2023年12月アーカイブ

ニーチェはニヒリズムを神の死と関連づけながら論じる。ニヒリズムとは、神が死んだあとにおとずれる状態である、というのが、「ツァラツストラ」の中で展開された思想である。神とは奴隷の発明品だとニーチェは考えるから、その神が死んだということは、奴隷道徳が根拠を失ったということを意味する。奴隷道徳こそは、人間一般の生きる基準であったから、その基準がなくなるということは、基準を成り立たしめている一切の価値がなくなることを意味する。そうした価値の不在をニーチェはニヒリズムと呼んだ。すくなくとも、「ツァラツストラ」からはそのように伝わってくる。してみれば、ニヒリズムとは否定的でマイナスイメージの概念ではなく、肯定的でプラスイメージの概念だということになる。「ツァラツストラ」は非常に文学的に書かれているので、かならずしも明晰な概念ばかりではなく、ニヒリズムという概念にも曖昧な部分が多いのであるが、ニーチェがそれにある積極的な意味をもたせようとしていたことは読み取れるのではないか。ニーチェの超人は、神が死んだ後のニヒリズムを背景にして初めて現れるのである。

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ホガースの版画シリーズ「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」の第十二作目は、「勤勉な徒弟はロンドン市長(The Industrious 'Prentice Lord-Mayor of London)」と題する。勤勉な徒弟フランシス・グッドチャイルドが、勤勉にむくわれて出世を重ね、ついにロンドン市長に選ばれた様子を描く。この絵は、おそらく就任に伴う儀式なのであろう、市長が馬車に乗ってロンドン市内を行進している
様子を描いている。

ドストエフスキーの小説「永遠の夫」は、「罪と罰」と「白痴」の間に書かれた。「罪と罰」はドストエフスキーにとって転換点を画すもので、それまでの主観的な心理小説の域から、客観的でスケールの大きな物語展開を試みたものだった。そのスケールの大きさは、「白痴」でさらに大きな規模で展開されるのだが、その二つの作品に挟まれたかたちのこの「永遠の夫」は、比較的短いということもあって、以前の主観的な心理小説の段階に逆戻りしている感がある。登場人物の少なさがそれを裏付けている。この小説には二人の男が登場するのだが、その二人の男は、まるで一人の男の裏表のように扱われており、実質的に一人の男といってよいくらいなのである。

令和五年は小生にとって後期高齢者に突入した年だ。それを記念して「落日贅言」というシリーズを開始した次第だ。落日に臨んで贅言を弄するというわけだが、じつに今の時代は贅言のたねにつきない。国内的にも国際的にもだ。そこでまずこの年、西暦2023年の国際情勢から話を始めることにしたい。

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2017年劇場公開の映画「ヘンリー六世第二部(Henry VI Part 2)」は、BBCの放送番組 Hollow Crown シリーズ第五作。薔薇戦争を描いている。原作の第二部後半から第三部をカバーしているが、ケイドの乱はとばして、いきなりヨーク側の反乱からはじめている。そのヨークとランカスターは勝ちつ勝たれつを繰返し、最後にはヨーク側が勝利し、ヘンリー六世が背虫のリチャード(後のリチャード三世)によって殺されるところで終わる。前編これ暴力的な戦いのシーンで満ちている。

大川原化工機冤罪事件については、小生は雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)に寄せられた文章「大川原化工機『冤罪』事件の深層」(石原大史)によって知った。これは事件を取材したNHK記者によるもので、警視庁公安部による恣意的な犯罪捜査を厳しく批判したものであった。事件の概要と批判の内容については、当該文章にゆずるとして、その事件をめぐって起こされていた損害賠償請求訴訟の一審判決が12月27日に東京地裁で出されるというので、それを注目していた。地裁は、国(検察庁)と都(警視庁」の責任を認め、賠償を命じる判決を出したそうだ。賠償額は国が約1億5800万円、都は約1億6200万円である。

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ホガースの版画シリーズ「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」の第十一作目は「怠惰な徒弟はタイバーンで処刑される(The Idle 'Prentice Executed at Tyburn)」と題する。怠惰な徒弟トム・アイドルが、悪行の報いを受けて処刑される様子を描いたもの。絵は、大勢の人々が注視するなか、処刑場に引き立てられるトムを描く。タイバーンとは、ロンドン郊外にある村の名前で、12世紀の末から18世紀にかけて絞首台の処刑場がある場所として知られていた。

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2017年劇場公開のイギリス映画「ヘンリー六世第一部(Henry VI Part 1)」は、BBCのHollow Crown シリーズ第五作。「ヘンリー六世」は、シェイクスピアの原作は三部作だが、映画は二部作に仕立てた。第一部は、グロスターの殺害までをカバーしている。グロスターの殺害でランカスターとヨークの対立を中和する存在がなくなったことで、イギリスは内乱に突入するわけである。いわゆる薔薇戦争である。

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十三代目市川團十郎白猿襲名披露が京都南座で行われ、その模様をNHKが放送したのを見た。團十郎は昨年十一月に海老蔵を改めて襲名し、あわせて息子に新之助を襲名させた。舞台にはこの親子が上がり、その脇に片岡仁左衛門と中村梅玉が控え、襲名披露の案内役を務めた。

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ホガースの版画シリーズ「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」第十点目は、「勤勉な徒弟は市議会議員、怠惰な徒弟は共犯者によって弾劾される(The Industrious 'Prentice Alderman of London, the Idle one brought before him & Impeach'd by his Accomplice)」と題する。かつて同僚だったフランシスとトムが再会する場面だ。その再会は、市議会議員になったフランシスの前に、トムが引き出されるというものだった。トムは悪事の共犯者から売られたのである。

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2012年のイギリス映画「ヘンリー五世」は、Hollow Crown シリーズの第四作。原作はイギリス人の愛国心を高揚させるものとして、いまだに節目ごとに上演される。ヘンリー五世の勇敢な精神がイギリス人の愛国心を奮い立たせるからだ。一方で、そのヘンリーの愛国心を相対化するような要素も原作にはある。これまで映画化されたものは、だいたい愛国心の側面に焦点を当てたものが多かったのだが、この作品は、愛国心を相対化する場面のほうを前面に押し出している。これは時代の雰囲気がそうさせたのかも知れない。当時のイギリスは、大義なきイラク戦争に参戦したことが問題となり、誤った愛国心に疑問が呈されていたのだ。

正法眼蔵随聞記第五の後半は、前半に引き続き、世俗の因縁や自分自身へのこだわりを捨て、ひたすら仏道に励むべしとの主張を展開する。十三では、自己の思い込みを捨て師匠の言葉に従えと説く。「我が心にたがへども師の言ば聖教の言理ならば全く其に随て、本の我見をすててあらためゆくべし」というのである。師の言葉が納得できないと思うのは、それが耳に心地よく聞こえないからであるが、「我為に忠有べきことばは必ず耳に違するなり。違するとも強ひて随ひ行ぜば畢竟じて益有べきなり」なのである。

NHKは優れた教育映画作品を対象に日本賞を授与しているそうで、今年は50回目を迎えるという。そこでグランプリに輝いた作品をEテレで放映した。「トゥー・キッズ・ア・デイ」というタイトルだ。イスラエルにおいて、日常的に行われているパレスチナ人の逮捕監禁をテーマにしたもので、なかでも14歳未満の子どもを対象とした逮捕監禁をこの映画は取り上げてる。それを見ると、ヨルダン川西岸で暮らすパレスチナ人の厳しい境遇と、かれらを日常的に迫害しているユダヤ人の残酷さが伝わってくる。

ニーチェの「永遠回帰」についてのドゥルーズの解釈はかなりユニークなものである。ニーチェがこの概念を前面に押し出したのは「ツァラストラ」においてだったが、その内実はかならずしも明らかではない。多様な解釈を許すようなものである。たとえば、もし世界が無限だとすれば、一度おきたことがもう一度繰り返されないという断定はできない、したがって世界は永遠に同じことの繰り返しである、というような解釈も成り立つような書き方である。それに対してドゥルーズは、彼独自の解釈を施す。ニーチェの永遠回帰は、同じものが繰り返されるのではなく、常に新たなものが生成するというのである。その新たなものの生成をドゥルーズは、「差異の反復」という言葉で表現する。この言葉自体はニーチェのものではないので、ドゥルーズは自分自身の作った概念によって、ニーチェの永遠回帰の概念を基礎づけようとした、と言える。

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ホガースの版画シリーズ「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」の第九点目は、「怠惰な徒弟が売春婦に裏切られ、共犯者ともども木賃宿につれていかれる(The Idle 'Prentice betrayed (by his Whore), & taken in a Night-Cellar with his Accomplice)」と題する。トムが売春婦に騙され、官憲につかまるところを描く。

小説「罪と罰」はペテルブルグを舞台にして展開する。ペテルブルグは十八世紀の初期にロシア皇帝ピヨートル一世がネヴァ川の河口に建設した人工都市である(都市名はピョートルにちなんでいる)。もともとフィンランド人が住んでいたところだ。だからフィンランド人が結構住んでいる。この小説にフィンランド人は出てこないが、ドストエフスキーのペテルブルグを舞台にした他の小説には出てくるし、またプーシキンらのペテルブルグを舞台にした作品にも出てくる。そのプーシキンの「青銅の騎士」はペテルブルグの建設とその直後におきた大洪水をテーマにしている。ペテルブルグは湿地帯なので洪水が起きやすいのである。市内に縦横にめぐらされている水路は、水運とともに排水の便に供されている。

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2012年のイギリス映画「ヘンリー四世第二部(Henry IV, Part 2)」は、BBCのHollow Crown シリーズ第三作。冒頭部分で、第一部からいつくかのシーンを紹介しているように、あくまでも第一部の延長だという演出である。だが、原作では、第一部と第二部との間には微妙なニュアンスの違いがある。原作は第二部をコーラスという形をとったプロローグで始め、そのプロローグがこの物語を独立したものとして印象付けている。ところが映画は、第一部の終わった時点から始まり、それに連続するものとして、演出している。

世界の映画史上マリリン・モンローほど愛された女優はない。彼女はアメリカ人で、ハリウッドを舞台に活躍し、11本の映画に主演した。最初の主演作「ナイアガラ」に出たのは26歳の時である。最後の作品は「荒馬と女」で、彼女は35歳になっていた。女優としてはかならずしもとんとん拍子というわけではなかった。しかも最後の二作は、年齢による衰えのようなものを感じさせる。だから彼女の神髄が発揮されたのは、といっても演技のうまさということではなく、女性としての魅力が発揮されたという意味だが、そういう意味での彼女の魅力が存分に発揮された映画はそう多くはない。にもかかわらず、彼女はもっとも愛すべき女優であり続け、偉大な女優ともいわれた。彼女の何が人をしてそう思わせるのか。
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ホガースの版画シリーズ「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」の第八作は、「勤勉な徒弟は豊かになり、ロンドンの保安官になる( The Industrious 'Prentice grown rich, & Sheriff of London)」と題する。勤勉に報われて成功したフランシスが、ロンドンの保安官となり、その優雅な姿を披露しているところを描く。保安官は、選挙によって選ばれ、シティの治安の任務にあたる名誉ある職である。

雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)に、「国家が国籍を奪う 英国の経験」と題する小論(柄谷利恵子著)が掲載されている。近年のイギリスにおける国籍剥奪及び非正規に入国したものの第三国への移送問題などを論じたものだ。これを読むと、スーナク首相が進めている第三国(具体的にはルワンダ)への移送問題の本質が見えてくる。

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2012年のイギリス映画「ヘンリー四世第一部(Henry IV, Part 1)」は、シェイクスピアの歴史劇をドラマ化したBBCの Hollow Crown シリーズ第二作。第一作の「リチャード二世」では、後にヘンリー四世となるボリングブルックが、リチャードを倒して王位につくまでの過程を描いていたが、これはその後日談。今度はヘンリー四世が、ホットスパーによって挑戦されるところを描く。この挑戦をヘンリー四世はなんとか退け、王権の維持に成功するところが「リチャード二世」との大きな違いだ。

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数寄屋橋交差点のかつてのソニー・ビルが解体されたことで、その東隣に立っていたメゾンエルメスの建物の全貌が現れました。この晴海通りに面した建物は、東西方向の間口が狭く、南北方法の奥行きが長いのですが、いままで隠れていた奥行き部分が、露出したというわけです。

正法眼蔵随聞記第五は、これもやはり心身放下から始まる。「仏法の為には身命を惜むことなかれ。俗猶を道の為には身命をすて、親族をかへりみず忠を尽し節を守る。是を忠臣とも云ひ賢者とも云ふなり」というのである。道元がかくもくりかえし心身放下にこだわるのは、世俗の未練にほだされて仏道をないがしろにする修行者が絶えないという現実があるからだろう。だから、「只身心を倶に放下して、仏法の大海に廻向して、仏法の教に任せて、私曲を存ずることなかれ」と口うるさいほど繰り返すのである。

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2012年の劇映画「リチャード二世( Richard Ⅱ)」は、BBCがテレビ放送用に制作したHollow Crown シリーズの第一作である。このシリーズは、シェイクスピアの歴史劇を映画化したものであり、2012年に「リチャード二世」、「ヘンリー四世第一部」。「ヘンリー四世第二部」、「ヘンリー五世」、2016年に「ヘンリー六世前編」、「ヘンリー六世後編」、「リチャード三世」をそれぞれ放送した。放送の順番は、歴史の順序に従っているわけだ。Hollow Crown という言葉は、リチャード二世が独白の中で吐いた言葉なので、そのリチャード二世をフロントランナーに据えたシリーズを象徴する言葉としてふさわしい。

岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)の第二特集は「ディストピア・ジャパン」である。岩波が出版した「日没」の作者桐野夏生へのインタビューを含んでいるので、おそらくこの特集がイメージしているディストピアとは桐野の問題意識につながるのであろう。その桐野は、自分の小説が「反社会的」と受け取られている風潮に危うさを感じているという。そうした風潮は一般の国民たちによって担われており、それを権力が利用するとディストピアが実現してしまう怖さがある。コロナがそうした風潮を後押しした。自粛警察とかマスク警察といった現象は、国民による下からの検閲だ。国民の間に広がるこうした不寛容さに、桐野は日本人の本質を見た気がするという。

「力への意思」は、「永遠回帰」とならんで、ニーチェの思想の根幹をなす概念である。ドゥルーズもそのように捉えている。だが、そのわりに概念の内実が明確だとはいえない。「力への意思」は、力と意志とから合成された言葉だが、その意思の部分については、ニーチェはショーペンハワーの影響を引きずっているようである。ショーペンハワーの意志概念は、主著のタイトル「意志と表象としての世界」が暗示するように、表象とセットで打ち出されている。表象の根拠となるものが意思だという具合にである。そういう使い方だと、意思は非常に精神的な色彩を帯びることとなり、したがってその意思が表象としての世界の根拠だとする考えは限りなく独我論に傾く。しかし、ニーチェは狭い意味での独我論を軽蔑していた。そういう独我論をニーチェは、賎民の思想だと呼んだことだろう。賎民は、強者の存在を認めたくない。だから自己の内部に閉じこもりたがる。そういう姿勢は独我論と親和的である、というのがその理由だ。

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2003年のアメリカ映画「ラスト・サムライ(The Last Samurai)」は、アメリカ人から見た日本の武士道をテーマにした作品。日本では維新後武士道がすたれたが、その武士道を体現する最後の侍たちが、巨大な近代化権力を相手に壮大な戦いを挑むというような内容だ。

ガザでジェノサイドの虐殺行為を続けるイスラエル軍が、ハマスによって人質に取られた自国民を殺害した。これについてイスラエル政府は哀悼の意を表するといっているが、いかにもしらじらしく聞こえる。ネタニヤフは先日自国民人質について、全員の命は保証できないという旨の発言をして、家族の怒りを買ったということだが、それがネタニヤフの本音なのだろう。

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ホガースの版画シリーズ「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」の第七作は「怠惰な徒弟は海から戻り、売春婦と屋根裏にいる(The Idle 'Prentice return'd from Sea, & in a Garret with common Prostitute)」と題する。悪党仲間と海で暮らしていたトムは、久しぶりに陸に上がり、とりあえず屋根裏部屋で売春婦と一緒に暮らしている。この絵は、その屋根裏部屋のベッドの上に、売春婦と一緒に横になっているトムを描く。

ドストエフスキーは、「罪と罰」の中でロシアの下層社会の人々を描いた。ロシア文学の歴史上、下層社会の人々を正面から描いた作家は、彼以前にはいない。プーシキンとかゴーゴリといった作家が描いたのは、地主とか役人であり、要するに上層階級に属する人間だった。ドストエフスキーが初めて下層社会の人間を本格的に取り上げたのである。かれはすでに「死の家の記録」のなかで、下層階級出身の囚人たちを描いていたが、囚人というのは、階層を超えた特殊性を持っているので、それを描いても、厳密な意味で下層社会の人間を描いたことにはならない。純粋な下層社会を描いたといえるようなものは、ロシア文学では、この「罪と罰」が最初なのである。

今から三十年以上も前に、岩波の読書誌「図書」が「私の三冊」と題した臨時特集号を出したことがあった。各界の名士たちに、岩波文庫のなかから最も印象に残った本を三冊あげてもらい、その各々について短いコメントを書かせるというものだった。それを小生は非常に興味深く読んだ。最も多くの人たちがあげた本は、中勘助の「銀の匙」とか阿部次郎の「三太郎の日記」といったもので、時代を感じさせたものだ。いまどきそんな本をあげる人はほとんどいないだろう。

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外堀通りが晴海通りと交わる交差点の南西側に立っているのは「東急プラザ銀座」です。かつてここには、「銀座東芝ビル」があり、阪急百貨店が入居していました。その跡地を再開発して、このビルが建てられました。120以上のテナントが入る複合商業施設です。設計は日建設計。竣工は2016年。東急不動産が所有していましたが、2023年4月に三井住友トラストに売却しました。売却後も「東急プラザ」の名称を引き継ぎました。

岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)が「ふたつの戦争、ひとつの世界」と題する特集を組んでいる。二つの戦争とは、ロシアとウクライナの戦争及びイスラエルとハマスの戦争のことだ。このふたつのうち後者の方に力点が置かれている。五つの記事のうち四つが後者をテーマとしている。

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外堀通りの南の端近く、高速道路の脇に奇妙な形のビルが立っています。静岡新聞東京支社ビルです。これを設計したのは丹下健三、竣工は1967年。五十年以上前の建築物ですが、いまだに斬新な印象を与えます。静岡新聞以外に、静岡放送局、山梨日日新聞、山梨放送のオフィスも入っています。

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1984年のアメリカ映画「ターミネーター(The terminator)」は、人類と人工知能の機械との闘いをテーマにしたSF映画。ターミネーターという言葉は、人類の存在に始末をつける者というような意味。高い知能をもった機械すなわちサイボーグが、人類をせん滅させて地球の覇権を確立しようとしている、というような意味のことを象徴的に表した言葉だ。

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銀座七丁目の西側に、イタリアのファッションブランド、サルヴァトーレ・フェラガモの日本旗艦店がたっています。日本を代表する建築家丹下健三の設計で、2003年に竣工しました。向かい側のヤマハ銀座ビルと対面する形で、この界隈を彩っています。

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ホガースの版画シリーズ「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)の第六点目は、「勤勉な徒弟が年季奉公を終え、主人の娘と結婚する(The Industrious 'Prentice out of his Time, & Married to his Master's Daughter)」と題する。年季奉公を終えたフランシスが、主人の事業の共同経営者になったうえに、主人の娘と結婚した様子を描く。

共同経営者となったことは、店の看板に"WEST and GOODCHILD" とあることからわかる。この絵は、フランシスの成功を祝って、楽団のメンバーらが店に押しかけてきた様子を描く。窓から身を乗りだし、楽団員にコインを渡しているのがフランシス、その背後には新妻が控えている。また、玄関先で皿のようなものを差し出しているのは、店員であろう。結婚祝いの施し物を配るための受け皿を与えているのである。

施し目あてにやってきたものの中には、傷痍軍人らしきものもいる。左端で、盥のなかに入っている脚のない男だ。この男は、おそらく戦場で脚を失ったのであろう。彼が手に持っている紙には、二人の結婚を祝う曲の歌詞が書かれている。

遠景にはロンドン記念碑の下部が見える。17世紀半ばのロンドン大火を記念した建物だ。その大火で、中世のロンドンの街並みは消失した。


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ロン・ハワードの2006年の映画「ダ・ヴィンチ・コード(The Da Vinci Code)」は、ダン・ブラウンの同名の小説を映画化したもの。原作は、欧米のキリスト教諸国にすさまじい反響を巻き起こした。キリスト教の信仰の根幹にかかわることが、戯画的に描かれていることが、敬虔なキリスト教徒たちの怒りに火をつけたのである。

正法眼蔵随聞記第四は、これも仏道修行の心得を説くことから始まる。その心得の最も肝要なものは、自己への執着を捨てることである。自己への執着を捨てることは、心身放下という言葉ですでに語られていたが、ここでは「自解を執するなかれ」という言葉で表される。「広く知識をも訪ひ、先人の言葉をも尋ぬべきなり」というのである(第四の一)。

イスラエルを熱心に支持しているバイデン政権が、ネタニヤフ政権に戦車などの兵器を提供する決定をしたそうだ。総額で1億650万ドル=日本円でおよそ154億円相当だそうだ。この規模の外国への武器提供には、本来議会の承認が必要だが、バイデンはその手続きを踏まずに実行するという。

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銀座七丁目の東側、ヤマハ銀座ビルの向かって左隣に、変わった形ののっぽビルが立っています。GINZA gCUBEといって、東京ガスの所有する建物です。以前ここにあった銀座ガスホールビルを建て替えたものです。ファサードがガラスでできているのですが、そこに流線型のラインを組み合わせています。それが見る者の眼をくぎ付けにします。

怨恨とやましい良心についてのニーチェの議論は、かれが奴隷の道徳と呼ぶものの起源をめぐる議論である。奴隷は主人との関係で意味を持つので、主人の存在を前提とする。主人を否定することで、奴隷は積極的な意味を持つようになり、したがって単なる主人の付属物ではなく、自立した人間になれる。その場合、主人との関係における「能動と反動」、「肯定と否定」、「高貴と卑劣」といった対立概念が大きな意味をもつ。奴隷は主人との関係において、能動に対する反動、肯定に対する否定、高貴に対する卑劣の側を代表する。いずれも積極的なものに対する受動的なものの反乱という形をとるが、それは具体的には怨恨をばねとし、また怨恨という形をとる。怨恨とは、能動に対する反動の反応であり、肯定に対する否定なのだ。怨恨はしたがって、強いものに向けられた精神の状態であるが、その怨恨が外にではなく、内側に、つまり自分自身に向けられるとやましい良心となる。怨恨はストレートな反応であるが、やましい良心のほうは宗教的で屈折した構えである。

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ホガースの版画シリーズ「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」の第五点目は「怠惰な徒弟は追放され、海へ送られる(The Idle 'Prentice turn'd away, and sent to Sea
)」と題する。怠惰な徒弟トム・アイドルが、ついに親方から愛想をつかされ、追放されてしまうところを描く。それにはフランシスの助言もあったと思われる。追放されたトムは、どういうわけか、遊び仲間とともに船に乗って、いづことも知れぬ場所に向かっている。

小説「罪と罰」には、悪党が二人出てくる。ルージンとスヴィドリガイロフである。どちらもたいした悪党ではない。そこいらで見られるようなけちな悪党といってよい。つまり小悪党である。二人ともラスコーリニコフの妹ドゥーニャに気があって、なんとかものにしたいと考えている。その望みをかなえるために、小悪党らしい細工を弄したりするが、結局思いはかなわない。ドゥーニャはそんなやわな女ではないのである。それにしてもドストエフスキーはなぜ、この二人を小説の重要なキャラクターとして持ちこんだのか。悪党がいないからといって、小説がなりたたないわけでもなかろう。だが、悪党がいることで、小説に深みが出るとは言えそうである。ドストエフスキーは、その深みを狙って、悪党を二人も登場させたということか。

四方山の幹事仲間で忘年会を催した。実は、この時節に、このメンバーで、大阪旅行するつもりでいたのだったが、なかなか日程のの調整がつかず、忘年会はフグ屋でやろうということになったのだった。みなさんそれぞれ多忙なのはいいことではある。

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コスタ=ガヴラスの1989年の映画「ミュージック・ボックス(Music box)」は、第二次大戦中にハンガリーで起きたホロコーストをテーマにした作品。その事件がアメリカの裁判所で裁かれる。映画はその裁判の様子を描きながら、人間の尊厳について考えさせる。人間の尊厳いついての普遍的な感情が、肉親の情愛に優先するといったメッセージが伝わってくるように作られている。だから、ホロコーストの残虐性を訴えながら、実は道徳とはなにかを考えさせるきわめて倫理的な動機を盛り込んだ作品であるといえる。

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銀座シックスは、銀座通り最大の規模を誇る建物です。松坂屋の跡地と隣接する街区(東側)とを一体化して再開発したものです。大規模複合施設であり、高級ブランドのほか、観世流能楽堂も設置されています。ですから、商業と文化を兼ね備えた建物ということができます。名称の銀座シックスとは、ここの住所が銀座六丁目であることからきています。設計は谷口吉生。竣工は2017年です。

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ホガースの版画「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」シリーズ第四点目は、「勤勉な徒弟は気に入られ親方に信頼される( The Industrious 'Prentice a Favourite, and entrusted by his Master)」と題する。勤勉な仕事ぶりを親方に評価され、気に入られたうえに信頼されるフランシス・グッドチャイルドを描く。

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岡本喜八の1986年の映画「ジャズ大名」は、日本に漂流してきた黒人たちからジャズ音楽を叩きこまれた大名が、家臣ともどもジャズセッションを楽しむといった荒唐無稽な設定の映画で、例によって人を食った作りかたになっている。史実とか時代考証とかはいっさい無視し、とにかくジャズの雰囲気を楽しもうではないかと開き直った映画である。これはおそらく、筒井康隆の原作自体がそういう雰囲気なのであろう。

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ホガースの版画「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」シリーズの第三点目は「教会内で礼拝中遊んでいる怠惰な徒弟(The Idle Prentice at Play in the Church Yard, during Divine Service)」と題する。休日にフランシス。グッドチャイルドとは全く違うことをしているトム・アイドルを描く。彼は教会の礼拝堂でお祈りをするかわりに、教会の一角でけしからぬ遊びにふけっているのである。

来年の米大統領選挙の勝利を目指しているバイデンに黄信号がともったと噂されている。アメリカのイスラム社会が、今般のイスラエルとハマスの戦いに関するバイデンの対応ぶりに大いに不満を抱き、来年の選挙ではバイデンに投票しないキャンペーンを始めたからだ。イスラムの人口は、そんなに多くはない。全米で350万程度だ。だが、大統領選挙の行方を左右する、いわゆるスウィング・ステートでは、選挙の結果を左右する力をもっている。それらの州で、イスラム系がかりに棄権すれば、バイデンはかなりな確率で敗北するだろうと予想されている。

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銀座四丁目交差点に、和光と対角線の方角に立っているビルは銀座プレイスといって、再開発事業で建てられたビルです。ここには以前サッポロ銀座ビルが立っていました。いまでもサッポログループが所有するビルです。このビルの外観設計を担当したのは、日本で活躍する建築家ユニット、クライン・ダイサム・アーキテクツ。竣工は2016年です。

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岡本喜八の1978年の映画「ダイナマイトどんどん」は、理屈抜きで楽しめる痛快な映画である。一応やくざの抗争がテーマということになっており、その点では菅原文太のはまり役であるが、その抗争というのが、平和で民主的なやり方で行われるというのがミソだ。その平和で民主的なやり方というのが、野球の勝敗で雌雄を決するというから人を食った話である。もっともやくざのやることだから、一貫して平和的というわけにはいかない。時には刀を振り回してやりあうこともある。そこが、野球に興じる場面と並んでこの映画の醍醐味になっている。

正法眼蔵随門記の第三は、心身放下ということから始まる(第三の一)。心身放下は心身脱落と似た概念である。心身脱落は、身も心も超脱してあらゆる事柄に執着しないという境地を現わした言葉である。それがさとりにつながると言っている。というよりか、さとりの境地そのものである。一方、心身放下は、同じく心と体を捨てる(超脱する)という意味であるが、それがすなわちさとりの境地だとは言っていない。悟りに至るために必要な前提だというような位置づけである。この節の冒頭部分の言葉「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし」とは、心身放下ということは、そういう事情(仏道に入るための前提だということ)を言うのだと説いているのである。

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ルイ・ヴィトン松屋銀座店の北側に、イタリアの高級宝飾ブランド、ブルガリの旗艦店が立っています。ブルガリのショップとしては世界最大規模だそうです。設計は清水建設、竣工は2007年です。もともと三共製薬の本社ビルがあったところで、ビル自体は現在も第一三共が所有しています。

ドゥルーズはニーチェの哲学を、「力への意思」をはじめとしたいくつかのキー概念を分析しながら解明していく。それらのキー概念の中には、「能動と反動」、「肯定と否定」、「高貴と低劣」といった一連の概念セットがあるが、それらは外見から思われるほど単純な二項対立ではない。通常の二項対立を構成する二つの項目は、互いに対立しあうものの、価値的には同等のものであり、より高度な概念のもとでは、相互に置き換え可能なものである。ところがニーチェの一連の対立概念セットは、一方が他方より価値的に高度なものであって、それが反対概念との対立を超越して、それ自身が無条件の存在を主張するといったものだ。その無条件の存在をもとに、存在を無条件に肯定しようというのがニーチェの思想の根本的な特徴である。その存在の無条件の肯定という境位から、永遠回帰とか超人といった思想が生まれてくる。

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ホガース「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」シリーズの第二点目は、「キリスト教徒の義務を果たす勤勉な徒弟(The Industrious 'Prentice performing the Duty of a Christian)」と題する。二人の徒弟は、親方から日曜日を休日にしてもらい、自分なりの時間を過ごす。その時間を、フランシス・グッドチャイルドは、教会へ行くことに費やす。

「罪と罰」は、ラスコーリニコフの犯した殺人をテーマにしたもので、殺人の実行とかその動機については最初からあまさず描写されている。したがって通俗的な探偵小説のような謎解きサスペンスの要素はない。ところが、そこに予審判事のポルフィーリー・ペトローヴィチが一枚からむことによって、サスペンスの雰囲気が生まれてくる。ドストエフスキーは、巧妙なやり方で読者をポルフィーリー・ペトローヴィチに感情移入させ、そのことでポルフィーリー・ペトローヴィチの視点からこの殺人事件のなぞ解きをしているような気分にさせるのである。これはなかなか高度なテクニックである。

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シャネルから北方向へ数歩戻ると、細長いペンシル・ビルのような外観の建物が立っています。銀座トレシャスという名称の複合ビルです。もともとは越後屋という名称でしたが、改築を契機に洋風の名前にかえたそうです。設計は大成建設で、2010年に竣工しました。

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岡本喜八の1967年の映画「日本のいちばん長い日」は、半藤一利のノンフィクション小説を映画化したもの。半藤にとっては、その後かれのライフワークとなる昭和史研究の原点となるものだ。もっとも半藤はこれを、自分の名義ではなく他人の名義で刊行した。当時人気作家だった大宅壮一の名である。なぜ、そんなことをしたか。かれは文芸春秋の社員だったので、営業を最優先する社の方針にしたがったまでということらしいが、それにしてもお粗末な話である。

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