2022年6月アーカイブ

カントの哲学は、意識の直接与件としての直感から始まる。その直感は感性と呼ばれ、感覚と構想力からなるとされる。感覚は現前している対象の直感であり、構想力は対象が現前していなくとも作用する直感をいう。いずれも具体的には表象という形をとる。その表象が意識の内容を占めるわけであるから、意識は表象に異ならないともいえそうである。事実ジョン・ロックは、意識と表象とは全く同じものだと考えた。しかしカントは、意識と表象とは厳密に一致しないと考える。意識されない表象もあると考えるのである。

いま公開中の映画「PLAN75」がちょっとした話題になっているそうだ。これは女性監督早川千絵さんの作品で、いわゆる不要老人問題を扱っている。不要老人という言葉は、決して異様な言葉ではない。なにしろ現職の総理大臣が、口をひん曲がらせながら、無用(不要)になった年寄りは早く死んでもらいたいと公言して以来、日本ではあちこちで声高に叫ばれるようになったからだ。

高橋正衛の著作「二・二六事件」は、1965年に初版が出てから数十版を重ね、今日まで読み継がれてきたというから、ニ・二六事件の研究書としては古典的なものであろう。研究書としては多少かわった構成になっている。事件の詳細をドキュメンタリー風に追いかける部分と、事件の背景や歴史的な意義について解明する理論的な部分とに分かれており、重心はドキュメンタリー部分におかれている。それは高橋が出版編集者の出身であり、また若年の頃にこの事件を身近に感じたということにも理由があるようである。

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ケン・ローチの1969年の映画「ケス(Kes)」は、かれにとっては二作目である。ケン・ローチは21世紀に入って活躍した印象が強いのだが、映画作りは1960年代から始めたのである。しかし色々な事情があったらしく、20世紀中はなかなか活躍できなかった。それが21世紀にはいるや、俄かに巨匠と呼ばれるような活躍を始めるのである。それには時代の変化があったのだと思う。ローチは社会的な視線を強く感じさせる作風であり、社会の矛盾を描くことに情熱を感じていたが、20世紀の後半はそうした矛盾が一時遠のいていた感があり、21世紀にはいって以後、グローバリゼーションの広がりの中で、格差とか分断といったものが深刻化した。そうした時代の変化が、ローチに活躍の機会を与えたと言えなくもない。

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萬鉄五郎は、明治四十五年(1912年)3月に、上野の東京美術学校を卒業した。「裸体美人」と題したこの作品は、卒業制作として描かれたものだった。いまでは重文に指定されて、萬の代表作と見なされているが、発表当時教師たちの評価は低く、卒業生19名のうち16番目の成績だった。当時の美術学校は、せいぜい印象派を吸収したばかりであって、まだ西洋美術の新しい流れを消化できるまでには至っていなかったからである。

若竹千佐子の小説「おらいらでひとりいぐも」は、次のような衝撃的な書き出しから始まる。
「あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ
 何如にもかじょにもしかたながっぺぇ
 てしたことねでば、なにそれぐれ」
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「ヴィトコフの戦闘の後」と題したこの作品も、フス戦争の一コマに取材したもの。1420年に、カトリック教会が組織した十字軍約10万名を、フス派の農民軍が、プラハ郊外のヴィトコフに迎え撃ち、撃退した戦いを描いている。もっとも、戦いそのものではなく、闘いが終わったあとの戦場の寒々とした様子を描いている。

八千頌般若経の主要な目的は、般若波羅蜜とはなにかを明かにすることである。般若とは智慧のことをいい、波羅蜜とは完成されたものという意味であるから、その合成語である般若波羅蜜は完成された智慧を意味する。その完成された智慧とはそもそもいかなるものかについて解明するのが、このお経の主な目的なのである。

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田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)は、陳凱歌や張芸謀とともに中國第五世代を代表する映画監督で、1986年に作った「盗馬賊」は、世界的な評価を受けて出世作となった。もっともその後、文革を批判的に描いた「青い凧」が当局の逆鱗に触れ、中國では映画を作れなくなってしまった。

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竹久夢二は、1931年5月に欧米への旅行に出発した。同年6月にサンフランシスコ着、翌年10月にハンブルグ着、その翌年1933年9月神戸港に戻ってきた。その直後身体が不調に陥り、1934年1月に信州の富士見高原療養所に入院するが、同年9月に死んだ。そんなことから、夢二長年の希望だった欧米旅行は、死出の旅となったわけだ。

「足迹」は徳田秋声の最初の本格的長編小説である。「新世帯」とならんで、かれの自然主義的作風の最初の結実というふうに今日では評価されているが、発表当時は大した反響を呼ばなかった。後年の作品「黴」が当時隆盛をみせるようになってきた自然主義的文学の見本のようにもてはやされるにしたがい、それに先行する自然主義的作風を示したものと再認識されたのである。

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(ベツレヘム教会で説教するヤン・フス)

ヤン・フスは、15世紀初頭に活躍したチェコの宗教家で、ルターの宗教改革の先駆者として知られる。カトリック教会の腐敗を批判し、贖宥状の廃止と聖書のみによる信仰を主張したために、カトリックの宗教裁判で有罪となり、火刑に処せられた。

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陳凱歌の2017年の映画「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎( 妖猫伝 )」は、弘法大師空海の中国滞在中の一齣を描いた作品。この映画の中の空海は、修行僧というよりは悪戯坊主のイメージを振り舞いている。その悪戯坊主が中国のいたずら者白楽天と組んで、奇想天外な冒険をするというような内容だ。

「人間学」は、カントが74歳の時に書いたもので、カントの著作としては、最晩年のものである。カントは死ぬ直前まで精神活動が盛んで、「人間学」のあとでも「自然地理学」や「教育学」などの著作をものしている。だが本格的な哲学的著作としては、この「人間学」が事実上最後の業績といってよい。この著作においてカントが目指したものは、人間を総合的にとらえるための手引きを与えることであった。この著作の「序文」でカントは、人間に関する知識すなわち人間学は自然的見地における人間学と実用的見地における人間学からなると言っているが、三大批判の書が自然的見地における人間の諸能力を考察したのに対して、この「人間学」は実用的見地における人間学を考察したものといえる。そのことで、三大批判の書とあいまって、人間を総合的・複合的にとらえることが出来ると考えたわけであろう。

大川周明といえば、大アジア主義を唱導し、欧米の侵略に対抗してアジア諸国が一致団結して立ち向かい、日本はその先頭に立って、アジア諸国解放に尽力すべきと主張した、と見なされる。こういう主張はいまも、靖国神社を中心とした日本の民族主義者たちによって唱えられているが、大川はそれを、理論的に洗練した形で提起した思想家ということができる。「復興亜細亜の諸問題」は、そんな大川周明の主著というべきものだ。

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1947年の中国映画「春の河、東へ流る(一江春水向東流)」は、抗日戦をテーマにした作品である。それに中国ブルジョワ層の頽廃的な生き方をからませてある。この映画が公開された1947年は、国共内戦が激しかった頃で、どちらが勝ち残るか、まだ分からなかった。そういう時代背景の中で、この映画は、日本軍の蛮行に苦しむ庶民に寄り添うよう一方、大資本家に支持された国民党政権には距離をおいた姿勢をとっている。

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「旅」と題したこの作品の舞台は、群馬県の榛名山である。夢二は1930年に、「榛名山美術研究所」建設計画をぶちあげ、そのための募金を呼び掛けてもいるから、この作品は、その計画と何らかのかかわりがあるのだろう。

ねじめ正一の著作「認知の母にキッスされ」は、認知症に陥った母親の介護記録である。その母親は、ねじめ正一が63歳の時に認知症の症状が出始め、69歳の時に亡くなったというから、六年間母親の介護を続けたわけである。最初は在宅介護だったが、同居していたわけではないので、母親が弟一家と住んでいる家に赴いて介護した。その後肺炎で病院へ入院し、民間老人施設と公立の特別養護施設を経て、最後は病院で死んだ。その六年間の間、ねじめはほぼ毎日母親のもとに通って、献身的な介護を続けた。この本はそんなねじめと母親の触れ合いを中心に、施設で知り合った人々との触れ合いも含め、人が老いて死ぬことの意味について、著者自身が考えをめぐらせるといった体裁のものだ。

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(クロメジージュのヤン・ミリーチ)

ヤン・ミリーチは14世紀の神学者で、チェコの聖人。ヤン・フスの先駆者といわれる。私財をなげうって貧民の救済につとめた。それに感激した娼婦たちが、売春宿を修道院に回収して、自分たちの罪を悔い改めたという。


般若経はさまざまな経典からなっている。主なものをあげると、八千頌般若経、二万五千頌般若経、十万頌般若経、金剛般若経、大般若波羅蜜多経などがある。般若心経は、般若経の教えを簡潔にまとめたもので、大衆向けのパンフレットのように使われている。これらのうち、八千頌般若経はもっとも古く成立したものと考えられている。金剛般若経とどちらが古いかについて論争がなされたが、両者とも空の思想を説きながら、金剛般若経には空の言葉が使われておらず、八千頌般若経には使われていることから、金剛般若経のほうが古く成立したとする説が有力である。 八千頌般若経を踏まえて 二万五千頌般若経が成立したと考えられる。竜樹の「大智度論」は二万五千頌般若経への注釈として書かれた。

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是枝裕和の2019年の映画「真実(La vérité)」は、是枝がフランスに招かれて、日仏共同制作として作った作品。かつての大女優が、女優としての末路を迎えるというような設定だが、その大女優とは、この映画の主役を務めたカトリーヌ・ドヌーヴであることは、その女優の名がドヌーヴのミドル・ネームであるファビアンヌであることからも、見え見えになっている。だからこの映画は、カトリーヌ・ドヌーヴへのオマージュとして作られたといってよい。この時ドヌーヴは76歳になっており、年齢相応の衰えを感じさせもするが、肉体の衰えを気力でカバーしてなおつりがくるといった演技ぶりを見せてくれる。彼女の娘役を務めたジャクリーヌ・ビノシュは55歳になっていたが、こちらは実際の年より老けて見えた。

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「憩い」と題する作品は、竹久夢二にはめずらしく、二曲一双の屏風絵である。日本画の伝統である屏風絵に、西洋風のモチーフを描いたところが、夢二らしい奇抜なアイデアだ。

「新世帯(あらじょたいと読む)」は、徳田秋声が自然主義的作風を模索した作品である。かれの作風を確立したとまではいえないが、文章に余計な修飾を加えず、事実を淡々と描くところは、その後の彼の作風の原型をなしたといってよい。小説のテーマも、庶民の平凡な暮らしを、如実に描写するというもので、大袈裟な仕掛けは全くない。また、主人公の視線に沿いながら、時折心理描写を交えつつ、平凡な日常を執拗に描くところなども、いわゆる秋声風を先取りしている。

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「プシェミスル・オタカルⅡ世」は、チェコの歴史上もっとも偉大な王といわれる。彼が在位した13世紀の中頃、ボヘミア(今日のチェコ)は、国威がもっとも発揚し、近隣諸国と同盟を結んで、平和な時代を謳歌していた。

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西川美和の2020年の映画「すばらしき世界」は、刑務所から出所してきた男の社会復帰をテーマにした作品。刑務所から出てきた人間に対して日本の世間は冷たい。だが中には親切にしてくれる人もいないではない。そういう希な善意に支えられて、すこしずつ社会に適応していく姿が描かれる。

「実践理性批判」の目的は、道徳法則を絶対的・先天的な原理によって基礎づけ、その上で霊魂の不死および神の存在といった宗教的な概念に根拠を与えることである。その根拠をカントは最高善に求める。最高善という概念が必然的に霊魂の不死および神の存在を要請するというのである。わかりやすく言うと、最高善という概念には、言葉の定義からして霊魂の不死及び神の存在が含まれているというわけである。

大塚健洋は、大川周明に人間的な魅力を感じているらしい。大川周明は、同じファシストでも北一輝に比べればファンが少ない。いわゆる右翼の間でも大川に共感を示すのはあまりいないのではないか。そんななかで大塚は、数少ない大川ファンとして、大川をもっと公正な視点から評価し、日本の思想史に正しく位置付けたいとの思いから、この本「大川周明」(中公新書)を書いたようである。

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日向寺太郎の2019年の映画「こどもしょくどう」は、児童の貧困をテーマにした作品である。近年、格差社会といわれ、貧困が拡大している風潮のなかで、児童の貧困とか、それにともなう虐待が深刻な社会問題として浮かび上がってきた。この映画は、親から遺棄され、あるいは遺棄同然の扱いを受けて、食べることにも窮するような児童たちの悲惨な境遇を淡々と描いている。上から目線でかわいそうな子供を憐れむというのではなく、児童がそれなりの自覚をもって生きようとするさまを、ドライなタッチで描いている。

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竹久夢二は、自分自身の個展や自分が企画した展覧会のポスターを、無論自分でデザインした。これは、1930年の雛の節句に先がけて、自分が企画した雛人形の展覧会のために作成したポスター。それまでの、どちらかというと抒情的な作風を捨てて、前衛的な大胆さを感じさせるデザインである。

エマニュエル・トッドの著作「問題は英国ではない、EUなのだ」(文春新書)は、タイトルから推察される通り、ブレグジットをめぐる論争において、英国は正しい選択をしたとたたえる一方、EUのグローバリゼーションを批判したものだ。トッドはグローバリゼーションに否定的で、国家の役割を高く評価している。今回、英国がブレグジットを通じて示したのは、国家の復権であったと言うのである。

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スラヴ式典礼の導入)

「スラヴ式典礼の導入」は、モラヴィア(チェコ)におけるキリスト教の典礼がスラヴ式でおこなわれることを記念した作品。9世紀から10世紀にかけて、モラヴィアではキリスト教が普及したが、聖書や典礼は民族自前ではなかった。そこでモラヴィア大公ロスティラフは、神学者のキュリロスに命じて、青書のスラヴ訳を作らせる一方、スラヴ式典礼の導入をすすめた。

十地経の終章「この経の委嘱」は、第一地から第十地まで菩薩のさとりの深まりゆくさまを要約的に復習したあとに、このお経を諸々の菩薩たちに委嘱することが、金剛蔵菩薩によって宣言される。お経の委嘱ということは、法華経でも大きなテーマとして取り上げられている。法華経は、釈迦の教えを述べたものであるが、その釈迦が歴史的な存在としては消滅した後でも、その教えは永遠に伝えられるべきだという考えから、釈迦の教えを、釈迦に代わって説くように菩薩たちが託されることを委嘱といった。十地経もその考えを取り入れて、金剛蔵菩薩を通じて示された毘盧遮那仏の教えの内容を永遠に伝えるよう委嘱されるのである。

豊饒たる熟女たちと、一人も欠けることなく揃って会食したのは、三年半前のことであった。その折は、彼女らの好きなイタリア料理を食いながら談笑したものであったが、その後、M女との連絡が取れなくなって、やむなく残り三人で遠足やら会食を楽しんでいた。このたび、長らく日本を苦しめていたコロナ騒ぎに、収束の見通しがたってきたこともあり、久しぶりに会食しようということになった。そこで小生はM女にも連絡してやろうと思って、彼女の携帯のナンバーを何度も呼んだのだが、呼んではいるのだが返答がない。それはもしかしたら、彼女の携帯に小生のナンバーが登録されていないせいかもしれぬと思い、T女から呼び出しをかけてもらったところが、運よく話が通じた。その結果、我々四人全員そろって会食できることとなった次第であった。

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成島出の2011年の映画「八日目の蝉」は、幼女誘拐とその後に展開される愛憎劇である。誘拐された子供が誘拐した女を母親と思い込んで強い愛着を感じていたために、実の両親との間がうまくいかず、社会にも適応できなくなった、そんな不幸な生き様を描いている。

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「婦人グラフ」1926年7月号の表紙を飾ったこの絵は、もともとは無題だったが、絵の内容からして「たなばた」と呼ばれるようになった、若い女性の背後に、七夕の笹飾りが描かれているからである。

「都会と犬ども」におけるバルガス・ジョサの小説の語り口は、現在と過去を交互に語るというものである。メーンプロットははっきりしていて、それは継時的な進行として語られるのだが、その合間に登場人物たち個々の過去が差し挟まれる。過去の部分には継時的な連続性はない。断続的に取り上げられるのだ。その取り上げられ方には、二つのパターンがある。一つは三人称で語られている現在進行形の物語の合間に、やはり三人称の語り  方で過去のことが語られる。もう一つは、登場人物の独白という形で、過去のことが語られる。独白するのは、準主人公の立場にあるジャガーと、かれの親しい仲間であるボアだ。この独白の部分は、第二部で現れる。小説全体が二部構成になっていて、第一部ではもっぱら三人称の形で語られ、第二部では一人称の独白を交えながらの語りが混在しているのである。

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ミュシャのスラヴ叙事詩シリーズの第二作。このシリーズは、チェコ人独自の歴史とスラヴ人共通の歴史を半々に取り上げているが、この作品はスラヴ人全体に共通する歴史がテーマ。リューゲン島はバルト海に浮かぶ島で、そこにスラヴ人が、民族の神スヴァントヴィトの祭壇を設けた。この絵は、その神のための祭に集まったスラヴ人たちをテーマにしている。

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東陽一の1996年の映画「絵の中のぼくの村」は、絵本作家田島征三の少年時代を回想した自伝的エッセーを映画化した作品。田島は双子の弟で、少年時代は父親の郷里土佐の田舎で暮らした。清流があるところからして、四万十川の流域かもしれない。とにかく、土佐の田舎ののんびりとした自然の中での、ゆったりとした時間の流れを描いている。

「純粋理性批判」と「実践理性批判」の関係を、物自体の捉え方の差異に見たのはハイネである。ハイネは詩人であって、プロの哲学者ではないのだが、ベルリン大学でヘーゲルの講義を受けたこともあり、ドイツ哲学について一定の知見をもっていた。彼の学術的な書物「ドイツ古典哲学の本質」は、ドイツ古典哲学の創始者としてカントを位置付けているのであるが、その中でハイネは、カントは「純粋理性批判」において封印した物自体の概念を「実践理性批判」において、裏口から招き寄せたというようなことを言っているのである。

四方山話の会のフルスケールの会合を、半年ぶりに催した。会場は例によって新橋の焼鳥屋、集合時間は午後五時、メンバーは、岩、梶、浦、柳、福、石、島の諸子に小生を加えた八名。もっとも八人揃ったのは七時ごろになったが。

最近、日本の右翼に関する本をぼちぼち読んでいるところ、大川周明の大アジア主義に大いに関心をひかれた。そこでそのものすばりの題名を持つこの本を読んだ次第だが、実にがっかりさせられた。がっかりというより、ひどい本もあったという、あきれた気分といったほうがよい。この本は、「大川周明の大アジア主義」という題名を掲げているにかかわらず、その題名にふさわしいような内容がないばかりか、まじめな研究というにはほど遠い、著者の自己満足のようなものだと断ぜざるをえない。

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田中絹代は、日本の女性映画監督の草分けである。1953年に「恋文」を作って以来、1962年までに六本の作品を作っている、評価は賛否半ばだったが、興行成績は不調だった。田中は晩年巨額の借金を抱えていたというが、おそらく映画作りのためだったと思う。興行の失敗は自分の責任なので何ともいえないが、自分の作品をけなす意見には、田中は反発したはずだ。とくに、戦前から付き合いの長かった溝口健二に、映画は女の作るものではないといって否定されたことは、田中にとって面白くなかったのだろう。溝口は田中に惚れたいたのだったが、その田中にけんもほろろに扱われたのは、彼女の映画監督としての仕事を素直に認めてやらなかったためだ。

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「晩春」と題するこの絵は、雑誌「グラフィック」の大正15年4月号に掲載された水彩画。「グラフィック」の詳細はわからないが、タイトルからして、美術愛好家向けの実用雑誌だったのであろう。

「シャルリ」とは、露骨な人種差別を売り物にするフランスの俗流雑誌「シャルリ・エブド」のことである。日本人を下等動物のように描いたこともある。その雑誌が、イスラム教のムハンマドを侮辱したことに怒った青年らが、雑誌社を襲って社員たちを殺害する事件が起きた。その直後、2015年1月11日に、反イスラムデモがフランスじゅうで沸き起こった。そのデモの合言葉は「ワタシはシャルリ」というものだった。デモの参加者たちは、そうした合言葉を使うことで、自分たちにはイスラムを侮辱する権利があると主張したのだった。デモの先頭に立ったのは社会党の大統領オランドだった。オランドは日頃仕事をさぼってばかりいるのに、この日だけは生き生きとしていた、というのがエマニュエル・トッドの見立てである。

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スラヴ叙事詩を構成する20点の作品のうち最初に完成したのが「原故郷のスラヴ民族」と題したもの。壁画を思わせるような巨大な画面に、草創期におけるスラヴ民族の境遇が描かれている。ここでいう原故郷とは、無論ミュシャの故郷チェコのことだろう。そのチェコにスラヴ民族が住み着いたのは紀元3ー6世紀のことといわれる。

菩薩の十地のうち最後の地である第十地は、いよいよ菩薩から仏へと飛躍すべき段階である。それをお経は、「仏になるべく勧請をさずけられた」と表現する。その勧請にこたえて、仏に必要な知力を円満にするとき、「正しく菩提をさとった仏」という名号で呼ばれるのである。

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2016年のインド映画「ガンジスに還る」は、インド人の宗教意識と死生観を、家族関係に絡めながら描いた作品。ガンジス流域の宗教都市バラナシを舞台にして、情緒たっぷりの画面を通じて、インド人の生き方の特徴が伝わってくるように作られている。それが非常にユニークなので(特にヨーロッパ人の目には)、世界中の注目を浴びた次第だが、インド人の、とくにヒンドゥーの考え方は日本人の仏教的な考え方に通じるものがあるので、日本人にとっては親しみを感じやすい。

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竹久夢二は、セノオ楽譜や婦人雑誌の表紙絵を手がける一方、商業広告やポスターの分野にも進出した。商業アーティスト竹久夢二の花が開いていったわけだ。当時の夢二は特に若い女性を中心にして人気が高まっていた。商業広告の世界は、日本中に作品を披露するのに決定的な役割を果たした。そうした世界に従事するアーティストは、とかく低く見られがちであったが、夢二は本物のアーティストとしての名声を確立していった。

マリオ・バルガス・ジョサは、ガルシア=マルケスと並んで、ラテンアメリカ文学の騎手といわれる作家だ。二人ともノーベル文学賞を貰っている。ガルシア=マルケスはジョサより八年年上だが、出世作を書いたのはジョサのほうが先だった。「百年の孤独」が出版されるのは1967年、「都会と犬ども」が出版されたのはそれ以前の1963年のことだ。ジョサはまだ、二十代だった。

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アルフォンス・ミュシャは晩年を故郷のチェコで過ごした。そこで長い間温めてきた連作の実現に取り組む一方、プラハ市庁舎ホールの装飾などを手掛けた。ミュシャはアール・ヌーヴォーの大家としての名声が確立していたが、もはや時代遅れとみなされ、したがってミュシャは、ふさわしい尊敬を受けたとはいえなかった。だがそんなことは、ミュシャにとってどうでもよいことだった。彼はチェコに戻った年の翌年(1911)に、プラハ郊外のズピロフ城を借り、一家でそこに移り住んで、大作「スラヴ叙事詩」の制作にいそしんだ。このシリーズが完成したのは1928年だから、ミュシャは実に17年をかけたわけである。

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2001年のインド映画「モンスーン・ウェディング」は、典型的なボリウッド映画だ。ボリウッド映画というのは、歌と踊りをふんだんにとりまぜて、とになく賑やかで楽天的な娯楽映画といわれるのだが、この映画はその歌と踊りにセックスのスパイスを盛り込んで、賑やかな人間模様を繰り広げた作品である。

「啓蒙とは、人間が自己の未成年状態を脱却することである」(「啓蒙とは何か」篠田英雄訳)とカントは、啓蒙を定義して言っている。未成年状態とは、「他者の指導がなければ自己の悟性を使用しえない状態」をさしていう。つまり自立していない状態をいうわけである。他人に決定してもらえなければ、何も決定することができない。それに対して、なんでも自分で決定できる状態を「啓蒙されている」という。その啓蒙されている状態は、個人についてのみならず、国家や世界全体についても言える。国家や世界全体も、未成年の状態から青年の状態へと、進化する過程にある、というのがカントの啓蒙に関する基本的な考えである。

小山俊樹の著作「五・一五事件」(中公新書)は、五・一五事件を微視的に追跡したものである。一応社会的な背景や思想的な意義についての説明もあるが、それはほとんどつけたしといってよく、あくまでも事件を実行した軍人たちの動きを中心にして、事実関係を微視的に追ったものと言ってよい。したがって、歴史書としてはかなり中途半端な印象はまぬがれない。歴史の研究というより、事実の検証といったほうが当たっている。もっとも著者によれば、二・二六事件のほうは多くの研究がなされ、その全貌がかなり詳細にわたって明らかにされているのに比べ、五・一五のほうは、研究書の数も少なく、未解明な部分が多いので、事実関係を明らかにするだけでも大きな意義があるということらしい。

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1995年のインド映画「ボンベイ」は、インド風ロメオとジュリエットといったものだ。対立しあう集団に帰属する男女が愛し合うという設定である。シェイクスピアの悲劇は、家族同士の対立がテーマであり、その対立に引き裂かれるようにして、二人は死んでいくのだったが、この映画の中の男女は、相対立する宗教によって翻弄される。だがロメオたちとは異なり、死を強いられることはない。

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