐れさせる。それは道真に不実の罪を着せたことへの報復だと考えた朝廷は、道真に天神の称号を贈り、厚く遇することで、怨霊の怒りを鎮めた。こうした道真にまつわる伝説を作品化したものが「雷電」である。

雄略天皇の迫害を逃れたオケ(意祇)とヲケ(袁祇)の兄弟は、播磨の国で馬飼いと牛飼いになって身を隠していたが、やがて雄略天皇が死んだ後で、表舞台に踊り出すチャンスがやってくる。雄略天皇の跡を継いだ清寧天皇には子どもがなく、またほかに日嗣の皇子がいなかったので、オケとヲケの兄弟が、皇位に最も近い地位に立ったからだ。
日本の古代史を彩るものとして、天皇の地位をめぐる血みどろの権力闘争がある。記紀の作成を命じたとされる天武天皇自身も、骨肉の争いに勝利して天皇位についたのだ。そんな骨肉の権力闘争を勝ち抜いた先駆者として、雄略天皇があげられる。オホハツセワカタケルと呼ばれたこの天皇は、二人の兄と、前の天皇の継子、そして従兄弟など、自分にとって脅威になりそうな人間を次々と殺すことによって、権力を獲得したのである。そんなことから雄略天皇は、悪逆の王としての側面も指摘される。
古事記の下巻は仁徳天皇から始まる。中巻に出てくる諸天皇がなかば神話的な雰囲気を漂わせていたのに対して、仁徳天皇以下の諸天皇には、そうした神話的な雰囲気は乏しい。あくまでも人間的なのである。
応神天皇は、仲哀天皇が神の託宣を無視したことを咎められて死んだときに、神功皇后の腹に宿っており、やがて皇位を継ぐと神によって告げられていたと古事記にはある。しかし実際に生まれたのは、神功皇后の新羅遠征後のことであり、仲哀天皇の死後かなりたってからのことである。そんなところから、その出生については不可解なところが多い。
古事記では、神武天皇以後八代の天皇については極めて簡略で儀礼的な記述しかない。そのことから、これらの天皇の実在性が疑われることともなった。専門家にはこれを欠史八代と呼ぶものもある。ところが記述は、十代目の崇神天皇に至って俄然迫真性を帯びる。というのも、崇神天皇は「初国知らしし御真木の天皇」(古事記)と呼ばれる通り、天皇家の始祖王として認識され、したがって実在性にも疑いがもたれていないからである。
オホナムチと因幡の白ウサギの話に始まり、オホナムチによる芦原の中ツ国の統一、ヤチホコの求婚譚、オホクニヌシとスクナヒコナによる国造りに至る壮大な出雲神話は、古事記においては大きなウェイトを占めるわけだが、これらはなぜか日本書紀の正文にはない。スクナヒコナについてのみは一書と言う形で言及はあるが、いかにもおざなりである。こんなところから、出雲神話の扱い方の中に、古事記と日本書紀の相違を知る最大の手掛かりが隠されていると、三浦佑之氏はいう(古事記を読みなおす)。
古事記は日本書紀と並んで記紀と称せられ、成立の背景と物語の視点をほぼ同じくする双子の兄弟のようなものととらえられてきた。両者の成立時期には8年の差があるが、それは大したことではない。同じ源泉から汲み取って物語を構成するのに、多少の年代差が出ただけで、両者は基本的には同一の神話と皇統譜を物語っているに過ぎない、とするのがこれまでの通説だった。

天皇の火葬

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宮内庁によれば、歴代の天皇のうち火葬せられたものは41人、つまり122人の天皇のうち約三分の一にあたるそうである。その最初のものは持統天皇である。持統天皇は西暦700年に僧道昭を日本の歴史上初めて火葬せしめているが、御自身もその二年後に崩御するにあたり、火葬せらるることを強く望んだのだといわれる。
山折哲雄氏は、安井良三氏の研究(天武天皇の葬礼考)を引きながら、天武天皇の葬礼が、天皇家の伝統であった殯と新しい仏教的な観念とが融合した最初の壮大な実験だったのではないかとしている。天武天皇の葬礼を境にして、天皇家伝来にして日本固有の儀式である殯による壮大な祭礼は影をひそめ、持統天皇以降は火葬を伴った仏式の葬祭儀礼が次第に前面に立っていく。天武天皇の葬祭儀礼はだから、時代を画したものだったと考えるわけである。
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