日本文化考

「仏教の思想」シリーズ最終巻(第十二巻)は、「永遠のいのち」と題して日蓮を取り上げる。担当は、仏教学者の紀野一義と哲学研究者の梅原猛である。このシリーズでは、仏教学者が当該テーマについて、思想を体系的に語り、哲学研究者が多少文学的に、仏教者の人間像について語るという役割分担であったが、この最終巻においては、紀野が日蓮の人間像を余すところなく語りつくしたので、梅原のほうが日蓮の思想を語るというはめになったという。

法然と親鸞

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仏教の思想シリーズ第十巻「絶望と歓喜」における著者対談のテーマは法然と親鸞の比較である。この二人の関係についての著者たちの見方は、増谷は連続性を重視し、梅原は断絶を重視したと言ったが、ここでは両者の比較が中心となるので、おのずから差異が意識的に論じられる。その差異を通じて、浄土宗と浄土真宗の相違も浮かび上がってくるようになっている。

梅原猛が親鸞を、その生き方と思想の両面から考察しているのは、増谷文雄と同じである。ただその視点は梅原らしくユニークだ。増谷はオーソドックスなやり方で親鸞の生涯を振り返り、それを踏まえて著作活動の展開や、そこに盛られた親鸞の思想を追っていくという方法をとっている。それに対して梅原は、親鸞の生き様を聖徳太子と関連付け、親鸞の思想については、「歎異抄」や晩年の著作ではなく、関東時代の「教行信証」をもとに考察している。切り口が狭いのである。

「仏教の思想」シリーズ第十巻は、「絶望と歓喜<親鸞>」と題して、親鸞を取り上げている。担当は、このシリーズの第一巻を担当した増谷文雄と梅原猛のコンビ。梅原はこのシリーズのコーディネーターだが、仏教では浄土系、仏教者では親鸞をとくに畏敬しているらしく、かれとしてはとりわけ気合が入っている。

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「二人大名」は、一応大名狂言に分類されているが、ここに出てくるのは、およそ大名らしくない者どもである。それでも見栄だけは張っていて、通りすがりのものをその見栄に付き合わせようとするが、かえってその者からこけにされて、さんざんな目に合うというものだ。

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NHKが定例の番組で能「恋重荷」を放送した。老人の失恋をテーマにしたものだ。身分の低い、しかも老人が身分の高い女性に恋をして、失恋するというのは、いかにも能らしい話で、現実味の高い文芸ではあまり例を見ないだろう。一応世阿弥の作品ということになっているが、世阿弥はすでに存在していた「綾の太鼓」という曲をもとにこれを作ったという。同じような内容の能に「綾鼓」があり、これは作者不明だが、やはり「綾の太鼓」を原作としていると考えられる。「綾鼓」は、自分を悩ませた女を徹底的に責めさいなむのに対して、この「恋重荷」は、死んだ老人の幽霊が恨み言を述べたのちに、女の守護神になることを約束するという趣向になっている。

空海と最澄

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空海と最澄は同時代人であり、それぞれ真言・天台という平安仏教の創始者ということもあって、よく対比される。しかも二人はともに遣唐使に同行して唐に留学し、密教を学んでいる。宗教的にも似たところがある。最澄のほうが七歳年長ということもあり、この二人を対比するときには最澄と空海という具合に最澄を前に置くのが普通だが、ここでは空海の真言密教をテーマにしているので、空海を前に置いた次第だ。

密教は、大日如来の教えを説いたものといわれる。その教えをあらわしたのが曼荼羅であるが、曼荼羅は視覚的イメージだ。大日如来の教えは、主として大日経と金剛頂経に説かれているが、それらは言葉を媒介にした教えである。ところが大日如来の教えは、言葉だけではその全体をつかむことが出来ない。言葉はあくまでも理知的なものである。大日如来の教えには、理知の枠をはみ出す部分もある。そうした部分を含んだ教えの全体像をつかむには、シンボルを通じて接近するしかない。そのシンボルとなるのが曼荼羅なのである。

角川書店版「仏教の思想シリーズ⑨」は、「生命の海<空海>」と題して空海を取り上げながら、空海が完成させた密教について考察している。例によって仏教学者と哲学研究者のコラボレーションである。仏教学者としては真言密教の専門家宮坂宥勝、哲学研究者は梅原猛。二人はともに、空海と真言密教の復権に熱心である。というのも、真言密教は明治以降勢力が弱まり、空海のほうは宗教者として尊重されなくなった風潮を嘆きながら、じつは空海は日本の思想史上もっとも偉大な人物といえるのであり、その空海が集大成した真言密教は仏教の究極的な姿を現しているのであり、したがって仏教を問題にする場合には、空海と真言密教は軽視することができないと考えるからである。

梅原猛は中国浄土論を「仏教のニヒリズムとロマンティシズム」という表題で論じている。ニヒリズムとは浄土教のもつ現世否定の傾向をさし、ロマンティシズムとは浄土への憧れとしてのユートピア思想をさしているようだ。そしてニヒリズムを鳩摩羅什によって代表させ、ロマンティシズムを善導によって代表させている。梅原は中国の浄土宗を、鳩摩羅什によって始められ、善導によって完成されたというふうに整理しているのである。その中国の浄土教が日本に伝わって日本風の浄土宗が生まれたわけだが、梅原は日本の浄土宗についてはあまり触れることはない。

「仏教の思想」シリーズ第八巻は、「不安と欣求<中国浄土>」と題して、中国における浄土信仰を取り上げている。担当は浄土教研究の第一人者塚本善隆と哲学研究家の梅原猛。塚原が中国浄土教の歴史的な展開を俯瞰し、梅原が日本の浄土諸宗に直接影響を与えたとされる曇鸞、道綽、善導の思想を解釈している。そのうえで、浄土をユートピアと位置づけての両者の対談がさしはさまれるという体裁になっている。

日本の禅

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日本の禅は、栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を導入・布教したことから始まる。栄西は比叡山で天台宗を学び、二度にわたって宋に留学した。最初の留学は、密教理解の深化が目的で、禅についてはそれほど力を入れていない。二度目の留学の際に、臨済宗を研究・修行し、それを日本で布教した。臨済宗は、南宗禅系統の禅で、当時の中国では禅の主流であった。

中国の禅は、唐の時代の前期、紀元7世紀の後半から8世紀のはじめ頃にかけて、北宗禅と南宗禅の対立を経て、南宗禅が主流となり、9世紀の中ごろに臨済が全盛に導いた。臨済の禅の特徴は、理論よりも実践を重んじることだったが、そういう実践優位の姿勢は、時代が下るにしたがって次第に強まった。それと同時に、生真面目なものになっていった、というのが柳田や梅原の見立てである。臨済録を読むと、ユーモアというか、心の余裕が感じられるが、その後の碧巌録や無門関はユーモアがなくなり、まじめ一辺倒になっていったというのである。

「仏教の思想」シリーズ第七巻は、「無の探求<中国禅>」と銘打って、中国禅を取り上げている。担当は、当時の禅研究の第一人者柳田聖山と哲学研究家の梅原猛。柳田が「禅思想の成立」と題して、中国禅の歴史的展開とその思想的な特徴の概観を示し、梅原が「絶対自由の哲学」と題して、中国禅の哲学的な分析を行っている。そのかたわら二人の対談を通じて中国禅の特色を掘り下げるといった具合だ。

「仏教の思想」シリーズ第二巻「存在の分析<アビダルマ>」の第二章は、担当著者の桜部建、上山春平に加え、仏教学者の服部正明を加えて、「インド思想とアビダルマ」という題のもとで、アビダルマの宗教史的な位置づけ、即ちアビダルマの伝統的なインド思想との関係とか大乗仏教との関係などについて解明する。

アビダルマの中核部分は、存在を分類整理したダルマの体系にある。分類の基準にはいくつものものがある。桜部建は、五蘊、十二処、十八界といったものをダルマの分類基準の基本としてあげているが、倶舎論では五位七十五法が示されており、それがアビダルマにおけるダルマの分類の最終的な(もっとも整った)体系だとする。それを踏まえて上山は、倶舎論におけるダルマの体系について論じる。

角川書店刊「仏教の思想」シリーズ第二巻は、アビダルマがテーマである。アビダルマとは、小乗仏教の教義を解説したものだ。小乗仏教は、アーガマ(阿含経)と呼ばれるお経を拠り所として釈迦の教えを説くものだが、アーガマ自体は折々の釈迦の言葉を書きとめたもので、体系的ではないし、簡潔すぎて意を尽くさないところも多い。そこで足りないところを補い、また釈迦の言葉相互の関係を明らかにし、体系的に説いたものが、アビダルマといわれる。大乗仏教には、釈迦の教えを記した経、その教えを実践するための基準を示した律、教えの内容を理論的に解説した論があるが、小乗仏教も同様であって、大乗の論に相当するものがアビダルマである。

「仏教の思想」シリーズの第一巻「智慧と慈悲<ブッダ>」に、梅原猛が寄せた小論「仏教の現代的意義」は、原始仏教から大乗仏教ひいては日本の鎌倉仏教までを含めて、すべての仏教に共通する要素について考察する。それゆえ梅原なりの仏教概論というような体裁である。その考察を通じて梅原は、仏教の現代的意義を指摘したいというのだろう。梅原は西洋の宗教であるキリスト教に強い疑問を感じているようで、今後人類を宗教的に救うものとしては、仏教こそがもっとも相応しいと思っているようなのである。それゆえこの小論は、きわめて論争的である。その点では、キリスト教を意識しながら「大乗仏教概論」を書いた鈴木大拙と共通するものがある。

角川書店刊行の「仏教の思想」シリーズ第一巻は、「智慧と慈悲<ブッダ>」と題して、釈迦のそもそもの思想をテーマにしたものだ。釈迦の思想といえば、いわゆる小乗仏教や大乗仏教も釈迦の教えと称しており、それらを含めて仏教全体が釈迦の教えを説いたということになっているのだが、一口に仏教と言っても、その内実は多岐に渡り、場合によっては相互に矛盾する内容を含んでいる。それは、釈迦のそもそもの教えと言われるものが、時間の経過にしたがって変化していった結果だといえる。そこで、歴史上の人物としての釈迦が、そもそもどのような思想を抱き、それをどのようにして人々に説いたかを知っておく必要がある。そのような問題意識から、この巻は書かれた。

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「柑子」は、主人から預かった柑子を食ってしまった太郎冠者が、それを出せと言われて、出せないわけを言い訳する有様を描いたもの。同じようなテーマをとりあげた作品に「附子」があるが、「附子」の場合には主人にも責任の一端があるが、こちらは太郎冠者に全面的な責任がある。その責任を逃れようと、太郎冠者が無い知恵をしぼるところに妙味がある。

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