正法眼蔵第二十五は「渓声山色」の巻。諸仏がそれぞれさとりを開いた経緯を記しながら、さとりとは理屈ではなく、体験によってもたらされると説く。それも突然生じるような体験だ。ある時、あることをきっかけに、突然悟りを得る。これは知識の賜物ではなく、また得ようと努力・修行して得られるものではない、無論修行は大事だが、修行が則さとりにつながるわけではない。さとりというのは、わけもなく突然やってくるのである。その典型例として道元は、偉大な詩人として知られる蘇軾の体験をあげる。蘇軾はあるとき、渓声山色を聞いて、忽然さとりを得るところがあった。その蘇軾の例に倣い、悟りを得る秘訣を道元は「渓声山色」という言葉で表したのである。
日本文化考
「画餅」とは、画に描いた餅という意味である。ふつう、画に描いた餅は食えぬという。だから飢えを充たすことはできない。飢えを充たすのは、現実の餅である。現実の餅が本当の餅であり、画に描いた餅は影のような物に過ぎない、というのが常識的な考えである。道元はそれに疑義を呈し、画餅と現実の餅とは、まったく別のもので互いに相いれざるものではなく、餅という概念的な本質を共有するのだと主張する。その主張が成り立つ所以を述べたのが、「画餅」と題する章である。「画餅」は「わひん」と読むように指示されているが、「がへい」と読んで差し支えない。
正法眼蔵第二十三「都機」の巻。都機は「つき」と読む。「月」のことである。この巻は、月を題材にして、悟りの境地と、その内実たる真理について語る。月は心と同定され、あるいは心の象徴とされ、その心が悟りの境地に達したことを、月が円成することにたとえる。その円成は、いきなり実現されるのではなく、実は伏線がある。月は本来丸いものなのだが、人目には満ち欠けするように見える。しかし満ち欠けするように見えるのは、見かけのことなのであって、本当は、月は常に丸い。その丸さが月の本来の姿であって、満ち欠けするように見えるのは仮象にすぎない。それと同じように、人の心は本来、仏性を備えたものである。ところが、日常においては、煩悩にさいなまれている。それは心の仮の姿であり、それを脱して本来の姿、それをここでは真法身と呼んでいるが、その真法身に目覚めるというのが悟りの内実である。そんな趣旨のことが、この巻では、とりあえず説かれているのである。
正法眼蔵第二十二は「全機」の巻。全機とは、存在するものの有している一切のはたらきといった意味である。機という言葉は、機関とか機用という形でもつかわれ、からくりとかしかけ、はたらきといった意味がある。それに全がついて、すべてのはたらきあるいは一切のはたらきということになる。どんなはたらきか。存在する、というはたらきである。存在とは、生死の全体を含む。そこで、全機についての説は、生死をめぐるものとなる。この巻は、実は生死について説いたものなのである。文章としては非常に短いが、味わい深いものがある。
正法眼蔵第二十一は「授記」の巻。授記という言葉は仏教用語で、特別の意味を持たされている。岩波の仏教辞典には「過去世において過去仏が修行者に対して未来の世において必ず仏になることを予言し保証を与えること」とある。言い換えれば、過去の時代における修行の結果として、未来における成仏が確約されるということである。だから、成仏は一代で完結するものではない、ということになる。過去世の因縁が今の世の成仏の前提となっているのである。

今年のNHK新春能狂言は、連吟「四海波」、和泉流狂言「松囃子」、金春流能「猩々」だった。狂言は名古屋に本拠を置く野村又三郎一座が演じ、能のほうは金春流宗家金春安明がシテを演じていた。この曲は猩々舞という特殊の舞が見どころである。もともとは前後二段からなる複式夢幻能だったものが、前段が省略されて後段だけの半能形式で演じられることとなり、そのこともあって、舞がもっぱらの見せ所となっている。
正法眼蔵随聞記の第六(最後の巻)は、道元の在宋中の出来事を語ることから始める。師の如浄が道元を侍者として弟子たちに紹介したいといい、その際に外国人であるが才能のある人だと紹介するつもりだといった。それを道元は辞退した。その理由は、外国人の自分が侍者になることは、中国に人材が少ないからだと思われかねず、それは自分にとって本意ではなく、恥ずかしいことだと言うのである。こんなことを巻の冒頭に置いたのは、道元の謙虚な性格を強調したいからか。
正法眼蔵随聞記第五の後半は、前半に引き続き、世俗の因縁や自分自身へのこだわりを捨て、ひたすら仏道に励むべしとの主張を展開する。十三では、自己の思い込みを捨て師匠の言葉に従えと説く。「我が心にたがへども師の言ば聖教の言理ならば全く其に随て、本の我見をすててあらためゆくべし」というのである。師の言葉が納得できないと思うのは、それが耳に心地よく聞こえないからであるが、「我為に忠有べきことばは必ず耳に違するなり。違するとも強ひて随ひ行ぜば畢竟じて益有べきなり」なのである。
正法眼蔵随聞記第五は、これもやはり心身放下から始まる。「仏法の為には身命を惜むことなかれ。俗猶を道の為には身命をすて、親族をかへりみず忠を尽し節を守る。是を忠臣とも云ひ賢者とも云ふなり」というのである。道元がかくもくりかえし心身放下にこだわるのは、世俗の未練にほだされて仏道をないがしろにする修行者が絶えないという現実があるからだろう。だから、「只身心を倶に放下して、仏法の大海に廻向して、仏法の教に任せて、私曲を存ずることなかれ」と口うるさいほど繰り返すのである。
正法眼蔵随聞記第四は、これも仏道修行の心得を説くことから始まる。その心得の最も肝要なものは、自己への執着を捨てることである。自己への執着を捨てることは、心身放下という言葉ですでに語られていたが、ここでは「自解を執するなかれ」という言葉で表される。「広く知識をも訪ひ、先人の言葉をも尋ぬべきなり」というのである(第四の一)。
正法眼蔵随門記の第三は、心身放下ということから始まる(第三の一)。心身放下は心身脱落と似た概念である。心身脱落は、身も心も超脱してあらゆる事柄に執着しないという境地を現わした言葉である。それがさとりにつながると言っている。というよりか、さとりの境地そのものである。一方、心身放下は、同じく心と体を捨てる(超脱する)という意味であるが、それがすなわちさとりの境地だとは言っていない。悟りに至るために必要な前提だというような位置づけである。この節の冒頭部分の言葉「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし」とは、心身放下ということは、そういう事情(仏道に入るための前提だということ)を言うのだと説いているのである。
正法眼蔵随聞記第二の後半は、命をおしまず仏道の修行にはげむべきとする文からなる。その多くは仏道修行のための心得である。まず、十四は、下根劣器の人でも志次第でさとりを得ることができると説く。大宋国では、数百人もいる修行僧の中でまことの得道得法の人はわずかに一人二人といった有様だったが、それは志の深い人が少なかったからである。「真実の志しを発して随分に参学する人、得ずと云ふことなきなり」なのである。「若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚痴悪人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり」。それゆえ、「返返も此の道理を心にわすれずして、只今日今時ばかりと思ふて時光をうしなはず、学道に心をいるべきなり。其の後は真実にやすきなり。性の上下と根の利鈍は全く論ずべからざるなり」。
正法眼蔵随聞記第二は、只管打坐と並んで道元思想の中核的な概念である心身脱落についての評釈から始まる(第二の一)。これを懐奘は「心身を捨つる」ことだと言っている。おそらく、道元自身がそう言っていたのであろう。心身脱落の概念の内実を知るうえで貴重な言及である。心身を捨てることの具体的な内容は、世情を離れ、「悪心を忘れ我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべき」ということである。単に自分の個人的な事柄を超脱するだけではなく、仏法に専念することが心身脱落の意味だというのである。
正法眼蔵随聞記は六巻からなる。全体の冒頭部分(第一の一)は、只管打坐について説く。道元は只管打坐こそが禅の極意と考え、ことあるたびにそれを強調していたので、懐奘がこれについての言及から正法眼蔵随聞記の記述を始めたのは自然なことである。道元は、「金像の仏と亦仏舎利とをあがめ用」いている僧に対して、「仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて得悟すべしと思はゞ還て邪見なり」と言ったうえで、「其の教に順ずる実の行と云は即今の叢林の宗とする只管打坐なり」と言って、只管打坐をもっぱらにするよう勧めるのである。
「正法眼蔵随聞記」は、懐奘による道元の言行録である。懐奘は道元が宋から帰って深草に庵を結んでいた時に道元の一番弟子となり、以後道元が死ぬまで師事した。その間に道元の説教をもとに「正法眼蔵」を編集した。懐奘はまた、自分自身が道元から聞いた話をもとに、備忘録のようなものを残した。それをまとめたものが「正法眼蔵随聞記」である。「正法眼蔵」本文が、道元の直接語った言葉(あるいは書いた文章)を再現しているのに対して、こちらは道元から聞いた話を採録している。その中には、道元の思想とかかれの行動、また栄西はじめ道元が尊敬する人々の言動の記録も含まれている。

銀座の観世能楽堂で催された清門別会の旗揚げ公演をNHKが中継放送したのを見た。清門別会というのは、観世流の今の宗家である観世清和の主催する能興行組織ということらしい。先代宗家が正門別会というのを立ち上げて50回の公演を行ったのを引き継いだ形という。その第一回の公演が今年の六月に催された。それをNHKが収録したという。
正法眼蔵第二十は「有時」の巻。有時という言葉の解釈をめぐって、道元独自の時間論を説く。通常、この言葉は「ときあって」とか、「あるときは」というふうに使われるが、道元はそれとは異なった意味を持たせる。「有時」(<うじ>と読ませる)という熟語として使い、それに独特の意味を付与するのである。
「正法眼蔵」第十九は「古鏡」の巻。古鏡は、「こきょう」とも「こきん」とも読む。鏡のことである。単に鏡といわず「古鏡」というのは、道元一流のこだわりからだという。寺田徹によれば、道元はほかのすべての巻の題名を漢字二字以上であらわしており、この巻にもその主義を適用したというのだ。
正法眼蔵第十八「観音」の巻は、観音菩薩の功徳についての、二人の禅僧の問答を評釈したもの。二人の禅僧とは、雲巖無住大師と道吾山修一大師である。雲巖は曹洞宗の宗祖の一人洞山良价の師であり、道元にとっては直接法統につながる。一方道吾は、薬山惟儼の門下であり、雲巖の兄弟子にあたる。この二人のうち、道元は雲巖のほうを贔屓にしているように読み取れるが、道吾にも敬意を表しており、この二人をともども古仏と呼んでいる。古仏は道元にとって最高の褒め言葉である。
正法眼蔵第十七は「恁麼」の巻。恁麼とは、道元が宋に留学していた当時の江南地方の俗語で「そのように」とか「そのような」といった意味の言葉である。それだけならなんということもないが、しかし道元はこの言葉に特別な意味を持たせることがある。「そのような」を名詞形に用いて、「そのようなもの」という意味を持たせ、そのうえで、その「そのようなもの」をいわゆる「さとりの境地」という意味に使うのである。
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