2022年2月アーカイブ

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「異国風景―原始林の猿(Les singes dans la foret viêrge)」は、最晩年の異国風景シリーズのうちの一つ。熱帯のジャングルの中で果実を収集する猿たちを描いている。

第三会は「忉利天会」と題して忉利天を舞台とする。忉利天は須弥山の頂にあって、帝釈天が主催している世界である。そこへ世尊がやってきて獅子座に結跏趺坐すると、その周りに無数の菩薩たちが集まってきた。その菩薩の中から、法慧菩薩が一同を代表して、菩薩の十住を説いた。この 忉利天会における説法以後、第六会までは、天上界での説法が続く。

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成瀬巳喜男の1958年の映画「杏っ子」は、室生犀星の同名の小説を映画化したものだ。この小説は犀星の自伝というべきものであるが、そのうち後半部における作家(犀星)と娘とのかかわりの部分を取り出して描いている。娘は疎開先で知り合った男と結婚し、その男の家庭内暴力に苦しんで離婚する結末になっている。それを成瀬は、離婚に至らない手前で終わらせ、この夫婦がその後どうなるかについては、明示的なメッセージを発していない。

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能に取材した松園の作品のうち、もっとも能らしい雰囲気を感じさせるのは、「草紙洗小町」と題したこの作品。松園は、その直前に、能の仕舞「序の舞」をモチーフにしたばかりだったので、能が続くと客の不興を買うのではないかと心配したらしいが、この作品は、そうした心配を吹き飛ばすほど完成度の高いものになった。

「百年の孤独」の後半部分は、ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリアノ・セグンドの双子の兄弟を中心に展開していく。ハイライトとなるのは、ホセ・アルカディオ・セグンドがバナナ会社の労働者のストを扇動し、そのストが官憲によって粉砕されるところを描いた部分である。バナナ会社はアメリカ資本であり、その苛酷な搾取に怒った労働者がストに訴えると、官憲が、アメリカ資本を守るために国民を虐殺するという構図は、19世紀におけるアメリカ資本のラテンアメリカ支配に共通したものである。その構図にガルシア=マルケスは怒りを覚え、ホセ・アルカディオ・セグンドを反アメリカ資本の闘いの英雄にしたのであろう。

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「豹に襲われる黒人(Un nègre attaqué par un léopard)」は、最晩年の異国趣味をモチーフにした一連の作品の一つ。鬱蒼としたジャングルの中で、豹に襲われる黒人を描いている。このように人間が野獣に襲われるというモチーフは、ルソーの絵としては珍しい。ルソーはこの絵の構図上のヒントを、子供向けの絵本から得たという。その絵本では、動物園の飼育員と豹がたわむれている図柄が描かれていたのだったが、ルソーはそれを、豹が黒人を襲う場面に転化させたのである。その理由ははっきりしない。

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成瀬巳喜男の1957年の映画「あらくれ」は、徳田秋声の同名の小説を映画化したもの。この小説は日本の自然主義文学の最高傑作というべき作品だ。秋声は日本の女たちの生き様を描くことにこだわった。その生きざまは、男社会に足蹴にされながらも、それに屈従するのではなく、自分の考えを率直に主張し、要するに自分に忠実に生きるというものである。秋声は、日本の近代化にともなって男尊女卑の傾向が強まる中で、必死に自己を主張する女たちに暖かい視線を注いだ作家だ。その秋声の描いた女たちのなかでも、「あれくれ」のお島はもっとも輝いている。成瀬の他の映画に出てくる女たちとはだいぶ違っている。

「集団心理学と自我の分析」と題するフロイトの著作は、「トーテムとタブー」で本格的に着手したかれの社会理論の延長線上にある仕事である。かれがこの本を書いたのは1921年のことだった。したがって第一次世界大戦の影を認めることができる。かれはこの本のなかで、集団の典型として教会と軍隊をあげているのだが、軍隊への注目が第一次大戦を意識しているのは納得できる。また、第一次大戦後には、大衆社会化現象が顕著となり、そこで集団の動きが注目をひくようになった。フロイトはこの著作のなかで、集団論の先駆的議論としてル・ボンの「群衆心理」を取り上げている。「群衆心理」が刊行されたのは19世紀末の1895年のことだが、そこに描かれていたような集団現象が大規模に現れるのは第一次大戦後といってよい。フロイトの集団論は、そうした時代背景のもとで書かれたのである。

プーチンがウクライナへの侵攻を始めた。新ロシア勢力のウクライナからの独立を承認し、その独立国家の平和を保証すると称して、公然たる介入を始めたのだ。それに対してNATO諸国は有効な対応ができていない。せいぜい経済制裁をちらつかせているくらいだ。そんなことでプーチンの野望を砕くことはできぬ。

柄谷行人は、日本人としてはめずらしい体系的な思想家だ。柄谷本人は、自分は「体系的な仕事を嫌っていたし、また苦手でもあった」と言っているが、それが体系に取り組んだのは、自分なりに資本主義を批判し、それを揚棄するためには、やはり体系が必要だと考えたからだろう。その場合、彼が若いころに心酔していたらしいマルクスを以てしては、資本主義の揚棄は実現しないと考えたようだ。しかし、マルクスを捨象するわけではない。マルクスを読み直すことで、その主張のエッセンスを生かしながら、批判すべきところは批判して、資本主義の揚棄につながるような理論を構築したい、というのが柄谷の意図だったようだ。

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成瀬巳喜男の1954年の映画「晩菊」は、「山の音」と「浮雲」の間に挟まれた作品であり、「浮雲」以後に全開するいわゆる成瀬らしさが、フルスケールで見られる傑作である。成瀬らしさとは、要するに女の立場に寄り添って、女の目線から世界を見るような描き方のことをいう。この「晩菊」に出てくる女たちも、成瀬の他の映画の女たち同様けなげにしかも自分に忠実に生きている。そんな彼女たちに完全に寄り添う形で、彼女たちのけなげな生き様を修飾なしに淡々と描く。そこには中途半端な抒情性などはない。あるのは女たちの生き方の率直さである。その率直さが、多くの日本人の共感を呼ぶばかりか、欧米人にまで共感されるというのはどういうわけか。とにかく、この映画は、理屈なしに人を共感せしむるのである。

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「雪月花」と題するこの三幅の作品は、大正天皇の后貞明皇后からの依頼に基づいて制作した。依頼を受けたのは大正五年ごろ、完成したのはその二十年後の昭和十二年のことだった。そんなにも時間をかけたのは、皇室からの依頼を恐れ多いことだと思って、制作に当たり念入り過ぎる準備をしたからだ。それにしても二十年とは、すさまじく息の長い話である。

「ル・グランの書」は、ハイネのナポレオン賛美の書である。ハイネが子供の頃に、ハイネの故郷デュッセルドルフにランス軍が進駐して来た。この進駐軍をハイネは、侵略者としてではなく、解放者として迎えた。それには父親の影響があったとされる。ユダヤ人である父親は、熱烈な自由主義的進歩主義者であって、フランス革命を賛美していた。ハイネはそんな父親の思想を受け継ぎ、ナポレオンをフランス革命の体現者として、熱烈に支持した。この書にはハイネのそうしたナポレオンへの敬愛が込められている。

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最晩年のルソーは、もっぱら異国情緒豊かな作品を描き続け,大作「夢」に至って頂点を極める。この最晩年、それは1908年の後半ごろから死ぬ年の1910年に及ぶと思われるのだが、その時期はルソーが最後の恋をしていた時期でもあった。しかしその恋は実らず、心をうちくだかれたうえに、足にできた腫瘍が悪化して、ルソーは急ぐようにして、あの世に旅立ったのである。

「十種の甚深」が説かれた後、第七章「浄行品」では菩薩のなすべき修行が述べられ、ついで第八章「賢首菩薩品」で修行のもたらす功徳について説かれる。「浄行」とは菩薩のなすべき修行のことをさし、それは清浄で、ものに動じない身口意の三業を得ることだと説かれる。身口意とは身体、言葉、意思、つまり人間の働きのすべてをいう。その三業を清浄で、ものに動じないものとするのが「浄行」のとりあえずの目的である。究極の目的は、衆生の救済ということにある。

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成瀬巳喜男は家族を描くのが好きなようで、1939年には家族が力を合わせて生きるさまを描いた「はたらく一家」を作っており、戦後にはタネ違いの子供たちからなる母子世帯を情緒豊かに描いた「稲妻」を作った。そのほかにも何らかのかたちで日本の家族のあり方に目を注いでいる。1952年につくった「おかあさん」は、「稲妻」の直前の作であり、この時期の成瀬が家族に深い関心を寄せていたことが推察される。

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序の舞は、能の舞のなかでもっともゆったりとして気品のある舞で、優美な女性が舞うのに相応しい舞である。その舞姿を松園は、息子松篁の妻たねこに演じさせた。自分なりの女性の理想像を、息子の妻に託して表現したわけである。松園の代表作といわれ、重要文化財に指定されている。

「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリアノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものと見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない」。小説「百年の孤独」はこんな文章で始まる。アウレリアノ・ブエンディ大佐とは、ブエンディア家の初代でマコンドの創設者であるホセ・アルカディオの次男である。そのアウレリアノ大佐の闘いに明け暮れた人生が、小説前半の骨格をなしている。

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1909年の第5回アンデパンダン展に、ルソーは、「詩人に霊感を授けるミューズ」とともに「ジョゼフ・ブリュメールの肖像」を出展した。どちらもルソー晩年の肖像画の傑作である。

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アジア太平洋戦争の末期から戦後しばらくの間、成瀬はスランプ状態に陥った。このころは溝口健二も軽いスランプに陥ったのだが、成瀬のスランプは溝口よりずっと深刻だった。戦争末期には成瀬得意の女物は女々しいとして抑圧されたし、戦後は価値観の混乱もあって、成瀬のような古風の人間には、自分を立て直すのに時間がかかったのだろう。そんな成瀬にとって、1951年に作った「銀座化粧」は、映画人として立ち直り、その後の飛躍にとっての足がかりとなるものだった。普通の見方では、成瀬の戦後の本格的な再スタートは「めし」だとされるが、それより半年ばかり早く作ったこの「銀座化粧」を戦後の再スタートを記念する作品というべきだと思う。

死の衝動と生の衝動の対立についてのフロイトの議論は、快感原則の議論の延長にあるという点では、脅迫反復に関する議論と同一平面に属する。もっとも、反復脅迫は、快感原則の例外として現れたのだったが、死の衝動は快感原則そのものの表れという大きな違いはある。死の衝動は、フロイトによれば、快感原則にしたがっている生き物の根源的な傾向である。その理屈にしたがえば、人間を含めたすべての生き物の究極の目的は死ぬことにあるということになる。それに対して、生の衝動は、生き物としての惰性的なあり方という位置づけである。生き物は、発生して以来死ぬことに目標を置いてきたが、偶然生殖の能力を得たために、生きることも追及することになった。もっともその生き方は、種としてのものであって、個体としては、生き物は死を免れぬものであるし、また、それを目的としていると断言できる。そうフロイトは自信たっぷりに言うのである。

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溝口健二の1954年の映画「噂の女」は、京都の女郎屋の人間模様を描いた作品。女郎屋の女主人とその娘との関係を軸にして、その親子と男女関係にある男とか女郎屋の芸妓とかがからんで、さまざまな人間模様が展開されるというふうになっている。見どころは、若い燕に夢中になった女郎屋の女主人(田中絹代)が、その燕を娘(久我美子)に奪われそうになって逆上するところ。田中が燕に小言をいうと、いいじゃありませんかと言い返され、暖簾に腕押しのくやしさを感じる一方、娘のほうは自分と母親を両天秤にかけている燕に愛想をつかす。この燕には親子丼を好む傾向があるようなのだが、そう簡単に食われてなるものか、と娘は思うのである。

プラトンが西洋哲学の伝統を創始したとは、大方の認めるところである。プラトンはその思想をソクラテスから受け継いだとされる。ソクラテス自身は文字で書かれた主張を残さなかったが、プラトンを通じてその主張の大要は知られている、ということになっている。そのソクラテスの思想こそが、プラトンを通じて西洋思想の根幹を作った。だから西洋哲学の思想は、ソクラテスに淵源を持ち、プラトンによって確立されたというのが、哲学史の常識となっている。かのニーチェでさえも、その常識をふまえて、西洋的な価値の転倒を、プラトンとその師匠ソクラテスの打倒という形で定式化したものである。しかしこれは根本的に間違った見方だと柄谷は言う。

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上村松園は、鏑木清方と同時代の画家で、しかも美人画を手がけたということもあり、よく比較される。清方の美人画が濃厚な色気を感じさせるのに対して、松園の美人画は、若い女性の健康さをアピールするところが特徴とされる。この「志ぐれ」と題する絵は、「春雪」とか「風」といった同趣旨の絵と共に、町娘の健康な美を描いたものである。

ハイネは、1825年の夏と翌年の夏、二度北海に遊んだ。ニーダーザクセン州の海岸沖に並び浮かぶ東フリースラント諸島のノルダーナイという島である。その滞在の印象から、二冊の詩集と一冊の紀行文を書いた。ここでは、その紀行文について述べる。

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「詩人に霊感を授けるミューズ(La muse inspirant le poète)」と題するこの絵は、1909年の第二十五回アンデパンダン展に出展された。絵のモデルは、アポリネールとマリー・ローランサンだ。アポリネールとは、前年の1908年に知り合ったばかりで、急速に仲良くなっていた。そのアポリネールをモデルにして肖像画を描くについて、ルソーはモデルの名を明かさないと約束した。

第二会は同じ地上で行われるが、場所を寂滅道場から普光法堂に移す。そこで廬舎那仏に代わって文殊菩薩が説法をする。説法の内容は仏のさとりについてである。それとともに、そのさとりを得るためのボサツの心得が説かれる。

ウクライナをめぐってバイデンとプーチンが大げんかをはじめ、それにNATO諸国や日本もまきこまれるという構図になっている。これは、基本的には、プーチンの領土拡大の野望がもたらしたものだが、それにバイデンが悪乗りして、いたずらに危機を煽っているというのが実際のところだ。米民主党は、戦争マニアなところがあって、一定の間隔をおいて戦争に突き進んできた歴史がある。今回もその流れに乗ったものと思う。

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アンジェイ・ワイダの1977年の映画「大理石の男」は、1950年代の社会主義建設期におけるポーランド社会を批判的に描いた作品。この時代は、ポーランドにとって輝かしい時代であってよかったはずなのだが、なぜかタブーに近い扱いを受けているようだ。そのタブーを犯したのがけしからぬということか、この映画は上映禁止処分を受けたという。その禁止をかいくぐって、1978年のカンヌ映画祭で特別上演され、高く評価されたといういきさつがある。

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上村松園は京都の伝統に強くこだわった。なかでも女性の髪形には強い関心を寄せ、自分自身で髪型を考案しては友人に結ってやったという。この「鴛鴦髷」と題する作品は、そんな松園の髪型へのこだわりをうかがわせるものだ。

「百年の孤独」は、ラテン・アメリカ文学を象徴するような作品である。この作品が発表された1967年以前から、アストゥリアスやボルヘスなどが、ラテンアメリカ文学の旗手として知られていたが、ラテン・アメリカ文学はまだまだマイナーでローカルな分野だと受け止められていた。ガルシア=マルケスのこの小説は、そんなラテン・アメリカ文学を20世紀の世界文学の中心に据えたのである。いってみれば、ラテンアメリカ文学の輝かしい確立宣言の役を担ったわけである。

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ルソーの晩年に絵を買ってくれた画商には、ヴォラールの他、エッチンゲン男爵夫人とかアルデンゴ・ソフィッチといった人々がいた。エッチンゲン男爵夫人は、ルソーの画集を最初に手掛けた人である。またソフィッチは、以前見て感動した牛のいる風景をもう一枚書いてくれと頼んだ。それに応えて書いたのが、現在ブリジストン美術館にある「牧場」である。

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アンジェイ・ワイダの1958年の映画「灰とダイアモンド」は、「世代」、「地下水道」とともに、「抵抗三部作」と言われている。抵抗といっても、それぞれによって意味合いが異なる。「世代」はナチスの占領に対するパルチザンのレジスタンスを描き、「地下水道」はいわゆるワルシャワ蜂起をテーマにしていた。それに対して「灰とダイアモンド」は、ナチスドイツの降伏にともなって生じたポーランド内部の政治的な対立を描いている。ロンドン亡命政府とパルチザンを母体とした革命勢力の対立である。この対立について、ワイダはどちらかというと亡命政府側に立っているように見える。にもかかわらずこの映画は、時の政権の検閲をパスして、ポーランド国内での上映を許可された。

フロイトの中期の代表的な論文「快感原則の彼岸」は、反復脅迫及び死の衝動・生の衝動の対立について論じたものだ。反復脅迫は人類史を説明するキー概念として、また死の衝動・生の衝動の対立も人類の生存を説明するための便利な概念として、多くの思想家が依拠してきたものである。フロイトの社会理論(社会的存在としての人間集団についての理論)の核心をなすものといってよい。

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1954年のポーランド映画「世代」は、アンジェイ・ワイダの監督としてのデビュー作。第二次大戦中ナチスの占領下におかれたワルシャワで、レジスタンス運動に身をささげる若者たちを描いている。対ナチス・レジスタンスを中心にしたポーランド現代史は、以後「地下水道」、「灰とダイアモンド」でも取り上げられ、この三作を「抵抗三部作」と称している。

柄谷行人の著作「哲学の起源」は、ギリシャ哲学についての大胆な読み直しである。柄谷はその読み直しを、かれ独自の社会理論・歴史認識にもとづいておこなうのであるが、それについては先行する著作「世界史の構造」の中で詳細に触れたからといって、ここではほんのさわりの部分を付録という形で言及しているだけである。それを一言でいえば、人間社会の歴史をマルクスのように生産様式から見るのではなく、交換様式から見るということになるが、小論ではこれ以上立ち入ることはしない。

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「母子」と題したこの絵も、母の死んだ年に、亡き母を偲んで描いた作品である。制作にあたっては、次のような逸話がある。あるとき、松園が京の町を歩いていたら、大店の軒先に唐簾がかかっていた。それを見た松園は、俄然母親を思い出し、この絵の構図を固めたという。

「ハルツ紀行」は、ゲッティンゲン大学在学中にブロッケン山で知られる名所ハルツ山地に旅をした折の記録である。その時ハイネは27歳であって、ゲッティンゲン大学の二年生であった。そんなにも遅くまで大学にいたのは、ハイネが変則的な学校教育を受けたせいで、その理由の一つとして、かれがユダヤ人であったということがあげられるようだ。1820年代のドイツは、反動的でかつ不寛容な空気が蔓延していて、ユダヤ人差別が激化しており、ユダヤ人が大学に入るメリットはあまりなかった。だから、ユダヤ人たちは、息子に大学教育を受けさせる動機が弱かったし、当の息子たちも大学に入りたいという強烈な願望を持たなかったようである。

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ジェニエ爺さんは、ルソーが晩年に暮らしていたペレル街の界隈で食料品店を営んでいた。ルソーはその店に多額のツケがたまったのだが、なかなか支払えないでいた。そこでツケのお詫びに描いたのが、この絵だという。これはジェニエ爺さんの一家が馬車に乗ってピクニックに出かけるところを描いており、家族にとってはよい記念になるものだった。

華厳経の意義、内容、構成等については別稿(無限の世界観<華厳>)で概説したので、ここでは触れない。華厳経本文を読んでみたい。使用したテクストは、筑摩書房刊「古典世界文学」シリーズ「仏典Ⅱ」収録の「華厳経」の部分。これは漢訳(佛駄跋陀羅訳の六十巻本)からの現代日本語訳(玉城康四郎訳)で、全三十四章中、第一章から第二十一章までをカバーしている。華厳経固有の思想を納めているとされる「十地品」の直前で終わっている。「十地品」は、もともとは独立した経典で、華厳経の中でも最も古層に属するといわれている(上山春平ら)。そこで説かれた思想と、それ以外の章における思想の関係がどうなっているか。上山らは、十地品で説かれた思想が、それ以外の章において発展的に展開されたというふうに言っているが、それらの対応関係はかならずしもわかりやすくはない。十地品の根本思想はいくつかの要素からなるが、そのうち「性起説」は華厳経全体に共通する思想として、ほかの経典にも繰り返されている。だが、「四種法界」とか「円融無碍」といった思想は、十地品特有といっていいようである。

米共和党が、昨年1月6日に起きたトランプ支持者による連邦議会襲撃を「正当な政治的言動」と宣言し、トランプの責任を追及してきた二人の共和党議員、リズ・チェイニーとアダム・キンジンガーを非難する決議を出した。ソルトレークシティで催された会議の席上、真剣に議論された形跡はなく、また、これに反対する意見を述べた議員もいなかったという。つまり共和党の総意として、以上のような宣言が出されたということだ。

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2000年の映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク(Dancer in the Dark)」は、デンマーク人のラース・フォン・トリアーが作ったデンマーク映画だが、なぜかデンマークではなくアメリカが舞台で、しかもデンマーク人は出てこない。主人公の女性はチェコからアメリカにやってきた移民ということになっている。その移民の彼女が辛酸をなめつつも一人息子とともに生きようとしながら、その思いを絶たれて死ぬというような内容だ。しかも殺人罪に問われて死刑判決を受け、監獄で吊るされるのである。

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「青眉」とは、眉毛を剃り取ったあとの青々とした状態をさして言う。昔は、女性が結婚して子どもが生まれると、そのしるしとして眉を剃り、青眉と称した。松園は自分自身の母親の若い頃の青眉を覚えていて、そのイメージをこの絵に込めたもののようである。

ラテン・アメリカの歴史の案内書として、増田義郎の「 物語ラテン・アメリカの歴史」(中公新書)を繙いてみた。これからラテン・アメリカ文学を読むつもりなのだが、それにはラテン・アメリカの歴史についてある程度の知識が必要となるようなので、手っ取り早くその期待に応えてくれそうな本として、これを選んだだ次第だった。

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アンリ・ルソーの絵が売れるようになったのは最晩年のこと、死ぬ二年前ほどのことだ。「蛇使いの女」の成功などで、画家としての名声が高まったのだ。しかし貧乏暮しは相変わらずだったし、死の前年の1909年には、前々年に引き起こした詐欺事件のために懲役二年の刑を宣告された。執行猶予がついたので投獄は免れたが、精神的なショックは大きかっただろうと思われる。

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フィンランド映画は、国際的な認知度は低い。そのなかでアキ・カウリスマキが2002年に作った「過去のない男」は、カンヌでパルム・ドールをとり、フィンランド映画の存在を世界に知らしめた。この映画を作ったカウリスマキは、社会的な問題意識を感じさせる映画作りを持ち味にしているそうだ。

ヨーロッパの思想史上、フロイトの功績に帰せられる最大のものは、無意識の重視ということだろう。それ以前にも無意識が全く知られていなかったわけではないが、大した意味があるとは思われておらず、ほとんど無視に近い扱いを受けていた。そこにフロイトが登場して、無意識を前提とした壮大な学説を展開したわけだから、そのインパクトは大きかった。それを無意識革命というような大げさな言葉で表現するものもいるくらいだ。だから、フロイトは無意識の発見者と言ってもよかった。ところが、フロイトとほぼ同じ頃に無意識に注目した人がいる。ベルグソンである。フロイトは精神病理の研究から出発して無意識を発見したのに対して、ベルグソンのほうは、精神の働きを分析する過程で、人間の精神には意識だけでは説明できない部分があることに気づき、そこから無意識の存在を確信したのであった。二人の研究はほぼ互いに没交渉に行われたが、その結果には共通するところが多い。それは、ふたりともユダヤ人であることに理由がある、と小生は見当をつけている。

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リューベン・オストルンドによる2017年のスウェーデン映画「ザ・スクエア 思いやりの聖域(The Square)」は、現代スウェーデン社会が抱える矛盾のようなものをテーマにしているように見える。「見える」というのは、画面からあからさまには伝わって来ずに、行間を読むことではじめて頷かれるというような意味だ。そこでその矛盾とは何かということになるが、それは格差の拡大であり、人間の分断ということになるのだろう。この映画には、物乞いたちが数多く出てくるし、虐げられている少年とか、貧困を体現しているかのような類人猿もどきが出てきて、社会を牛耳っている支配層に向って抗議するのだ。その抗議が貧者の声として社会の分断を告発しているように「見える」のである。

柄谷行人は、文芸評論からキャリアを始めたが、途中からマルクスに依拠した独特の社会理論を展開するようになった。1978年に出版した「マルクスその可能性の中心」がその転機を画す仕事だ。この本の中で柄谷は、マルクスを独自に読み直して、従前とは違ったマルクス像を提示し、彼なりに解釈しなおしたマルクスに依拠しながら、独自の理論体系を構築することをめざした。後に実現したその理論体系は、日本人のものとしてはかなり壮大なものである。ここまで壮大な理論体系は彼以前の日本人には見られない。そういう点では、柄谷は日本が生んだ最初の体系家といってよい。彼以前にも、たとえば丸山真男のように、首尾一貫した理論を展開した思想家はいたが、それは日本社会の一面にスポットライトを当ててものというべきで、地球規模の社会を全体として体系的に説明したものとは言えなかった。柄谷は地球規模の社会を全体として体系的かつ整合的に説明するとともに、その将来へ向けての変革についても一定の展望を示した。そういう点では、かれが手本としたマルクスに十分対抗できるだけの規模をもった思想家といえよう。

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松園は、蛍が好きだったとみえて、たびたび絵のモチーフに取り上げている。「新蛍」と題したこの作品は昭和七年のものである。大正二年には、歌麿の風俗絵を手本にした「蛍」を描いているが、若い女の色気を感じさせたものだった。それに対してのこの絵は、母子の蛍狩りの様子を描いている。

井上正蔵のハイネ論「ハインリヒ・ハイネ」が岩波新書から出たのは1952年のことだが、いまだに日本におけるハイネ論の標準的なものとして読まれている。といっても、重版はされていないらしいが。どうやら今の日本人には、ハイネを読もうという人は非常に限られた数しかいないようなのだ。そんな日本人の一人として、小生がハイネを再読しようという気持ちになったのは、昔に受けた感動をもう一度味わってみようということが一つ、もう一つは革命の詩人といわれたハイネを、自分なりに再評価してみたいと思ったからだ。近頃、マルクスを読み直すことにはじまり、シュンペーターやグラムシを読み進むうちに、今の世界を律している資本主義の秩序が崩壊に瀕していることが見えてきたし、その先には新しい世界秩序への展望のようなものも感じられてきた。ハイネはそうした新しい世界秩序の可能性を最初に洞察した人だったのではないか。そんな思いが湧きおこってきて、ハイネを再読しようという強い気持ちを抱くようになったのである。

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