日本の政治と社会

日本の潜水艦隊は、アメリカ海軍もびっくりするほど有能なのだそうだ。その様子を英字紙 Japan Times が紹介した記事を読んだ。もっともその記事は、同紙のオリジナルではなく、日本の雑誌「選択」11月号に掲載されたものを英語に翻訳して、同紙がオピニオン欄に掲載したものだ。

ミャンマーで、アウン・サン・スー・チー女史率いる野党が大勝し、ミャンマーでも民主的な政権が誕生する可能性が言われる中で、日本の安倍政権も、ミャンマーに民主主義や法の支配が進むことを期待する、などと言表している。これは、日頃アメリカへの気配りに遺漏なきを期している安倍政権が、アメリカの言い分を鸚鵡返しにしているのだと忖度されるが、言うに事欠くとはこういうことを言うのだろう。というのも、安倍政権による法の軽視と言うか、法の破壊ぶりは、目にあまるというほかはないからだ。

OECDの最近の調査(OECD Better Life Index 2015)によれば日本人の生活満足度(Life satisfaction)は、OECD加盟国の平均を下回っているそうだ。満足度を引き下げている要因のうち比重の大きいのは可処分所得の水準と子どもの教育機会の充実度だ。

「にっちゅう」戦争と言っても、日本と中国との戦争、つまり日中戦争のことではない。「にっちゅう」の「ちゅう」は、中国の「ちゅう」ではなく、沖縄の「ちゅう」だ。「沖」という漢字は音読みだと「ちゅう」と発音するので、「日沖」戦争は「にっちゅう」戦争となるわけだ。

「人が犬になった」、こう言って内閣法制局を批判しているのは明治大学の西川伸一教授だ。教授は日刊ゲンダイのインタビューに答え、内閣法制局は法律の番人から政府の番犬になってしまったと言うのである。なかなか洒落た表現なので、筆者などは思わず笑ってしまった。

日本のイエロージャーナリズムの旗手を自認する週刊文春が、イエロージャーナリズムの不可欠の要素たる露骨な性表現を巡って君子然とした態度をとったと言うので話題になっている。最新号で、目下永青文庫で開催中の春画展を紹介する記事と併せて歌麿や北斎の春画をグラビアで載せたのであるが、どういうわけかこのグラビア写真が「編集上の配慮を欠いた」と言う理由で、編集長を休養という名の謹慎処分にしてしまったのだ。

安倍政権が目下売り物にしている女性活用策を、ウーマノミクスというのだそうだ。経済活性化を目指したアベノミクスに、ウーマンという言葉を付け替えることで、女性の活用を目指すという意味合いを含めている、というつもりらしいが、外国メディアには必ずしもそうは映らないようだ。この言葉が彼らに連想させるのは、女性の活用というよりも、女性の経済的な搾取ということのようだ。英誌エコノミストがその辺のことを取り上げて論評している。(We're busy. Get an abortion  )

8月30日には、安保法制に反対するデモが国会前で10万人規模に膨れ上がったのを始め、全国各地の都市でも行なわれた。しばらくデモの風景を見なかった日本でこんなに大規模なデモを見るのは1960年台後半以来ほぼ半世紀ぶりのことだ。それでこうした動きにマスコミがどう反応したか、興味深いところであろう。

法制審議会が、法務省の諮問を受けて、性犯罪の厳罰化の検討に入るという。背景には、裁判員制度の導入に伴い、殺人を中心にした凶悪犯罪の重罰化の傾向が強まっているなかで、性犯罪が他の犯罪と比較して軽い量刑で済まされていることへの、裁判員=市民の率直な違和感が働いているということらしい。

先日、23歳の若者男性が車の中で会社の女上司に蹴られて死んだというニュースが流れたが、それを聞いた筆者はびっくりした。その理由は恐らく、女が男を蹴り殺したということの異常さ、またこの女が暴行した男性と言うのは、女が雇っていたアルバイトで、その仕事ぶりが気に入らないから暴行したということの異常さだ。

日本で反原発を主張する論拠の一つに、便所のないマンションをたてるようなものだという理屈がある。たしかにその通りで、原発から出る大量のゴミとも言うべきものの、適切で安全な処理を伴わなければ、危険なゴミが国内に充満して、それこそ糞詰まりの状態になるのは、子どもでも思い浮かぶことだ。そこで、いかにしてこのゴミの処分に道筋をつけるかが問題になるが、ここに面白い提案をする人がいる。オックスフォード大学で原子力が環境に及ぼす影響を研究しているカービー氏だ。氏はニューヨーク・タイムズに寄稿した小文の中で、日本は核のゴミを外国に引き取ってもらうのが、もっともよい解決策だと提案している( Japan's Plutonium Problem )。無論ただではない、相応の手数料を支払った上でのことだ。

日本研究で知られるオランダのジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンが、最近の日米関係について論じた文章を日本の英字紙 Japan Times に寄せている(Dependence day: Japan's lopsided relationship with Washington )。本文はかなり長いので引用は控えるが、読者諸兄には、上記リンクからアクセスし、一読することをお勧めしたい。

安倍首相の戦後70年談話は、予想されていたほど挑発的・攻撃的ではなかったが、かといって謙虚で抑制的とも言えなかった。それは多分、東アジアでの緊張の高まりを望まない米国への遠慮と、国内の右翼勢力への気遣いとが相まって、そうさせたのだろう。

川内原発の再稼働が決まり、およそ二年ぶりに原発ゼロの状態に終止符が打たれる。しかし、再稼働を巡る一連の事態を見るかぎり、安心しているわけにはいかない。そう思うのは筆者のみではあるまい。

今年(2015年)は、広島・長崎に原爆が投下されてから70年目の節目の年だ。今日8月6日には、例年のとおり広島で平和記念式典が催された。その場で、印象的なことが二つ起った。一つは安倍晋三総理大臣が、この式典に出席した歴代の総理大臣としては初めて、非核三原則に触れなかったこと。もう一つは、アメリカの政府高官が初めて参加したことだ。安倍総理大臣については、彼の日頃の言動からして想定の範囲内であり、そう驚く人はいなかったと思う。一方、アメリカ政府を代表して始めて参加したゴットメラー国務次官については、終始硬い表情で、何らのコメントもなく、式典終了後静かに立ち去ったということだ。

国立新競技場の白紙撤回問題をめぐる安倍晋三総理大臣の公約破りを見ていると、この男の虚言癖ともいうべき性癖が改めて気になる。安倍晋三総理大臣は、そもそもこの競技場のデザインは民主党政権時代に決まったことだなどと責任を転嫁するような言い方をしているが、オリンピック都市選考の場で、デザインや財源も含めて、保証付きの立派な競技場を作りますと明言したのはほかならぬ安倍晋三総理大臣自身だ。つまり、安倍晋三総理大臣は自らの威信にかけて、新国立競技場を売り込んだわけで、それを白紙撤回することは明確な公約破りであり、虚言を吐いたと言われても致し方がないところだ。

新国立競技場の建設費用を巡って日本中を巻き込む大騒ぎが起ったあげく、安倍晋三総理大臣自らが計画を白紙撤回すると言い出した。その理由は国民の理解が得られないということらしい。この計画の推進者であると目され、いまや渦中の人となった感のある某元総理大臣は、後輩の安倍総理大臣から説得されて、倅から説教された親父のようにふてくされて見せた。曰く、2600億円のどこが高いのかと。

新国立競技場をめぐる政府や関係者の無責任な対応振りが大いに問題になっている。安部晋三総理も、この問題に「問題」があることを認めたが、これからやり直すには時間が足りないということを理由に、この問題に幕を引こうとする姿勢を見せた。安部晋三総理の代弁者である菅官房長官も、この問題を白紙に戻してやりなおそうというのは「無責任」だと言って、批判勢力を牽制している。

先稿「誰がツケを払うのか:新国立競技場の巨額建設費」で、新国立競技場の建設費用の一部を都が負担する場合には、東京都のみを対象とした特別立法が必要なことに触れたが、もしこうした立法措置をせずに、舛添都知事の計らいで建設費用の一部を負担するとした場合に、どんなことになるか、片山善博氏がシミュレーションしている。(「新国立競技場をめぐるドタバタ」"世界"2015年8月号」

2500億円にものぼる巨額の建設費を誰がどう払うのか、ほとんど何も詰まっていない状況の中で、事業主体の日本スポーツ振興センターが、有識者会議なるもののお墨付きを得て、計画通り建設を進めることを決定した。この会議には、そもそもこの問題の当事者と言うべき二人、某文科大臣とこの計画の推進者だった高名な建築家が入っていない。文科大臣と並ぶ責任者である都知事は入っているが、焦点となっている建設費用の負担については、全くの白紙だなどと言っている。

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