日本文化考

「中論」第六章「貪りに汚れることと貪りに汚れた人との考察」は、平川訳では「染める者と染められるものとの考察」となっている。だが、染める者(能染)は「貪り」と言われているので、両者の意味は同じだと考えてよい。その上でこの章を読んでみると、説かれているのは、不去不来、不一不異とほぼ同じことだと分かる。同じ理屈を、異なった例に適用することで、言葉の意味の厳格化をはかろうというのだろうが、こうした蒸し返しは、かえって事態を複雑化させているように見える。

「中論」の第三章は「認識能力の考察」と題して、六根について考察している。六根とは、見るはたらき、聞くはたらき、嗅ぐはたらき、味わうはたらき、触れるはたらき、思考するはたらきの、六つの認識能力を言う。それらの認識能力が存在しないというのが、この章の眼目である。

「中論」の第二章は、「運動(去ることと来ること)の考察」と題して、八不のうちの「不去不来」を表面上のテーマとしているが、そのほかに「不一不異」はじめ八不全般に共通する問題を取り扱っており、「中論」の思想の中核部分の表明というふうに受け取られてきた。

中論は全二十七章からなるが、その全体の序文のような位置づけで、「帰敬序」という文章が冒頭に置かれている。次のようなものである。

中論を読む

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「中論」のテクストとして目下手に入りやすいものは、筑摩書房刊行「古典世界文學」シリーズ7「仏典Ⅱ」に収められた平川彰訳「中論の頌」であるが、これは抄訳であり、また非常に難解とあって、仏教や中観派の予備知識がない者が読んでも、なかなか理解できない。そこで注釈書が不可欠になる。注釈書としては、チャンドラキールティのものを始め古来色々なものが流通しているが、それらも素人にとって読みやすいものではない。そこで現代の日本人の書いたもので、わかりやすい注釈書はないかと探し回ったところ、高名な仏教学者中村元の「龍樹」という本に出会った。この本は、龍樹(中論の著者)の生涯を簡単に紹介した後、その思想を、中論を拠り所にしながら説明している。かなり念の入った説明で、実質的には、中論への丁寧な注釈と言ってよい。小生のような、仏教の知識に乏しいものには、非常にありがたい本である。しかも、巻末には、中論全27章の、サンスクリット語からの現代日本語訳を載せている。筑摩版と合わせ読むことで、中論への理解が深まると思う。

田上太秀は仏教学者で、涅槃経全巻を現代語訳したそうだ。かれが訳したのは大乗系の涅槃経で、彼自身「大乗涅槃経」と称している。これとは別に原始涅槃経という小乗系の涅槃経があって、そちらは中村元が訳したものが岩波文庫から出ている。中村は田上にとって師匠格にあたるようだから、師弟力を合わせて大小の涅槃経を訳したということになる。

般若心経は、最も古い大乗経典である般若経典のなかで、最も短いものであり、また分かりやすいので、在俗の人びとが読経するのに都合がよく、日本の仏教各宗派では、浄土宗を除く各宗派で広く読まれてきた。とくに、禅宗では、法事の席で必ず読まれている。その読まれているお経は、唐の三蔵法師玄奘が漢訳したもので、正式には「般若波羅蜜多心経」という。般若は智慧をあらわすサンスクリット語パンニャーの音訳、波羅蜜多は悟りを得て彼岸に至る道とか、完成とかいった意味の言葉パーラミターの音訳、心経はエッセンスといった意味である。これを要するに完成した悟りへの道であるところの智慧のエッセンスという意味である。

「八千頌般若経」の第三十章は、常諦菩薩の求法をテーマとしている。大乗経典の多くは、菩薩が悟りをもとめて旅する模様を描くのであるが、この「常諦菩薩の求法」の章はその原形となるものである。ここでは、般若波羅蜜を体得したものとしてダルマウドガダ菩薩が設定され、その菩薩の導きによって、さとりを得ようとする常諦菩薩の旅が描かれる。修行者としての菩薩が、先輩の菩薩の導きによって、さとりの境地に達するという構成になっているわけである。

八千頌般若経の眼目は、般若波羅蜜の意義と功徳を説くとともに、その般若波羅蜜の体現者としての菩薩大士のあり方について説くことである。菩薩という言葉は、大乗経典のもっとも古いお経である般若経が、はじめて用いた。それは、仏教的な意味でのさとりを得る人あるいは得た人を意味する。同じような意味合いで、阿羅漢という言葉がある。阿羅漢は、原始仏教以来使われている言葉で、やはりさとりを得た人を意味するが、そのさとりとは、とりあえず阿羅漢個人として、自分自身の救済としてのさとりであった。ところが、自分自身のさとりにとどまらず、一切衆生のさとりのために努力すべしという考えが起ってきた。そうした一切衆生のさとりのために努力する人を、阿羅漢とは別に菩薩という言葉で表現した。つまり菩薩は、自分個人のためにさとりをめざす人を超えて、一切衆生のためにさとりをめざす人へと転換したのである。

八千頌般若経の主要な目的は、般若波羅蜜とはなにかを明かにすることである。般若とは智慧のことをいい、波羅蜜とは完成されたものという意味であるから、その合成語である般若波羅蜜は完成された智慧を意味する。その完成された智慧とはそもそもいかなるものかについて解明するのが、このお経の主な目的なのである。

般若経はさまざまな経典からなっている。主なものをあげると、八千頌般若経、二万五千頌般若経、十万頌般若経、金剛般若経、大般若波羅蜜多経などがある。般若心経は、般若経の教えを簡潔にまとめたもので、大衆向けのパンフレットのように使われている。これらのうち、八千頌般若経はもっとも古く成立したものと考えられている。金剛般若経とどちらが古いかについて論争がなされたが、両者とも空の思想を説きながら、金剛般若経には空の言葉が使われておらず、八千頌般若経には使われていることから、金剛般若経のほうが古く成立したとする説が有力である。 八千頌般若経を踏まえて 二万五千頌般若経が成立したと考えられる。竜樹の「大智度論」は二万五千頌般若経への注釈として書かれた。

十地経の終章「この経の委嘱」は、第一地から第十地まで菩薩のさとりの深まりゆくさまを要約的に復習したあとに、このお経を諸々の菩薩たちに委嘱することが、金剛蔵菩薩によって宣言される。お経の委嘱ということは、法華経でも大きなテーマとして取り上げられている。法華経は、釈迦の教えを述べたものであるが、その釈迦が歴史的な存在としては消滅した後でも、その教えは永遠に伝えられるべきだという考えから、釈迦の教えを、釈迦に代わって説くように菩薩たちが託されることを委嘱といった。十地経もその考えを取り入れて、金剛蔵菩薩を通じて示された毘盧遮那仏の教えの内容を永遠に伝えるよう委嘱されるのである。

菩薩の十地のうち最後の地である第十地は、いよいよ菩薩から仏へと飛躍すべき段階である。それをお経は、「仏になるべく勧請をさずけられた」と表現する。その勧請にこたえて、仏に必要な知力を円満にするとき、「正しく菩提をさとった仏」という名号で呼ばれるのである。

菩薩の十地の第九の地は、「いつでもどこでも正しい知恵のある菩薩の地」と呼ばれる。その地にある菩薩は、あらゆる世界のあらゆる存在について、その如相を知るとともに、その知恵をもとにして衆生を教えみちびく。第八の地を経て不退転の境地にいたった菩薩は、いまやその完璧なる知をもって、存在の如相を体得しながら、衆生の救済へと乗り出すのである。衆生の救済とは、衆生をしてさとりを得せしめることである。これゆえ、この第九の位についての教えは、前段であらゆる世界のあらゆる存在の如相がいかなるものかについて説き、後段で、その知恵を生かしながら衆生をみちびく方便について説く。

菩薩の十地は第八地にいたって従来とはまったく異なった境地に入る。従来の境地は、菩薩の個人としての修行に重きを置いていた。大乗の菩薩であるから、その修行は自己のみならず衆生の救済をも目的とするものであるが、しかし自己自身修行の身であることにはかわりなく、したがって十全なさとりの境地にはまだ達しておらず、ましてや衆生をさとりに導くことはできない。ところが、第八地にある菩薩は、自己自身のさとりを成就すると同時に、衆生をしてさとりを得させる力を持つにいたるのである。

菩薩の十地のうち、第一から第六までと第八以降の間には飛躍的な差異がある。その飛躍を媒介するのが第七地である。第六地までと第八地以降とではどのような差異があるのか。薩の十地はすべて、さとりに導く諸徳を円満に成就することを目的としている。その諸徳の円満な成就は、第六地までは一定の条件のもとで可能になる。ところが、第八地以降においては、そうした条件なしに、菩薩がかくあれと願うだけで成就する。第六地までは修行者の色合いが強いが、第八地以降は、限りなく仏の境地に近づいている。第七地は、その前者と後者と、二つの境地の橋渡しをするのである。

菩薩の十地の第六は「真理の知が現前する菩薩の地」である。その真理の内実は十二因縁及び三界唯心という二つの言葉に集約される。十二因縁は仏教の基本思想であり、すべてのものには固有の実体はなく、ただ因果関係の連鎖に過ぎないと考える。また三界唯心とは、世界のすべての存在は心の生み出したものだとする考えで、これは華厳経の十地品(十地経)が積極的にうちだした思想である。

菩薩の十地の第五は「本当に勝利しがたい菩薩の地」である。この地にある菩薩は、四諦の真理をさとる。四諦とは四つの聖なる真理のことであり、釈迦牟尼が初転法輪で説いた真理である。それは次のように言い表される。「ああ、あらゆるものは苦悩に満ちている! これが、仏の教えられた聖なる真理(苦聖諦)である、とあるがままに如実にさとる。ああ、あらゆる苦悩は生成する(苦集)! ああ、あらゆる苦悩は寂滅している(苦滅)! ああ、あらゆる苦悩の寂滅に導く道がある(苦滅道)! これが、仏の教えられた聖なる真理である」

菩薩の十地の第四は「光明に輝く菩薩の地」である。第三地から第四地に進みゆくにあたっては、十種のあらゆる存在についての光明(十法明門)を体得する。その十種の光明とは次のようなものである。
(1)あらゆる衆生をあらしめる衆生性(衆生界)をさまざまに思惟する光明
(2)あらゆる世界をあらしめる世界性(世界)をさまざまに思惟する光明
(3)あらゆる存在をあらしめる存在性(法界)をさまざまに思惟する光明
(4)空間をあらしめる空間性(虚空界)をさまざまに思惟する光明
(5)識をあらしめる識性(識界)をさまざまに思惟する光明
(6)欲望をあらしめる欲望性(欲界)をさまざまに思惟する光明
(7)物質のみが存在する禅定性(色界)をさまざまに思惟する光明
(8)物質も存在しなくなった禅定をあらしめる禅定性(無色界)をさまざまに思惟する光明
(9)広大な道心による信仰をあらしめる信仰性をさまざまに思惟する光明
(10)大乗の真理のままなる道心による信仰をあらしめる信仰性をさまざまに思惟する光明

菩薩の十地の第三は「光明であかるい菩薩の地」である。この地にある菩薩は、如実なるままに思惟し、四種の禅定と無量心、物質の世界を超越した限りない禅定、また五種のもっともすぐれた神通力を体得している。それらをもって、菩薩としての資質を高め、衆生の救済に奮励努力するのである。

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