日本文化考

衆生の心は、心真如と心生滅とからなっている。この二つは異なったものでありながら、同じ一つの心の二つの面である。心真如のほうは、心の基層部分ともいうべきもので、心の真実のあり方がそこで生起している。そのようなあり方を如来蔵とも呼ぶ。如来と同じ真実のあり方がそこにあるという意味である。心生滅のほうは、心の表層部分ともいうべきもので、そこでは現象的な経験世界が生滅している。要するに衆生の心は、心の真実のあり方としての不生不滅の心真如の上に、生滅を繰り返す現象的な世界である心生滅とが乗っているような形をなしている。この両者が、重層的な形ながら和合している姿を、アラヤ識という。

立義分において本論の大綱を述べた後、解釈分はその詳細を説明する。解釈分は三つの部分からなる。一に顕示正義、二に対治邪執、三に分別発趣道相である。顕示正義とは、正しい教え、すなわち心が真如と生滅からなるということを提示するものであり、対治邪執とは誤った見解、すなわち生滅心の生んだ仮象を実像と取り違える過ちを正すものであり、分別発趣道相は、以上を踏まえて、心を悟りに向けて促すものである。

第一段「因縁分」で本論の動機を述べた後、第二段「立義分」では、本論の構成が述べられる。義という言葉は、論の大綱を意味し、それを立てるというのであるから、本論の構成を述べるというわけである。だから、いわば目次のようなものにあたる。

「大乗起信論」は大乗仏教の入門書として、また「大乗仏教の本義を説き示す、根源的な仏教解説書」として、日本では仏教者の間のみならず、仏教研究者の間でも重要視されてきた。鈴木大拙や井筒俊彦といった思想家たちも、「大乗起信論」から大きな影響を受けている。ところがその成立については、従来異説が並びとなえられて来た。一説には、起信論そのものがいうように、馬鳴菩薩が作り、新諦三蔵が訳したといい、異説には、これはインド人ではなく中国人が書いたものだという。馬鳴菩薩とは、紀元前後に活躍したインド人だと言われるが、その事跡をたどることはできないでいた。また、新諦菩薩は中国の南北朝時代の梁で活躍していたといわれる。その新諦菩薩が、馬鳴菩薩の書いた「大乗起信論」を、紀元六世紀ごろに中国語に訳したという見方が従来有力だったのだが、その見方を決定的に否定する研究が、近年、日本人によって発表された。仏教学者の大竹晋が、2017年に発表した「大乗起信論成立問題の研究」という本の中で、「大乗起信論」は、中国南北朝時代に存在していた中国人によって、中国語の先行文献をもとに、パッチワーク的につなぎあわせて作ったものだと証明したのである。仏教学者の佐々木閑によれば、この証明は反駁できないもので、将来にわたって定説となるだろうという。

佐々木閑は仏教学者で、鈴木大拙の研究もしており、大拙の名著といわれる「大乗仏教概論」を日本語に訳している。これは英語で書かれたもので、欧米人にとっては、仏教理解のための入門書のような役割を果たしている。もっとも大拙の仏教論には、西洋の仏教学者を中心に強い批判があると佐々木は言う。大拙のいう仏教は、釈迦の創始した仏教とは似ても似つかない。それは仏教よりもヒンドゥー教に近い。いづれにしても本物の仏教ではないと言うのだ。そこは佐々木も賛成していて、大拙の仏教は大拙教と言うべきかもしれないなどと言っている。

日本人は宗教心に薄いとよく言われる。それは、宗教をどう考えるかにもよる。世界でもっとも多い宗教人口を抱える一神教(ユダヤ・キリスト教及びイスラム教)の立場からみれば、そう言えるかもしれない。現代の日本人にかかわりの深い宗教といえば、仏教と神道ということになるが、これらはどちらとも一神教ではない。なかには浄土宗のように、阿弥陀仏に帰依するという点で一神教に近い宗派もあるが、それを奉じている日本人は一部である。大部分の日本人は、一神教とは縁遠い。そんなことから、一神教を奉じる人からは、日本人は宗教意識が薄いと言われるわけである。

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能「烏帽子折」は宮増の作品である。宮増には分らないことが多い。個人ではなく集団の名だという説もある。ほかに「鞍馬天狗」や「大江山」など多くの作品が残っており、いずれも演劇的な構成を特徴としている。この「烏帽子折」も同様で、台詞を中心にして演劇的な展開を持ち味にした作品だ。

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先日(2020年2月23日)のNHKの古典芸能番組が、狂言「居杭」と能「烏帽子折」を放送した。どちらも一家三代が共演するという趣向で、狂言のほうは大蔵流宗家の大倉彌右衛門一家が、能のほうは観世流武田志房一家が出演していた。まず狂言のほうから紹介しよう。

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NHK恒例の新春能楽、今年の出し物は翁。金春流に伝わる古い様式の翁だそうだ。「十二月往来、父尉、延命冠者」という小書きの題名がついている。通常の翁は、前半で翁と千歳が舞いを舞い、後半で三番叟が舞うのだが、この小書きでは、翁は三人出て来る。三人の翁のうち一人が父尉の面をつけ、延命冠者とやりとりをする。また、後半では、三番叟があどとの間でやりとりをし、続いて鈴の段の運びとなる。筋書きが複雑になっているぶん、変化に富んだ演出と言える。

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先日親しい友人たちと能登に旅した際、淡路人形座で人形浄瑠璃を見た印象について、このブログで紹介したところだが、その後、NHKの番組が文楽の舞台を放送したので、それを見た。文楽を見ることは滅多にないのだが、淡路の人形浄瑠璃に刺激される形で見た次第だ。

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NHKが先日(4月28日)、能のフランス公演を中継していた。出しものは観世流の能「砧」で、シテは浅見真州である。浅見真州は国際的な活躍で知られていて、その功績でフランス芸術勲章をもらっているそうだから、フランスとは縁が深いのだろう。そのフランスと能とのかかわりでいえば、かつての在日フランス大使ポール・クローデルが、能を見て死ぬほど退屈したと言ったことがある。その時にクローデルが見たのは「熊野」だったということだが、「熊野」といえば日本人に最も人気のある曲で、それを芸術家を自認していたクローデルが楽しめないのでは、能が国際的な受容を期待するのは無理かとも言われたものだ。

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「葵上」は、源氏物語をもとにした近江猿楽系の古作の能を、世阿弥が改作したものである。現行の形になるまでに、いくつかの変遷があるとされている。たとえば、前シテの登場に、破れ車の作り物を出したり、もう一人別のシテツレを、青女房として出し、一定の役を持たせたりといったものだが、現行の演出では、どの流派でも省かれている。

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先日(五月二十七日)NHKが梅若実襲名記念能の番組を放映した。梅若実とは梅若六郎家の名跡となっていて、これが四代目だが、先代までは隠居号として用いられてきた。ところが新しくできる四代目は、この名跡で活躍する意向らしい。梅若流は、いまでは観世流に属しているが、もともとは丹波猿楽の古い家元で、明治時代の一時期には、独立した流派を張ったこともあった。六郎家と万三郎家が分流し、六郎家のほうが梅若の本流を継いでいるということらしい。ちなみに筆者は万三郎家筋のシテ方師匠から謡曲をならった。

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NHKのEテレが能楽の紹介に手を抜くようになってからも、正月三が日は放送していたものが、昨年は二日に短縮され、今年はついに元旦だけになってしまった。その今年の元旦の出し物は「草紙洗小町」だった。宝生流の能なので、「草紙洗」となる。能に数多くある小町物の一つだ。小町物はなかなかバラエティに富んでいるのだが、これは宮中の歌合せでの、相手のあくどい策略を見抜くというもので、小町は歌の名手と言うよりは、智慧に優れた人として描かれている。小町物としてはめずらしい作品だ。

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「佐渡狐」は、脇狂言に分類されている。脇狂言というのは、能で言う脇能と同じで、一日の出し物の冒頭「三番叟」に続いて演じられるめでたい狂言のことである。だが、佐渡狐には、一見したところめでたい要素は見られないように思える。それがなぜ脇狂言に分類されたか。この狂言では、田舎の百姓が都へ年貢を納めにゆくことがテーマになっているが、年貢を納められるのは世の中が平和のしるしであって、そこがめでたいのだ、などという説明がなされるが、いかにも苦しい説明に聞こえる。

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和泉流狂言の名跡野村万之丞襲名披露として演じられた「三番叟」の模様を先日(三月廿六日)NHKが放送した。この披露は、一月の松のうちに千駄ヶ谷の国立能楽堂で行われたそうだ。三番叟は毎年の初めに、「翁」とともに演じられるのが恒例化しており、今年もそれにあわせて松のうちに演じられたわけだが、これに名跡の襲名披露が重なって、めでたさも二重になったというわけである。

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NHKが昨夜(1月29日)、珍しく能の番組を放映した。題目は「石橋」。これは昨年の正月番組でも取り上げられていた。その時には、金春流の「群勢」という珍しい小書によるもので、獅子が四匹も出てきて勇壮な舞を披露するというものだったが、今回は喜多流で、紀州徳川家に伝わる小書によるというものだった。

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最近NHKテレビが能の放送をあまりしなくなったので残念に思っているが、正月元日には縁起をかつぐということもあり、めでたい能を放送している。今年の題目は「西行桜」だった。これは世阿弥の自信作で、閑寂幽玄と華麗典雅の趣を兼ね備えているというので、正月の演目としては相応しい。昨年人間国宝になったばかりの観世流野村四郎師がシテをつとめ、これも人間国宝の大蔵流山本東次郎師が間狂言をつとめ、ワキの西行を福王茂十郎がつとめた。

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最近は、NHKテレビが能の舞台を放送することがめっきり少なくなり、正月も、かつては三日間通しで放送していたものが、元旦だけに限られるようになった。同好者の数が少なくなったためだろうから、致し方がないといわれればそのとおりだが、筆者のような謡曲好きとしては、やはりさびしいことだ。

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「班女」は世阿弥にとって会心の作だったらしく、「恋慕のもっぱらなり」(五音曲条々)といって自賛している。だが、そう自賛する割には、この曲は所謂世阿弥らしい能のあり方とは大分違っている。前後二段からなっているとはいえ、複式夢幻能の形はとらず、むしろ現在能であるし、物語性が希薄で、大部分が舞からなっている。というより舞尽くしの能といってもよい。そんなところからこの能は、世阿弥の比較的初期の、複式夢幻能を確立する以前の、過渡的な作品と思えるところがある。

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