2024年1月アーカイブ

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2010年の映画「告白」は、幼い娘を殺された母親の復讐劇である。その復讐というのが、実に陰湿なものであり、見ていて胸糞が悪くなるテイのものである。だから、大方の観客はマイナスのイメージをもったと思うのだが、なかにはプラスのイメージをもったものも多くいた。そういう連中が何を感じてこの映画を面白いと思ったのか、小生には想像がつかないが、そういう人間が多くいるということは、社会がかなり病んでいることの現れだろうと思ったりする。

風姿花伝第四「神儀云」は、申楽の起源と神事とのかかわりについて記したもので、他の部分とは雰囲気が異なる。おそらく申楽者の間の伝聞を記したのであろう。それによれば申楽は天の岩戸の前で神々が踊ったというその遊びに起源があると記したうえで、直接の祖先は欽明天皇の御代に生まれた秦河勝だとする。その河勝が聖徳太子より六十六番の物真似を命じられたのが申楽の正式な発足である。申楽という名は、神楽から神の字のしめすへんを取り除いたものとも、楽しみを申すという意味だとも言われる。

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東園からイソップ橋をわたって西園に移動すると、まず右手にパンダの森があります。ここはいつきても行列ができるほどの人気ぶりで、この日も入れるのに40分もかかるといわれました。気の短い小生には、そんなに長い時間行列を作るのは沢山ですので、とばして先へ進みました。すると右手にカンガルーが見えました。

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「魔女の夜宴(Aquelarre)」と題されたこの絵は、オスーナ公の別荘を飾る怪異画6点のうちの一つである。モチーフは、バスク地方の魔女伝説に取材している。バスク地方には、魔女が子供をさらって、それを悪魔に生贄として捧げるという言い伝えがあって、たびたび異端裁判の対象となった。一番有名な魔女裁判は、スカラムルディの魔女を対象としたものだが、ゴヤがこの絵を描いたのは、その裁判が起こされる以前のことである。

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2005年の映画「ガーダ パレスチナの詩」は、日本人の古居みずえが、ガザのパレスチナ人女性を取材したドキュメンタリー映画である。1993年から2000年の第二次インティファーダまでを追っている、1993年はいわゆるオスロ合意がなされた年であり、パレスチナ人に国家再興の希望が生まれかけていた。しかしその希望は、イスラエル側の植民地政策によって踏みにじられ、パレスチナ人はあいかわらずイスラエルによる抑圧に苦しみ続けていた。その挙句に第二次インティファーダが起きたわけである。

正法眼蔵第二十三「都機」の巻。都機は「つき」と読む。「月」のことである。この巻は、月を題材にして、悟りの境地と、その内実たる真理について語る。月は心と同定され、あるいは心の象徴とされ、その心が悟りの境地に達したことを、月が円成することにたとえる。その円成は、いきなり実現されるのではなく、実は伏線がある。月は本来丸いものなのだが、人目には満ち欠けするように見える。しかし満ち欠けするように見えるのは、見かけのことなのであって、本当は、月は常に丸い。その丸さが月の本来の姿であって、満ち欠けするように見えるのは仮象にすぎない。それと同じように、人の心は本来、仏性を備えたものである。ところが、日常においては、煩悩にさいなまれている。それは心の仮の姿であり、それを脱して本来の姿、それをここでは真法身と呼んでいるが、その真法身に目覚めるというのが悟りの内実である。そんな趣旨のことが、この巻では、とりあえず説かれているのである。

月刊雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)が「リベラルに未来はあるか」という特集をやっていて、それを読んだ小生はいささか考え込んでしまった。この特集は、タイトルから推測できるように、いわゆる「リベラル」な価値に疑問を呈している。まあ、リベラルという言葉は、アメリカ人が好んで使うもので、日本人はあまり使うことはない。小熊英二によれば、日本でリベラルという言葉が使われたのは、1986年の衆参同一選挙のときからだという。その際に、社民連の江田五月が「リベラル派」の結束を呼び掛けた。江田が「リベラル」という言葉で表していたのは、「非保守・非共産」ということだった。それ以来日本では、「非保守・非共産」という意味で「リベラル」という言葉が使われてきた。つまりきわめて空疎な言葉であり、積極的な意味合いは持たなかったと言うのである。

ジル・ドゥルーズが1968年に出版した著作「差異と反復」は、かれの前半期の営みを集大成する業績である。かれがこの著作の中で展開したのは、西洋の伝統的な哲学思想(それをかれは形而上学と呼んでいる)の解体であり、そのうえで、全く新しいタイプの思想を構築しようというものだった。そうした問題意識は、ほぼ同時代を生きたライバル、ジャック・デリダと共有していたものだ。デリダのほうは、1967年に「声と現象」や「グラマトロジーについて」などを出版しており、それらの中でやはり西洋の伝統思想である形而上学の解体を目指していた。それをデリダはのちに脱構築という言葉で呼ぶようになるが、1967年の時点ではまだ大っぴらには使っていなかった。ドゥルーズのほうは、脱構築などという大げさな言葉は使わなかったが、西洋の伝統哲学に対する破壊的な攻撃力は、より深刻なものだったといえる。

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ゴヤは、1792年に重病を患い、聴覚を失ってしまった。かれにとってはショッキングな出来事で、深刻な鬱状態に見舞われたようだ。絵画制作の注文を受ける余裕もなくなったほどである。そんな折に、自分自身への慰めのために小品をいくつか描いている。「狂人のいる庭( Corral de locos)」と題する作品はその一つである。

小説「悪霊」のメーン・テーマは、ロシアに生まれつつあった革命組織の運動を描くことであるが、それに入る前に、ステパン先生とワルワーラ夫人との関係を描いている。これは、この小説の二人の主人公ニコライ・スタヴローギンとピョートル・ヴェルホーヴェヴェンスキーが、それぞれワルワーラ夫人とステパン先生の息子であることを考えれば、不自然なことではない。それに、語り手のアントン・ラヴレンチェヴィッチがステパン先生と特別深い関係にあり、したがってワルワーラ夫人とも密接な関係にあったことを考えれば、ステパン先生とワルワーラ夫人をめぐることから筆を起こすというのは、ある意味必然のことなのである。というのも、ステパン先生は、生来リベラルな傾向があって、ニコライ・スタヴローギンにリベラルな教育を施し、また、町の若者たちにも思想的な影響を及ぼしていた。だから、ステパン先生には、この小説のメーン・テーマである革命組織の運動に一定のかかわりを指摘することができるのである。それゆえ、ステパン先生の登場から小説を始めるのは、理にかなっている。

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ゴリラのいる高台から傾斜地を下がったところに、バクのいる区画があります。バクは、夢を食べる動物といわれます。なぜそんな綽名がついたのか、よく考えてみると、思い当たるフシがあります。バクは動きの少ない動物で、いつも寝ているように見えるので、夢を食べているなどと思われるのでしょう。

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2014年のトルコ映画「雪の轍(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督)」は、トルコ人の家族関係とか人間同士の付き合いを描いた作品。チェーホフの短編小説「妻」にヒントを得たというが、チェーホフの原作はロシア人の夫婦関係を描いており、したがってロシア的な家族関係を踏まえているが、この映画はくまでも、トルコ人のトルコらしい社会関係を踏まえているとみてよいのだろう。単純には言えないが、家族関係においては家父長の権威が強く、社会関係については打算的で金にうるさい社会だという印象が伝わってくる。

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前回上野動物園を訪れたときには、どういうわけか、ゴリラを素通りしてしまいました。今回はばっちりと対面しました。案内によると、いまは七頭のゴリラがいるそうです。ハオコを家長とし、妻モモコと二人の間に生まれた四人の子供たちで構成される家族に加え、トトというおばあさんゴリラがいます。トトは性格がよく、子供の面倒も見ますので、ハオコの家族の一員として受け入れられているようです。

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1788年にカルロス三世が没し、カルロス四世がスペイン国王に即位する。ゴヤはその翌年(1789)に、カルロス四世付の宮廷画家に任命され、引き続き宮廷画家としての職務に励むことになる。その頃のゴヤの美術面での主要な仕事は、王の離宮の装飾にかかわるものだった。すでにカルロス三世のために、パルド離宮のタペストリー下絵シリーズの制作に取り組んでいたが、つづいてカルロス四世の離宮サン・ロレンソ・エル・エスコリアル宮殿のタペストリー制作に従事した。「竹馬(Los zancos)」と題するこの作品は、シリーズ最後を飾るものである。

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2011年のトルコ映画「昔々、アナトリアで(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督)」は、犯罪捜査をテーマとしながら、トルコ人の生き方とか考え方を表現した作品。この映画を見ると、トルコ人の生き方のユニークさが伝わってくる。

風姿花伝第三「問答条々」は、演能についての実際的な心得を問答形式で説いたもの。九つの問答からなっている。いづれも、具体的な項目であり、かつ実際的である。

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前回トラに会いに来たときは、あいにくじっとして動いてくれませんでした。今回は、このように悠然と歩いている姿を見せてくれました。実に立派な体格で、いかにも強そうに見えます。陸上の動物の中でもっとも強いと思われます。ライオンより強いのではないでしょうか。この動物園では最も強いといってよいです。ライオンはいませんから。

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「サン・イシードロの牧場( La pradera de San Isidro)」と題されたこの作品は、パルド宮殿を飾るタペストリーのための下絵として制作された。パルド宮殿は、時の国王カルロス三世の離宮である。ゴヤは、1786年にカルロス三世の国王付き画家に任命され、その仕事の一環としてパルド宮殿のタピストリー制作にかかわった。ゴヤはその下絵をいくつか描いており、この作品はその一つである。


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2008年のトルコ映画「スリー・モンキーズ(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督)」は、トルコ人の人間関係をテーマにした作品。他人が犯したひき逃げ事件について、身代わりになって刑務所に入る男とその家族を描いている。男は他人の罪をかぶって刑務所に九か月入れられたばかりか、ひき逃げした男に妻を寝取られる。いわば踏んだり蹴ったりの扱いをされる。そうした境遇の彼らを、タイトルが表現しているとしたら、彼ら三人の家族はサルにたとえられているわけだ。

正法眼蔵第二十二は「全機」の巻。全機とは、存在するものの有している一切のはたらきといった意味である。機という言葉は、機関とか機用という形でもつかわれ、からくりとかしかけ、はたらきといった意味がある。それに全がついて、すべてのはたらきあるいは一切のはたらきということになる。どんなはたらきか。存在する、というはたらきである。存在とは、生死の全体を含む。そこで、全機についての説は、生死をめぐるものとなる。この巻は、実は生死について説いたものなのである。文章としては非常に短いが、味わい深いものがある。

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ゾウや猿山のあるゾーンとトラやゴリラのいるゾーンに挟まれたところに、カワウソの水槽があります。上野動物園の中でも人気の高い動物です。その軽快に動く様子が、子供たちには楽しそうに見えるようです。この日小生も立ち寄ってみましたが、カワウソたちの姿が見えません。水槽のガラスが水滴で濁っていて、中の様子が見えないのです。

ドゥルーズは「ニーチェと哲学」の結論部分を、ニーチェと弁証法の関係について強調することにあてている。これは自然なことだ。ドゥルーズはニーチェを西洋形而上学の破壊者として位置づけており、その形而上学が弁証法によって代表されるのであれば、ニーチェを弁証法の敵対者として描きだすことは、論理的に当然のことである。その弁証法を体系化したのはヘーゲルである。だからニーチェの弁証法への敵対は、ヘーゲル批判という形をとる、とドゥルーズは言う。「ヘーゲルとニーチェとの間に妥協は不可能である」(足立和弘訳)として、両者が不倶戴天の敵だと言うのである。とは言っても、ニーチェが終始一貫してヘーゲルを名指し批判したわけではない。ニーチェが名指し批判したのはソクラテスやプラトンといった哲学者である。だからニーチェは、ヘーゲルその人ではなく、ヘーゲルによって代表される弁証法的なものの見方を批判したといってよい。

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「マヌエル・オソーリオ・マンリケ・デ・スニガ(Manuel Osorio Manrique de Zuñiga)」と題したこの肖像画は、男の子の肖像画としては、ピカソの作品「ピエロに扮したパウロ」と並んで、美術史上最も有名なものである。モデルの少年は、スぺインの大銀行サン・カルロス銀行の理事であり、財力に物を言わせてゴヤを雇い、家族の肖像画を数点制作させた。マヌエルは彼の末子であり、この時三歳か四歳の子供だった。

小説「悪霊」の語り口は、ドストエフスキーの他の小説とは大分異なっている。ドストエフスキーの初期の小説は、一人称の形式をとるものが多く、中にはある人物の独白とか書簡とかいう形をとるものもあった。「罪と罰」以降の作品は、第三者による客観描写という形をとり、神の視点から地上の出来事を描いているような体裁をとったものが多い。ところがこの「悪霊」は、非常に奇妙な語り口を採用している。一人称による描写と第三者による客観描写が混在しているのである。まず、一人称の部分は、この小説の中の登場人物によって語られている。その人物が、自分が直接見聞したこととして出来事を描いていくのである。その一方で、この人物が直接体験したはずのないことについては、その人物が第三者の立場にたって、起きた出来事を事後的に描写するという形をとる。そんなことが可能なのは、対象となった出来事が犯罪にかかわるものであり、その犯罪の詳細はすでに捜査当局によってあきらかになっているので、自分はその捜査資料などを参考にしながら、事件の詳細を再現しているのだ、というような体裁をとっているからである。

日本のGDPがドイツのそれに抜かれ、今までの三位から四位に転落したそうだ。その原因は対米為替レートで円安になったためで、名目上の比率ではドイツに抜かれたが、実質的にはそんなに悲観することではないという意見もあるようだが、円安を含めて日本の経済力が弱まっていることを反映したものだととらえるのが自然なことであろう。

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2008年のトルコ映画「ミルク(セミフ・カプランオール監督」は、同監督の作品「卵」の続編と言われている。ユスフという人物の生涯の断片をそれぞれ描いたというのだ。これに後の「蜂蜜」を加えてユスフ三部作などと言われるが、内容上のつながりがあるわけではなく、批評家によるこじつけのように思える。全く別の作品として受け取ってよいものだ。
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「ホッキョクグマとアザラシの海」がある低地から高台へと上がっていくと、猿山があります。上野では、パンダについで人気のあるコーナーです。小生も上野に来るたびにかならず立ち寄ることにしています。そのたびにサルたちは新しい表情を見せてくれるのです。

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「フロリダブランカ伯爵の肖像」は、肖像画家としてのゴヤの名声を一気に高めた作品である。フロリダブランカ伯爵ホセ・モニーノは、スペイン王カルロス三世の信頼厚く、1777年以来宰相を務めていた。その人物にゴヤがどのような機縁で近づいたかはよくわからぬが、その肖像画を制作するや、大いに気に入られ、貴族社会に名を知られるようにもなった。そうした境遇をバネに、ゴヤは宮廷画家に迎えられることになる。

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2007年のトルコ映画「卵」(セミフ・カプランオール監督)は、トルコ人の家族とか故郷といったものをテーマにした作品。長い間故郷を離れてイスタンブルに暮していた男が、母親が死んだという知らせを聞いて、久しぶりに故郷へ戻り、そこで一人きりの妹や親戚、あるいは近隣の人たちとひと時の触れ合いを体験する、といったような内容だ。

風姿花伝第二は「物似条々」と題する。物真似について、それを九種類で代表させ、各々についての心得を説いたものだ。猿楽の芸がもともと物真似から始まったことは父親の観阿弥も認めていることであり、息子の世阿弥もそうした父親の見解を受け継いでいる。後に世阿弥は、物真似よりも幽玄を重んじるようになり、物真似の要素については、女体、軍体、老体に集約されていくのであるが、ここでは九体をあげてみな同じようなウェイトを付している。父観阿弥の影響がまだ色濃く残っていることを感じさせる。

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ホッキョクグマがいる水槽の向かい側にアザラシの水槽があります。ここにいるアザラシは、ゼニガタアザラシといって北海道に生息しているそうです。いまは、複数の個体がいて、そのうちメスのユカとその子供が人気者だそうです。小生がのぞいた時には、一頭のアザラシが遊泳する様子が見えましたが、その個体が誰なのかはわかりませんでした。

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ホガースは、版画家としては有名だが、油彩画家としてはあまり高くは評価されていない。そんな彼の油彩画のうち、最も有名なのが「エビ売りの少女」と呼ばれるこの作品である。これは一応肖像画ということになっているが、注文を受けて描いたわけではなく、ホガース本人の気晴らしとして描かれたものらしい。ホガース生存中は常に手元に置かれ、死後も妻はこれを売却せずに手元においた。クリスティーズのオークションにかけられたのは、妻の死後1789年である。その際に、カタログに「エビを売る少女」と記された。

先般の投稿で「私の三冊の本」をテーマにした際に、最初の一冊としてアルチュール・ランボーの詩文集をあげた。そこで小生がなぜランボーに強くこだわるのか、そのことについて改めて書いてみたいと思う。いつ死んでもおかしくない老人である小生が、いまさら「わが青春」を語るというのも滑稽に思われるかもしれないが、そこは我慢して読んでいただきたい。

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2001年のトルコ映画「少女ヘジャル ハンダン・イペクチ監督」は、孤児になったクルド人少女と、元判事だというトルコの老人との触れ合いを描いた作品。少女が孤児になったのは、両親や親戚がトルコ警察に殺されたためだ。トルコ政府は、クルド人の独立勢力を敵視しており、徹底的に弾圧している。だから、この映画に出てくるヘジャルのような少女は、ほかにも沢山いるものと想像される。そんなわけでこの映画は、トルコによるクルド人弾圧をテーマにしているともいえる。それがトルコ政府の逆鱗に触れたのか、この映画は上映禁止処分の憂き目にあったという。

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クマたちの丘の先には、ホッキョクグマとアザラシの海というコーナーがあります。この二種類の動物のいる水槽が並んでいます。まず、ホッキョクグマの水槽を訪ねました。前回来た時には、ホッキョクグマは暑さにへたれ、じっと動かないでいましたが、今回は元気な様子を見せてくれました。水中を元気いっぱいはしゃぎまわっているのです。

議論というものは、問いの立て方次第で大体の方向が決まるものだ。その問いは疑問というかたちをとるが、その疑問は多くの場合、というよりほとんどの場合、議論の参加者すべてに共通した問題をめぐるものである。というのも、一部の人にだけ関心を持たれるだけで、大部分の人あるいは多数の人に関心を持たれない問題は、そもそも議論の題材とはならないからだ。議論というものは、最低限共通の土台の上でなされる必要があるのだ。ところが、大部分の人にとって共通する問題とは、じつはどうでもよいことだ、とニーチェは言う。なぜならそういう問題は、人間の大多数をしめる凡愚な連中にとって意味を持つにすぎず、したがって現実の秩序の容認を前提としている点で、ロバが背負う荷物と異ならないからだ。そういう連中の関心事は、自分たちの利益を守ろうとする動機に駆られている。その利益は奴隷の利益である。だから、問いの立て方を問題にするときには、たとえば真理とは何かといったような、万人に共通するような外観を呈しているような場合には、それを疑ってかからねばならない。誰がその問いを発したかを、見極めねばならない。奴隷の発した問いは、所詮奴隷の利益を守ろうとするものである。真に有用なのは、人類全体の向上につながるような問いであり、それを発することができるのは、一部のエリート、つまり超人なのだ、というのがニーチェの基本的な考えである。

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ウィリアム・ホガースの版画「ジン横町(Gin Lane)」は、「ビール通り(Beer Street)」と一対をなすもので、後者がビールが人々に及ぼす肯定的な効果を強調しているのに対して、これは、ジンが人々に及ぼす否定的な効果を強調する。その効果とは、人間の堕落であり、道徳の破壊であり、コミュニティの崩壊である。

「悪霊」は、ドストエフスキーのいわゆる五大長編小説の三番目の作品である。最後に書かれた「カラマーゾフの兄弟」と並んで、かれの最高傑作との評価が定着している。たしかに、テーマの重さとか、構成の見事さなど、優れた小説としての要件を満たしている。しかも、ドストエフスキー自身の思想も盛り込まれている。この小説を書いた時点でのドストエフスキーは、若いころの自由主義的でかつニヒルな考えを克服して、いわゆるロシア主義的な思想を抱いていた。この小説は、自由主義とか社会主義あるいはニヒリズムを批判することに急である。それに替えて、伝統的なロシア主義を主張するような描写が多い。その主張は、たしかにドストエフスキー自身の当時の思想を踏まえたものといえる。だが、これは小説であって、プロパガンダではないので、ドストエフスキーはそうした主張をたくみに、つまり文学的な形で表現している。それがさも文学的に見え、ドストエフスキーによるプロパガンダと感じさせないところが、この小説の巧妙なところだろう。

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ゾウのところをいったん離れた後、クマたちの丘へ向かいました。そこでツキノワグマを見たのですが、これがどうも緩慢な様子です。動こうとしません。今は冬眠の季節にあたっていますので、おそらく半分寝ているのでしょう。ガイドによれば、冬眠中も完全に寝てしまうわけではなく、多少は目をさましている時間もあるようです。これは目をさましながらも、半分うとうとしている状態なのでしょう。

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2015年の韓国映画「インサイダーズ/内部者たち(ウ・ミンホ監督)」は、韓国風のアクション映画である。韓国人は暴力映画が好きらしく、この映画も暴力礼賛的な描き方をしている。それも単なる暴力ではなく、韓国特有の観力構造にからませてある。韓国の政治は、権力をめぐる赤裸々な戦いにいろどられているが、この映画はこうした権力闘争を、政財官一体の国民的な病理として描く。そこが並の暴力映画とは違うところだ。だが日本人にとってはかなりな違和感がある。日本人が映画に求める暴力性は、やくざ映画や北野武の映画に代表されるような、純粋な人間的暴力であり、政治や社会批判に結びつくような映画は、不純な要素を含んだものとして毛嫌いされがちである。

岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年2月号)が「リベラルに希望はあるか」という特集をしている。いまどき何故リベラルを、しかもその希望を問題にするのか、それ自体が問題であるが、それはさておいて、この特集には、いわゆるリベラルは必ずしも人間にとっての希望と結びついていないのではないかという懸念が指摘できるようだ。

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ウィリアム・ホガースが1751年に制作した版画「ビール通り(Beer Street)」は、「ジン横町(Gin Lane)」と一対になっている。これは、1750年に制定された法律「焼酎販売法( Sale of Spirits Act 1750)」の宣伝のために作られたものと言われる。焼酎販売法は、外国から輸入されるジンなどのスピリット類が、イギリス人を堕落させているとし、かわって国産ビールを飲むように勧める法律である。その法律の宣伝になぜホガースがかかわったのか。おそらくホガース自身に、外国から輸入される焼酎類に反感があったからと思われる。

「風姿花伝」は、世阿弥の最初の能楽論である。第一年来稽古条々から第七別紙口伝まで、七つの巻で構成されている。このうち、第三までは応永七年(1400 世阿弥38歳)に成立、続いて第六までが応永九年ごろ成立した。第七別紙口伝は、応永二十五年(1418 世阿弥56歳)ごろに、「花習」とほぼ同時に成立した。第六までは、父観阿弥の教えを世阿弥なりに受け止めたものを書き留めたという性格が強い。とりわけ第三までは、観阿弥の教えをそのまま書いたといえよう。

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2013年の韓国映画「7番房の奇跡(イ・ファンギョン監督)」は、知的障害者の冤罪を描いた作品。それに幼い娘との父子愛をからめてある。その知的障害者は、結局は吊るされて死ぬのであるが、父親の無罪を信じる娘が、成人後弁護士となって父親の名誉回復を願い、再審のうえ無罪を勝ち取るといった内容である。

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園内に入ると真っ先にゾウのいるところへ向かいました。すると、一頭のゾウが昼寝をしているのが見えました。アジアゾウだそうです。この動物園には現在、二頭のメスのオトナと一頭のオスの少年ゾウがいるそうですが、この寝転がっているゾウが誰なのかは、わかりませんでした。あまり大柄には見えませんので、少年ゾウかもしれません。

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ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「選挙のユーモア(Humours of an Election)」の第四作は「議員を椅子に乗せる(Chairing the Member)」と題する。選挙の結果当選した議員を、支持者らが椅子に乗せて行進する様子を描く。行進は穏やかには進まない。どんちゃん騒ぎを伴う。

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2008年の韓国映画「息もできない(ヤン・イクチュン監督)」は、やくざ者と不良女子高生との不思議な関係を描いた作品。二人とも破綻した家族を背負っている。その家族の破綻が、男をやくざ者にし、女を不良にしたというわけだ。そんな二人がどういうわけか、互いにひかれるものを感じる。それは当初は友情のようなものだが、次第に恋愛の感情へと高まっていく。だがその恋愛が実を結ばぬ前に、男が殺され、二人は引き裂かれるというような内容だ。

正法眼蔵第二十一は「授記」の巻。授記という言葉は仏教用語で、特別の意味を持たされている。岩波の仏教辞典には「過去世において過去仏が修行者に対して未来の世において必ず仏になることを予言し保証を与えること」とある。言い換えれば、過去の時代における修行の結果として、未来における成仏が確約されるということである。だから、成仏は一代で完結するものではない、ということになる。過去世の因縁が今の世の成仏の前提となっているのである。

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この正月は久しぶりに上野の動物たちと遊ぼうと思っていたので、小春日和のうららかな日を選んで出かけてみた。正月五日金曜日のことである。朝九時前に家を出て十時ごろに上野公園についた。京成上野駅から石段を登って公園に入り、まず清水観音堂をおとずれる。ここでお参りをすませてから動物園に入るつもりなのだ。

ニーチェのいう超人をドゥルーズは「価値の創造者」として捉える。その前に「価値転換」とか「価値変換」とか言っているが、それはある価値をほかの価値で置き換えるということではない。ドルーズが言うには、「これは諸価値を変えることではなく、諸価値の価値を生み出す境位を変えることである」(足立和弘訳)。ちょっとわかりにくい言いかたであるが、既存の価値とは全く違った新しい価値を生み出すようなそういう境位の転換ということを意味する。要するに、まったく新しい価値を生み出す、つまり価値を創造する、それが超人だと言うのである。

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ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「選挙のユーモア(Humours of an Election)」の第三作は「投票(The Polling)」と題する。投票の当日の様子を描いたものである。版画ではよくわからぬが、油彩で見ると、右側がブルー(トーリー)、左側がオレンジ(ホイッグ)の旗である。それぞれの旗の下に各党が陣営を構え、やってくる有権者に投票を呼び掛けているところだ。

寝取られ亭主をテーマにした「永遠の夫」は、寝取った側のヴェリチャーニノフの視点から書かれているので、寝取られた側としてのトルソーツキーは、他人の視線の先にある滑稽な人物というような役割に甘んじている。しかし小説のテーマが寝取られ亭主であるかぎりは、彼の言い分を彼の立場に寄り添うようにして聞くのも大事なことだろう。前稿では、小説の語り口にあわせて、ヴェリチャーニノフの視点から分析したものだったが、ここではそれを反転させて、トルソーツキーの視点から分析してみたい。

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2017年のイギリス映画「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男(Darkest Hour ジョー・ライト監督)は、対独戦を主導した英首相チャーチルの決定的な日々を描いた映画。イギリスではいまでも、チャーチルはイギリスをナチの暴虐から救った政治家として、なかば神格化されているが、この映画はそんなチャーチル像を上書きするものだ。自国民にこんなに敬意を表されては、チャーチルも本望であろう。日本では、戦争指導者が敬意を表されることはほとんどないので、奇異な気がしないでもない。

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ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「選挙のユーモア(Humours of an Election )」の第二作は「投票の呼びかけ(Canvassing for Votes)」と題する。有権者の支持を得るための候補者の選挙運動を皮肉っぽく描く。というのも、彼らの選挙運動は買収という形をとるからである。18世紀のイギリスの選挙では、票の買収が選挙運動の中心だったことを思わせる。

イスラエルのガザにおける虐殺を、南アフリカ政府がジェノサイドだと批判し、国際司法裁判所に提訴したことを受けて、ネタニヤフが奇妙な反論をしている。我々の行為は国際法にしたがったもので、かつ道徳的だというのだ。どうもネタニヤフにとっては、イスラエルのユダヤ人が行うことは、どんなことでも合法的であり、かつ道徳的な行為だということのようだ。

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2016年のイギリス映画「ハイドリヒを撃て!ナチの野獣暗殺作戦(Anthropoid ショーン・エリス監督)」は、ドイツ支配下のチェコにおける対独レジスタンス運動の一齣を描いた作品。実話に基づいた作品である。チェコのロンドン亡命政府が、チェコのドイツ人総督ラインハルト・ハイドリヒの暗殺を計画した。その計画はAnthropoid(類人猿)作戦と呼ばれた。この映画はその作戦の現地における進行ぶりを微細に描いたものである。

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今年のNHK新春能狂言は、連吟「四海波」、和泉流狂言「松囃子」、金春流能「猩々」だった。狂言は名古屋に本拠を置く野村又三郎一座が演じ、能のほうは金春流宗家金春安明がシテを演じていた。この曲は猩々舞という特殊の舞が見どころである。もともとは前後二段からなる複式夢幻能だったものが、前段が省略されて後段だけの半能形式で演じられることとなり、そのこともあって、舞がもっぱらの見せ所となっている。

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ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「選挙のユーモア(Humours of an Election)」は、四枚組のシリーズで、当初は油彩画で書かれたものを版画に作りなおしたものだ。その際に、画面の構成を左右逆にしている。モチーフは、1764年に催された衆議院選挙で、オックスフォード選挙区の様子を描いている。当時の選挙は制限選挙で、しかも記名式とあって、賄賂や買収が横行していた。そんな不正選挙の様子を、面白おかしく描いたものである。風刺版画家ホガースの集大成的な作品との評価が高い。

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ケネス・プラナーの2018年の映画「シェイクスピアの庭( All is true)」は、シェイクスピアの最晩年を描いた作品。シェイクスピアの生涯には不明な点が多く、また、劇作家としてのシェイクスピアの存在を否定する説もあるほどなので、かれの最晩年についても、詳しいことは知られてはいない。1613年に引退したのち、故郷のストラットフォード・オン・エイヴォンで余生を送ったということくらいだ。

正法眼蔵随聞記の第六(最後の巻)は、道元の在宋中の出来事を語ることから始める。師の如浄が道元を侍者として弟子たちに紹介したいといい、その際に外国人であるが才能のある人だと紹介するつもりだといった。それを道元は辞退した。その理由は、外国人の自分が侍者になることは、中国に人材が少ないからだと思われかねず、それは自分にとって本意ではなく、恥ずかしいことだと言うのである。こんなことを巻の冒頭に置いたのは、道元の謙虚な性格を強調したいからか。

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あけましておめでとうございます
令和六年を迎え、心よりご挨拶をいたしたいと存じます
昨年もあいかわらずひどい一年でした
今年もあまりいい年になる見込みがありません
これは、小生が年を取りすぎたせいではなく
世界中がおかしくなってしまったからだと思われます
ウクライナやパレスチナではむごたらしい人殺しが横行しており
国内では私利私欲にこりかたまった政治家たちが国民の暮しをそっちのけで
自分たちの利益追求に血眼になっています
じつに情ない世の中です
そんな世の中ですが生きる希望は捨てないようにしたいと思っています
皆様にも生きる希望を持たれるよう希う次第です
なお、添付した絵は、十二年前に当ブログで紹介したものの再掲です
その年の干支にちなんで、龍をモチーフにした作品です

壺齋老人 謹白

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