読書の余韻

イスラームというと、筆者も含め大方の日本人にとっては、西洋的な価値観とは異なる独特の価値観をもとに、西洋文明と厳しく対立し、自らの主張を通すためにはテロなどの暴力も辞さないというようなイメージが流通している。実際近年世界中を騒がしてきたアルカーイダとかISとかいったものは、イスラームの申し子のようなものとして受け取られている。そこからイスラームはテロのイメージと結びつき、すべてのイスラーム教徒がテロリストではないが、テロリストはすべてイスラーム教徒であるといった言説が横行している。

井上達夫の憲法改正私案には徴兵制の規定が盛り込まれている。その趣旨を井上は、徴兵制によって戦力の濫用を防ぐためだと言っている。「志願兵制だと、志願する必要などないマジョリティたる国民が無責任な好戦感情に駆られたり、政府の危険な交戦行動に無関心になりやすい。無謀な軍事行動に対してすべての国民が血のコストを払わなければいけないとなると、国民は軍事行動の監視と抑止の責任をもっと真剣に引き受けることとなる」というわけである。

井上達夫と小林よしのりの対談「ザ・議論」の三つ目のテーマは、憲法九条問題である。これについて井上は、憲法九条削除論を唱える。井上は、憲法九条を削除して、安全保障政策は民主的立法にゆだねるべきだと主張する。そうすると戦争への歯止めがなくなるのではないかという疑問が出てくるが、それに対して井上は、憲法九条を削除するとともに、戦力の保持を前提として、その戦力の統制にかかる規定を憲法で明記することで、かえって戦争の抑止が可能になると言う。いまの状況では、憲法九条があるために、戦力統制に事実上憲法の制約が利かない状態になっている。つまり戦力の行使が、何らの制約も受けないままに、なしくずしに拡大していく可能性が生じている。憲法九条を削除して、戦力統制にかかる基本的な事項を憲法に明記することではじめて、民主的な戦力のコントロールができると考えるわけである。

井上達夫と小林よしのりの対談「ザ・議論」の二つ目のテーマには、主に近代日本の対アジア政策と先の大戦についての戦争責任が取り上げられる。井上はこれをセットにして、日本はアジアに対する侵略責任を認めなければならないと主張する。日本はアメリカを相手にバカな(無謀な)戦争をやったのではなく、アジアに対して不当な戦争を仕掛けたと認めるべきだと言うのである。そうしてこそはじめて、日本はあの戦争に対して批判的な態度をとることができるし、自分もアジアに対してひどいことをしたが、アメリカはそれ以上に日本にひどいことをしたと批判することができるというわけである。

憲法学者の井上達夫はリベラルを自称し、漫画家の小林よしのりは本物の保守を標榜しているそうだ。その二人が対談して、意気投合した様子がこの「ザ・議論」という本からは伝わってくる。普通の理解では、リベラルと保守は相互に相いれない対立概念だと思われているから、それぞれを体現した両者が意気投合することは奇異に映る。しかしよくよく考えてみれば不思議ではない。

久しぶりにスウィフトがらみの本を読む気になったのは、筒井康隆の「断筆宣言への軌跡」を読んだのがきっかけだ。この本の中で筒井は、自分の持味はブラックユーモアだと言っており、そのブラックユーモアが災いしてさまざまな波風を立てつづけ、挙句の果ては「断筆宣言」をする羽目になってしまったと書いていた。それを読んだ筆者は、日本には筒井のようなブラックユーモアの使い手は非常に珍しく、その意味では国民的な財産にも等しいから、こういう人間が自由にブラックユーモアを振りまけるようにしてやりたいと思ったものだった。

筒井康隆が断筆宣言をしたのは1993年というから、もう四半世紀も前のことである。筆者は筒井の熱心な読書ではなかったが、それでも「文学部唯野教授」くらいは読んでいて、そのユーモアのセンスは認めていた。その彼が持ち前のブラックユーモアが原因で「日本てんかん協会」との間で争いになって、それがもとで断筆宣言をしたと聞いた時には、文学の外部からの圧力に屈したのかと思ったものだが、この「断筆宣言への軌跡」を読んでみて、そんなに単純なものではないということが、改めてわかった。

この本は、社会を変えるために一人ひとりが立ち上がるようにと勧めたものだ。何故社会を変えるのか。それは一人ひとりの問題意識によるだろう。そもそもそんな問題意識を持たない人もいる。そういう人にとっては、小熊のこの本はナンセンスであることを越えて、有害であるとさえ映るかもしれない。しかし、社会というものは、そんなものではない。これまでに変わらなかった社会というものはなかったし、これからもきっと変わっていくに違いない。そうであるとすれば、社会の変化を受け身で傍観するのではなく、自分自身がその変革にかかわることのほうが、色々な意味で望ましいのではないか。そういう問題意識にこの本は支えられているようである。

大衆概念とファシズム論は戦後の日本論壇の最大テーマとなったものだが、戸坂潤は戦時中いちはやくこれらの概念を取り上げ、大衆とファシズムとの関連性に注目していた。大衆と言いファシズムと言い、明確な概念に見えるが、いまでさえ必ずしも明確とは言えない。したがって戦後の日本論壇でこれらの概念が華々しく論じられた際に、何が大衆の本質で、何がファシズムの概念的な内容なのか共通の理解があるとは言えなかった。日本ファシムズ論の理論的な指導者と見なされた丸山真男でさえ、ファシズムの概念を既知のこととして、それを理論的に掘り下げたとは言えなかった。

戸坂潤は、戦前のマルクス主義哲学者としてはなばなしい論戦を張った人だ。その鋭い時代批判が官憲の怒りを買い、それがもとで獄死した。そんなこともあって戦後の日本では不屈の思想家として尊敬を集めたりもしたが、マルクス主義が「失墜」したあおりを受けて、今では一部をのぞき読まれることはなくなった。しかしマルクスの言葉ではないが、鼠のかじるにまかせておくのはもったいない人だ。彼の思考のスタイルには鋭い批判意識が込められているので、その方法を見習うだけでも意味があると言える。

高島俊男は中国文学者であるが、その中国文学と日本語との関係をユニークな眼で見ている。日本語が中国文学の巨大な影響を受けたことは、歴史的・地政学的な見地からして、ある意味必然なことであったが、それは日本語にとって必ずしもいいことばかりではなかった。中国語と日本語とでは、根本的に異なる言語であるのに、その異なる言語を表記するために作られた漢字を、日本語に取り入れたことで、日本語は非常におかしな事態を多数抱えることになった。もし日本人が漢語というものに接していなかったら、日本人は日本語をあらわすために自前の文字を発明したであろうし、しかがって漢語を用いずに抽象的な表現をするようになったであろう。しかしなまじ漢語を便利に使いこなしてしまったために、そういう可能性をつぶしてしまった。そこで日本人はいまだに日本語の表記にあたって不自然をせまられているばかりか、外国語である漢字を後生大事にしていることは滑稽でさえある。そのように主張している。

フランツ・カフカという作家は、世界の文学史の常識を覆すような作品を書いたわけだし、また人間としてもユニークな生き方をしたので、非常に影のある存在だと受け取られている。そんなこともあって、カフカを論じる視点は多様でありうる。といっても、星ほど多くのカフカ論というものがあるわけではない。偉大な作家と呼ばれるにしては、彼を論じたものは、意外と少ないのだ。しかも、その視点はかなり限られている。カフカのテクストに沿って、作品を内在的に解釈しようとするものか、あるいはカフカの生き方に焦点を当てて、カフカの小説の独特さは、彼の生き方の独特さを反映しているとするものか、そのどちらかと言ってよい。

ボルヘスの「カフカの先駆者たち」は、文庫本にしてわずか五ページの小文であるが、カフカという作家の意義をよく捉えた名文になっている。さすがに文章の達人ボルヘスだ。

ジル・ドルーズとフェリックス・ガタリの共著「カフカ」は、次のような文章から始まっている。「カフカの作品は一本の根茎であり、ひとつの巣穴」である(「カフカ」宇波彰、岩田行一訳)。

アルトゥールとイェレミーアスは、「城」からKの助手として派遣されたものだ。彼らは小説の最初の部分から登場する。そしてなにくれとなくKに付きまとい、Kの行動に一定の色を添えた後、突然小説の進行から脱落する。彼らをわずらわしく思ったKが追い払ったということになっているが、実際は彼らのほうでもKにうんざりしていたのだ。

オルガとアマーリアの姉妹に接近したことで、Kはフリーダの怒りを買うことになるのだが、彼が彼女たちに接近したのは、彼女らに会うためではなかった。Kは彼女らの弟であるバルナバスに会うために彼女らの家に行ったのである。というのも、バルナバスはクラムからの手紙をKに送り届けた人間であって、そのクラムと会うための手がかりを一番持っているはずの人物として、Kには見えたからだった。そこでバルナバスの家、つまりオルガとアマーリアの住んでいる家に出かけていったわけだが、そこでKは思いがけない話をオルガから聞かされる。

カフカの小説に出てくる女性には、一定の共通パターンがある。どの女性も、主人公にとってゆきずりの関係にある。複数の女性たちが出てくる中で、群を抜いて重要な役割を演じる女性はいるにはいるが、それらの女性にしても、最後まで主人公と運命を共にしない。だいたいが途中でいなくなってしまうのだ。それもかなり唐突な感じで。「アメリカ」の場合には、主人公の保護者を買って出たホテルの年長の女性がそうだし、「審判」の場合には弁護士の看護婦を勤めているレーニがそうだった。「城」の場合には、フリーダがそれにあたる。フリーだがいなくなった後はベーピーがその穴を埋めるように登場するが、これも主人公にとっては決定的な意味を持つ女性にはなりえず、いつの間にか消えてゆく運命にあるように思われる。唯一の例外は「変身」の妹だが、これはたまたま同胞としての役柄なのであって、かならずしも女性である必然的な理由はないように思われる。こんなわけでカフカの女性たちは、主人公の運命にとっては、ゆきずりの非本質的な役割にとどまっているように見えるのだが、しかしもし彼女らが存在しなかったとしたら、小説はかなり味気ないものになっただろう。その意味では、小説に一定の効果を及ぼしてはいる。もっとも、効果のない人物像など、すぐれた小説に入り込むよりはない、といってよいのだが。

「城」は普通には、未完成の作品と受け止められている。形式的にはそのように見える。主人公Kと旅館紳士荘のおかみとの会話の途中で中断してしまうし、話の流れからしても、とても完結しているようには見えない。しかしよくよく考えれば、この奇妙な話にまともな終り方があるだろうか。そもそもこの小説は、なにかまとまりのある筋書きからできているわけではない。たしかに、主人公には個人的な目的があり、とりあえずはその目的をめぐって小説が展開してゆくのであるが、そのうちに主人公自身が自分の目的を見失ってしまうようなところがある。主人公が、自分の行為について明確なイメージを持っていなければ、小説を読んでいる者にはなおさら、なにがそこで問題となっているのか見えてこない。ところが小説というものは、昔から多かれ少なかれ、問題なしでは進まなかったものなのだ。

「審判」の第九章は、「聖堂にて」というサブタイトルで、ヨーゼフ・Kが聖堂の中で若い聖職者と交わす会話が中心になっている。この章に続く章が最終章であり、そこでいきなりKが死刑執行人に連行され、野原の片隅で刑を執行され、「犬のように」死んでゆくわけであるから、この第九章は、色々な意味で、「審判」という作品を解釈する上での手がかりを秘めているといえる。その手がかりをどのように引き出すかは、読者次第なのであるが。

筆者は先に、「審判」でカフカが描いたのは、同時代のヨーロッパに現われた息苦しい官僚制社会ではないかと言った。もしこの小説が、「変身」と同じように、主人公の身に起こったごく個人的な出来事を描いただけならば、多くの批評家たちが口を揃えて言うように、気味の悪い不条理小説ということになるのだろうが、この小説の中で不条理な目に会っているのは、主人公だけではない。主題化され前景化してはいないけれど、他に夥しい数の人々が、主人公のヨーゼフ・Kと全く同じ境遇に陥っている。しかも彼らには、彼らを訴追したものがある。それは当面は裁判所ということになっているが、要するに官僚制という形をとった権力機構である。その権力機構が、国民の一人ひとりを、大した根拠もなく抑圧する、そういう基本的な構図が、この小説からは読み取れる。そうした抑圧の支配する社会は、ディストピアと言ってもよいから、この小説はディストピアとしての官僚制社会の恐ろしさを描いたものだ、と言えるわけである。

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