日本文化考

道元が「辨道話」を書いたのは寛喜三年(1231)、四年にわたる宋留学から帰国して四年後のことだ。その時道元は京都深草の廃寺の近くに草庵をもうけて、ひっそりと修行を続けていた。後に高弟となる懐奘が師事を許されるのは文暦元年(1234)のことである。

森清の著作「大拙と幾多郎」は、書名の如く鈴木大拙と西田幾多郎の交流をテーマにしたものだが、かれらの思想に触れることはまったくといってよいほどないので、思想面からこの両者の関係が語られることを期待していた読者には肩透かしになるだろう。その上、大拙・西田以外に多くの人物の伝記が語られる。これらの人物をなぜ語るかというと、かれらの墓が、大拙・西田の墓がある北鎌倉の東慶寺に並んでたっているからというに過ぎない。その一人として安宅弥吉なる人物が出てくるが、この人物には何らの関心ももっていない小生のようなものには、かえって目障りにうつる。だから、そうした余剰の部分の記述は、飛ばして呼んだ次第だ。

西洋的な見方と比較して、もっとも東洋的な見方といえるものは、自由についての見方だと大拙はいう。自由というと、西洋的な見方では、消極的な意味合いしかない。英語で自由をフリーダムというが、フリーダムとは「何ものかからの自由」である。たとえば、束縛からの自由とか、誘惑からの自由といった具合に。つまり西洋的な自由は、つねに逃れるべきなにものかを前提している。それに対して東洋的な見方では、自由は消極的なものではなく、積極的なものである。何ものかからの自由というと相対的な意味合いになるが、東洋的な見方では、自由はそれ自体としてある。つまり絶対的な意味合いをもっている。

「東洋的な見方」は、鈴木大拙の最後の著作であり、いわば遺書みたいなものだ。かれはこれを、1963年93歳の時に出版した。いま岩波文庫から出ている「東洋的な見方」は、大拙の死後に、西田幾多郎の研究者としても知られる上田閑照が編集しなおしたものである。原作に収められた14篇の文章のほか、同時期に書かれた文章を合わせ、34篇からなる論文集としたものである。

真宗を含めた浄土宗の本質的な特徴は他力の信心ということにある。他力の信心の具体的な内容は阿弥陀如来への信仰というかたちをとり、その阿弥陀如来には一神教的な人格神の要素が強くあるから、他力の信心は人格神崇拝というべきところを持っている。他の大乗仏教各派は、やはり釈迦という人格を信仰するのであるが、人格としての釈迦自身よりも、釈迦が体現している真理への信仰という形をとっている。その真理は法身と呼ばれるので、ある意味抽象的なものへの信仰である。それに対して浄土宗は、人格としての阿弥陀を信仰し、しかもその信仰には自力の要素は一切ない。他の大乗仏教には、日蓮宗も含めて、修行などの自力の要素が残っているのに対して、浄土宗は徹底して他力の信心を追及しているのである。

浄土とは何かについて、大拙はまず「無量寿経」によりながら、その概要について示したのであるが、更に曇鸞の「浄土論註」によりながら詳細に説明する。「浄土系思想論」の第三の小論「浄土観続稿」がそれである。

鈴木大拙は「浄土系思想論」において、人はなぜ浄土を求めるかについて説明したあと、その浄土がいかなるものかについての説明に移る。「浄土観・名号・禅」と題する一文がそれにあてられている。「浄土観」というのは、浄土とはいかなるものかについての理解をあらわす言葉である。

鈴木大拙が「浄土系思想論」を書いたのは昭和16年(1941)から17年(1942)にかけてのこと。書き終わったときには、72歳になろうとしていた。大拙はもともと禅の修行者・研究者として出発したのだが、老年を迎える頃に浄土系とりわけ真宗に深い関心を寄せるようになった。それには、51歳の年で真宗の大谷大学に招かれたということもあるが、なによりも、禅と真宗とに深い共通点があることに気づいたからだと思う。禅は、基本的には自力信仰であり、真宗などの浄土系信仰は他力信仰なので、両者は真逆のように思われがちだが、大拙は、自分自身の宗教的実践を通じて、両者には深い共通点があることに思い至った。それは、禅でいうところの涅槃と、真宗がいうところの浄土とが、非常に似通ったものであるということであった。涅槃も浄土も、ふつうは人間の死後の世界と考えられているが、大拙の考えでは、いづれも現世(大拙はそれを娑婆という)と異なったものではないということになる。ということは、人間は生きながらにして、涅槃とか浄土の境地に至ることが出来るということである。そのように確信した大拙は、晩年、禅と浄土特に真宗とを、同じ土俵の上で論じるようになる。

今日岩波文庫から出ている鈴木大拙の「禅堂生活」は、1934年に英文で出版した The Training of the Zen Buddhist Monk を翻訳したものである。それに、日本語で書いた五編の小文を併載している。

「禅問答と悟り」は、昭和十六年(1941)大拙満七十歳のときの著作である。タイトルにあるとおり、禅問答と悟りをテーマにしている。大拙のこの本でのスタンスは、禅というものは悟りをめざしているのであり、悟りを伴わない禅経験はありえないということと、その悟りとはいかなるものか、それを他人にわからせるのが禅問答であるということになる。だから、禅問答は悟りの内容を披露しあう実践である。

機根は根機ともいうが、それは「型」のことだと大拙は言う。「型」とは、ものの考え方のスタイルとか振る舞い方(或いは生き方)をさしている。その「型」つまり機根が、禅と真宗とでは違う。大拙は宗教感情の源というべき「無心」について、道元がそれを「心身脱落」と言い、真宗が「自然法爾」と言っていることを取り上げ、そういう違いは機根の相違から生まれるのだと言っている。

鈴木大拙の著作「無心ということ」は、昭和十四年に行った講演をもとにしている。この講演は、浄土真宗の関係者を相手にしたものだった。大拙は、大正十年以後長らく真宗大谷大学の教授を務めており、職業柄ということでもなかろうが、真宗にも大きな関心を寄せていた。大拙は、真宗にも禅の境地と同じようなものがあることに思い至り、禅と真宗とのあいだに架け橋を設けたいと思った。その架け橋を大拙は「無心ということ」に求めた。この講演は、「無心ということ」をカギとして、禅と真宗とを同じ土俵で論じることをめざしたものなのである。

仏教の書物は、お経はそれとして、理解に苦しむものが多い。とりわけ道元の「正法眼蔵」は難解極まりない。小生などは、何回か挑戦してみたが、その度に跳ね返された。これは、仏教の知識が欠けているためかといえば、そうでもないらしい。鈴木大拙のような仏教の専門家でも、「 正法眼蔵」は難物だと言っている。「『正法眼蔵』は難解の書物、不可近傍である」と言って、半分お手上げの状態である。

禅問答といえば、頓珍漢で訳の分からぬ言葉のやりとりだと、だいたいは思われている。それには理由があるので、禅者自身が禅問答とはそんなものだと認めているフシがある。禅問答は、禅の体験を語るものだが、その体験というのが、「禅行為」のところで述べたように、無分別の分別、無作の作といったもので、要するに普通の言葉ではなかなか説明できないものなのである。その説明できないものをあえて説明しようとするから、わけの分からぬ言い方になる。でもそれはそれでよいのだと、禅者自身は言っている。禅の体験は、言葉による合理的な説明にはなじまない。というか、言葉による説明で伝えられるようなものではない。実際に禅の境地を体験したものでなければ、どんなに言葉をつくしても、それが何であるかを理解することはできない。それは、生まれてから一度も石というものを見たことのない人に、いくら言葉を尽くして説明しても、石についての明瞭な観念を持てないのと同じことである。石を見たことのある人なら、簡単な言葉、たとえば岩のかけらだとか、砂よりも大きいものだとかいうことができる。だが、石や岩や砂を、一度も見たことのない人に、そんな説明をしても無駄である。禅問答も同じである、禅の体験をしたことのない人に、それが何かについて、いくら言葉で説明しても、明確な観念は持てない。ところが、実際に禅を体験した人にとっては、ちょっとした言葉がきっかけで、それが何かについて、それなりの観念を持つことができる。禅問答というのは、そうした禅体験をしたもの同士のコミュニケーションなのである。それが日常のコミュニケーションと異なるのは、禅体験そのものが、日常を超越しているからである。

鈴木大拙が「禅の思想」を書いたのは昭和十八年(1943)、大拙七十三歳のときのことだ。後に自身のもっとも会心の著作はなにかと問われて、この「禅の思想」と「浄土系思想論」をあげたというから、大拙が禅について書いたおびただしい文章のうちで、これをもっとも納得できるものと思っていたのだろう。要するに禅についての自分の考えを、もっとも要領よく書けたということと思われるが、だからといって決してわかりやすい読み物ではない。

ちくま文庫から出ている「禅」は、鈴木大拙が英文で書いた文章を工藤澄子が日本語に翻訳したものだ。序文にあたる第一章の短い文章が1963年に書かれたほか、本体をなす第二章以下の文章は1954年から1956年にかけて書かれた。それらの文章を一冊にまとめる際の選択については、大拙自身の意向も働いていたようである。

「仏教の大意」は、昭和二十一年すなわち敗戦の翌年の四月に、鈴木大拙が昭和天皇に進講した話に多少の手直しを加えて文章にまとめたものである。テーマは、タイトルにある通り、仏教の大意あるいは仏教概論といったものである。敗戦の直後に、大拙がなぜ昭和天皇にこのような講義を行ったか。天皇の意を受けた宮中サイドから、大拙に依頼があったと考えるべきだろう。敗戦の混乱の中で、昭和天皇としては、自身の戦争責任を含めて、さまざまに思い悩んでいたことであろう。そんな昭和天皇の胸中を察したのであろう。大拙は、仏教というものがいかに、人間の心をなぐさめてくれるものか、それを昭和天皇に悟ってもらえるように、丁寧に語っている、そんな雰囲気がこの著作からは伝わってくる。

さとりにはいろいろな呼び方があるが、大拙は究極のさとりを「無上正覚」と呼んでいる。その無上正覚の成就こそ、大乗でも小乗でも、およそ仏教の究極の目的である。もっとも小乗はさとりを個人の問題としてとらえるのに対して、大乗はこれを世界全体の問題としてとらえるという相違はある。だが、輪廻を解脱して涅槃の境地をめざすという点では同じである。その境地を、仏教全体としてさとりとか無上正覚とか呼んでいるわけである。しかして、その無上正覚への願いを発することを発菩提心という。

菩薩の住処とは、菩薩が達したさとりの境地をいう。華厳経入法界品では、それは「毘盧遮那荘厳楼閣」という言葉で表現される。その楼閣に、善財童子が立ち入ることを許される。かれをその楼閣に案内するのは弥勒菩薩である。弥勒菩薩は、釈迦の次に娑婆に仏陀として現れることを約束されている。通常は兜率天の内院に住んでいるとされるが、華厳経入法界品においては、毘盧遮那荘厳楼閣において、善財童子を迎える役を果たす。

鈴木大拙は、華厳経の三つの重要概念として、菩薩道、発菩提心及び菩薩の住処をあげている。菩薩道とは、声聞や縁覚といったいわゆる小乗の行者と比較した大乗の行者としての菩薩の道をいい、発菩提心は、衆生を救済すべく菩薩たらんとする決意をいい、菩薩の住処とは菩薩が到達した境地をいう。これら三つの重要概念の詳細な説明が、第二篇以下の課題である。

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