2013年9月アーカイブ

堺市民は大阪都への不参加を選んだ

今回の堺市長選挙は、所謂大阪都構想への参加の可否が争点になった「争点選挙」の典型だったわけだが、その結果、不参加を表明していた現職が、参加を訴える維新の会の新人を大きくリードする形で勝利した。つまり、堺市を巻き込んだ形での大阪都構想を主張していた維新の会が敗れたわけで、今後、大阪府と大阪市だけで大阪都構想を目指すのか、また目指せるのか、微妙な状況になってきた。

修道士マルチン・ルター:クラナッハの肖像画

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クラナッハがマルチン・ルターと親交を深めるきっかけになったのは、ルターの聖書翻訳の手伝いを通じてだった。ルターは、1520年にヴァルトブルグ城で聖書の翻訳を始めるのだが、それに挿絵を入れるについて、当時ルターの庇護者であったザクセン選帝侯のお抱え絵師であるクラナッハの協力を求めたのである。クラナッハは、自らルターの聖書のための挿絵を描いたほか、完成した聖書の出版についても一肌脱いだ。1524年の初版刊行の際に、その費用を立て替えたほか、後には自分の印刷所で聖書の印刷を行った。これは、クラナッハにとっても、よいビジネスであったようだ。

デカルト、パスカル、ライプニッツといえば西洋哲学史上に聳える偉大な哲学者たちであるが、彼らはそれ以上に偉大な自然科学者であり、数学的な思考を重んじた人たちだった。スピノザは自分の哲学体系を幾何学の形式を借りて展開したし、カントもまた自然科学者としてスタートした。近代の西洋思想史においては、哲学と数学・自然科学とが手を携えあいながら進んできたのである。ところがヘーゲルに至って、哲学は数学や力学的な思考と距離を置くようになった。というより、数学や力学を軽蔑するようになった。これをラッセルなどは、知的退化と捉えるわけだが、当のヘーゲルは、数学や力学は現象の一面を説明できるに過ぎないのであって、全面的に説明できるのは、自分の哲学だけだ、と思い込んでいたわけである。

衰嘆:陸游を読む

陸游の五言律詩「衰嘆」(壺齋散人注)

  十年三堕歯  十年 三たび歯堕つ
  久兮嘆我衰  久しいかな 我の衰ふるを嘆くこと
  亹亹循天理  亹亹(びび)として 天理に循ひ
  兢兢到死時  兢兢として 死の時に到らん
  窮空顔子巷  窮空 顔子の巷
  勤苦董生帷  勤苦 董生の帷
  道遠余生趣  道遠くして 余生趣(すみやか)に
  常憂日影移  常に日影の移るを憂ふ

カイマンを襲うジャガー

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写真(ナショナル・ジオグラフィックから)は、ジャガーがカイマンを襲った瞬間。まず右手でカイマンを捉え、動きを止めたうえで、首の後ろに噛みつく。その後、次第に頭の方へと牙をずらしながら、強大な力でカイマンの頭を噛み砕く。さしもの沼の王者カイマンも、あえなくジャガーに仕留められるというわけだ。

ハインリッヒ敬虔公夫妻:クラナッハの肖像画

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クラナッハは数多くの肖像画を描いたが、その中でも傑作といわれるものに、ザクセン公(ハインリッヒ敬虔公)夫妻を描いたものがある。等身大の大きな肖像画が一対になったものである。

海老坂武の「加藤周一論」を読む

加藤周一は、知の巨人とか巨匠とかいう言葉が相応しい最後の日本の知識人ということになっているようだが、筆者は迂闊なことに、これまでまともな読み方をしてこなかった。精々エッセーの類を断片的に読んだ程度だ。もうこの年になっては、一から読むというわけにもいかないが、さりとてこのまま通り過ぎてしまうというのも気が引ける。というわけで、まずは彼の業績の概要を一瞥するつもりで、海老坂武の加藤周一論「加藤周一~二十世紀を問う」(岩波新書)を読んでみた。

集団的自衛権を行使できるように憲法解釈を変えることに前のめりの安倍首相だが、最近言動に慎重さが目立つようになったようだ。その背景には世論の強い反対や友党公明党の慎重姿勢があるようだが、首相は決してあきらめたわけではなかろう。折を見て、決着をつけたいと考えているに違いない。

JR北海道のクモスケ体質

JR北海道の相次ぐ不祥事と、それを釈明する幹部のあっけらかんとした無責任ぶりが、人々の口をあんぐりとさせているが、かくいう筆者も、かつて運送業界の端くれにいたものとして、忸怩たる思いを禁じ得ない。運送事業者の中にはまじめにやっている者も当然いるし、こんな連中といっしょくたにされるのはかなわないが、世間の目にはそうは映らない。こんなことが起きると、運送事業者は十把一からげにされて「クモスケ」呼ばわりされる。なんともやりきれない話だ。

小島信夫の短編小説

村上春樹が「若い人たちのための短編小説案内」のなかで、文學史上第三の新人といわれる作家たちの作品を取り上げ、これらが日本の文学史の中で独自の存在感を持つばかりか、前後の時代の作家たちに比べても、いまだによく読まれているということを指摘していたので、筆者もこれらの作家たちが気になるようになってしまった。というのも、筆者はこれらの作家たちを未だ熟読したことがないので、なにか損をしたような気になったからなのだった。

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女性のヌードが芸術になりうることは、古代ギリシャ時代から人類共通の普遍的真理とされてきたが、男性ヌードはどうだろうか。男性のヌードがギリシャの芸術作品を彩ったことからみると、ギリシャ人は男女の区別なしに、むき出しの、つまりヌードの、人体に、芸術的価値を認めたと考えられるが、それは人類の歴史の中では例外的なことだったようだ。というのも、古代のギリシャ人以外に、男性ヌードに芸術的な価値を置いた文化はなかったからである。日本文化も例外ではない。日本人はいわゆる男色には鷹揚な民族だといえるが、男の裸に芸術的な価値を認める日本人はかつてなかったと言ってよい。(三島由紀夫のようなごく少数の例外はあるが)

アシナシトカゲ:ヘビのようなトカゲ

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写真(ナショナル・ジオグラフィックから)の動物はヘビのように見えるが、ヘビではなくトカゲなのだそうだ。アシがないことからアシナシトカゲという。面白いことに、ロスアンゼルス空港の敷地の一角から発見されたという。こんな奇妙で人の目を引く生き物が、これまで発見を逃れていたというのも不思議だ。

山椒大夫:溝口健二の世界

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山椒大夫は、中世以来の民衆芸能・説経節の人気演目である。森鴎外はそれをもとに美しくも悲しい物語を書いたわけだが、溝口健二はそれを比類ない映像芸術に作り上げた。森鴎外が鷗外なりの解釈を加えているように、溝口もまた溝口流の解釈を加え、独自の作品に作り上げた。その結果この映画は、前の二作(西鶴一代女と雨月物語)に続いて、溝口に国際映画賞(ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞)をもたらした。

エルトン・ジョンがモスクワでコンサート

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同性愛者としても知られる高名なイギリス人歌手エルトン・ジョンが12月6日にモスクワでコンサートを開催すると言うので、モスコワッ子の間で大評判になっている。しかし中にはこれを面白く思わない人もいるようで、とりわけ、ロシア正教会は大反対しているそうだ。ロシア正教会によれば、同性愛は神への反逆である。その反逆行為が神のおひざ元たるモスクワで行われることは神の嘉したまわぬことだ、というわけである。

メルケル三選:ドイツ総選挙

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9月22日に行われたドイツ総選挙の結果メルケルのキリスト教民主・社会同盟(CDU)が40パーセントを超える票を獲得して第一党になり、メルケルが引き続き首相に選ばれることとなった。一方、これまでの連立相手だった自由民主党(FDP)は、法定要件(5パーセント条項)をクリアすることが出来ず、議会から消え去ることとなった。これにともないメルケルは新たな連立相手を見つけなければならなくなる。今のところ社会民主党(SPD)との大連立や、緑の党との連立などが選択肢として控えている。

女性をあらわす言葉に「め」がつくこと

姫(ひめ)、少女(おとめ)、娘(むすめ)、婦人(たおやめ)、寡婦(やもめ)、産婦(うぶめ)、潜女(かずきめ)、遊女(うかれめ)などの言葉は、いずれも女性を表す言葉だが、そのどれもに「め」という言葉がついている。「め」はこのように接尾辞として用いられるばかりでなく、「めうし」や「めとり」のように接頭辞としても用いられる。要するに女性の符号だ。

ピロリ菌と戦う

今年の夏、胃の内視鏡検査をしてもらったところピロリ菌が見つかったと言われた。ピロリ菌という名は聞いたことがあるが、それが人体にどのような影響を及ぼすかまでは知らなかったので、医師に聞いてみたら、がんになるリスクが高くなると言われた。でも心配することはない、薬を服用することで簡単に除菌することが出来るから、この際除菌しておきましょう。幸いなことに、除菌治療について今年の春から保険が適用されることになったし、除菌しない手はありませんよ。こういわれては、しないわけにはいかない。

イギリスにおける南北格差

イタリアに南北格差があるように、イギリスにも南北格差がある。イタリアの場合には富める北部と貧しい南部との格差だが、イギリスの場合には逆転して、富める南部と貧しい北部の格差だ。この格差は過去一世紀の間イギリスに存在してきたものだが、その格差が近年一層拡大しているという。

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クラナッハが、あの独特の官能的女性裸体画を、どのような動機から描くようになったのか、くわしいことは分からない。注文を受けて描いたこともあるらしい一方、自分にとっての純粋な楽しみとして描いたと思われるようなところもある。1530年代以降になると、こうした裸体像は、同じようなテーマで多く描かれており、その大部分には工房の弟子たちの手も加わっているようである。

空中でランチタイム

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写真(TIMEから)は、ニューヨークはマンハッタンの高層ビル建築現場で、ランチタイムのひと時を空中で過ごしている11人の男たちを写したものだ。1932年9月29日に撮影されたもので、場所はロックフェラーセンターにあるRCAビルの建築現場、地上800フィートの上空だそうだ。

ヘーゲルのカテゴリー論

西洋哲学の伝統においてカテゴリーとは、概念のなかでも最も普遍的な概念という意味で捉えられてきた。ということは、概念を分類のものさしで図ったということである。概念を分類したうえでの最上位のランク、それがカテゴリーとされる。それ故、カテゴリーが問題となる場合には常に、分類の一覧表というものが作られてきたわけである。

安倍政権が新たな労働破壊につながる政策を考えているらしい。新聞報道等によると、「解雇特区」なるものを指定し、そこでは労働時間の規制を排除し、残業代をゼロにする一方、企業は自分の都合で自由に従業員を解雇できるとする、というものだ。究極の労働破壊というべきで、こんな政策がまかり通るようになったら、労働者はそれこそ奴隷の境遇に陥ることとなろう。

安倍首相が来年4月に予定されている消費税の増税を予定通り実施することを決断した。一方増税が景気に及ぼすマイナス効果を削減する措置として景気対策を抱き合わせで実施することを考えているようだ。安倍首相が考えている景気対策の柱は二つ、公共事業と企業減税だ。

灌園:陸游を読む

陸游の五言律詩「灌園」(壺齋散人注)

  八十身猶健  八十にして身猶ほ健なり
  生涯學灌園  生涯 灌園を學ぶ
  溪風吹短褐  溪風 短褐を吹き
  村雨暗衡門  村雨 衡門暗し
  眼正魔軍怖  眼正しければ魔軍怖じ
  心安疾豎奔  心安ければ疾豎奔る
  午窗無一事  午窗 一事無し
  梨棗弄諸孫  梨棗 諸孫を弄す

安倍首相の言葉遊び

先日行われたオリンピック招致委員会でのプレゼンテーションで、福島第一原発の放射能汚染水漏れについての国際世論の懸念に対して、安倍首相が「状況はコントロールされている」と答えたのは記憶に新しい。大方の人が「ほんとかいな」と疑問を持ったろうし、東電の担当者も「コントロールされているとはいえない」と首相の発言を否定するかのような言い方をしていたものだ。しかし大方の国民は、この発言のおかげで日本にオリンピックがやってきたわけだから、このさい大目に見ておこう、嘘も方便だ、と受け流したというのが実情だろう。

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1505年にザクセン選帝侯の宮廷に召し抱えられて以降のクラナッハの画業はあまりぱっとしない。独特の裸体画でドイツ絵画の歴史に足跡を刻むようになるのは、1530年代になってからである。それまでの約25年間、かれは量的にも質的にもぱっとした画業をあげることはなかった。では、その間何をしていたのか。宮廷お抱え美術家としての身分において、催し物の監督やら宮殿の装飾を行ったほか、宮廷に出入りする身分の高い人々の肖像を描いていた。

古在由重と丸山真男の対話

古在由重と丸山真男の対話「一哲学徒の苦難の道」(岩波現代文庫)を読んだ。体裁の上では丸山真男が聞き手になって、戦前・戦中のあの思想弾圧の困難な時代を生き抜いた一知識人の生きざまを聞こうというものだが、丸山自身もこの時代に深い個人的な思い入れがあるために、一方的なインタビューではなく、二人が共同して、時代分析にあたるといった観を呈している。要するにこの時代についての同時代人の回想といった趣がある。

「冷え込んでいるのは、日中政府間の関係。大事なのは一人ひとりの関係で、ぼくは、中国にいる友人たちを信じている」こんな趣旨のことを、小沢征爾さんが朝日新聞とのインタビューの中で語っているのを読んだ。(9月19日付朝日新聞朝刊)

桜島:水彩で描く日本の風景

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2013年の6月、友人たちと一緒に南九州を旅した折、桜島に上って見た。この絵を描いた場所は赤水展望広場といって、正面に鹿児島市街を望むところだ。背後にはこのように、白い煙を吐く桜島が、目前に迫ってみえる。われわれが訪ねた折には、それまでの半年で300回も噴火したが、それでも昨年までに比べれば回数が減ってきているとの説明があった。

フック・パンチが決まった一瞬

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この映像はプロ・ボクシングの試合でフック・パンチが決まった瞬間。このパンチはカウンター気味に決まったのだったが、その直後パンチを浴びたボクサーの顔は、まるでつぶれたマシュマロのようにぐにゃぐにゃになってしまった。その様子を、スローモーションビデオで見ていて、パンチの破壊力にうならされた。パンチを食らって死ぬボクサーがいるというのも、これを見たら納得できる。人間のパンチは、砲丸なみの威力を持つということだ。

シリアで使われた毒ガスはサリン

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シリアで8月21日に使われた毒ガスについて調査していた国連の専門機関は、これをサリンだったと断定した。サリンは非常に高い殺傷能力を持つことから、化学兵器禁止条約によって製造・保有が禁止されている。今回の調査では、誰が使用したかまでは判明しなかったが、もし使用者が判明すれば、そのものは明らかな戦争犯罪者ということになる。

雨月物語:溝口健二の世界

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溝口健二の映画「雨月物語」は、上田秋成の怪奇物語集「雨月物語」を下敷きにしたものだ。原作は九篇の物語を収めているが、溝口はその中から二篇を取り上げ、それらを合成する形で映画のストーリーを作った。完全なコピーではなく、かなり大胆な改変が施されている点は、「西鶴一代女」と同様だ。いや、それ以上の改変ぶりといえる。

オバマのシリア政策

オバマ大統領がシリアのアサド政権に対する制裁について振り上げたこぶしを一旦ひっこめ、アサド政権が保有する化学兵器を国連の全面的管理下に置くというロシアの提案を受け入れたことについて、賛否様々な意見が世界を巡っている。一方では、オバマ大統領がプーチンの提案を受け入れたことを評して、オバマはプーチンにシテやられたのだと、否定的に突き放した見方をする者がいるかと思えば、オバマは無用な軍事行動路線を引っ込めて外交的な解決を優先させたのであるから、むしろ褒めてやるべきだとする見方もある。

能「正尊」:起請文

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能「正尊」は、「安宅」の勧進帳、「木曽」の願書とともに三読物といわれる。頼朝から義経討伐の密命を受けて京にやってきた土佐坊正尊が、かえって弁慶によって義経の前に引きだされる。そこでとっさの機転で起請文を書きあげ、それを義経主従一同の前で読み上げるというものだ。

米豪共同防衛体制と集団的自衛権

今日(9月16日)付朝日の朝刊が「豪、米戦略の最前線」という見出しで、米豪両軍の共同軍事演習の模様を伝えている。オーストラリア東海岸の無人島タウンズエンド島を舞台にした訓練で、オーストラリアの一部が仮想敵国カマリアに侵略されたという想定で、カマリア軍の撃退と航行の自由を目指した活動を展開するのだという。

聖家族の休息:クラナッハの宗教画

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ヘロデ王の嬰児虐殺からキリストを守るために、ヨセフが聖母子を導いてエジプトに逃れる話は、画家たちの想像力を刺激したらしく、繰り返し描かれた。そのほとんどは、逃れる道筋でひと時の休息をしているところを描いており、デューラーもそのそういう構図の作品を複数作っている。クラナッハの場合には、このテーマにドイツ的な味付けをした。つまりエジプトではなく、ドイツの自然の中に聖家族を置いたのである。

ヘーゲルの理性

へーゲルの精神現象学は、意識、自己意識に続いて、理性へと進む。しかし理性の登場の仕方が聊か唐突なので、読者はちょっと面食らう。というのも、意識、自己意識と読み進んできた読者の前に、いきなり理性があらわれて、こう宣言するからだ。「理性とは、物の世界のすべてに行き渡っているという意識の確信である」(長谷川宏訳「精神現象学」Ⅴ、理性の確信と真理、以下同じ)

甲子歳元日:陸游を読む

嘉泰四年(1204)、陸游は八十歳を迎えた。その年の正月に詠んだ詩が「剣南詩稿」第五十六巻を飾っているが、そこから第八十五巻の最後までの詩の数は3000篇、「剣南詩稿」全9000余篇のうち実に三分の一が、八十歳を過ぎてから六年間で書かれたということになる。陸游の創作力が老いてもなお衰えなかったことを物語っている。

ミュンヘンの磔刑図:クラナッハの宗教画

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ミュンヘンの磔刑図として知られるこの絵は、ウィーンの磔刑図より三年くらい後(1503年)に描かれた。両者の間には、いくつかの相違点が見られる。まず、キリストの描き方。ウィーンのそれは、まだ生きながらにして苦痛に耐えているキリストが描かれていたのに対して、ここでのキリストは既に死に絶えている。次に、キリストを囲む人々。ウィーンのそれは、悲しみに沈む女性(マリアかもしれないが、はっきりとはしない)の外は、キリストの処刑を楽しんで見ている人々の邪悪な表情が描かれていたのに対して、ここでは、息子の死を悲しむマリアとその夫ヨセフが描かれている。

丁丑公論:福沢諭吉、西郷隆盛を弁護す

福沢諭吉の小論「丁丑公論」は、西南戦争で逆賊とされた西郷隆盛を弁護し、併せて時の政府の横暴を非難したものである。福沢はこの小論を西南戦争の起きた明治十年に書いた。しかしてその年の歳次丁丑を以て題にあてたのであるが、その内容の過激にわたるのを憚って公刊を見合わせ、長く抽底に眠らせていたものを、弟子の石河幹明が明治三十四年に発表したのであった。

Ma'am と呼ばれたくない

日本のお菓子の銘柄に"カントリーマアム"というのがあるが、これは"Ma'am"というアメメリカの日常語からとったものだ。日本語でいえば"おばちゃん"といったニュアンスの言葉だ。ところが、日本人の中にも"おばちゃん"と呼ばれて気分を害する人がいるように、アメリカ人にも"Ma'am"と呼ばれて不愉快になる人がいるそうだ。ではどんな人たちが、どんな場合に、最も不愉快になるのか、ハフィントン・ポストのスタッフが調査したそうだ。

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立教大学池袋キャンパスの西はずれに瀟洒な洋館が立っている。ライフスナイダー館といって、立教大学の礎を築いた一人、ライフスナイダー氏の旧宅だった建物だ。東京を描く会の皆さんと一緒に立教大学で撮影会を催した折に、目にとまったこの建物に、フォト心ならぬ絵心を動かされて、水彩で描いてみた。

「毛沢東の大飢饉(Mao's Great Famine)」で知られるオランダ生まれの中国革命研究者フランク・ディケッター(Frank Dikötter)が、中国革命研究の第二弾「解放の悲劇(The Tragedy of Liberation)」を刊行した。筆者はまだ読んでいないが、Economist の書評によれば、中々の力作で、中国革命について有益な情報が得られるようだ。

西鶴一代女:溝口健二の世界

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溝口健二の映画「西鶴一代女」は、井原西鶴の小説「好色一代女」が原作だ。だが、原作を忠実に再現したものではない。ストーリーがかなり自在に変えられているほかに、作品のテーマというべきものが、まるで違っている。西鶴の小説は、好色女の自由奔放な一代記を描いたものだが、溝口健二の映画の主人公はただの好色女ではない。溝口が描いた女は、ある意味で時代の犠牲者だったのであり、彼女は時代の抑圧に耐えなから、人間的な尊厳を失わずに生きたということになっている。

私は神になりたい:火星への片道旅行

世の中には人間的なスケールでは測れないようなアイディアを抱く人がいまでもいるようだ。火星へ人類のコロニーを建設しようという途方もないアイディアを抱き、それにとどまらず、そのコロニー建設のパイオニアを実際に募集した人がいるというのだ。その人とは、オランダ人のバス・ランスドルプ(Bas Lansdorp)氏。氏は2023年度を目標に、最初のパイオニアを火星に向けて送り出したいと計画し、その要員を募集したところ、世界中から20万人以上の応募があったという。

狂言「蚊相撲」

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大名狂言には、大名が新参を抱えるという類型がある。「蚊相撲」はその代表的なものだ。大名が相撲取りを抱えようとするのであるが、どういうわけか、やってきた相撲取りとは蚊の精のことで、大名が蚊に刺されながら相撲を取るという話である。蚊が相撲とりになるというのも奇想天外なことであるが、その蚊を相手に、大真面目に相撲をとる大名というのもなかなか人の意表を突くというわけで、何ともユーモラスな一番である。

東京オリンピックに何を期すか

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2020年東京オリンピックが決まったことで、スポーツマンやスポーツを愛する多くの日本人が大喜びをしているところだが、そうした人々以上に大喜びしている人たちがいる。安倍総理大臣を筆頭にした政治家の皆さんの一団だ。彼らは、日本にオリンピックがやって来ることは、日本人を団結させるいい機会になるし、それ以上に経済にプラスの影響を及ぼすと期待している。なにしろ、政治家たちは口を開けば、東京オリンピックがどんなに日本の経済を活性化させるか、財布の勘定ばかりしているように映る。

聖ヒェロニムスの回心:クラナッハの宗教画

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「聖ヒェロニムスの回心」はクラナッハにとって、制作年紀の入った初めての作品である。この作品は宗教画にとってのおなじみのテーマを描いているが、取り上げ方がユニークだ。聖ヒェロニムスは、アンティオキアの荒野の中で回心したということになっており、したがって伝統的な宗教画では、荒野の中でライオンを従えた姿で描かれるのが普通である。この絵の中のヒェロニムスは、ライオンこそ従えているが、荒野の中ではなく、森林の中でひざまづいている。

ヘーゲルの自己意識論:主人と奴隷

ヘーゲルの自己意識論にわかりづらいところがあるのは、ヘーゲルが同じ「自己意識」という言葉を使いながら、そこに二つの意味を含ませているからだ。つまり、一方では、対象を意識しているその意識の主体としての意識という意味での使い方。これは、デカルト以来の認識論が語っていたのとほぼ変わらぬ自己意識のあり方である。ところが他方では、同じく自己意識をもった他者との関わり合いにおける自己意識という使い方をしている。この場合の自己意識は、同じく自己意識を持った他者に向き合っているのであり、最初の自己意識のように、たんなる物としての現象に向き合っているわけではない。

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今年のG20はロシアのペテルスブルグで開かれた。ホスト役のプーチンにとって最大の懸案はシリア問題、ということで、アメリカが表明しているシリアへの軍事制裁を巡って激しいやりとりが行われた。その結果何かが決まったかと言うと、何も決まらなかった。対立が明確化したというだけだ。

陸游最後の出仕

嘉泰二年(1202)、陸游は出仕を命じられた。実に78歳の時である。こんなにも高齢に関わらず、陸游が召しだされた理由は、ひとつには彼の声名が高かったこと、もうひとつには彼が日頃対金積極論者だったことである。そんな彼を政治的に利用しようと考えた人間が居ても不思議ではない。

磔刑図:クラナッハの宗教画

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クラナッハの若い頃の修行の様子は、デューラーの場合とは違って、あまりよくわかっていない。わかっているのは、彼が1500年から1505年までの約5年間ウィーンで創作に励んだということだ。この時代の作品としては、宗教をテーマにした数点の油絵と若干の木版画が残っている。それらの作品は、ゴシック絵画の影響を色濃く残していることから、ウィーン時代のクラナッハは、当時のドイツ絵画の強い影響力のもとにあったと推測される。このドイツ風の荒々しい画風が、イタリアの影響を取り入れたデューラーの画風と大きく異なるものとなったのは、自然のことだったかもしれない。デューラーには、イタリア仕込の優雅さがみられるのに、クラナッハはあくまでも無骨なのである。

瘦我慢の説:福沢諭吉の処世哲学

福沢諭吉の小篇「瘦我慢の説」は、勝海舟と榎本武揚の生きざまを痛烈に批判したものである。両者ともに幕臣として幕末に生き、それぞれの信念に従って行動したとはいえ、その行動に疑うべきものがあるのみならず、維新後新政府に身を屈して立身出世を貪ったのはまことに鼻持ちならぬ卑劣な輩である、というのである。

体内の微生物は胎児の段階から存在する

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バクテリアや細菌などの体内微生物は、大部分が生まれて以降に侵入し、母親の子宮の中では無菌状態だと考えられてきたが、最近の研究の結果、そうではなく、すでに胎児の状態で母親から受け取るのだということがわかってきた。その最近の研究状況を、医療ジャーナリストとして知られるカール・ジマーがNYTのコラムの中で紹介している。Human Microbiome May Be Seeded Before Birth By CARL ZIMMER New York Times

立教大学旧図書館:水彩で描く東京風景

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東京を描く市民の会の写真好きの人々と立教大学を訪れ、構内を散策しながら気に入った眺めを撮影する機会があった。その折に、水彩画になりそうな景色を選んでスケッチしたものの一枚がこの絵だ。

口で音を聞くカエル

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カエルにはへそはないが、耳はある。外からは見えにくいが、目玉のすぐ後ろ側に小さな穴があって、その内部が耳になっている。耳の内部の筋肉で音を捉え、それを内耳で増幅させて脳に伝え、音として認識するのは、爬虫類以上の高等動物と基本的には同じだ。

夜の女たち:溝口健二の世界

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溝口健二の映画「夜の女たち」は、パンパンの生態に焦点を当てた作品である。パンパンというのは、戦後に出現した新しいタイプの売春婦であり、街頭で米兵を相手に商売するものを差していったのが始まりだが、そのうち、街娼全体をさしてパンパンと言うようにもなった。溝口健二がこの作品で描いたのは、そうしたパンパンのうちでも日本人相手の街娼である。

熱暑、豪雨、竜巻:地球温暖化を肌で感じた夏

日本の夏は年ごとに熱くなってきているというのが実感だが、今年は記録的な暑さになった。四国の四万十市では実に、最高気温が41度を超えて、これまでの記録を塗り替えたし、東京都心でも、35度以上のいわゆる猛暑日が、9月2日時点で12日もあり、これまでの最多記録だった昨年の6日をあっさり超えた。

南方熊楠の文章:中沢新一の熊楠論

南方熊楠の文章は、読んでいて実に面白い。彼の文章は、書かれている内容も豊かで面白いが、内容を表現するスタイルが独特で、読ませるのだ。文学ならぬ科学を語る者にして、文章のスタイルを感じさせる者はそう多くはない。熊楠はその少数の例外であるばかりか、型破りの文章を紡ぎ出した稀有の例なのだ。

ロシアのホモフォビア(Homophobia)

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ロシアでは今年の6月にアナクロニスティックな法律「同性愛取締法」が成立したところだが、その後、法律は想定していた以上の社会的効果をあげ始めているようだ。同性愛に敵対する民間団体による同性愛者への迫害が全国的なレベルで起きているのだ。今やロシアでは、同性愛者であることは、命にかかわることになりつつあるらしい。

クラナッハの官能美

ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach:1472-1553)は、アルブレヒト・デューラーより1年後に生まれた。ということは、全くの同時代人である。とはいっても、美術史上の評価はデューラーにははるかに及ばない。デューラーの方は、ドイツ近代絵画の父として、また北方ルネサンスの巨人として、確固とした名声を確立しているのに対して、クラナッハの方は、風変わりな、それも極めて官能的な絵を残した、どちらかと言えばマイナーな画家という位置づけに甘んじている。実際、日本においても、デューラーの画集や研究書は簡単に手に入るのに、クラナッハの方はほとんど手に入らないというのが現状だ。

ヘーゲルの無限概念

ヘーゲル哲学のキー概念の一つに「無限性」(Unendlichkeit)というものがある。「無限」といえば、日本語では数量を連想させる。数量的に限度がないこと、それが無限だというふうにまず受け取れる。それが時間や空間についても適用され、時間においては始まりや終わりのないこと、空間においては広がりに限りがないこと、それが無限だというふうに考えられている。こうした考え方は西洋哲学の歴史にあっても、主流であった。カントも無限というものを時間と空間との関連で考えていた。

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