読書の余韻

「非ユダヤ的ユダヤ人」は、アイザック・ドイッチャーがユダヤ人問題について発表した論文及び講演草稿を、妻のタマラが夫の死後刊行したものである。彼女は序文に加えて、夫の簡単な伝記を寄せている。夫のドイッチャー自身、自伝を書こうとして果たせなかったので、彼女がかわってそれを果たしたというわけである。その夫のドイッチャーを妻の彼女は、ユダヤ人であることに徹底的にこだわったユダヤ人だったといっている。何しろポーランドのゲットーで生まれ、十三歳でラビとなり、東欧社会の野蛮なポグロムを何度も体験し、敬愛する父親をアウシュヴィッツで殺されたのであるから、ユダヤ人であることに自覚的になるのは当然のことだった。だが彼が自分を何よりもユダヤ人としてアイデンティファイしたことは、偏狭なナショナリストになることではなかった。逆にかれほど、ナショナリズムに無縁なインタナショナリストはいなかった、とタマラはいうのである。

アイザック・ドイチャーが「ロシア革命五十年」と題した講演をしたのは1967年のこと。その年にかれは死んでいるから、いわば遺言のようなものだ。終生マルクス主義者として革命の理念に忠実だったかれに相応しく、ロシア革命の歴史的な意義について、革命五十周年という記念すべき時にあたって、自分なりの評価を下したものだ。その評価の基準は、一方ではスターリニズムを厳しく批判しながら、社会主義革命そのものの可能性を信じるというものである。かれがスターリニズムを批判するのは、それが一国社会主義の方針に基づいていたために、狭隘な条件に制約され、社会主義本来の姿とは異なってしまったという理由からである。本来の社会主義は、資本主義の高度な発展を踏まえ、国際的な規模でおこらねばならない、そう考えたわけだが、その考えをかれはとりあえずトロツキーから受け継いでおり、その点ではトロツキストとみなされ、また自分自身そのことを認めていた。

アイザック・ドイッチャーは、E.H.カーと並んで、ロシア革命研究の第一人者である。もっともロシア革命は、結果として失敗に終わったというのが、いまの歴史学界隈の標準的な見方であるから、彼らのロシア革命の研究にはたいした意義は認められなくなったしまった。いうならば、彼らの研究は、無駄な努力に終わった、と片づけられがちというのが、落ちというところだろう。だからといって、彼らの業績を根こそぎ否定していいということにはなるまい。たしかにロシア革命そのものは、社会主義革命としては失敗に終わったといってよいが、そのことを以て、社会主義革命そのものを否定する理由にはならない。そういう評価をするためには、ロシア革命が、社会主義革命の、考えられる限りでの、唯一の可能性を代表していたといわねばならないが、それは言い過ぎだろう。社会主義は、資本主義の矛盾を解決するためのシステムとしての意義を持っている。そういう意味での社会主義のモデルは、決して意義を失ってはいないのである。

園田茂人の著作「不平等国家中国」(中公新書)は現代の中国社会を、データに基づいて実証的に分析している。その結果園田が得た印象は、ずばりタイトルにある通り、不平等が拡大する国が中国だということだ。中国といえば、普通には「社会主義国家」とイメージされており、社会主義国家とは不平等の解消をなによりも優先する社会だと思われてきたから、その社会主義を国是とする中国で、格差が拡大し、その結果不平等国家となってしまったのは、なんとも皮肉なことである、というのが園田の率直な感想であるようだ。中国がそんな国になってしまったのは、副題にもあるとおり、社会主義を自己否定したためだ。社会主義を自己否定して、資本の原理を導入したために、しかもその導入が中途半端だったために、副作用も大きかった。その副作用が、格差が拡大する不平等国家中国をもたらした、と園田は考えているようである。

「幼年時代によって魅惑されているある種の人々がいる。幼年時代が取り憑き、特権的なさまざまな可能性の次元において、彼らを魔法にかけたままにしておくのだ」。これは、メルロ=ポンティの著作「シーニュ」の序文(海老坂武訳」の一節だが、この文章を読んで小生が想起したのは加藤周一だった。加藤は「羊の歌」と題する回想記を残しているが、それを読むと、かれが幼年時代に取り憑かれた人だったという印象を強く受ける。

加藤周一はサルトルを高く評価していた。サルトルについて、色々と語っている。その加藤のサルトル評価のありようを「サルトル論」といわず「サルトル観」というのは、加藤がサルトルを語る場合、サルトルの思想を問題にしているのではなく、その生き方を問題にしているからだ。サルトルは「考える人」であると同時に「心温かき人」であった。世の中にはそのどちらかの素質を備えた人はいても、両者を兼ね備えた人はなかなかいない。サルトルはそうした稀有な人なのだと加藤は言って、サルトルの生き方を高く評価するのである。だから加藤のサルトル観は、「考える人」の面よりも「心温かき人」の面により重心を置いている。サルトルはただの思想家ではなかったというわけである。

アラゴンやエリュアールらフランスの詩人たちが、愛国感情をナチスとの抵抗とそれを通じた人間の解放と結びつけたのに対して、ドイツはそもそもナチスを生んだ国ということもあり、詩人の抵抗ということはほとんど問題にならなかったし、したがって抵抗と人間性の解放とが結びつくこともなかった。ナチス時代に、ドイツ国内でナチスに公然と抵抗した詩人や作家はいなかったといってよい。トーマス・マンをはじめとして、ナチスに批判的な目を向けていた作家はとっとと海外に移住した。そして海外から冷ややかな目でドイツを眺め、ナチスが敗北したあとドイツに戻ってきて、あたかも自分たちがドイツ精神を代表するかのようにふるまった。マンなどは、ドイツ民族が国家を持つとろくなことにはならないから、ユダヤ人のように国家を放棄し、ディアスポラの生き方をしたほうがよいとまで言ったくらいである。

加藤周一は、ナチス占領下のフランスのレジスタンス運動を象徴する詩人たちを高く評価する。とくにアラゴンとエリュアールを。この二人ともシュル・レアリストだった詩人であり、現実を超越するところに人間の価値を認めていた。ところが、フランスがナチスに占領され、フランス人の誇りが傷つけられるという現実に直面して、俄然リアリストになった。現実を正しく認識するためには、リアリストの目が必要だからだ。彼らの直面した現実とは、祖国フランスのみじめな状況だった。そこでかれらはそのみじめな状況を乗り越えて、誇らしく生きることを望んだ。その怒りと祖国への愛が、彼らのレジスタンス期の詩人としての活動を推し進めたと加藤は言うのである。彼の小論「途絶えざる歌」は、そんな彼らへのオマージュになっている。

加藤周一の論文「科学と文学」は、文字どおり「科学と文学」の関係を、「知る」、「感じる」、「信じる」という人間の三つの能力と関連させながら論じたものだ。かならずしも厳密な議論とは言えず、啓蒙的な狙いをもった文章である。その中で加藤は、科学と技術、技術と社会、社会と文学といった、いくつかの対立軸についてざらっとした見取り図を提示している。その見取り図には新奇なものは見当たらないが、一つ面白いのは、それらに関連させて彼が独自のマルクス観を語っている部分だ。

加藤周一は日本の戦後文学を1945年から1975年までの30年間に設定している。その時期の前半は経済復興期にあたり文学も活発だった、後半は経済的な繁栄がもたらされた時代だが、文学は独創的な活気を失った、と加藤はいう。この時期全体を通じていえることは、アメリカの圧倒的な影響である。その影響は政治・経済・軍事・情報・学問・大衆文化の、ほとんどあらゆる領域にわたる。「これほど広範な領域で、日本国が特定の外国へ依存したことは、一九四五年以前にはなかった」。

加藤周一は谷崎潤一郎を永井荷風と比較しながら論じている。この二人は個人的にも仲が良く、似ているところもあった。日本の伝統文化に対する嗜好、そして女性を愛することである。だが二人の女性の愛し方には微妙な違いがあり、また、二人が好んだ日本の伝統文化もそれぞれ違ったものだった。荷風は、谷崎の言い分を借りていえば、「女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風があった」が、谷崎自身は「女を自分より上のものとして見る。自分のほうから女を仰ぎ見る。それに値する女でなければ女とは思はない」と言うのである。これは女に対する態度の対照的なものとはいえるが、しかし女をひたすら愛する点では、相違はないともいえる。その二人の姿勢を川端康成と比較すれば、いっそうあきらかである。川端には女をいつくしむ姿勢が見られないのに対して、この二人は、多少ベクトルの角度の違いはあっても、同じ方向を向いていたのである。

幸徳秋水は中江兆民の弟子であり、兆民の自由民権を受け継ぐ形でキャリアを開始した。最初の頃は、フランス流の啓蒙思想を主張していたが、次第に社会主義思想を抱くようになり、最後には無政府主義者になった。幸徳秋水が権力ににらまれて殺されたのは、過激な直接行動主義的な無政府主義のためだった。当時の政府権力は、国家の改造を目的とする社会主義よりも、国家そのものの廃絶を目指す無政府主義のほうを脅威と感じたらしい。その幸徳秋水について、加藤周一は主にその社会主義思想について論じている。

明治時代になって文学の世界にも西洋の影響が及んできたとき、日本人はそれを日本風の独特のやり方で受け入れ、独特の文学を作り上げた。それを一言でいえば自然主義文学の流行である。自然主義文学といっても、ゾラに代表されるような、科学的な方法意識に基づいたものではなかった。科学とは全く縁がなく、ただひたすら作家自身の日常の体験、それもどうでもいいような些事にこだわった小説を書いた。こういう小説は、作家の私生活に題材をとっているということで、私小説と呼ばれた。なぜ明治の日本に私小説の文化が生まれたのか、それには理由があると加藤は言う。日本には、平安時代の女房文学以来の私小説的な伝統があった。その伝統が西洋文学に触れた時、新しい衣装をまとった明治の私小説世界が出来上がったというのである。

加藤周一は中江兆民を、福沢諭吉と比較しながら論じている。この二人には共通点があり、また、著しい相違点もあるので、比較するには格好の材料なのであろう。まず、共通点。二人とも日本人としていち早く外国体験をし、その体験にもとづいて、「西洋近代の政治的社会的価値を、文化の相違を超えて普遍的なものとみなし、その立場から日本社会の具体的な問題に接近して生涯を通じ後退しなかったことだろう」と加藤は言う。

吉田松陰といえば、明治維新の指導原理としての尊王攘夷のイデオローグであり、また、日本の行方を憂えた英雄的な指導者というイメージが支配的になっている。それにはおそらく、彼の弟子たちが、自分らの権威を高揚する意味で、師匠の松陰を神格化したという事情も働いたのであろう。もし長州藩が権力を握ることに失敗していたならば、松陰はただのテロリストとして、歴史の表舞台からは排除されていたであろう。

大塩平八郎は、とかく孤立した思想家であり、かれの企てた反乱は無謀な暴発のように考えられている。かれの独特な世界観つまり陽明学的な思想がかれを駆り立て、反乱を起こさせるにいたったというのが、普通の見方であろう。じっさい、大塩の行動は衝動的であり、社会的な背景とはあまりつながりを持たなかったというのが、大方の見方であった。森鴎外の小説「大塩平八郎」は、そうした見方から書かれたものである。鴎外描く大塩中斎は、己の信念に従って行動する、基本的には孤独な人間であり、その信念の内実は、言ってみれば男の意地であった。晩年の鴎外は、男の意地をテーマにした小説を書き続けたのであったが、「大塩平八郎」もまたその一つの試みだったといえる。

本居宣長と上田秋成の共通項は国学だと加藤周一は言う。もっともかれらの国学へのかかわりには大きな相違がある。宣長は大勢の弟子を抱えて学閥を作り上げ、その国学の体系的な叙述は後世に大きな影響を与えた。なにしろ彼の下手な歌が、国威発揚のために利用されたくらいだ(敷島の大和心の歌)。それに対して秋成のほうは、狷介孤独で弟子を持たなかった。後世への思想的な影響力はゼロに近い。それでもこの二人に共通点を指摘できるのは、二人とも、時の武士社会のイデオロギーを否定し、日本古来の土着の文化を大事にしたからである。宣長の大げさな日本礼賛はよく知られているが、秋成もそうした日本土着の文化に親近感を抱いていたというのである。

富永仲基と安藤昌益を、加藤周一は日本の思想の歴史において極めてユニークな存在だったと評価している。この二人はともに、徳川時代の前期、18世紀の前半に活躍した。安藤昌益のほうは明治時代になって始めて広く紹介されるようになったのであり、それ以前には無名に近かった。だから同時代はともかく、徳川時代を通じて周囲に影響を及ぼすことはなかった。それに比べて富永仲基のほうは、本居宣長や平田篤胤によって高く評価されたものの、これも影響は小範囲にとどまった。しかし、そうした影響力の強弱は別にして、かれらのようなラジカルな思想家が生まれたということ自体が、日本の思想史にとって画期的なことだったと加藤は言うのである。

徳川時代を通じて日本文学の中心的担い手は武士であり、その武士の社会から文人文化というべきものが育っていった。文人は、かならずしも武士のみにとどまらず、じっさい徳川時代の半ば以降は、庶民層の出身者が多く参加したのであるが、そのエートスには武士の気質が大きくかかわっていたといえる。武士のエートスというのは、儒学とりわけ宋学の精神を中核とするものであるが、そうした精神を庶民層が受け入れていくことで、町人の間から文人文化の担い手が出てきたり、石田梅岩の心学が育ってきたりしたわけである。

新井白石と荻生徂徠はほぼ同時代人であって、政権の中枢と近い関係をもったことでも共通するので、とかく比較されやすい。この二人のうち、丸山真男は徂徠を高く評価し、加藤周一は白石を取り上げることが多かった。といっても、白石を徂徠の上に置くわけではない。加藤は白石の実証的な姿勢を高く評価するのであるが、徂徠にもそうした実証的な傾向はある。学問としてのレベルにおいては、この二人はおそらく優劣つけがたいというのが加藤の本音だったと思われる。加藤が白石のほうにより強いこだわりを見せるのは、白石の思想とか業績といったことよりも、その人間性にひかれたからではないか。人間性という点では、徂徠には非常に意固地なところがある(伊藤仁斎に対する意趣返しはその典型である)。

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