2021年8月アーカイブ

アメリカが、ISのテロで米兵が死んだことへの報復と称して空爆を行い、幼い子供を含む多数の民間人がそれに巻き込まれて死んだ。死んだ人には何の罪もない。アメリカはこうした殺害行為について、責任を取ろうとしていない。一応遺憾の意は表しているが、謝罪も保証もしないだろうことは、これまでのアメリカの姿勢から十分予想される。アメリカには、自分のしていることは絶対に正しいという自信というか思い込みがあるからだ。アメリカはアメリカの正義に基づいて行動する。その正義の前では、アフガン人の命など芥子粒ほどの重みもないということだろう。

tetu1890.1.hakui.jpg

富岡鉄斎は、明治十九年(1886)に京都青年絵画研究会展覧会の学士審査員となり、また明治二十三年(1890)には京都美術教会委員となった。だが画家としての名声というよりは、文人としての評判が評価されたらしい。明治二十三年の春から夏にかけては、息子謙蔵を伴って、東京、鎌倉、甲府などに旅している。

吉田裕著「日本人の戦争観」(岩波現代文庫)は、アジア太平洋戦争(吉田は十五年戦争という)についての、戦後の日本人の見方を分析したものである。その見方を大雑把にいうと、20世紀から21世紀への世紀の変わり目にかけて、大きな変化があるという。この時代になると、戦争を知らない世代が多数派になり、戦争を感覚的に忌避する人々の割合が少なくなったという事情を背景に、いわゆる歴史修正主義が大きなうねりとなってきた。それまでの日本人は、あの戦争を正面から肯定したり賛美したりしたことは、基本的にはなかった、ところが、あの戦争はアジア解放のための戦争だと言いつのったり、日本がアジア諸国に与えたさまざまな損害について否定したり、日本にとって都合のいい再解釈がなされるようになった。これは、根拠のないことではない、というのが吉田の見立てのようだ。日本人の間には、あの戦争を忌避する一方、日本の責任を認めたくないという思いもあったが、それを表立って言ったことはなかった。国際社会を慮ってのことだ。ところが、世紀の変わり目にいたって、そういう配慮を不要とする意見が強くなった。それが歴史修正主義の台頭をもたらしたというわけである。

3millet48.2.kyusoku.JPG

「箕をふるう人」の成功によって、ミレーは政府から注文を受けた。提出した作品は「刈り入れ人たちの休息(Le Repos des faneurs)」と題した作品である。

空海と最澄

| コメント(0)
空海と最澄は同時代人であり、それぞれ真言・天台という平安仏教の創始者ということもあって、よく対比される。しかも二人はともに遣唐使に同行して唐に留学し、密教を学んでいる。宗教的にも似たところがある。最澄のほうが七歳年長ということもあり、この二人を対比するときには最澄と空海という具合に最澄を前に置くのが普通だが、ここでは空海の真言密教をテーマにしているので、空海を前に置いた次第だ。

georgia09.viniard1.JPG

2017年のグルジア映画「葡萄畑に帰ろう」は、難民迫害をコメディタッチで描いた作品。折からアメリカではトランプが大統領になって、露骨な難民迫害を始めていた時期なので、この映画はそれを批判したものと受け取れぬこともない。もっともトランプの難民迫害が、トランプの人格を反映して、非人道的で仮借ないものだったのに対して、この映画の中の難民迫害には、やや人間らしさを感じさせるところはある。

tetu1882.1.tuten.jpg

富岡鉄斎は、明治九年(1876)に和泉の大鳥神社の大宮司に任命され、その復興に尽力した。荒廃した神社の復興には多額の費用が必要だったので、鉄斎はその足しにしようとして絵を売るようになった。

小説「OUT」のクライマックスは、主人公の雅子が宿敵佐竹と壮絶な戦いを繰り広げ、勝ち残るところを描く。勝ち残ったことで彼女を待っていたのは、しかし、深刻な喪失感だった。猛獣に追われる小動物のように、必死になって逃げたあげく、ついにつかまって食われようかというところで、奇跡のような逆転を演じて生き残ったのだから、充実感とは言わないまでも、安堵感くらいは得てしかるべきなのに、かえって喪失感を覚える。それはなぜなのか。そこがこの小説のミステリアスなところだ。

バイデンのばかげたアフガン対策のあおりをくって、アフガン国内に取り残された人々の救出が国際的な課題となっている。各国とも、自国民のほかアフガン人協力者をアフガンから退避させる取り組みをしている。日本も自衛隊を緊急派遣して、邦人及びアフガン人協力者を退避させるミッションを与えたが、自衛隊が退避させることに成功したのは、たった一人の日本人だけだ。菅政権は、たとえ一人といえども、救出したのは成果だと強弁しているようだが、たった一人では、数百人いると言われる退避対象者にくらべ、全く仕事ができていないのと同様だ。自衛隊はいったい何をしていたのか。これでは子供の使いと言われても返す言葉がないだろう。

3millet48.1.mi.jpg

1848年のサロンにミレーは、「箕をふるう人」と「バビロン捕囚」の二点を出展した。このうち、堂々たる歴史画の大作「バビロン捕囚」の評判は悪かったが、「箕をふるう人(Un vanneur)」は大好評だった。テオフィル・ゴーティエは次のように言って、絶賛した。「色彩は堂々としたもので、赤い布を頭にかぶるが、それとぼろ着の青の対比が面白く、なかなか手慣れている。空中に舞う穀物の描写は極めて素晴らしく、この絵を見てくしゃみをする人もいるかもしれない」

georgia08.dance1.JPG

2019年公開の映画「ダンサー そして私たちは踊った」は、グルジア系スウェーデン人レバン・アキンの作品である。一応、スウェーデン・グルジア・フランスの共同制作ということになっている。テーマは同性愛に目覚める若い男の心の揺らぎ。それにグルジアの民族舞踏とかグルジア的な人間関係のあり方を絡ませてある。

存在と無をめぐるベルグソンの議論は、西洋哲学の伝統からかなり離れている。西洋哲学の伝統においては、この議論は、なぜ無ではなくて有なのかとか、無は存在の否定だとかいった形でなされてきたが、それらの議論に共通しているのは、存在と無を対立させる考えに立っていることである。無は非存在とされ、存在と鋭く対立させられる。無は存在の欠如なのである。こうした考え方を、ベルグソンはナンセンスだという。無は存在の欠如なのではない。存在の一つのあり方あるいは側面なのだとするのである。だからベルグソンは存在と無の二元論を排斥する。世界は存在によって充たされている、と捉えるわけである。

georgia07.bonjour4.JPG

グルジア人の映画作家オタール・イオセリアーニにはファンタスティックな傾向があって、「セリーヌとジュリーは船でゆく」などはそうした傾向を強く感じさせたものだ。2015年にフランスで作った「皆さま、ごきげんよう(Chant d'hiver)」は、そうしたファンタスティックな傾向が極端に現われた作品である。

「歴史的ブロック」は、グラムシの思想におけるもっとも重要な概念の一つである。グラムシはそれをマルクスの「下部構造ー上部構造」の議論から導き出した。マルクスの議論は、ごく単純化して言えば、下部構造としての経済システム(生産力と生産関係の統合)が社会の土台・基盤であって、その上に、法的・政治的・文化的なシステムが上部構造として乗っているというものだ。その関係は、一方通行的なもので、下部構造が上部構造を規定し、上部構造のほうは下部構造の単なる反映に過ぎないとするものだ。無論、具体的な議論はそんなに単純なものではなく、マルクスといえども、政治的な意思が歴史を動かす力を持つことを認めているのであるが、その場合にも、そうした上部構造に属する事柄は、基本的には下部構造が設定した枠組みのなかに限定されると考える。

tetu1876.1.gyorajy.jpg

富岡鉄斎の人物の描き方はユニークである。写実にはこだわらず、人物の表情の特徴を誇張するような描き方で、かなりデフォルメされている。そういうところが、鉄斎の絵がとくに西洋人から高く評価される理由だろう。鉄斎はそうした描き方を、若い頃から親しんだ大津絵などから学んだようだ。

小林英夫の著作「日本軍政下のアジア」(岩波新書)は、アジア太平洋戦争中における日本の占領地政策をテーマにしたものである。「軍政」という言葉が使われている通り、占領地に対する統治政策は現地日本軍による直接統治あるいはそれに近い形をとった。統治の範囲はきわめて広範囲にわたるが、この著作がカバーしているのは、「『大東亜共栄圏』と軍票」という副題にあるとおり、軍票を核にした経済政策が中心である。宗教・文化・教育の分野で遂行されたいわゆる「皇民化」政策は取り上げられていない。

3millet47.edip.jpg

1845年、ミレーは故郷グレヴィルの農家の娘カトリーヌ・ルメールと事実上の結婚生活に入った。結婚にはミレーの父親が反対した。理由は家柄の相違だった。ミレーの家も農家だったとはいえ、古い家柄を誇り、先祖には出世した人物もいた。正式に結婚できたのは1853年である。

密教は、大日如来の教えを説いたものといわれる。その教えをあらわしたのが曼荼羅であるが、曼荼羅は視覚的イメージだ。大日如来の教えは、主として大日経と金剛頂経に説かれているが、それらは言葉を媒介にした教えである。ところが大日如来の教えは、言葉だけではその全体をつかむことが出来ない。言葉はあくまでも理知的なものである。大日如来の教えには、理知の枠をはみ出す部分もある。そうした部分を含んだ教えの全体像をつかむには、シンボルを通じて接近するしかない。そのシンボルとなるのが曼荼羅なのである。

かつてマルクスは「ヨーロッパを妖怪が徘徊している」と語ったが、今の日本を徘徊しているのはボケ老人たちである。このボケ老人たちは、ただに日本を徘徊するだけでなく、日本を牛耳っている。ボケ老人が日本を牛耳るとどういうことになるか。

georgia06.manda2.JPG

2013年製作のグルジア・エストニア合作映画「みかんの丘」は、翌年製作されたグルジア映画「とうもろこしの島」とよく比較される。どちらも、アブハジアをめぐるアブハズ人とグルジア人の扮装をテーマにしており、人間同士の殺し合いを強く批判するメッセージが込められている。

アフガニスタンでの混乱の報道に日々接して、バイデン政権のだらしなさを実感しているのは小生だけではあるまい。アフガニスタンからの撤退方針そのものには一定の合理的理由があったと思うが、しかしやり方がでたらめだ。情勢判断が全くできていないためだ。自分勝手な思い込みだけで、相手側のことを何も考えていないから、タリバンに簡単にしてやられたというわけだ。

tetu1869.ekkei.jpg

富岡鉄斎が本格的に絵を描き始めたのは29歳の頃からだ。画家としては遅いスタートだが、鉄斎自身は自分を画家とは思っていなかった。自分はあくまでも文人なのであって、絵は文人としての余技と思っていた。それでも結構の量を描き、いまでも若い頃の作品が多く残っている。だが、それらには素人らしい未熟さが見られる。鉄斎は、長生きしており、晩年まで創作意欲が衰えなかった。かえって晩年に及ぶほど優れた作品が多い。

桐野夏生は、高樹のぶ子と並んで、現代日本の作家としてはもっとも多くの読者をもっているそうだ。高樹は女性の官能を描くのが得意で、小生も若い頃に一時期のめりこんだことがある。桐野の作品を読んだことはなかったが、こちらは女流ハードボイルドとも呼ぶべき派手な作風だという評判である。

3millet45.antoine.jpg

ジャン・フランソア・ミレー(1814-1875)は、ノルマンディー半島の先端にある村グレヴィルに、農家の長男として生まれた。父親には絵心があったといわれ、その影響もあって、19歳のときにシェルブールに出て本格的に絵の勉強を始めた。若いころのミレーは、泣かず飛ばずだったようだ。それでも1840年には、肖像画一点がサロンに入選している。以後数年間は、肖像画家として、シェルブールを拠点に活動した。

georgia05.corn2.JPG

2017年の映画「とうもろこしの島」は、グルジア人によるグルジア映画であるが、グルジア人ではなく、アブハズ人の暮らしを描いている。アブハズ人は、グルジア国内の少数民族で、多数派のグルジア人とはたびたび紛争を起してきた。この映画は、そうした紛争を背景に、厳しい境遇を生きるアブハズ人の老人とその孫娘との懸命に生きる姿を描いている。実に感動的な映画である。

ベルグソンが「時間と自由(意識の直接与件)」を書いたとき、意識はとりあえず人間を前提としていた。ベルグソンには唯心論的な傾向があるから、精神的な原理が世界を基礎付ける可能性は大きかったわけだが、「時間と自由」の段階では、精神的な原理の担い手としての意識は、人間の精神に極限されていたのである。ところが、「創造的進化」を書くに至り、ベルグソンは意識を、人間に局限されたものではなく、世界全体の生成を基礎付けるものとして捉えなおした。意識はもはや人間の内部に閉じ込められてはおらず、世界全体の生成原理に高められたのである。

georgia04.zange1.JPG

1988年のグルジア映画「懺悔」は、ある種のディストピアをテーマにした作品である。そのディストピアは、どうやらスターリン時代のグルジアらしい。スターリンは大規模な粛清を行ったわけだが、その実態は、あまり明らかになっていない。この映画は、グルジアでは、地方自治体の幹部がスターリンの意を戴して粛清を行ったというふうに伝わってくるように作られている。

日本でグラムシの著作といえば、1960年代初頭に合同出版社から刊行された「グラムシ選集」が初の本格的なテクストだったが、一般の読者向けには、1964年に青木文庫から出された「現代の君主」がもっともポピュラーなものとなった。小生なども学生時代に読んだものである。これは、グラムシ自身の編集になるものではなく、日本のグラムシ研究者のグループが、グラムシの「獄中ノート」から政治にかかわる部分を抜粋して一冊にまとめたものである。その研究者のグループとは、石堂清倫をはじめ五人からなり、「東京グラムシ研究会」といった。その一人であった上村忠男が、1994年に青木文庫から再版を出した。再版にあたっては、訳語の変更はじめかなりな手直しをしたそうである。その再版本が今日ちくま学芸文庫から出ている。だから今日グラムシに関心のある人は、まずこのちくま学芸文庫版の「現代の君主」からとりかかるのがよいだろうと思う。

Tomioka_Tessai.jpg

富岡鉄斎は、最後の文人画家と呼ばれる。もっとも本人には画家としての自覚は薄く、画は文人の余技と考えていた。とはいえ、生涯に残した作品は、スケッチ類や下絵を含めると一万点を超える。人から請われると、気さくに応じて描いて与えたというから、そんな膨大な数になったのだろう。その点では、やはり求めに応じて膨大な作品を残した白隠和尚に似ている。

吉田裕はもともと近代日本の軍事史を専攻していたそうだ。軍事史の視点から日本の近代史を読み解くというものだろう。この「日本の軍隊」と題した本(岩波新書)は、そんな吉田の会心作と言ってよいのではないか。というのも、日本の近代史を軍事的な視点から描き出した本は意外と少ないからだ。この本はそんな状況に一石を投じたものと言ってよい。

2rousseau51.bois.jpg

ルソーは1837年から47年までサロンから締め出された。サロンが保守化の傾向を強め、ルソーのような革新的な画風を受け入れなかったからだといわれる。ルソーはまた、進歩主義的な意見をもっていたので、その点もサロンの気に入らなかったようだ。

角川書店版「仏教の思想シリーズ⑨」は、「生命の海<空海>」と題して空海を取り上げながら、空海が完成させた密教について考察している。例によって仏教学者と哲学研究者のコラボレーションである。仏教学者としては真言密教の専門家宮坂宥勝、哲学研究者は梅原猛。二人はともに、空海と真言密教の復権に熱心である。というのも、真言密教は明治以降勢力が弱まり、空海のほうは宗教者として尊重されなくなった風潮を嘆きながら、じつは空海は日本の思想史上もっとも偉大な人物といえるのであり、その空海が集大成した真言密教は仏教の究極的な姿を現しているのであり、したがって仏教を問題にする場合には、空海と真言密教は軽視することができないと考えるからである。

georgia03.lundi4.JPG

2002年の映画「月曜日に乾杯!(Lundi matin)」は、グルジア人であるオタール・イオセリアーニがフランスで作った作品である。プロデューサーはフランス人たちであり、主演俳優もフランス人だが、映画そのものの雰囲気はあまりフランス的ではない。なんとなく東方の雰囲気を感じさせる。それには俳優の一部にグルジア人が加わっていたり、バックミュージックに東方的な雰囲気があるからかもしれない。

soga31.1.jpg

無頼といわれ、狂人と呼ばれた蕭白が、狂女を描いた作品がこの「美人図」。この女が狂っていることは、うつろな目、手紙を銜えた口、泥だらけの素足などから読み取れる。

桐野夏生は、現代日本の作家としては、もっとも多くの読者を持つ人気作家だそうだ。かつての松本清張を、今の日本でしかも女性という形で再現したというようなイメージだ。清張はハードボイルドなタッチで、社会的な視線を強く感じさせるミステリー作品を数多く書いた。桐野の場合も、やはりハードボイルドなイメージが強く、しかも社会的な視点もある。その社会的な視線は、単に社会の一隅での矛盾に向けられるのではなく、トータルとしての日本社会に向けられる。だから桐野の作品は実に迫力がある。桐野の作品に出てくる主人公たちは、単身で日本全体を相手に戦っているという壮絶なイメージに彩られている。世界の文学史上においても、そうした壮絶さは稀有なのではないか。

2rousseau33.1.granville.jpg

テオドール・ルソーはコローより16歳も年下だが、非常に早熟で、コローより早く注目された。1931年には、若干19歳にしてサロンに出展している。当時ロマン派の有力画家だったユエは、ルソーの絵の新しさをロマン主義の模範と褒めたのだったが、それは野外での写生にもとづくフレッシュな画面を、ロマン派の技法と同じものと考えたからだった。しかしルソーには、ロマン主義者としての自覚はなかった。

georgia02.vache3.JPG

オタール・イオセリアーニはグルジア人だが、色々な事情があって、グルジアで映画を作ることがむつかしくなり、フランスで映画作りをするようになった。1999年の映画「素敵な歌と舟はゆく(Adieu, plancher des vaches!)」は、フランスで作った作品であり、パリを舞台に、フランス人たちの生き方を描いている。

小生は先日、深刻化するコロナ禍のなかで「命を守る行動はただひとつ、菅政権を退場させること」と主張したところだが、その菅政権が相変わらず居座っている間に、事態はますます深刻化し、パニックの状況を呈している。専門家たちはこの状況を医療崩壊と認め、もはや制御不能であって、公的にできることには期待せず、国民一人一人が「自分で身を守る段階」だと結論付けた。要するに今の政権には打つ手がないということらしい。

進化論を哲学のテーマとして取り上げたのはベルグソンが最初であり、また本格的な哲学的進化論としては、最後の人でもあった。ベルグソンの進化論への関心は、哲学的処女作ともいえる「時間と自由(意識の直接与件)」の中で既に表明されていた。「時間と自由」が発表されたのは1888年のことで、ダーウィンが「種の起源」(1859年)を刊行してからまだ30年にもなっていない。その短い期間に、スペンサーによる進化論の俗流化が始まっている。ベルグソンが取り上げた進化論は、そのスペンサー経由のものであった。スペンサーは、ダーウィンの自然選択説を換骨堕胎して、適者生存説をぶち上げたわけだが、ベルグソンはその適者生存説に大きな影響を受けたようである。ベルグソンの思想の特徴は、人間の知性の働きを、生存の便宜性と関連付けることだが、その人間にとっての生存の便宜性こそは、適者生存と深いかかわりを持つのである。

georgia01.train1.JPG

旧ソ連圏のなかで、グルジアは映画作りが盛んなようだ。日本ではかつて、岩波ホールで「グルジア映画祭」が催されたことがある。オタール・イオセアリーニは、グルジア映画を代表する監督としての名声が高い。2010年に作った映画「汽車はふたたび故郷へ」はかれの代表作。かれはフランスで映画を作ることが多いそうだが、この映画も、半分はフランスを舞台にしている。

グラムシは、かつて1960年代を中心に世界的な社会主義運動の高まりに乗った形で大いに読まれたものだったが、いまではほとんど「忘れられた思想家」扱いである。一部の好事家的なマニアの研究対象になっているくらいだ。グラムシがもてはやされたのは、ソ連型社会主義への対抗軸としてであり、西欧先進資本主義国における社会主義の可能性を示したものとしてであった。スターリン批判の本格化によって、ソ連型社会主義の威信が極度に低下し、社会主義全般が強い疑問にさらされたときに、ソ連型とは異なる先進国型社会主義の一つの有力なモデルを提供したことで、グラムシは社会主義思想の有力な論客として迎えられたわけである。しかし、そのソ連型社会主義が、20世紀の末近くに崩壊すると、社会主義をトータルに否定する議論が盛んになり、そうした風潮が強まる中で、グラムシも次第に忘れられていったのである。

soga30.takasaru.jpg

「鷲図屏風」は、東海道の宿場町水口の寺院に伝わってきた作品。猿を捕らえた鷲と、その様子を見つめるもう一羽の鷲を描いている。すさまじい迫力を感じさせる作品である。

吉田裕は、日本近現代史とくに軍事史が専攻だそうだ。軍事史といえば、これまでは旧軍関係者や自衛隊関係者の専売特許だった。それには資料の制約ということもあった。その資料が近年豊富に公開されるようになって、吉田のような純粋な研究者にも事実の詳細な把握が可能になってきた。そういう学問上の背景をもとにして、軍事史研究の立場から、アジア・太平洋戦に日本が負けた理由を明らかにしたのが「日本軍兵士」(中公新書)である。これは日本軍兵士が置かれていた物理的・精神的条件を前提にすれば、日本が負けたのは必然的なことだったことを実証した著作である。

1corot74.1.jpg

「青衣の女(La dame en bleu)」と呼ばれるこの作品は、コローの死の前年1874年に描かれたもの。「真珠の女」や「読書の中断」と並んで、コローの肖像画の傑作である。モデルはエマ・ドビーというプロのモデル。このモデルをコローは気に入って、たびたび雇ったという。

梅原猛は中国浄土論を「仏教のニヒリズムとロマンティシズム」という表題で論じている。ニヒリズムとは浄土教のもつ現世否定の傾向をさし、ロマンティシズムとは浄土への憧れとしてのユートピア思想をさしているようだ。そしてニヒリズムを鳩摩羅什によって代表させ、ロマンティシズムを善導によって代表させている。梅原は中国の浄土宗を、鳩摩羅什によって始められ、善導によって完成されたというふうに整理しているのである。その中国の浄土教が日本に伝わって日本風の浄土宗が生まれたわけだが、梅原は日本の浄土宗についてはあまり触れることはない。

china25.shang3.JPG

2002年の中国映画「上海家族(仮装的感覚)」は、思春期の少女の視線から見た中国人の家族関係を描いた作品。この映画を見ると、現代中国人の家族関係の特徴が、すくなくともその一端は、理解できるのではないか。日本の家族関係と比べると、かなり違ったところがあるように思える。それはおそらく、親族の構成原理が違っているからだろう。エマニュエル・トッドの家族類型論によれば、日本の家族は、長子相続を柱にした権威主義的なものなのに対して、中国の家族は、家父長制を柱とした平等主義的なものだという。その違いがこの映画では浮き上がってくるように見える。

soga29.taikoubo.jpg

曽我蕭白は太公望をモチーフにした作品を幾つか残している。太公望といえば、おっとりとした雰囲気が似合うのだが、この絵の中の太公望は、かなりユニークな印象を振りまいている。脚を組んだ姿勢で船の上に横たわり、釣りには関心がないようだ。だいたい、釣り糸は途中で切断され、用途を果たしていないのだ。

小川洋子は、多和田葉子とほぼ同じ世代で、ともにノーベル賞の候補者に擬せられていることもあって、色々と比較される。基本的に言うと、この二人には、どちらも女性であるということを除けば、ほとんど似たところはない。多和田は大学を卒業するとすぐにドイツに渡り、そこでいわゆるエクソフォニーの生活を送ってきた。エクソフォニーというのは、母国の外に出ている状態をさす言葉で、要するに故郷喪失者のことを言う。故郷喪失者というと聞こえが悪いので、無国籍者あるいはコスモポリタンと言い換えてもよい。21世紀になって、グローバル化が普遍化し、人々が国境を無視して動き回るようになると、国籍を感じさせない人々が多くなった。そうした人々の感性を文学に反映させたのが多和田葉子という作家である。

1corot71.douai.jpg

ドゥーエーは、フランス北部のノール県にある古い町。巨人伝説で知られ、その巨人の祭りは世界的に有名だそうだ。そこに住んでいた友人アルフレド・ロボーを、コローは1971年に訪ね、しばらくそこに滞在して、「ドゥーエーの鐘楼(Le Beffroi de Douai)」を描いた。二週間で完成させたという。

china24.kusa4.JPG

1999年の中国映画「草ぶきの学校(草房子)」は、中国の農村部における子どもたちの暮らしぶりを情緒たっぷりに描いたものだ。この手の映画は日本人も好きで、戦前の名作「風の中の子どもたち」や戦後井上陽水の音楽共々ヒットした「少年時代」などが思い浮かぶ。この中国映画は、中国人の目から自分たち中国人の子ども時代をなつかしい気持を込めて描いたものだ。

コロナ禍がいよいよ末期的な現象を呈し、ついに医療崩壊が目前にせまっている。所によってはすでに医療崩壊が起り、まともな医療を受けられないで、自宅で死ぬ人が出ている。そういう状況を前にして菅首相は、中等程度の症状の患者には自宅療養を求めるという声明を出した。自宅療養というと聞こえはいいが、要するに入院を断られるということだ。それは患者に対して死ねと言うに等しい。

エスプリはきわめてフランス的な概念だ。それに相当する言葉、要するに翻訳上対応する言葉は、英語ではスピリット、ドイツ語ではガイストということになるのだろうが、厳密に一致しているわけではない。意味の上にずれとか行き違いがある。このエスプリをベルグソンはもっぱら笑いとの関係において取り上げる。ベルグソンによればエスプリは、笑いの根源であるおかしみの、言葉の上での表れということになる。それを日本語で表記すれば機知ということになろう。

china23.hors1.JPG

2005年の中国映画「白い馬の季節」は、内モンゴルの草原地帯に暮すモンゴル人遊牧民の厳しい生活ぶりを描いたものだ。監督のニンツァイは内モンゴル出身の俳優で、これが初メガホンだという。モンゴル人の生活ぶりが情緒たっぷりに描かれており、見甲斐のある作品である。

2021年は中国共産党結党100周年とあって、盛大な式典が催され、共産党総書記習近平が一時間を越える長い演説を行った。その演説は、中国の発展をたたえ、その発展を支えた共産党を賛美するものだった。演説の最後を習近平は「偉大な共産党万歳」と結び、中国の強大化に強い自信を見せた。

soga28.1.huji1.jpg

蕭白の「富士・三保松原図屏風」は、二点が伝わっている。一点はここに紹介する三保美術館所蔵のもので、旧パワーズ・コレクションだったもの。もう一点は、ロンドン・ギャラリー所蔵のもの。どちらも、左隻に富士を配し、その図柄はほとんど違わないが、右隻は大分違う。ロンドン・ギャラリーのものは、三保の松原に昇龍の組み合わせ、一方こちらは虹を組み合わせている。

吉田裕の著作「昭和天皇の終戦史」は、「昭和天皇独白録」の公表に強く刺激されて書いたものだ。この「独白録」の所在が新聞各紙で報じられたのは1990年11月のこと、その直後には全文が「文芸春秋」1990年12月号に掲載された。吉田が「昭和天皇の終戦史」を岩波新書から出したのは1992年12月のことだから、かなりのスピード感をもって、この著作に取り組んだわけだ、

1corot70.2.jpg

「読書の中断(Interrupted reading)」は、「真珠の女」とほぼ同じ頃に制作された。コローの肖像画の傑作である。読んでいた本を膝の上に置き、家具に肘をあずけ、その手をこめかみにあてて瞑想に耽る女。その表情からはメランコリックな雰囲気が伝わってくる。

「仏教の思想」シリーズ第八巻は、「不安と欣求<中国浄土>」と題して、中国における浄土信仰を取り上げている。担当は浄土教研究の第一人者塚本善隆と哲学研究家の梅原猛。塚原が中国浄土教の歴史的な展開を俯瞰し、梅原が日本の浄土諸宗に直接影響を与えたとされる曇鸞、道綽、善導の思想を解釈している。そのうえで、浄土をユートピアと位置づけての両者の対談がさしはさまれるという体裁になっている。

china22.luoma4.JPG

2002年の中国映画「雲南の少女ルオマの初恋」は、雲南省に住む少数民族ハニ族の少女の恋を描いたものだ。ハニ族は、雲南省南部を中心に約140万人からなる少数民族で、ユニークな衣装や山間部の棚田が有名だという。この映画でも、主人公のルオマはハニ族特有の衣装を着て、ユニークなヘアスタイルをしているし、また棚田ののどかな風景も披露されている。

最近のコメント

アーカイブ