メルロ=ポンティの「シーニュ」所収の文章「どこにもありどこにもない」は、1956年に刊行された「著名な哲学者たち」という、ある種の哲学史に対する序文として書かれたものである。この哲学史を、小生は読んだことがないが、どうも東洋思想やキリスト教思想を含めた東西の著名な「哲学者」たちについて、その文章の一部を紹介するアンソロジー的な構成をとっているようである。要するに人類の知的遺産についての一覧を供するという建前をとっているらしい。そういうタイプのアンソロジーは、一時日本でも流行ったものだ。
知の快楽
メルロ=ポンティの「シーニュ」所収の論文「間接的言語と沈黙の声」は、サルトルに捧げられている。この論文が書かれたのは1952年のことで、その年二人は決定的に別離した。そういう背景を念頭に読むと、この論文がサルトルへの批判を含んでいると思わせられる。もっともサルトルを直接取り上げたものではなく、サルトルの名はことのついでのように出てくるだけなのであるが、この論文の主要なモチーフの一つが歴史ということであれば、その歴史の解釈をめぐって、両者の間に溝があることは納得される。
「シーニュ」はメルロ=ポンティにとって、「意味と無意味」に続く二冊目の論文集である。これを刊行したのは1960年のことであり、「意味と無意味」の刊行から12年が過ぎていた。しかも彼は、この本の刊行の翌年、1961年に死んでいる。だからこの論文集は、「意味と無意味」以降の彼の文業の集大成的な意味をもっているわけだ。その間に彼は、サルトルと決別し、またマルクス主義とも一線を置くようになり、次第に彼の性にあった活動をするようになる。もっともその活動は、突然の死によって中断されるのであるが。
メルロ=ポンティがマルクス主義について積極的に発言したのは、大戦後の一時期、すなわち対ナチ戦争に勝利してからほぼ五年の間である。この時期は、マルクス主義の権威が非常に高まっていた。フランスにおいては、共産党がレジスタンスの有力な一翼を担ったこともあって、共産党への信頼が他の国より強かった。そういう事情を背景に、フランスの知識人は、マルクス主義に対して一定の態度表明をするのが知識人としての義務だと感じたようだ。メルロ=ポンティは、この時期サルトルと親密な関係にあったので、サルトルと共同戦線をはる形で、マルクス主義を擁護するような活動をした。
メルロ=ポンティは、身体と精神とは別のものではなく、人間という全体性の二つの現れであるといい、したがって外面としての身体、内面としての精神という具合に、対立関係において考えるのは間違っている、内面と外面は一致している、と主張する。そうしたメルロ=ポンティにとって、映画は、内面と外面とが一致するという真理を如実に表した芸術ということになる。我々は、映画の中の人物の動作(外面)から、かれの心の状態(内面)を推測するのではなく、つまり間接的な推理をするのではなく、かれの動作のなかに、外面と内面の一致を見るのであり、かれの動作の意味を直接的に認知するのである。
第二次大戦終了後しばらくの間、メルロ=ポンティとサルトルは蜜月関係にあった。そんな関係をもとに、メルロ=ポンティはサルトル論を書いた。「ひんしゅくを買う作家」(「意味と無意味」所収)と題された小文である。その小文の中でメルロ=ポンティは、作家としてのサルトルについて、かれが「ひんしゅくを買う作家」として攻撃の対象になっている事態に対して、かれなりにサルトルを擁護するのである。
メルロ=ポンティは「知覚の現象学」の中でたびたびセザンヌに言及した。それは、知覚とはゲシュタルト的なものであり、したがってすでにそれ自体意味を帯びたものだという彼の考えが、セザンヌにおいて好例を見出すというふうに思ったからだと思う。そのセザンヌについてメルロ=ポンティは「セザンヌの疑惑」(「意味と無意味」所収)という論文を書き、主題的に論じている。
メルロ=ポンティの著書「意味と無意味」は、1945年から1947年初めにかけて書かれた小論を集めたものである。この時期メルロ=ポンティはサルトルとともに雑誌「現代(Les Temps modernes)」を主催しており、そこに掲載した文章を中心にして編集したものである。多くは時事評論的なものである。第二次大戦後まもない時代の空気を反映して、政治的な問題意識を感じさせる文章が多い。そうした政治的な文章は、先行する論文集「ヒューマニズムとテロル」にも収められている。
メルロ=ポンティにとって、自由は選択の問題である。その点では、伝統的な議論とつながるものがある。伝統的な議論は、自由を必然性との対立においてとらえ、必然性に束縛されることのない選択こそが自由の意味なのだとした。だが、そんな選択はありえないとメルロ=ポンティは言う。自分はたしかにある事柄について選択しないことはできるが、その点では選択を強制されるものではないが、しかしその場合でも、まったく何も選択しないわけではなく、別のものを選択しているに過ぎない。それがたとえ、ある事柄を選択しないという選択であるとしても。
時間と空間についてのメルロ=ポンティの議論は、伝統的な議論とはかなり異なっている。伝統的な議論は、実在論と主知主義によって代表されるが、どちらも時間と空間とを同じ次元で論じていた。実在論は、時間と空間とを実在的な対象に本来備わったものと見ることで、時空を同じ次元に位置づけていたし、カントによって代表される主知主義は、時間と空間とをともに理性の側にそなわる形式と見ることで、やはり時空を同じレベルに位置づけていた。それに対してメルロ=ポンティは、時間と空間とをそれぞれ異なったレベルに位置づける。空間は、主体が世界とかかわるところに成立するという意味で、主体のいわば外面のようなものである一方、時間は主体と一致している。時間は主体=主観であり、主観は時間なのである。そのことをメルロ=ポンティは、「私自身が時間なのである」と言っている。
メルロ=ポンティのコギトについての議論は、とりあえずデカルトのコギトへの批判から始まる。デカルトは、思惟の働きとしてのコギトと、その働きの主体としての我を区別して、あの有名なテーゼ「我思うゆえに我あり」を導き出した。こうした考えにメルロ=ポンティは異議を唱える。デカルトにおいては、思惟の対象と思惟の主体とは区別されるのであるが、またそれゆえにこそ、「我思うゆえに我あり」という言葉に意味があることになるのだが、メルロ=ポンティは、そうした考え方をしない。思惟の対象とそれを思惟していること(思惟のはたらきとその主体)とは区別されない。思惟の対象と思惟のはたらきは同一の「存在様相」を持つのであって、もともと一体のものなのである。それが別々のものとして区別されるのは、間違った反省のためである、そうメルロ=ポンティはいうのだ。
デカルトのコギトから出発した西洋近代哲学にとって、他者の問題は解きがたいアポリアだった。意識によってすべてを基礎づけようとすれば、私の意識以外のものはすべて対象であって、他者もまた対象である限り、机や椅子となんら変わりはない。私は私が意識であることを確実に知るのであるが、机に意識が宿っているとは思わないし、それと同じように、他者にも意識が宿っているとは明言できない。意識にこだわる限り、意識の担い手としての他者は、わたしにとっては明瞭なものではないのだ。無論私は、他者が自分と似た存在であると思う限りにおいて、自分が持っている意識を他者もまたもっていると推測することはできる。だが、それはあくまでも推測であって、明証な事実の認識ではない。ともかく意識から出発する限り、他者の問題は解きがたい難問なのである。
空間についてのメルロ=ポンティの考察は、「知覚の現象学」の根本的な問題意識をもっとも尖鋭的に感じさせるものである。その問題意識とは、知覚についての経験論的な考えと主知主義との二項対立を克服して、その両者を包み込むような第三の視点を求めようとするものだった。その二項対立は、空間にあっては、客観的な空間と主観的な空間の対立として現れる。客観的な空間とは、私の意識とは別に、対象的な世界そのものがそれ自体空間の性質を内在していると捉えられたものであり、一方主観的な空間とは、カントに典型的なように、主観によって構成されたものである。客観的空間は事物そのものの性質であり、主観的空間は意識によって構成されたものである。その点では、アプリオリな形式といってよい。
共感覚(共通感覚)を哲学上の問題として取り上げたのはアリストテレスだ。アリストテレスは、世上に五感と称されるような個別の感覚を超えて、それらを統合するような感覚があると主張し、それを共感覚(共通感覚)と名付けた。共感覚は、ある対象についての原初的な感覚であって、そこでは視覚的、聴覚的、触覚的等々の要素が区分されずに混沌とした全体の印象として受け取られる。その共感覚を基礎として、それを分節することで、個別の感覚、たとえば視覚とか聴覚とか触覚が現れると考えた。アリストテレスはまた、共感覚を第六感のようなものとして位置づけ、その第六感が常識の基礎となるともいった。思想史のその後の流れの中では、常識の基礎としての第六感のほうがより強い注目をあつめ、本来の感覚としての共感覚は軽視されるようになった。それを感覚本来の問題として取り上げなおしたのはメルロ=ポンティである。
メルロ=ポンティは、言語について独特の見解をもっている。かれが「知覚の現象学」を書いた頃には、ソシュールの構造主義言語学が支配的な言語理論として受け止められていたのだったが、メルロ=ポンティはそれに異議を唱えてかれ独自の言語論を提示したのである。
人間が身体であること(人間の身体性)を最も強く感じさせるのは「性的」なことがらである。メルロ=ポンティはその性的なことがらを、色情によって基礎づける。色情というのは性欲の発露、というか衝動であって、それにとらわれた人間は、その色情する自分を認識するのではなく、生きるのである。認識とは、認識する自分と認識される対象との関係であるが、色情においては、色情を知覚する自分と、知覚される色情とは一体となっている。それは色情が身体の衝動であって、知性とはほとんどかかわらないからである。
西洋近代哲学史の上で、身体の問題を主題化したのはメルロ=ポンティである。デカルトが身体を延長の一つとして分類して以降、西洋哲学における身体は、物質界に属することになり、あくまでも客観的な対象にとどまってきた。身体は、そのものとしては意識の対象なのであって、したがって意識とは別物であった。ところが人間自体は意識として考えられたから、その意識とは別物である身体は、人間性の範疇には入ってこないのだった。サルトルがいうように、人間とは意識と完全に重なりあうのであり、その意識が世界を基礎づけ。その世界、つまり対象的な世界のうちに身体も含まれるのである。身体がなにか人間とかかわりあうことがあるとしたら、それは人間が意識と身体との二つの実体からなっているといったもので、その結びつきは外的なものにとどまった。こうした伝統的な身体観をメルロ=ポンティは徹底的に批判し、身体を人間性そのものにとっての本質的な要素と考えたのである。人間は意識のほかに身体を所有するというのではなく、身体こそが人間そのものなのだという、ある種当たり前のことを、メルロ=ポンティは宣言したのである。
メルロ=ポンティは「知覚の現象学」を、感覚の分析から始める。その感覚をかれは「<感覚>なるもの」と呼んでいる。「感覚」という言葉に疑念を抱いているからだ。「この感覚という概念こそ最も混乱した概念であり、こんな概念を容認したために(知覚に関する)古典的分析は、知覚現象をとらえそこなってしまったのである」(竹内芳郎、小木貞孝訳)といって、メルロ=ポンティは<感覚なるもの>に強い疑念を表するのである。
メルロ=ポンティの著作「知覚の現象学」は、「行動の構造」と一対のものとして学位論文を構成していることからわかるとおり、同じ課題を追求している。それは、人間の認識とか実践を、極端な実在論や極端な観念論のいづれかではなく、その両者を接合させることの上に基礎づけるというものだった。極端な実在論は自然とか意識外のものを基準にして立論し、意識は外的自然の反映だというふうに極言したりもする一方、極端な観念論は、意識こそが世界を構成するのであって、自然を含めた外的世界は意識の産物だとする。その二つの極端を配排して、「意識と自然、内的なものと外的なものとの関係を了解すること」(竹内芳郎、小木貞孝訳)が、メルロ=ポンティが「行動の構造」及び「知覚の現象学」において追求した課題だった。
メルロ=ポンティは、意識に定位しながら立論する姿勢をサルトルと共有していたので、サルトル同様に無意識を認めなかった。だから、サルトルがフロイトを批判したように、かれもフロイトを批判した。批判の要点は二つ。一つは無意識の実在性を否定すること、もう一つは無意識を原因とした因果関係を否定することである。
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