2024年2月アーカイブ

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表参道ヒルズは、この地域ではもっとも大規模な建物で、全長が250メートルもあります。そのわりに高さが控えめなので、上から見ると地べたに横たわった竜のように見えるでしょう。

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「異端審問(Escena de Inquisición)」と題されたこの作品は、「闘牛」、「狂人の家」、「むち打ち苦行者の行進」とともにシリーズを構成する。このシリーズでゴヤは、スペインの古い因習を批判したのだが、この作品ではカトリックによる「異端審問」の風習を批判した。この風習は、15世紀の半ばに始まり、ナポレオンの時代には廃止の動きもあったが、フェルナンドの王政復古にともない、復活した。

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奥田瑛二の2006年の映画「長い散歩」は、家族崩壊で孤独になった老人と、母親から虐待されている少女の心の触れ合いを描いた作品。この二人は、現実の過酷さを逃れて旅をすることになるので、日本人には人気のあるロード・ムーヴィーとしてもよくできている。旅の先にはむろん理想郷は待っていない。老人は児童誘拐で監獄に入れられる。だがそのことを悔いはしない。かといって、自分の行為に満足はしていないようだ。答えなどありようはずがない中で、老人はまたあてもない旅に出るようである。

「花鏡」事書十二か条の最初は「時節当感事」である。能は音曲をもとにして進むものだが、シテがその声を出すのにタイミング(時節)があるということである。ふつうは橋掛かりで一声を出すが、それにはタイミングがあって、観客の呼吸と合わせるのが肝心である。また、場所についてもコツがある。橋掛かりを三分の一ほど残して一声をだす。舞台に立てば、囃子手の座より舞台を三分の二ほど残して立つ。舞う場合には、舞台の後ろを三分の一ほど残して舞はじめ、舞終わりすべきである。

過日NHKが大河原化工機冤罪事件に取材した番組を放送した。この事件は、警視庁公安部が一民間企業を外為法違反容疑で検挙し、その後起訴されたものの、初公判を前にして、検察自ら起訴を取り下げたという極めて異様なものであった。その後、大河原化工機の社長らによる損害賠償訴訟があり、その訴訟の場で公安部の課員がこの案件は捏造だったと証言したことで、その異様さが改めて浮き彫りになった。この件についてNHKの現場の記者が関心を持ち、比較的早い段階から取材をしていたようで、そうした取材内容を紹介しながら、事件の流れを追い、かつ公安調査のあり方に疑問を投げかけるものだった。この放送に先立ち、NHKの記者は雑誌「世界」に、この事件の概要について紹介し、公安部の体質について批判していた。小生はそれを読んでいたので、この事件について自分なりに考えていた。そんな折にこの放送がなされた。そこで小生は、それらをもとにしつつ、日本の公安調査のあり方について、鄙見を述べてみたいと思った次第である。

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「むち打ち苦行者の行進(Procesión de disciplinantes)」と呼ばれるこの絵は、「闘牛」、「狂人の家」、「異端審問」とともにシリーズを構成する。このシリーズは、フェルナンド七世によるペイン王政の復活に伴い、カトリック的な保守頑迷さも復活したことに、ゴヤが批判の意を込めたものと言われている。この作品は、中でももっとも批判精神に満ちている。

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深作欣二の2000年の映画「バトルロワイアル」は、ある種のサバイバルゲームを描いた作品。ある種のというのは、文字通り命を懸けたゲームで、数十人の中から生き残れるのはたった一人だけというものだ。そのゲームを、どうも日本国家が率先して実施している。健全な青少年を育成するには、腐敗分子を間引く必要があるという思想が、そこには感じられるのである。したがってこれは、明らかに優勢主義思想の落とし子である。この映画は、日本でより欧米で評判になったそうだが、欧米ではこんなにあからさまな優生主義思想は受け入れられる余地がなく、したがってこんな映画は作られないからであろう。

正法眼蔵第二十七は「夢中説夢」の巻。夢中説夢とは文字通りには「夢の中で夢を説く」という意味だが、これを証中見証と言い換えているので、さとりを夢にたとえているのがわかる。ではなぜさとりを夢にたとえるのか。夢はふつう非現実的なものと思われているので、その夢にさとりをたとえることは、さとりを非現実的なものと考えることになるのではないか。そういう疑問が当然おきるが、道元は、この場合の夢とは「大夢」であって、ふつうに思われているような夢ではない、「夢然なりとあやまるべからず」というのである。

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2022年にオープンしたマックスマーラ表参道は、マックスマーラにとって表参道地区では二つ目のものです。イタリア人建築家アンドレア・トニョンの設計です。庇構造を取り入れ、その部分を流線形にすることで、躍動感を演出しています。この躍動感があるために、実際よりもそびえたつような印象を受けます。

「差異と反復」の第四章は、「差異の理念的総合」をテーマとする。この奇妙な言葉で表されたテーマについて明確な観念を持つためには、「理念」という言葉の意味をおさえておかねばならない。この理念という言葉をドゥルーズは、まずカント的な意味で使い始めるのだが、途中から、それもいきなり、ドゥルーズ独自の意味合いで使うことになる。理念とは多様体であり、したがって差異からなると言い出すのである。なぜそう言えるのか、について立ち入った説明はない。

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「鰯の埋葬( El entierro de la sardina)」と呼ばれるこの絵は、マドリード地方の民衆の風習をテーマにした作品。謝肉祭の最後の日(灰の水曜日)に、マドリードの市民は仮面をつけ、いわしをくくりつけた藁人形をかつぎながら練り歩き、郊外でその鰯を火あぶりにする習慣があった。この絵は、その行事に興じる民衆の姿を描いている。

キリーロフの自殺は、シャートフの殺害とならんで、小説「悪霊」の最大の山場だ。この二人は、ともに革命組織に属したことがあり、また、一緒にアメリカでの生活をしたうえで、故郷の町に戻ってきて、同じアパートで暮らしているが、互いに避けあうような仲になっていた。その二人のうち、シャートフは密告の懸念を理由に殺されるのであるが、キリーロフは別の形で利用される。キリーロフには自殺願望があって、それをピョートルが組織のために利用しようと考えたのだ。かれに適当な時期に自殺させ、そのさいに遺書を残させる。遺書には組織にとって都合のよいことを書かせておく。組織がやった犯罪行為を、自分がやったように見せかけ、官憲の操作をかく乱することが目的なのだ。ピョートルの目論見どおり、キリーロフはピョートルに都合のよい遺書を残して死んだ。

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表参道KEYAKIビル、ケリング・ビルは、一区画の敷地を仲良く分け合うように立っています。ケヤキビルが敷地の角に立ち、それをL字型に囲むかたちでケリング・ビルが立っています。通りを隔てた向かい側から見ると、細長い建物が二つ並んでいるように見えます。

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2006年のイギリス映画「アメイジング・グレイス(Amazing Grace マイケル・アプテッド監督)」は、イギリスの奴隷貿易廃止に取り組んだ政治家ウィリアム・ウィルバーフォースの奮闘ぶりを描いた作品。それに、讃美歌「アメイジング・グレイス」を絡ませている。この讃美歌は、ロンドンの教会の牧師ジョン・ニュートンが作詞したものと言われるが、歌詞の内容は神をたたえるものであり、奴隷解放とは関係はない。映画はそのニュートンを登場させて、あたかもこの曲が奴隷解放を呼びかけたもののように描いている。

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アニヴェルセル表参道は、もともと結婚式場として作られましたが、2023年にリニューアルされて、ファッション・ブランド、ティファニーが入居しました。そんなことで現在は、結婚式場というよりはティファニーのイメージが強くなっています。


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「巨人(El coloso)」と呼ばれるこの絵は、一時ゴヤの真筆であることを疑う説も出されたが、今日では一応ゴヤの真筆という合意が確定されていることになっている。「黒い絵」のシリーズとか、版画「戦争の惨禍」と共通する要素が多く指摘され、ゴヤの真筆と考えてよいのではないか。

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1998年のイギリス映画「アナザーワールド鏡の国のアリス(Alice through the Looking Glass)」は、ルイス・キャロルのファンタジー小説「鏡の国のアリス」を映画化したもの。テレビ放送のために制作されたが、のちに劇場でも上映された。キャロルの作品のうち、「不思議の国のアリス」は多くの国で映画化されたが、「鏡の国のアリス」そのものを映画化した例は他にはないのではないか。その点、この映画は貴重なものであると言えよう。

世阿弥の能楽論「花鏡」は、応永三十一年世阿弥六十二歳の年に成立した。これより四年前に書いた「至花道」をさらに敷衍・展開したもので、世阿弥の中期の代表的な能楽論である。奥書に、前期の能楽論を代表する「風姿花伝」との比較が記されており、それによれば、「風姿花伝」は亡父観阿弥の教えを書き留めたものであるのに対して、この「花鏡」は、四十歳以降時々に心に浮かんだことがらを書き留めたものだとある。つまり「風姿花伝」は亡父から受け継いだ庭訓であるのに対して、これは自分自身の能楽論だというのである。

雑誌「世界」の最新号(2014年3月号)に、今進行中のパレスチナ問題についての二つの投稿がある。一つは「パレスチナ・西岸に生きるということ~あるいは次の瞬間死ぬということ」と題する安田菜津子のルポルタージュ記事、もう一つは「ショアーからナクバへ、世界の責任」と題する高橋哲哉の講演記録で、こちらはイスラエルによるパレスチナ人迫害について原理的な考察を行っている。

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ナポレオンのスペイン侵略にともない、ナポレオンの弟ジョゼフがスペイン国王となった(スペイン語ではホセ)。1808年のことである。マドリード市では、ジョゼフ国王をたたえるための肖像画の制作をゴヤに依頼した。その結果が、1809年の作品「マドリード市の寓意(Alegoría de la Villa de Madrid)」である。

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2010年のイギリス映画「わたしを離さないで(Never Let Me Go マーク・ロマネク監督」は、日系のイギリス人作家カズオ・イシグロの同名の小説を映画化した作品。テーマは臓器提供型アンドロイドである。この映画のなかのアンドロイドは、人間の遺伝子をコピーした人造人間だが、身体も心も人間と全く異なるところはない。だが、生きたまま人間に臓器を提供するように仕組まれており、生後ある一定の年齢になれば、自分の臓器を摘出される。最初の手術で死ぬものもいるが、だいたいは三回の手術を受けて終了を迎える。終了とは死ぬことである。

正法眼蔵第二十六は「佛向上事」の巻。仏向上の向上とは、その先という意味。だから仏向上は、仏の更にその先の境地ということになる。人は仏になることを修行の目的とするが、仏になったらなったで、更にその先を求める、それが仏向上という言葉の意味である。この巻は、そうした意味での「仏向上事」について説く。

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地下鉄表参道駅を出ると、表参道の通りを隔てて見えるのが「One 表参道」です。青山通りとの交差点の北西に面して立っています。結構クラシックな感じがする建物です。設計は隈研吾、竣工は2003年です。ただし、2023年に拡大リニューアルされています。昨年の初夏に訪れた時にはリニューアルの工事中でした。

「差異と反復」の第三章は、「思考のイマージュ」と題されているが、実質的な内容は、哲学の前提に関する議論である。ドゥルーズは、従来の伝統的な哲学はすべて、ある前提から出発していると見ている。その前提とは、哲学以前の世俗的な道徳を反映したものである。したがって臆見とか常識と言い換えられるようなものである。そうした臆見ないしは常識が土台にあるから、哲学はすべての人(といっても西洋的な伝統に属する人という意味だが)にとって共通の議論の対象となるのである。ところで、ドゥルーズの哲学者としての使命は、伝統的な哲学(形而上学)を、ニーチェと共に解体することであった。その解体の主要な武器として、ドゥルーズは、哲学における前提の批判とその否定を打ち出すのである。だからこの章の狙いは、「哲学における前提」を破壊することにある。

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ゴヤは宮廷画家として貴族たちの肖像画を描いたのだったが、晩年には商人の肖像画も描いた。「イサベル・デ・ポルセール」と題されたこの肖像画は、その代表的なものである。モデルは富裕な商人アントニオ・ポルセールの若い妻である。ゴヤは、ゴドイを介してポルセールと近づきになり、たびたび饗応された。これはそのお返しとして制作されたといわれる。

小説「悪霊」の最大の山場は、ピョートルらによるシャートフ殺害だ。小説のモデルとなったネチャーエフ事件がネチャーエフらによる仲間の殺害だったということからすれば、この小説の山場がシャートフ殺害に設定されていることは自然なことだ。ネチャーエフ事件と同様、密告の防止が殺害の原因とされている。だが実際には、シャートフに密告する意志があったようには思えない。ピョートルの勝手な思い込みといってよい。ピョートルは、シャートフが組織から自発的に脱退しようとしていることに腹をたてており、その意趣返しとして密告の濡れ衣を着せ、シャートフ殺害を合理化したように受け取れるような書き方になっている。

雑誌「世界」の最新号(2024年3月号)が「さよなら自民党」と題する特集を組んでいる。今大騒ぎになっている自民党各派閥の裏金問題が、自民党にとってどんな問題を投げかけているのかを批判的に検証するような内容である。最も迫力を感じたのは、佐々木毅と山口二郎の対談。「90年代政治改革とは何だったのか」と題するこの対談のなかで、佐々木は、30年前にも同じような不祥事(リクルート事件)が起き、そのために政治改革をやったはずなのに、その改革の理念がちっとも実現せずに、またぞろ同じような不祥事が起きたと言って、自分たちの対談が失われた三十年を地で行くようなものになるんじゃないかと「恐れている」と言う。

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1993年のイギリス映画「日の名残り(The Remains of the Day ジェイムズ・アイヴォリー監督)」は、日系のイギリス人作家カズオ・イシグロの同名の小説を映画化した作品。小生は、原作を未読なので、それと比較することははばかられるが、歴史家の近藤和彦によれば(「イギリス史10講」)、原作の雰囲気は映画にもよく反映されているようである。

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昨年(2023)の初夏に表参道を訪ねたのは、小生が好きな現代建築の名作が見られると知ったからだ。それまで小生は、東京の街を歩き回り、街のたたずまいをカメラに収めては、「東京風景写真」と称してブログで紹介していたものだ。また、建築遺産と称されるような建築史を飾るような建物の写真を、「東京建築遺産」と称して、併せて紹介した。小生が建築にこだわるのは、一時期建築関係の仕事をやっていたためである。その仕事は、建築を総合的に評価するというものだった。そうした評価は、現代建築について行うものであったが、小生は現代建築をブログで取り上げることはしなかった。ところが、年令を重ね、後期高齢者の仲間入りをすることとなるにいたって、俄然現代建築についても(仕事上ではなく)個人的な関心を抱くようになった。

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「マハとセレスティーナ(Maja y celestina)」と題されるこの作品は、「バルコニーのマハたち」と対をなすもの。ゴヤの財産目録の中に、「バルコニーの若い女性を描いた2枚の絵」とされるものがあることからわかる。どちらも、売ることは考えておらず、自分自身の気晴らしのために描いたものであり、マドリードにあったかれの家の一室を飾っていた。

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2021年のアイルランド・イギリスの合作映画「ベルファスト(Belfast ケネス・プラナー監督)」は、北アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントの宗教対立を描いた作品。この対立は、1969年にカトリック側がIRA(アイルランド共和国軍)」を結成してイギリスからの独立とアイルランドとの統一を求めて戦いに踏み切ったことから始まり、1970年代から80年代にかけて大規模な軍事紛争に発展した。この映画は、その対立の初期の局面を描く。カトリックに反発したベルファストのプロテスタントが、自衛段を結成してカトリックへの攻撃をするところを描くのである。

世阿弥が能楽論「至花道」を書いたのは応永二十七年、「風姿花伝」の別紙口伝を書いた二年後のことである。世阿弥後期の本格的能楽論「花鏡」への序論のようなものと言える。この能楽論の意図も、「風姿花伝」同様、能楽にとっての基本的な事柄を子孫たちに伝えようとするものである。その事柄を世阿弥は、ここでは五つにしぼり、それぞれについて簡単な説明を加えている。その五つとは、二曲三体事、無主風、闌位事、皮肉骨事、体用事である。

ウクライナ戦争とガザのジェノサイドを見て、小生は人間という生き物の愚かさをあらためて思い知った。冷戦が終わった直後には、これで人類社会は世界規模の大戦争から解放され、平和な生き方ができるという幻想にとらわれたものだ。その後、アメリカによる対テロ戦争と称する小競り合いはあったものの、世界中を巻き込むような戦争は起こっておらず、人類社会は基本的には平和だったといってよかった。ところが、ウクライナ戦争とガザのジェノサイドは、そうした浮かれ気分を吹き飛ばし、人類は戦争が好きな生き物だという冷厳な事実を、痛いほど知らしめた。

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マハとは、スペイン語で粋な女とか伊達女というような意味である。この絵にはそのマハが二人描かれている。この絵は、サイズとしては大きいのだが、ゴヤはこれを自分の気晴らしのために描いたと言われている。二人の若い女と、あやしげな二人の人物が描かれている。若い女はゴヤのこだわりを示しているのだろう。背後の二人の人物にどんな意味を持たせようとしたのか、よくはわからない。

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2017年のアイルランド映画「メアリーの総て(Mary Shelley)」は、イギリスの最も偉大な詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの妻であり、怪奇小説「フランケンシュタイン」の作者としても知られるメアリー・シェリーの青春時代を描いたものである。本屋の娘として生まれたメアリーが、家族関係のいざこざからスコットランドに送られ、そこでシェリーと出会い、以後シェリーとの複雑な関係を続けるさまが描かれる。映画は、メアリーが「フランケンシュタイン」の出版にこじつけるところまで描き、その後のことは省いてある。したがって、ホッグやバイロンは出てくるが、キーツは出てこない。

正法眼蔵第二十五は「渓声山色」の巻。諸仏がそれぞれさとりを開いた経緯を記しながら、さとりとは理屈ではなく、体験によってもたらされると説く。それも突然生じるような体験だ。ある時、あることをきっかけに、突然悟りを得る。これは知識の賜物ではなく、また得ようと努力・修行して得られるものではない、無論修行は大事だが、修行が則さとりにつながるわけではない。さとりというのは、わけもなく突然やってくるのである。その典型例として道元は、偉大な詩人として知られる蘇軾の体験をあげる。蘇軾はあるとき、渓声山色を聞いて、忽然さとりを得るところがあった。その蘇軾の例に倣い、悟りを得る秘訣を道元は「渓声山色」という言葉で表したのである。

「差異と反復」の第二章は「それ自身へ向かう反復」と題されている。これは反復について立ち入って分析したものだ。それをドゥルーズは「それ自身へ向かう反復」と表現した。この表現は、差異を主題的に論じた第一章のタイトル「それ自身における差異」と同様奇妙なものである。むしろより一層奇妙といってよい。反復とは、常識的な意味では、つまり伝統的な意味では、反復されるものを前提にしている。それは反復するものとの間に密接な関係を持っているはずだ。その密接な関係とは、同一性のことである。反復するものと反復されるものとの間に何らかの同一性を認めるからこそ我々は、あるものが反復した、あるいは反復されたと考える。常識的な考えでは、差異が同一性を前提としていたように、反復もまた同一性を前提している。ところがドゥルーズは、そうした常識的な考えに異議を唱える。反復とは、同一のものの繰返しではなく、差異が反復されると考えるのである。「それ自身へ向かう反復」という言葉には、そうしたドゥルーズの考えが反映されていると思うのだが、この言葉からそうした考えがストレートに伝わってくるようには見えない。「それ自身」というのが、それ自身との同一性なのか、あるいはドゥルーズのいう差異としてのそれ自身なのか、この言葉からははっきりとわからないのである。

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「着衣のマハ(La maja vestida)」と題するこの絵は、「裸のマハ」と一緒にプラド美術館に展示されている。この二つは、もともとゴヤの時代の宰相ゴドイのコレクションであったものだ。「裸体」のほうが先に制作され、「着衣」のほうが後で制作されたようである。ゴドイは、「裸体」のカモフラージュ用に、着衣のマハの制作をゴヤに依頼したと信じられている。

小説「悪霊」は、ネチャーエフ事件をきっかけに書かれた。ネチャーエフ事件とは、革命運動組織の仲間割れからおきたリンチ殺人事件である。それをネチャーエフが主導した。この事件では、80名以上の組織メンバーが検挙されたが、ネチャーエフ本人は外国に逃れた。ドストエフスキーがこの小説を書いたときには、まだスイスあたりで活動していた。そのネチャーエフに相当する人物がピョートル・ヴェルホーヴェンスキーである。

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サイの隣にはカバが住んでいます。大型のカバとコビトカバがいます。これはコビトカバのほう。コビトとはいっても、人間と同じくらいの大きさがあります。体重は人間よりずっと重いです。でっぷり肥っていますからね。このコビトカバ、小生のいるほうに向かってのっそりと歩いてきます。

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2023年の日本映画「ロスト・ケア(前田哲監督)」は、介護従事者による患者殺人を描いた作品。その殺人を、犯人は人を殺したのではなく、救ったのだという。その男は、数年の間に41人もの患者を殺していたのだ。そのことについて、担当の検事が追及すると、自分は患者とその家族を楽にしてやるために、死なせてやったのであり、なんらやましいとは思っていないという。そんな犯人を検事は法の裁きに服させるが、実は心のどこかで犯人の主張に共鳴する、というような内容である。

四方山話の幹事仲間と八重洲中通りを飲み歩いた。この日は、昨夜来の雪が数年ぶりに積もり、東京は雪に埋もれるありさまだったので、家人からは自重したほうがよいと言われたのだが、山歩き用の靴をはいて、ペンギン歩きをすればなんとかなるさ、と考えて出かけた次第。おかげで大事に至らず飲み歩くことができた。

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裸のマハ(La maja desnuda)と呼ばれるこの絵は、ゴヤの最高傑作のひとつである。ゴヤはこの絵を、時の宰相マヌエル・デ・ゴドイの求めに応じて制作した。ゴドイにはポルノ趣味があって、女のヌードを描いた作品のコレクションを、自宅の一部屋で飾っていたそうである。

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荒井晴彦の2019年の映画「火口のふたり」は、従兄妹同士の性愛をテーマにした作品。日本では、血のつながりが近い従兄妹の間の性愛は、強いタブーとはいえないまでも、忌避される傾向が強い。だから、愛し合ってしまった従兄妹のカップルは、それに悩んだ挙句、あきらめることが多い。この映画は、そんな、一度は愛し合った従兄妹同士のカップルが、焼棒杭に火がついたように激しく愛しあうところを描く。

風姿花伝第七「別紙口伝」が書かれたのは応永二十五年、第六が書かれてから十五年ほどたってからのことである。同じ時期に「花習」が書かれている。この時期以降、世阿弥は芸能論を多く書くようになるので、一つの転機だったと言える。

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キリンの隣にはサイが暮らしています。いまいるサイはヒガシクロサイといって、アフリカからやってきたそうです。メス・オス一頭ずついて、オスがマロ、メスがアルゴというそうです。上の写真は、おそらくマロだと思います。角が立派に見えます。
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ゴヤがカルロス四世によって宮廷画家に任命されるのは1789年のことだが、有名な「カルロス四世とその家族」を制作するのは1800年のことである。版画集「カプリーチョス」を1799年に出版している。この家族の集団肖像画の制作には、王妃マリア・ルイーサの意向が強く働いているとされる。

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2019年の日本映画「宮本君から君へ(真利子哲也監督)」は、恋人を強姦された男が、強姦した相手に復讐するさまを描いた作品。凄惨な暴力シーンが話題になったが、それ以上に世間を騒がせたのは、日本芸術文化振興会がこの映画への補助金の交付を取り消し、それに対して制作者側が訴訟を起こして、最高裁で原告が勝ったということである。振興会が助成金取り消しの理由にあげたのは、出演者の一人ピエール滝が薬物使用で逮捕されたことだ。一審では原告勝利、二審では原告敗訴、最高裁で逆転判決という劇的な経緯をたどった。

「画餅」とは、画に描いた餅という意味である。ふつう、画に描いた餅は食えぬという。だから飢えを充たすことはできない。飢えを充たすのは、現実の餅である。現実の餅が本当の餅であり、画に描いた餅は影のような物に過ぎない、というのが常識的な考えである。道元はそれに疑義を呈し、画餅と現実の餅とは、まったく別のもので互いに相いれざるものではなく、餅という概念的な本質を共有するのだと主張する。その主張が成り立つ所以を述べたのが、「画餅」と題する章である。「画餅」は「わひん」と読むように指示されているが、「がへい」と読んで差し支えない。

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上野動物園には、夫婦のキロンとその間に生まれたメスの子供がいるそうです。父キリンはヒナタ、母キリンはリンゴ、娘キリンはヒカリといるそうです。ヒカリの名前はリンゴの品種の名前にちなんでつけたそうです。上の写真は母キリンのリンゴ。

ドゥルーズの著作「差異と反復」の第一章のタイトルは「それ自身に置ける差異」である。これは実に奇妙な言葉だ。常識的な考えでは、差異というのは、あるものの別のあるものとの相違ということを意味する。あるものに差異があるとすれば、それは別のある者との関係を前提としているわけであるから、差異という概念は媒介された概念であり、したがって相対的な概念ということになるはずだ。ところがドゥルーズは「それ自身における差異」という言葉を使う。「それ自身における」という言葉は、常識的には、他のものとの関係を無視した、したがって何ものにも媒介されない、絶対的な概念ということになる。こうした概念規定は、常識とは著しく異なるので、読者を混乱させることは免れない。

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アルバ公爵夫人は、美貌で知られていたという。1796年に夫のホセが死んだので、彼女はアンダルシアの別荘で一年間喪に服した。その折にゴヤは夫人に随行し、彼女の肖像画を何点か制作した。夫人の希望によるものである。この作品は、その一部。

ニコライ・スタヴローギンは、小説「悪霊」の中でもっとも重要な役割を担わされている人物だ。だが、それにしては謎が多い。この小説のメーン・プロットは、革命思想を抱いた集団の異常な活動ぶりを描くことからなる。その一環として、市街地の放火事件を起こしたり、密告の疑いをかけた男を殺したりする。また、自殺願望の男を、自分たちのシナリオに都合よく利用したりもする。そうした一連の事件がこの小説のメーン・プロットの内容をなすのであるが、それらに直接かかわるのは、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーのほうであって、ニコライ・スタヴローギンは全くと言ってよいほどかかわらないのである。にもかかわらず、かれは非常に影響力の強い存在で、インタナショナルに直接つながる重要人物だというふうに、その集団から思われている。ピョートルなどは、ニコライを自分らの運動の指導者と思い込んでいる。だが、本人はそんなことは思いもよらない。かれは、かつては革命運動にかかわったことがあるらしいが、いまでは、そんなことには興味を抱いていないのだ。

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ペンギンたちの隣にはフラミンゴたちがいます。みんなで水からあがってくつろいでいました。どういうわけか、ほとんどの個体はこちらにお尻を向けています。フラミンゴは群れになって踊る姿が美しいですが、こんなふうにお尻を向けられては、見ているほうとしては形無しです。

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福澤克雄の2018年の映画「祈りの幕が下りる時」は、殺人事件の解明をめぐる推理ドラマである。非常に手の込んだ筋書きで、最後まで事件の真相がわからない。担当の刑事まで迷宮入りを予想するくらいなのだが、一刑事の執念が事態を明らかにする。その刑事(阿部寛)は、事件に密接なかかわりを持った女性の息子だった。それがかれに事件を解明させた、というような内容の作品である。原作は、人気作家東野圭吾である。

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カンガルーの宿舎の向かい側にはペンギンのいるプールがります。上野にいまいるペンギンはフェアリー・ペンギンと言って、世界で最も小さな種類のペンギンです。葛西の水族館でも会うことができます。ちょこまかとした姿がかわいいです。

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「魔女の飛翔(Vuelo de Brujas)」と題するこの作品は、「魔女の夜宴」と同じく、オスナ公爵の依頼を受けて制作した六点の怪異画のうちの一つ。マドリード郊外の公爵の別荘ラ・アラメダに飾られた。モチーフは、飛翔する魔女たちである。

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