2020年1月アーカイブ

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「ブランコ(La balançoire)」は、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」とほぼ同時期に描かれ、ともに第三回の印象派展に出展された。それをカイユボットが購入し、彼の死後フランス政府に寄贈された経緯がある。

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阪本順治の2011年の映画「大鹿村騒動記」は、原田芳雄の遺作となった作品である。原田はこの作品の公開直後に死んだのであるが、その訃報が巷に伝わるや、連日大入りしたというから、原田という役者がいかに人々に愛されていたかを物語るエピソードとして語られている。原田の相役をつとめた大楠道代は、原田と共に鈴木清順の映画に出ていた。彼女を共演者に選んだのは、荒戸源次郎を通じて鈴木正順映画に親しんでいたらしい阪本の、心ばかりの配慮だったのだろう。

トランプがパレスチナ問題に関する中東和平案を発表した。発表の場にはイスラエルのネタニアフが同席したが、パレスチナ側は不在だった。その事態が象徴しているように、この和平案なるものは、イスラエルの言い分を一方的に聞いたようなもので、パレスチナ側は全面拒否の姿勢を見せている。たしかに、パレスチナ側の反発は理解できる。この案は、イスラエルによるこれまでの不法な入植をすべて認め、また、エルサレムを全面的にイスラエルに帰属させるなど、イスラエルの無法な占領にお墨付きを与える一方、パレスチナ側には「テロ(抵抗行為のこと)」の自重を促すものだ。要するに、パレスチナはこれまでに積み上げられて来た現実(無法なものだが)をすべて受け入れよと迫るものだ。

死から生が生まれること、したがって死者から生者が生まれることを確認したうえで、生者を生んだ死者は生者が生まれるまえから存在していることがわかった。その存在は魂としての存在である。したがって魂は、生者が生まれる前からずっと存在していたのであり、そのことは魂が不死・不滅である証拠である。このようなソクラテスの議論を、ケベスはじめ聴衆はみな納得したようなのであったが、しかし、といってケベスは別の疑問を突き付ける。魂が、生者が生まれる前から存在していたことは認めるとしても、人が死んだならば、そのまま存在し続けるとは限らない。魂は、人の死とともに終りをとげてしまうのではないか。もしそうではなく、魂は人が死んだ後も生き続けると主張するためには、今までとは別の論証が必要ではないか、というのである。

戦後には終りがあるはずだとすれば、その時点をどこに置くか。日本の場合には1972年の沖縄返還、ドイツの場合には1990年の東西ドイツの統一だろう。どちらも、戦後取り残された最大の課題だった。その課題をともかく解決したことで、両国とも戦後から抜け出て、新しい時代に入ったといえるのではないか。

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阪本順治の2008年の映画「闇の子供たち」は、タイにおける児童の人身売買や性的虐待・搾取をテーマにしたものだ。一応、日・タイ共同制作ということになっており、タイ国際映画祭にも出品予定だったが、内容がタイ当局の反発を買い、タイでの上映はいまだに実現していない。この映画の中では、児童買春と並んで、生きた子供を対象にした心臓移植もテーマになっており、そこがタイ側の反発に火を注いだらしい。生きた子供から心臓を取り出したら死んでしまうわけで、それを承知で臓器を取り出すのは、あきらかに犯罪行為(殺人罪)だ。タイでは、そんな犯罪行為は許されていないし、また実際に日本人の子どもにそのような移植が行われたという事実もない、といってタイ側は、強く反発したようだ。たしかにそういうことはなかったようで、その点は勇み足と言うほかはないが、児童買春は実際にあったことだ。タイでの児童買春は一時国際的に問題となり、Newsweekなどが批判キャンペーンを張ったこともある。

先般、元TBS記者山口某が酔った女性をホテルに連れ込み、意識のない彼女を強姦した事件について、民事訴訟で強姦の事実を認定したうえで、加害者に損害賠償を命じる判決があったが、この事件は強姦をめぐる日本人の意識の特異さを見せつけたものとして、実に後味の悪いものであった。加害者の男は、いまだに和姦だったと言いたてているが、意識のない女性とどのように同意したというのか。この男は自分の行為について悪びれる様子を見せず、かえって控訴する意向だそうである。

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雪村は最晩年の七十歳代に、福島県の三春に隠棲した。ここで七十一歳の時に、「竹林七賢図屏風」を制作している。竹林七賢とは、中国の三国時代に実在したとされる人物像で、竹林に集い酒を飲みつつ清談したことから、竹林の賢人と呼ばれるようになった。その賢人たちに、老年の雪村が自分のイメージを重ねたということか。

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1878年の第三回印象派展にルノワールは大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット(la Bal du moulin de la Galette)」を出展した。これはモンマルトルの丘の上にあるカフェで、かつて粉ひき小屋があったことから「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」と呼ばれていたところで、踊りを楽しむ人々を描いたものだ。ルノワールは、1873年以来、パリのサンジョルジョ街に住む傍ら、モンマルトルの一角にアトリエを借りており、マンマルトルは日常的に親しんだ土地である。そこで、踊りに興じる人々を描いたこの大作に、ルノワールはかなりの自信をもっていた。この作品は早速カイユボットによって購入され、彼の死後フランス政府に寄贈されることになる。

ヨーロッパ哲学の伝統において、パロールがエクリチュールに優位してきたのは、エクリチュールが表音文字によって書かれてきたからではないか。そんな問題意識を井筒は、「意味の深みへ」所収の「書く」という小論の中で提起している。表音文字というのは、アルファベットのことだが、そのアルファベットは音を表記するための文字である。パロールを通じて語られた言葉の、その音を表音文字であらわすわけだから、それはパロールの(表音的な)コピーということになる。だから本物はパロールであって、エクリチュールは偽物ということになりかねない。じっさいプラトンは「パイドロス」の中で、(パロールとかエクリチュールという言葉は無論使わないが)書かれたことは話されたことのコピーだというような言い方をして、話されたことの優位を主張している。

以上の議論でソクラテスは、魂は肉体とは別に、それだけで独自に存在できるということを、無条件の前提としていたわけだが、その前提は、果たして盤石なものなのだろうか。そういう疑問をケベスが提出する。魂は肉体から離れると煙のように飛散消滅してしまうのではないか。こういう疑問をケベスが出したワケは、かれがソクラテスの意見に同意しておらず、魂の不死・不滅を信じていないからではない。ケベスはピタゴラス派の影響を受けた人として、むしろ魂の不死・不滅を信じているはずなのである。そのかれがこういう疑問を出したのは、魂の不死・不滅についての強固とした証明を、ソクラテスの力を借りながらなしとげたいという魂胆があるからだ。つまりケベスは、ソクラテスの魂の不死・不滅説に異論をとなえ、その異論をソクラテスに反駁させることで、魂の不死・不滅の証明を確固としたものにしたいわけである。この場合、ケベスの異論はアイロネイアの役割を果たす。そのアイロネイアを踏まえて、新たなディアレクティケーが始まるのである。

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阪本順治の2002年の映画「KT」は、1973年に起きた金大中拉致事件をテーマにしたものだ。これは、当時朴正煕大統領のライバルとして知られていた政治家で、後に韓国大統領になった金大中が、東京のホテルから白昼拉致されたというショッキングな事件だった。その事件の概要はおおよそ明らかになってはいるが金大中自身はこのことについて語らないこともあって、微細なことまではわからない部分もある。一番肝心なことは、金大中が韓国に拉致された後で、釈放されたことだ。これには、日本政府からの圧力があったからだとか、アメリカ政府の圧力が働いたとか、色々な説があるが、真相ははっきりしない。しかし日本政府がこの事件を掌握していたのはたしかなことらしい。金大中を乗せた船を、海上保安庁の船が威嚇したことなどから明らかといわれる。

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「花鳥図屏風」は、雪村晩年の60歳代に、北関東の足利、佐野に滞在していた頃の大作。左右両隻に、それぞれ花鳥の様子をのびのびと描いているが、右隻は、早春の頃の生命の躍動を、左隻は、夏の夕暮れ時の静かさをテーマにしている。右が陽、動、剛のイメージを、左が陰、静、柔のイメージと言った具合に、左右対称を意識している図柄だ。

自伝的対談「大江健三郎、作家自身を語る」の中で大江は、「さようなら、私の本よ」を、自分の作家活動の一つの頂点をなす作品だと言ったが、それはかれの作家活動の総仕上げだというような意味に聞こえた。この小説を書きあげた時、大江は七十歳になっていたわけで、おそらく自分の作家人生最後の小説になると考えたのではないか。これが最後の小説としての本になるだろうという予感が、「さようなら、私の本よ!」という題名に込められていたのではないか。実際には大江は、七十歳を過ぎても二本の長編小説を書いたので、これが最後の小説にはならなかったが、そこにはかれの作家活動を最終的に締めくくるというような気迫がこもっているように思える。

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1876年の第二回目の印象派展に、ルノワールは「散歩に出かける子どもたち」とともに「陽光の中の裸婦(Etude ou Torse:effet de soleil)」を出展した。この絵は、批評家たちの度肝を抜いたらしく、「散歩」よりも激しく攻撃された。緑や紫がかった斑点が体のあちこちにあり、まるでおできのようだ、と酷評するものもあった。

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1989年の映画「どついたるねん」は、阪本順治の監督デビュー作である。阪本はこの映画を、難波のロッキーとして一部に知られていたボクサー、赤井英和をフィーチャーして作ったが、自主製作のようなもので、劇場公開のあてがなかったため、原宿に特設テントを設けて上映した。ところが口コミで評判が広がり、それがもとで劇場公開にこぎつけたという、いわくつきのものだ。この映画で阪本はユニークな映画監督として認められたし、赤井の方もタレントとして活躍する糸口をみつけた。


魂の不死・不滅についての議論をソクラテスは、かれ一流のアイロネイアから始める。自殺すること、つまり自分自身を殺すことは許されないと人々は信じているが、それには相応の理由があると言って、その理由を説明してみせるのである。ソクラテス自身は、後に明らかにされるように、死ぬことはよいことだと思っているわけであるが、とりあえずは、世間の人びとに譲歩して、死ぬことはよくないという主張を受け入れ、その理由をあげる。なぜよくないのか。ソクラテスは次のように言う。神々は人間を配慮するものであり、人間は神々の所有物(奴隷)なのである。ギリシャ人としては、これには何らの異存もない。ギリシャ人にとって、神々と人間との関係はそのようなものだからだ。そうだとしたら、所有物が所有主の意向をまったく無視して、自分勝手に自分を毀損することは、道理に反したことだ。我々普通の人間だって、自分の所有物が、自分の意思に反して自分自身を殺すとしたら、腹を立てることだろう。このような理由によって、人間は勝手に自殺してはいけないのだ、というわけである。

アジア・太平洋戦争を含めて、第二次世界大戦は、各国に甚大な災厄をもたらした。そうした災厄は、敗戦国だけではなく、戦勝国も、多かれ少なかれ被ったものだ。自国が戦場にならなかったアメリカでさえ、40万人以上の死者を出している。ドイツの場合には、一説には900万人といい、日本の場合には310万人もの死者を出した。死者だけではない、国土は焦土と化した。そんな厳しい事態は、容易に忘却できることではない。そこで各国とも、それぞれスタイルに多少の違いはあっても、戦争を忘れずに、記憶しつづけたいという国民の願いはあって、その願いを、何らかの形で表現してきた。その表現の仕方は、国によってまちまちである。

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崔洋一の2004年の映画「血と骨」は、一在日コリアンの半生を描いたものだ。原作は、「タクシー協奏曲」(「月はどっちに出ている」の原作)の作者梁石日の同名の小説で、かれの実父の半生を描いたものだ。実録だというから、実際に存在した人物がモデルなのだろうが、映画を見た限りでは、世の中にこんな醜悪な人間が存在するものだろうかと疑問に思うほど、ひどい人間を描いている。利己的で冷酷で、人間的な思いやりは寸毫もないくせに、自尊心だけは異常に強い。その自尊心でもって誰彼かまわず、相手を強制的に服従させようとする。すこしでも反抗の様子をみると、すさまじい暴力に訴える。昔の日本にも、強い家父長権をかざしていばりくさっているものはいたが、こんなに自己中心的な人間はいなかっただろう。同じく儒教文化に染まった人間としても、この映画に出て来る在日コリアンは、化け物のような異様さを感じさせる。

憲法改正を含めたプーチンの政治改革案がさまざまな憶測を呼んでいる。この改革案の骨子は、大統領の三選禁止と大統領の権限の制限だ。これが実現すると、プーチンは今後永久に大統領につけなくなる。現憲法では、大統領は連続して二期以上は出来ないとのみされているので、前回もそうだったように、一旦首相についたうえで、あらためて大統領に復帰するシナリオもありえた。それが出来なくなって、プーチンは今後二度と大統領になれなくなるわけだ。それは何を意味するのか、プーチンなりの立憲意識のなせるところか。それともなにか新たなことを企んでいるのか。

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雪村は山水図をよくしたが、これはそのうちの傑作。雪村の山水図屏風としては、比較的早い時期の作品と考えられる。山水図屏風は、この頃様式的な完成期を迎えていた。それは左右両隻の端に山容を描き、両者の中間に水景を描くというもので、構図的にもっとも安定したものである。雪村は、その構図法に従ってこの作品を描いている。

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1876年に第二回目の印象派展が行われ、ルノワールは数点の作品を出展した。「散歩に出かける子どもたち(La promenade)」と題した1874年の作品もそれに含まれていた。この作品は、当時金持ちの依頼で肖像画を描くことが多かったルノワールが、やはり依頼を受けて描いた作品だと思われるが、詳細はわからない。

エクリチュール(écriture)は、解体(déconstruction)や相異=相移(differance)とともにデリダの思想の中核的な概念である。だがデリダは、この重要な概念を定義しようとしない。定義された術語は、たちどころに硬化して、もはや自由な読み替えが出来なくなってしまうからだ。エクリチュールという述語はだから、明確でかつ固定した内容を持たない。それには不分明性、不定性、曖昧さが纏綿する。そこがデリダの狙いでもある。井筒はそう言って、エクリチュールという述語を、多面的な見地から考察する。

豊穣たる熟女の皆さんと船橋のスペイン料理店で新年会を催した。今回は是非M女にも参加してほしいと思って何度も電話をかけたのだったが、十回かけても出てこないのであきらめるしかなかった。まだ鬱状態が解けていないのだろう。そこでT女、Y女と三人で船橋駅で待ち合わせたところ、指定の場所に彼女らがなかなかあらわれない。携帯で連絡したところ、別の場所で待っているという。なぜ指定の場所にいないのかね、と小言を言った次第。

対話篇「パイドン」は、プレイウスの町にやってきたパイドンを、土地の人エケクラテスが訪問し、ソクラテスの最後の日について、かれがその日にどんなことを話し、どんな様子だったかを尋ねたことがきっかけで始まる。その問いかけに対してパイドンは、自分はソクラテスの最後の日に一緒に居合せたということを認めたうえで、自分が見聞したソクラテスの最後の様子について語るのである。その際に、その場に居合せていた者は、パイドンのほかに十名以上の名があげられる。プラトンは病気でいなかったといわれている。かれらは、普段から牢獄にソクラテスを訪ねては、一日中ともに話すのを日課にしていたが、デロス島から船が返って来たという話を聞くと、その翌日がソクラテスの処刑の日だとさとり、いつもより早い時間に示し合わせて、ソクラテスを訪ねたというのだった。

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崔洋一の1999年の映画「豚の報い」も沖縄を舞台にした作品だ。前作「Aサインデイズ」のような政治的なメッセージ性はない。沖縄の離島につたわる葬儀がテーマだ。この離島ではいまだに風葬が行われているのだが、それは特殊な事情がある場合だ。海で死んだものは、十二年間は埋葬できないので、その間は風葬したまま遺骸は大気に曝しつづけられる。十二年たてば墓に骨を収めることが許される。この映画は、父親を海で失った子が、風葬された父親の骨を拾いに故郷の離島へ戻って来るというような筋書きだ。

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呂洞賓は、中国八仙人の一人。中唐時代の実在の人物だといわれる。古くから仙人として尊崇され、元の武宗から神仙の称号を贈られた。純陽子とも称するが、それは周易の乾卦にもとづく。乾卦はすべて陽の爻からなる。それで純陽子というわけである。

前稿で、大江の小説「憂い顔の童子」は「ドン・キホーテ」のパロディだといい、大江の分身たる古義人こそドン・キホーテその人だと書いたが、ここではこの小説と「ドン・キホーテ」との関係をもう少し見てみたいと思う。とにかくこの小説は、「わしは自分が何者であるか、よく存じておる、とドン・キホーテが答えた」という、「ドン・キホーテ」の中の文章をエピグラフにしているのであるし、単行本の装丁には、ロバを抱きしめるサンチョ・パンサを描いた、ドレの有名な版画をあしらっているほど、「ドン・キホーテ」にこだわっている。だからそのこだわりに応えて、もうすこし「ドン・キホーテ」に執着してみようというのである。

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1874年の春に、ルノワールはモネやドガなど親しい画家仲間たちと、後に印象派展とよばれるようになる展覧会を開いた。モネを中心とする若手画家たちは、サロンになかなか入選しないことにいらだち、落選展の開催を求めていたが、その求めが実現しないので、自分たちで作品を展示する場を設けようと考えたのだ。その考えが実施されたのは1873年の暮のことで、モネやルノワールが中心になって画家や彫刻家による共同出資会社が作られ、その会社の主催する形で、展示会が催されたのであった。主な出展者はほかに、ドガ、ピサロ、シスレー、モリゾ、セザンヌだった。マネにも声がかかったが、マネはサロンに出展するほうを選んだ。

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崔洋一の1998年の映画「犬、走る」は、日本社会のエスニック・マイノリテがテーマである。新宿の歌舞伎町から大久保あたりにかけてが舞台なので、在日韓国・朝鮮人や中国人が中心で、それに南アジア系と思われるものや国籍不明なものが多数出て来る。大したストーリーはないのだが、犯罪にかかわる外国人と、それを取り締まる日本人の警察官の攻防が描かれる。どうも、日本にいるエスニック・マイノリティは、権力による治安維持の対象だというような視点を強く感じさせる作品だ。

安倍政権が景気浮揚の目玉として打ち出したIRをめぐって、スキャンダル騒ぎが起きている。これは日本のカジノ市場への参入を狙う中国企業のエージェントが、日本の複数の政治家に賄賂を贈っていたというもので、すでに自民党の衆議院議員一人が収賄容疑で逮捕されている。このほかにも、逮捕される議員は出て来るだろうといわれている。

「パイドン」は、プラトンの著作活動中期の比較的早い時期に書かれたと考えられる。「饗宴」とほぼ同じころ書かれたのではないかと思われるが、どちらが先かははっきりしない。「パイドン」が先だと主張する学者は、「パイドン」で大きなテーマになっている想起説が、初期の最後に位置する「メノン」の議論の延長であることに注目する。「メノン」で初めて取り上げた想起説を、引き続き「パイドン」でも取り上げ、議論を深化させたというのが、彼らの主張の要旨である。つまり「メノン」との連続性において「パイドン」を位置付けているわけである。これに対して「饗宴」のほうが先だとする主張は、イデア説の取り扱い方に着目する。イデア説が、イデアとかそれに類似した言葉で語られるのは「パイドン」が最初なのだが、その概念の実質的な内容は、「饗宴」でも語られていた。その「饗宴」で語られたイデア的なものについての議論を、「パイドン」で深めたというのが、この主張の要旨である。

いわゆる歴史認識をめぐって、日本はいまだに諸外国、特に韓国や中国との間で軋轢をひきおこしている。近年も従軍慰安婦問題や徴用工問題をめぐって歴史認識問題が蒸し返された。なぜそうなるのか。こういう問題をめぐっては、他国が日本を非難し、それに対して日本が反発するという構図が指摘できる。日本を非難する国は、日本は過去に犯した過ちを十分に反省していない、その結果誤った歴史認識にたって、無神経な行動を繰り返すと非難し、日本側は、日本は反省すべきことは十分に反省したのだから、これ以上反省する必要はないと言い、また、そもそも反省すべきことではないものを反省する必要はないと開き直ったりする。非難する側と批判される側とに、共通する認識がないことが、その原因だろう。

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崔洋一は、在日韓国人二世として、日本におけるマイノリティの存在にこだわり、そのこだわりを映画でも表現した。1989年の作品「Aサインデイズ」は、沖縄をテーマにしたものだ。沖縄の人びとは、在日韓国人とは違って、まぎれもない日本人だが、二級国民扱いされて、差別されている。米軍基地の大部分を集中的に押し付けられているところは、その最たるものだ。この沖縄差別を、いまの安倍政権は臆面もなくやっている。沖縄の人たちがいかに反対しようとも、そんなものは二級国民の悪あがきとばかり、沖縄の人々の声を、鉄面皮に無視している。だから沖縄の問題は、日本におけるマイノリティ問題の一つの、しかも大きな部分といってよい。

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蕪を描いたこの絵は、「叭叭鳥」同様、鎌倉円覚寺の四印道人こと景初周隋の着賛がある。鎌倉滞在時の作品であろう。地中から掘り出したばかりの一本の蕪を、飾らない単純な構図で描いている。形が大根のようにも見えるが、れっきとした蕪であることは、賛の文面からも推し量られる。

旧友K生とは昨年の暮に久しぶりに飲もうと話していたところ、彼の急病で中止となった次第だったが、病気が治ったので新年会を兼ねて飲もうということになった。そこで小生は都内某所の赤暖簾に赴いて、K生と旧交を温めた。もう一人の旧友CGが同座した。

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1869年にルノワールは、金に困って、当時パリ北西部のルーヴシェンヌでつつましい年金生活を送っていた両親の家に転がり込んだ。その近隣のサン・ミシェルには、クロード・モネが住んでいて、二人は頻繁に往来するようになった。モネも、金がない点では、ルノワール以上だった。二人は金のないことを大いに嘆いたが、もっとも大きな嘆きの種は、キャンバスや絵具を買う金がないことだった。

強い影響力を持つ現代の哲学者のうち井筒がもっとも注目するのはジャック・デリダである。その理由はデリダのユダヤ性である。井筒はユダヤ教に深い関心を寄せ、とりわけカッバーラーの思想については、井筒の考える東洋的な思想のあり方の一つの典型として捉えているわけだが、そうしたものとしてのユダヤ性を、井筒はデリダの中に見たわけである。ユダヤ人の思想家としては、ほかにフッサールとかレヴィナスなどがあげられるが、そのなかで特にデリダに注目するわけは、デリダが西洋哲学の伝統に挑戦して、その解体(デコンストリュクション)をめざしたところにあろう。井筒も又、東洋哲学を以て西洋哲学を相対化しようとする路線をとっており、その自分の路線にデリダがつながると見たことが、彼のデリダへの強い関心の淵源なのだろうと思う。

世界中を震撼させたウクライナ航空機の爆破は、イラン軍によるものだと明らかになった。アメリカのロケット攻撃と勘違いしたイラン軍が、ミサイルで迎撃したということらしい。それ自体に問題があるが、もっと問題なのは、この事態がイラン軍の実力を物語っているということだ。イラン軍は、イラクの米軍基地にもミサイルを命中させたが、軍事専門家によれば、命中の精度はかなりかなり高かったという。この二つを通じて、イラン軍の実力が、思っていた以上に高いということをアメリカは知らされたに違いない。

ソクラテスが語り終わったことで、饗宴の参加者は全員発言をすませたことになった。そこで普通なら、各自の言論を比較しあったり、批判しあったりという段取りになるはずなのだが、じっさいアリストパネスがそのきっかけをあたえようともしたのだったが、そこへ一人の酔っ払いがあらわれた。アルキビアデスである。アルキビアデスといえば、ソクラテスの一時期の愛人として、またアテナイの衆愚政治の指導者の一人として知られる人物だ。そのアルキビアデスが、菫ときづたで飾った花冠を被って、笛吹き女の笛の音に送られながら現われたわけは、前日アガトンの優勝を祝う会に参加できなかったので、その埋め合わせをしに来たのである。

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ベルナルド・ベルトルッチの2012年の映画「孤独な天使たち」は、自閉症気味の少年と、その腹違いの姉で麻薬中毒の娘との、奇妙な共同生活を描いた作品だ。少年が自閉症気味というのは、母親や祖母など親密な人物とはコミュニケーションがとれているが、学校での対人関係を形成できないでいるという意味だ。学校では、スキー旅行が計画されているが、少年はそれに参加したくない。そこで参加費として母親からもらった金で、当分の食料を買い込み、自宅マンションの地下にある倉庫に閉じこもる。そこで学校が休みの間、一人暮らしをするつもりなのだ。

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(波図)

「波岸図」には先行作品がある。南宋の画家玉澗の「波岸図」である。玉澗の作品は、波と岸の図を一つの画面に描いていたが、将軍足利義政が二枚に切断し、それぞれを「波図」、「岸図」と呼んで、茶人たちが愛好した。雪村は、その切断された波岸図を参考にして、この作品を描いた。はじめから二点の絵としてである。

大江健三郎の小説には、「個人的な体験」以来、主人公をあたたかく包み込んでくれる女性が登場するというのがひとつのパターンになっていたが、この小説「憂い顔の童子」では、白人女性がそのようなものとして出て来る。ローズさんだ。彼女は、妻がベルリンへ単身出かけて長期不在の間、古義人とともに四国の山の中の小屋で共同生活をするのだ。古義人とその障害のある息子のために、食事を始め日常の世話までするので、主婦=妻の役を果たしているといってもよい。もっともセックスはしない。少なくとも小説の文面からは、セックスをしている様子はない。セックス抜きで疑似夫婦関係を続けているのである。小説にセックスを持ち込むのが好きな大江がなぜ、セックス抜きで男女関係を描こうとしたのか、多少興味をそそられるところである。

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パリのパティニュール大通りにあるカフェ、ゲルボアに、マネを中心とした一団の芸術家が1966年頃から集まるようになった。ルノワールもそのサークルに加わった。常連客には、エミール・ゾラやザカリー・アストリュックといった文学者のほかに、バジール、ドガ、ファンタン・ラトゥールなどがいて、やがてセザンヌやモネも加わった。ルノワールは、モネと大いに仲よくした。

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ベルナルド・ベルトルッチの1998年の映画「シャンドライの恋」は、アフリカ出身の女性とローマ在住の白人男性との恋を描いたものだ。アフリカのどこかはわからない。ただ、独裁者が不法な権力を振るっている国らしい。その国に住んでいる男が官憲によって連行される。取り残された若い妻は、イタリアのローマに行って、あるマンションの女中をしながら、大学で医学を学ぶようになる。アフリカの原野に暮らしていたものが、いきなりローマの大学で医学を学ぶというのが、ちょっと面食らうところだが、それは脇へ置いておこう。問題は、この男女が愛し合うプロセスだ。

カルロス・ゴーンが日本を脱出してレバノンに逃れていたというニュースが入って来た時、大方の日本人は、日本という国がコケにされたと思っただろう。それに加えて、ゴーンが逃亡先で記者会見を開き、自分の無実を弁明したとあって、日本の司法当局は二重にくやしい思いをしただろう。なにしろ完璧に裏をかかれて逃げられ、国の威信を傷つけられたうえに、記者会見まで開いて言いたい放題なのに、自分たちにはなにもできることがないからだ。こんなに面目つぶれのことはない。

アガトンとの予備的なやり取りをすますと、ソクラテスがいよいよエロースについての自説を述べる段となった。ところがソクラテスは、自説をストレートに述べるのではなく、自分にエロースのことを教えてくれた人とのやりとりを紹介するのだ。そのやり取りの中から、エロースとはなにか、またそれが人間にもたらす贈り物について、おのずから明らかになってくるというわけなのだ。ソクラテスにそれを教えてくれたのは、マンチネイアの巫女ヂオチマだという。

日本と西ドイツの戦後外交、特に近隣諸国との外交関係は、かなり対称的である。ごく単純化していうと、西ドイツはヨーロッパの一員として名誉ある地位を占めたいという希求を抱き続けたのに対して、日本はアメリカへの従属を深め、近隣諸国つまり東アジアの諸国にほとんど関心を持たなかったといってよい。その結果、西ドイツおよびその継承者としての統一ドイツが、今日EUの盟主として、政治的・経済的実力を確固としたものとしているのに対して、日本は東アジアの孤児といわれるような、ある意味情けない状況に陥っている。本来なら、日本は東アジアの盟主として、地域のリーダーになれていたはずが、アメリカへの従属を深めるあまり、自ら孤立を招いたといってよい。

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ベルナルド・ベルトルッチの1993年の映画「リトル・ブッダ」は、仏教の輪廻転生思想と釈迦の修行をテーマにしたものである。キリスト教の教えには、復活の思想はあるが、輪廻転生の思想はないから、キリスト教を信じる人たちにとっては、輪廻転生とか生まれ変わりとかいったことは、荒唐無稽に思われるに違いない。ところがベルトルッチは、これを宗教上の信仰に属する問題だとして、荒唐無稽だとはしていない。こういう考え方もありうるのだという前提で、かなり理解ある描き方をしている。また、釈迦の修行についても、宗教的な啓示を得るための修行だとして、かなり好意的である。

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雪村は「溌墨法」を用いて描いた「溌墨山水図」を数多く作った。この作品はその代表的なものである。溌墨法というのは、中唐の画家王墨が案出し、南宋の玉澗が大成した技術。墨をはねちらし、筆を使わずに形を整えるというものである。

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ルノワールは、1864年のサロンに入選した後、引き続きサロンでの成功を目指して、1866年と翌年に二年続けて出展したが、いずれも落選した。それでもあきらめず出展を続けたところ、1868年のサロンには、再び入選した。「日傘のリーズ(Lise à l'ombrelle)」と題したこの作品がそれである。

カオスとコスモスといえば、通常浮かんでくるイメージは、混沌と秩序の対立である。その対立においては、カオスはマイナスイメージ、コスモスはプラスイメージとして捉えられる。混沌として形が定まらぬカオスに、秩序が与えられて形ある世界としてのコスモスが形成される、というのが普通の(西洋的な、したがって今日における地球支配的な)考え方だ。その考え方は、旧約聖書にも示されている。

アリストパネスが話し終えると、まだ話していない者は、ソクラテスとホスト役のアガトンだけとなった。そこでアガトンがソクラテスに敬意を表して、先に話すことになった。アガトンは、さすがに戯曲大会で優勝しただけあって、見事な話しぶりを披露した。彼は、他の人びとがエロースをたたえると言いながら実際はエロースその神自身をたたえず、エロースが人間にもたらす幸福を讃嘆したに過ぎないと言った。そして、自分はエロースを真にたたえるために、第一にエロース自身いかなる神であるかについて、第二にその数々の贈り物について、たたえたいと宣言する。

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ベルナルド・ベルトルッチの1990年の映画「シェルタリング・スカイ」は、ニューヨークからアフリカにやって来た三人の男女の関わり合いを描いた作品だ。三人のうち男女二人は夫婦であり、残りの一人は妻の方を愛している青年だ。その青年は、若くてハンサムなので、妻はついつまみ食いのようにして、抱いてしまう。そんな妻の浮気心を気に入らない夫は、青年を追い払って妻と二人きりになろうとするが、アフリカの砂漠の真ん中で熱病で死んでしまい、妻は途方に暮れたあげくに、アラブ人の隊商に拾われ、その実力者の男の妾にされるというような筋書きの映画だ。

トランプの命令で、米軍がイラン軍の将軍を殺害したことで、一気に緊張が高まっている。全面戦争に発展する可能性さえ指摘されている。トランプはこの時期になぜ、このような冒険をしたのか。色々な臆説が流れているが、中には、トランプは自身に対する弾劾裁判から、国民の目をそらせようとして、この挙に及んだとする説もある。小生も、ありうることだと思う。

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列子は中国春秋時代の思想家で、道家の系列に属し、荘子よりやや以前に活躍した。その活動ぶりについては、「荘子」の中でも触れられている。それを読むと、虚を尊び、心身を空しくして天地自然と一体となり、風に乗って大空を飛行するのを好んだという。

大江は1960年安保を前に「若い日本の会」というものにかかわった。その会には石原慎太郎とか黛敏郎のような民族派の右翼もいたが、おおむねリベラルな人間が集まっていたといってよい。この「若い日本の会」のメンバーだった一部の連中を、大江は「憂い顔の童子」の中で取り上げて、かれらの活動をパロディ化している。大江なりの同時代批判といってよい。

QAnonとその支持者たちのSNS上のメッセージに対して、最近トランプが頻繁にリツイートをしていることが話題になっている。QAnonというのは、2017年10月以降登場したSNSアカウントのことで、極右の立場からトランプを応援し、トランプの批判者を集中攻撃しているものだ。その極端でかつ暴力的な傾向から、FBIも「国内テロ組織」としてマークしているという。そんなものを何故トランプがリツイートして応援するのか。

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ルノワールは国立の美術学校に通うかたわら、スイス出身の画家シャルル・グレールの主催する美術学校にも通った。国立美術学校からはほとんどましな美術教育は期待できなかったようで、かれはもっぱらグレールのほうから刺激を受けていた。その美術塾の同僚には、後に親友となるフレデリック・バジールやクロード・モネ、アルフレッド・シスレーといった人々がいた。かれらはこの塾で、ロマン派の巨匠ドラクロワや写実主義のクールベを研究した。また、コローやアングルにも傾倒した。

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ベルナルド・ベルトルッチの1987年の映画「ラスト・エンペラー」は、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の生涯を描いた作品だ。1908年、西太后の指名により二歳にして即位し、1967年に63歳で死ぬまでの生きざまを描いている。即位以後のことを編年的に描くのではなく、1950年に共産政権によって投獄され、そこで尋問されるシーンを重ね合わせている。史実としては、溥儀は共産政権に一定の評価を受け、国務を分担して晩年を過ごしたのであるが、この映画では、溥儀は十年間投獄された後釈放され、市井に身を潜めて暮らしたというふうになっている。

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NHK恒例の新春能楽、今年の出し物は翁。金春流に伝わる古い様式の翁だそうだ。「十二月往来、父尉、延命冠者」という小書きの題名がついている。通常の翁は、前半で翁と千歳が舞いを舞い、後半で三番叟が舞うのだが、この小書きでは、翁は三人出て来る。三人の翁のうち一人が父尉の面をつけ、延命冠者とやりとりをする。また、後半では、三番叟があどとの間でやりとりをし、続いて鈴の段の運びとなる。筋書きが複雑になっているぶん、変化に富んだ演出と言える。

エリュクシマコスの次はアリストパネスの番だが、彼はエリュクシマコスが語っている間にしゃっくりが収まっていたのだった。彼は医師であるエリュクシマコスから、しゃっくりを収める秘訣を三通り教わって、それを試したのだったが、三つのうち最後の方法を試してやっと収まったのだった。それはくしゃみをほどこすというもので、それについてアリストパネスは、体の中の、エリュクシマコスのいう節度ある部分が、くしゃみのような騒音やくすぐりを欲求するものなのかと不思議に思うと言うのだった。

日本とドイツは、ともに敗戦国として、国土を焦土と化され、それこそ瓦礫の山から戦後の再出発に取り組んだわけだが、いずれも比較的短期間で復興を達成し、世界の経済大国として復活した。そのプロセスのなかで、ドイツは統合ヨーロッパの盟主となっていき、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれて、自尊心を満足させることができた。その復興のパターンには、共通するところも多いが、相違する点もある。

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ベルナルド・ベルトルッチの1972年の映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、日本でも大きな話題になった。過激な性描写もさることながら、マーロン・ブランド演じる不気味な中年男が、若い女を相手に鶏姦するシーンが衝撃的だったのだ。日本では鶏姦は男性同士の行為であって、女が対象となることはないと受け取られていた。だからこそ熊楠先生は、「婦女を姣童に代用せしこと」という小論の中で、女の後門を責めることの異常さを指摘したのだった。

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今年は小生にとって六度目の年男だ。十二支を以て暦を一巡する慣習は中国に始まって東アジア諸国に広まったものらしい。その十二支に十二禽を配して子年を鼠年などという。小生はその鼠年に生まれたわけだ。生まれて以来暦が六巡して、今年はめでたく七十二歳になる。この年になると、年を重ねることをめでたく感ずるようになるのは、命のせいだろう。

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