2022年5月アーカイブ

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斎藤純一は政治についての原理的な議論を展開しているそうだ。なかでも民主主義とはなにかについて、その本質と政治的可能性について強い関心をもっているらしい。民主主義とはなにかに、については、さまざまな議論がある。それらを大雑把に概括すると、自由・平等・友愛といったフランス革命の理念を体現したのが民主主義であって、現代の政治にとって基本となる思想であり、したがって人類共通の普遍的原理になるべきだとする議論がある一方、カール・シュミットのように、民主主義とは統治の主体にかかわる制度論であって、政治的な理念そのものとは本質的なかかわりはない、その証拠に、民主主義が専制政治と結び付いた例は、歴史の舞台に事欠かない、とする議論もある。

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ミュシャはチェコに戻ると、「スラヴ叙事詩」シリーズの制作にはげむ傍ら、ポスターなども折に触れて制作した。「ヒアシンス姫」はその代表的なもの。バレー劇「ヒアシンス」のために制作された。モデルはバレーの主役アンドラ・ソドラコヴァ。当時のチェコの人気女優だった。

菩薩の十地の第九の地は、「いつでもどこでも正しい知恵のある菩薩の地」と呼ばれる。その地にある菩薩は、あらゆる世界のあらゆる存在について、その如相を知るとともに、その知恵をもとにして衆生を教えみちびく。第八の地を経て不退転の境地にいたった菩薩は、いまやその完璧なる知をもって、存在の如相を体得しながら、衆生の救済へと乗り出すのである。衆生の救済とは、衆生をしてさとりを得せしめることである。これゆえ、この第九の位についての教えは、前段であらゆる世界のあらゆる存在の如相がいかなるものかについて説き、後段で、その知恵を生かしながら衆生をみちびく方便について説く。

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インド映画「ムトゥ踊るマハラジャ」は、日本では1998年に公開され、大ヒットになった。それまでインド映画とはほとんど没交渉だった普通の日本人は、この映画を通じてインド映画がどのようなものか、その雰囲気の一端に触れて大いに好きになり、俄かインドブームが起きたほどだった。

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夢二は、セノオ楽譜のためにせっせとイラストを描いたが、なかには、自分が作詞を手掛けたものもあった。「宵待草」はその代表的なもので、いまでも夢二の代表曲として親しまれている。初版は1918年に出て、その際は、「待宵草」というタイトルだった。上の絵は、1924年に出版されたものの表紙絵である。

カルペンティエールの小説「失われた足跡」の根本的テーマは、文明と非文明との対比を描くことにあると言ったが、その場合、文明と非文明とは、価値の差とは考えられていない。人間の生き方の相違として捉えられている。ふつう我々文明社会に生きているものは、文明人である自分自身を基準にして、それとは異なる生き方をしているものを、発達の遅れた野蛮人として捉えがちである。じっさいこの小説の主人公も、最初はインディオたちを一段劣った存在として捉えていた。それは、同行者が自分の冒険譚をするとき、「いささかの悪意もなく、ごく自然な調子で、『我々の一行は、三人の<男>と十二人の<インディオ>だった』という言い方をしていた」(牛島信明訳)ことについて、主人公がその奇妙な区別を受け入れていたことにあらわれていた。

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ミュシャがたびたびアメリカを訪問した目的の一つは、畢生の大作「スラヴ叙事詩」の制作のための資金援助を募ることだった。その提供者として名乗りをあげたのは、大富豪チャールズ・ブラッドリーだった。ミュシャはブラッドリーの資金援助を得ると、故郷のチェコにもどり、1910年から1928年にかけて、20点からなる連作「スラヴ叙事詩」を完成させた。

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サタジットレイの1976年の映画「ミドルマン」は、いわゆる「カルカッタ三部作」の三作目。一作目の「対抗者」と同じく、職を求めて必死になるインドの若者を描いている。「対抗者」の主人公は、経済的な理由から大学の医学部を中退し、できたら医学に関係のある職に就きたいと願うが、それがかなわず都落ちして、田舎のさえない職場で我慢する様子を追っていた。それに対して、この映画の中の主人公の若者は、大学は無事卒業できたにかかわらず、意に沿う就職ができない。その挙句に自分でビジネスを立ち上げるというような内容である。

共和制と民主主義を混同してはならない、とカントは主張する。この両者は、とかく政治体制という曖昧な言葉で言及され、したがって同じ原理の上に立つものと誤解されやすいが、じつは異なった原理に基くのである。民主主義は、「最高の国家権力を有している人格の差別」に基く分類によるものである。これを「本来支配の形式」に基く分類という。この分類によれば、支配権を有するものがただ一人の場合(君主制)、互いに結合した複数の人の場合(貴族制)、市民社会を形成しているすべての人の場合(民主制)の三つの支配の形式があるということになる。

堀幸雄は日本の右翼研究の第一人者だそうだ。かれが編纂した「右翼辞典」は、いまでも右翼研究にとっての基礎的な情報源になっている。かれは新聞記者出身で、綿密な取材をもとに右翼の実体をわかりやすく解説してくれる。そのかれが1983年に出版した「戦後の右翼勢力」は、戦後日本の右翼の動向を知るには、もっともすぐれた案内書といえる。

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サタジット・レイの1970年の映画「対抗者」は、医学部を中退して職を探している青年の数日間を描いた作品である。同時代のインド社会の厳しい現実を、写実的に描いている。舞台がカルカッタであり、サタジット・レイは同じような趣向の作品を以後二本つづけ作っていることから、それらをあわせて「カルカッタ三部作」と呼んだりする。

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「黒猫」と題するこの絵は、「女十題」シリーズのなかで最も人気の高いもの。女が黒猫を抱いている構図は、「黒船屋」とよく似ている。だが、「黒船屋」が日本の女を描いているのに対して、これは西洋の女を描いている。長崎という土地柄を物語る一作である。

中沢新一の著作「緑の資本論」は、2001年の9.11テロに刺激されて一気に書いた文章を集めたものだ。それらの文章で中沢が言っていることは、「圧倒的な非対称」が暴力を生むということだ。それは、強者の側からは弱者への一方的な攻撃としてあらわれ、弱者の側からは絶望的なテロという形をとる。そういう関係について中沢は、弱者の側に立っているようである。

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ミュシャは1904年に初めてアメリカに渡り、その後もたびたび訪れた。アメリカは成金国家で、美術品への需要が高く、有利なビジネスが期待できた。そこでミュシャは既存の装飾絵画を売りさばく一方で、注文制作にも応じた。そうした作品には、油彩画やテンペラ画も含まれていた。ミュシャはリトグラフの装飾画家として名を挙げたのだったが、本来的には油彩の大作への意欲を強く持っていた。

菩薩の十地は第八地にいたって従来とはまったく異なった境地に入る。従来の境地は、菩薩の個人としての修行に重きを置いていた。大乗の菩薩であるから、その修行は自己のみならず衆生の救済をも目的とするものであるが、しかし自己自身修行の身であることにはかわりなく、したがって十全なさとりの境地にはまだ達しておらず、ましてや衆生をさとりに導くことはできない。ところが、第八地にある菩薩は、自己自身のさとりを成就すると同時に、衆生をしてさとりを得させる力を持つにいたるのである。

今般のウクライナ戦争では、当初ロシア軍の圧倒的優勢が伝えられ、その勝利は揺るぎないものと思われていた。しかし戦争が始まってすでに三か月たったいま、ロシア軍は圧倒的な勝利を収めるどころか、各地で苦戦を強いられ、一部では劣勢が伝えられている。中には、ロシアの敗北を予想するものまでいる。これは大方の予想に反した意外な事態と受け止められているが、小生はありうることだと思っていた。その理由は、ロシア軍が攻撃的な戦争を得意としていないことにある。二つの面で、ロシア軍は攻撃的な戦争には向いていないのだ。一つはロシア人の国民性に根差している。もう一つはロシア軍の伝統的な作戦思想に根差している。

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サタジット・レイの1969年の映画「森の中の昼と夜」は、都会で暮らしている若者たちが、森の中で数日間の休暇を楽しむさまを描いている。若い連中のことだから、はめをはずして騒いだり、女に熱をあげたり、また中にはひどい目にあったりするのもいるが、なんといってもバケーションのうえでのことだから、笑ってすますことができる。そんなインド人青年たちの楽天的な生き方を描いたこの映画は、これといって大袈裟な仕掛けがないだけに、この時代の若いインド人の生き方とか考え方がすなおに伝わってくる映画である。いわば同時代のインドの風俗映画といったところだ。

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女十題シリーズは、市井の女たちの何気ない仕草をスナップショット的にとらえたものが多い。これもそうした一点。おそらく夫を送り出したあとの、若妻のひと時を描いたのであろう。タイトルにある光は、明示的に表現されているわけではないが、画面全体の明るい雰囲気から、光がそこにあふれているのを感じさせる。

ラテン・アメリカ文学の顕著な特性としてのマジック・リアリズムを、最初に体現した作家はアストゥリアスとされるが、それを自分の創作方法として意識的に追求したのがアレホ・カルペンティエールである。カルペンティエールは、ラテン・アメリカでは、現実に起きていることが、西欧的な感覚ではマジックのように見えるので、それをそのまま描けばマジック・リアリズムになると考えた。そうしたマジカルな現実をカルペンティエールは「驚異的現実」と呼んでいる。

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「月と星」は、ミュシャの装飾パネル・シリーズの最後の作品(四枚セット)。ほかの一連のシリーズものと同様、モチーフを女性に擬人化している。もっとも、ほかの作品では、女性が前面に浮かび上がるよう配置されているが、このシリーズの女性たちは控えめに描かれている。その分、モチーフの月と星を強調している。

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サタジット・レイの1964年の映画「チャルラータ」は、イギリス統治下のインド社会の一断面を描いた作品。前作の「ビッグ・シティ」が同時代のカルカッタの中流家庭を描いていたのに対して、こちらは植民地時代のカルカッタの上流家庭を描いているという違いがあるが、夫婦を中心としたインドの家族のあり方を描いているという点に共通するものがある。

カントが「永遠平和のために」を書きあげたのは1795年8月、同年4月に締結されたバーゼル平和条約に刺激されてのことだ。バーゼル平和条約とは、フランス革命戦争の一環として行われた普仏戦争の休戦を目的としたもので、これによりラインラントの一部がフランスに割譲された。カントはこの条約が、締結国同士の敵対を解消するものではなく、未来においてそれが再燃する必然性を覚えていたので、偽の平和を一時的に補償するものでしかないと見ていた。そこで、永遠に続く平和を実現するためには、どうしたらよいか、そのことを考えるためのたたき台としてこの論文を書いたというわけである。

「世界史の実験」(岩波新書)は、柄谷行人の柳田国男論の仕上げのようなものである。柄谷は、若いころ日本文学研究の一環として柳田を論じたことがあり、その後、「遊動論」を書いて、柳田の山人論に焦点を絞った論じ方をしていた。山人というのは、日本列島のそもそもの原住民が、新渡来者によって山中に追いやられた人々のことをいうが、その生き方の遊動性が、狩猟・遊牧民族の生き方によく似ていた。狩猟・遊牧民は、柄谷が素朴な交易の担い手として設定するものであり、いわゆる交換様式Aの担い手である。交換様式Aは、原始的共同体を基盤としており、国家を前提とした交換様式B及び資本主義的な交換様式Cを経て、最終的には交換様式Dとして復活するものと展望されていた。交換様式Dというのは、アソシエーションの自由な結びつきとしての「アソシエーションのアソシエーション」とされる。それは、柄谷なりのコミュニズムを意味していた。そういう文脈の中で柄谷は、柳田を柄谷なりに解釈したコミュニズム=アソシエーショニズムの先駆者として位置付けたわけである。

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サタジット・レイの1963年の映画「ビッグ・シティ」は、インドの大都市に暮らすサラリーマン一家を描いた作品。その頃のインドはまだ発展途上国であり、経済的には貧しく、また人々の意識は古い因習にとらわれていた。そんなインド社会にあって、とりあえず生活のために働く決意をした女性が、自分の家族をはじめ、世間の偏見や因習と戦う様子を描いている。

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「女十題」シリーズも、長崎で世話になったお返しとして永見徳太郎に贈呈されたもの。各作品に描かれた女たちは、おそらく長崎で実見したものだろう。顔つきがそれぞれ異なることから、そのように憶測できる。

いまどき社会主義革命を論じること自体時代遅れと言われているのに、その社会主義革命の権化ともいうべきレーニンを正面から論じることにはかなりの勇気がいるだろう。なにしろ、1990年代以降、ソ連や東欧の社会主義体制が崩壊し、資本主義が唯一の社会モデルと強調されるようになって、社会主義は失敗したモデルであり、いかなる意味でも有効性を持たないと言われている。社会主義を目標としたり、社会主義者としてのマルクスを研究したりすることにうさん臭さを指摘する人間が跋扈している。そういう風潮の中で、マルクスを超えてレーニンを主題的に問題にすること自体、スキャンダラスにとられかねない。そのスキャンダラスなことに、白井聡は取り組んだのである。

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ミュシャの二枚組の装飾パネルは、左右の女性を向かい合わせに描くのが特徴。女性は、全身像の場合もあり、半身像の場合もある。1897年の作品「ビザンチン風の頭部」は、頭部だけを取り出して向かい合わせたものだった。これが大きな成功を収めたので、気をよくしたミュシャは、同じような趣旨のものをもう一組作った。1901年の作品「木蔦と月桂樹」である。

菩薩の十地のうち、第一から第六までと第八以降の間には飛躍的な差異がある。その飛躍を媒介するのが第七地である。第六地までと第八地以降とではどのような差異があるのか。薩の十地はすべて、さとりに導く諸徳を円満に成就することを目的としている。その諸徳の円満な成就は、第六地までは一定の条件のもとで可能になる。ところが、第八地以降においては、そうした条件なしに、菩薩がかくあれと願うだけで成就する。第六地までは修行者の色合いが強いが、第八地以降は、限りなく仏の境地に近づいている。第七地は、その前者と後者と、二つの境地の橋渡しをするのである。

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サタジット・レイの1960年の映画「女神」は、ベンガル地方に生きる人々の宗教的な因習をテーマにした作品。ヒンドゥー文化への強い批判が込められているため、インドの保守的な人々の反発を招いたが、カンヌでは高く評価された。

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「秋のいこい」というタイトルは、夢二自身がつけたものではなく、あとでそう呼ばれるようになったもの。この絵から伝わってくるのは、「いこい」ではなく焦燥感だろう。おそらく田舎から出てきた女がこれからどこへ行こうかと思案しているか、あるいは職を失た女中が途方に暮れているようにも見える。女の傍らに置かれた信玄袋は、旅の品々を入れるためのものなのだ。

ボルヘスは、パスカルの球体についての「パンセ」の中の言葉に異常に拘っている。それは、「至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体」という言葉なのだが、たしかに無限の球体であるならば、どこにも周縁は見つからないだろうし、したがって中心も定まらず、いたるところにあるということになる。しかし、そんなものが意味を持つというのか。意味をもつとしたら、どんな意味だというのか。そうボルヘスは疑問を持って、パスカルのこの言葉に異常なこだわりをもつらしいのである。

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ミュシャは宝飾品のデザインを手掛ける一方、数は少ないが彫刻も残している。「ラ・ナチュール」と題したこの作品はミュシャの彫刻の代表的なもの。かれはこれを、1900年のパリ万博に向けて制作した。宝飾商ジョルジュ・フーケとのコラボレーションであり、また彫刻技術はオーギュスト・セースの手ほどきを受けた。

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フロイトは1932年に、高名な物理学者で同じユダヤ人であるアインシュタインと書簡のやりとりをした。それは、国際連盟の一機関が企画したもので、まずアインシュタインがフロイト宛てに書簡を送り、フロイトがそれに応えるという形をとった。フロイトのほうが23歳も年上だったし、また、往復書簡のテーマについて深い見識を持っていると考えられたからであろう。そんなフロイトに後輩のアインシュタインが見解を乞うという形になっている。それに対するフロイトの返事は、「何故の戦争か」と題して著作集に収められている。

徳川時代の政治思想についての研究は、長い間、丸山真男の圧倒的な影響下にあった。丸山は若い頃に書いた「日本政治思想史研究」において、徳川時代には朱子学が体制を合理化する理論体系として機能し、その朱子学をめぐってさまざまな言論が展開されたと見た。そのさまざまな言論のうちで丸山がもっとも注目したのは古学の系統である。古学は荻生徂徠によって確立され、やがて本居宣長によって大展開をとげるわけだが、そうした流れの中で伊藤仁斎は端緒的な位置づけをされた。丸山によれば、朱子学への批判としての古学は、仁斎から徂徠をへて宣長にいたる直線的な発展過程をたどったということになる。柄谷はこうした丸山の見方を批判して、仁斎について新しい視点を提示するのである。

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サタジット・レイの1955年の映画「大地のうた」は、かれにとっての監督デビュー作であり、インド映画を世界に認めさせた作品である。インドがイギリスから独立したのは1947年のことだ。当時のインドは、古い文化的伝統を持っていたにかかわらず、映画はじめ新しい文化の面で世界の注目を浴びることは少なかった。映画に描かれることはあっても、それは外国人制作者にとっての異国としての扱いであり、インド人自身がインド人の生き方を描いたものが注目されることはなかった。サタジット・レイのこの映画は、そんなインド映画を世界の舞台に押し出した記念すべき作品である。

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「眼鏡橋」と題したこの絵も、「長崎十二景」シリーズの一点。長崎名所の眼鏡橋をバックに、傘をさしや女性の半身像を大胆に配した構図である。眼鏡橋は、日本初といわれる石造りの橋で、中国から職人を呼び寄せて作ったという。橋を支える二つのアーチが、水に映って眼鏡のように見えることから「眼鏡橋」と呼ばれて親しまれた。

ハイネは、日本では抒情詩人として知られていた。「いた」というふうに過去形で書くのは、いまではハイネを読む日本人はあまりいないからだ。ともあれハイネの抒情詩は、同時代人のメンデルスゾーンをはじめ、シューマンやシューベルトなど高名な作曲家が曲をつけたことで、世界中の人々に歌われることとなった。そういう抒情的な詩はいまでも好まれるようだが、ハイネの詩人としての資質は、むしろ政治的な詩において発揮されているといえる。ハイネは政治意識が非常に高く、そのため官憲ににらまれてフランスに亡命を余儀なくされたのだった。それでもなお、政治意識が鈍ることはなかった。若いころから死にぎわまで、ハイネはやむに已まれぬ政治的な憤慨を詩というかたちで表現し続けたのである。ここでは、そんなハイネの政治詩をいくつかとりあげ、その特徴のようなものを見てみたい。

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「時の流れ」と題したこの装飾パネル・セットは、一日の時の流れを、朝、昼、夕、夜の四つに区分し、それぞれ女性のしぐさに時々の自然を感じさせるように描かれている。ミュシャ得意の女性に擬人化された自然の表現である。

菩薩の十地の第六は「真理の知が現前する菩薩の地」である。その真理の内実は十二因縁及び三界唯心という二つの言葉に集約される。十二因縁は仏教の基本思想であり、すべてのものには固有の実体はなく、ただ因果関係の連鎖に過ぎないと考える。また三界唯心とは、世界のすべての存在は心の生み出したものだとする考えで、これは華厳経の十地品(十地経)が積極的にうちだした思想である。

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篠田正浩の1995年の映画「写楽」は、俳優のフランキー堺が企画総指揮にあたり、自ら脚本を書いた作品。だからフランキー堺の映画道楽に篠田が付き合ったともいえる。篠田は例によって女房の岩下志摩と一緒になって、フランキー堺の道楽の場にはせ参じたわけである。

この年初に二年ぶりに催した四方山話の会は、その後コロナの第七波のためにまたもや停滞を余儀なくされたところだが、ここへきて終息の兆しが見えてきたこともあって、とりあえず例のロシアのメンバーで集まろうということになった。そこで小生は、季節柄旬のかつおを食いたいと全体幹事の石子に申し入れたところだったが、宴会幹事の浦子が言うには、いまは連休の最中で知り合いの小料理屋はどこもやっていない。だからいつもの中華屋でやることにした、あしからずと。そこで小生は、別にかつおに強いこだわりがあるわけではない、食いたくなったら女房に食わせてもらうさ、と応えた。

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大正七年(1918)の八月に、夢二はたまきに生ませた次男不二彦をつれて長崎に遊び、美術コレクター永見徳太郎の世話になった。永見は南蛮趣味を持っていて、夢二の南蛮趣味に共感する一方、芥川龍之介、吉井勇らと親交があった。地方の素封家の道楽のようなものであろう。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、アルゼンチンに生きるユダヤ人だが、自分をアルゼンチン人とは意識しておらず、コスモポリタンなユダヤ人として意識しているようだ。アルゼンチンについては、軽蔑というよりも、無視する態度を徹底している。そんなものがこの地球に存在することさえ不可思議だといった露骨な嫌悪感がかれの文章からは伝わってくる。原住民たるインディオなどには、犬とかわらぬ存在意義しか感じていないようである。

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「桜草と羽根」をモチーフにした二枚一組の装飾パネル。それぞれのモチーフを擬人化して女性であらわし、彼女らが向かい合っている構図である。だが、互いに眼を伏せ、見つめあうことはない。モチーフ自体は、女性が手で持った形で表現されている。左側の女性は桜草を持ち、右側の女性は大きな羽根を持つといった具合だ。

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篠田正浩の1972年の映画「沈黙」は、遠藤周作の同名の小説を映画化したものである。この小説は、ポルトガルから来たイエズス会宣教師の棄教をテーマにしたものだ。キリスト教徒の殉教を描いたものとして肯定的な評価があった一方、日本のカトリック教会を中心に大きな反発もあった。原作が公刊されたのは1966年のことで、カトリック側からの反発が表面化したのは1972年ごろというから、原作のほかにこの映画もカトリックを刺激したものと考えられる。とくに映画の中で、パードレが踏み絵を踏む場面が、キリスト教の聖職者を侮辱しているといった感情的な反発を呼んだ。

フロイト晩年の著作「人間モーゼと一神教」のそもそもの意図は、エジプト人であったモーゼが、エジプトに亡命していたユダヤ人たちに一神教を与えたということを証明することであった。モーゼから一神教を与えられたユダヤ人が、パレスチナへ進出する過程でその一神教をユダヤ人全体に拡散させ、もともとユダヤの地方神であったヤーヴェがモーゼの唯一神になった、というのがこの論文でフロイトが主張したことである。

ウクライナへの侵攻がうまくいかないのは、NATO諸国が事実上ウクライナの側にたって参戦しているからだとして、場合によっては核兵器の使用も辞さないと、プーチンが恫喝的な発言をしている。もし、実際プーチンが核兵器を使用したら、バイデンとしてはどうするつもりか。バイデン政権はすでに、その事態を想定したシミュレーションをしているそうである。

転向の問題は、戦後日本の「文壇」において大きなトラウマとなったものであるから、日本の近代文学を読むことからキャリアを始めた柄谷のような男にとっては、当然避けてとおれることではなかったのであろう。柄谷自身は転向の当事者ではないので、第三者的に冷めた眼で見られる位置にいる。転向の当事者だったら、なにかしら苦い感情をともなわずに語れないことを、柄谷はそうした感情を抜きにして語れる。だが何らの参照軸もなく、だらだらと語っているわけではない。柄谷は、明示的には言っていないが、転向を倫理の問題としてとらえている。倫理とは、人間の生きざま全体にかかわるものである。単に政治とか文学の領域に限定されたものではない。人間としてのあり方そのものを規定しているものだ。そういう倫理観を柄谷はカントによって基礎づけている。だから、倫理の問題として転向を論じる柄谷は、カント主義者として語っている。

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大島渚の1969年の映画「新宿泥棒日記」は、大島一流の悪ふざけ精神が横溢している作品だ。大島はその悪ふざけを、唐十郎とか横尾忠則といった素人俳優と組んでやってのけた。唐十郎は新宿で路上演劇を主催するものとして、横尾忠則は新宿紀伊国屋書店で万引きを繰り返す青年として出てきて、皆でセックスの意義を考えあうといった趣向の映画だ。それに、当時まだくすぶっていた反抗的な時代精神が背景として表現される。新宿は、1968年の全共闘による街頭暴動の舞台となったところだ。

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「黒船屋」と題するこの絵は、夢二の美人画の頂点をなす作品。当時、夢二がかぶれていた南蛮趣味を表現したものだ。「黒船屋」は実在する店ではなく、想像上のものらしいが、そこに「港屋」の影を見る見方もある。

1843年の初冬、ハイネは1831年初夏にドイツを去って以来12年ぶりに故国を訪れる。動機は色々あっただろう。年老いた母に会いたいという願いが一番強かったようだ。紀行詩「ドイツ冬物語」のなかでは、ホームシックになったのだと言っている。そのほか、ハンブルクの本屋カンペとの間に、将来の出版契約を結ぶこともあった。その契約によって、妻のマティルダが自分の死後も路頭に迷わないように配慮したのだった。

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サラ・ベルナールの1899年の舞台公演「ハムレット」のために作成したポスター。フランスでは、シェイクスピアの原作をほぼ忠実に再現した最初の舞台だったという。それ以前には、フランス人好みに合わせて、かなり逸脱したバリエーションが演じられていたということらしい。

菩薩の十地の第五は「本当に勝利しがたい菩薩の地」である。この地にある菩薩は、四諦の真理をさとる。四諦とは四つの聖なる真理のことであり、釈迦牟尼が初転法輪で説いた真理である。それは次のように言い表される。「ああ、あらゆるものは苦悩に満ちている! これが、仏の教えられた聖なる真理(苦聖諦)である、とあるがままに如実にさとる。ああ、あらゆる苦悩は生成する(苦集)! ああ、あらゆる苦悩は寂滅している(苦滅)! ああ、あらゆる苦悩の寂滅に導く道がある(苦滅道)! これが、仏の教えられた聖なる真理である」

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大島渚の1961年の映画「飼育」は、大江健三郎の初期の代表作である同名の短編小説を映画化したもの。この小説は、四国の山中に不時着した米軍の黒人パイロットを、近隣の部落の住民たちが監禁する様子を描いたもので、大江の分身と思われる十歳の少年の視線から描かれていた。それを大島は、かなり大胆に読み替えて脚色した。そのため、原作の雰囲気とはだいぶ異なった印象のものになっている。

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