2021年6月アーカイブ

五輪期間中に終電の時間を遅らせるとJRが発表した。お客様には時間を気にせず深夜まで五輪を楽しみ、安心してどんちゃん騒ぎをしてくださいと言っているようなものだ。JRは一民間会社であり、国民の命を守ることより、自分の利益を優先するのはIOCと同じで、別に不自然ではない。国民の命を守るのは政府の責任だ。その政府が、五輪最優先モードになっているから、JRの今回のこの方針は政府の意向に従ったものともいえる。だからJRだけを非難するいわれはないと言ってよい。

中国が改革解放に向けて舵を切り替えるのは、1978年12月の中国共産党第十一期三中全会がきっかけだったと言われる。たしかにこの会議で鄧小平のイニシャティヴが確立され、改革解放への方向が基本的に定まったとはいえるが、すぐにその政策が実行されたわけではなかった。共産党の指導部には華国鋒が大きな勢力を誇っており、華国鋒自身は毛沢東の忠実な後継者として、社会主義建設への強固な意志を持っていた。ところが社会主義建設路線と経済開放とはとかく愛想が悪い。本当に経済の開放を進めるには、社会主義への頑固なこだわりを捨てねばならない。そんなことから、改革開放路線派にとって華国鋒は当面の障害になった。改革開放路線が本格的に始動するのは、鄧小平が華国鋒の追い落としに成功して以後のことである。

bueno1.JPG

1999年公開の映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は、キューバ音楽の俄バンドの活動振りを追ったドキュメンタリー作品である。ロード・ムーヴィーやドキュメンタリー映画に定評のあるドイツ人監督ヴィム・ヴェンダースが手がけ、アメリカやキューバで上映された。キューバ音楽の魅力を改めて認識させたものとして、大きな反響を呼んだ。

菅内閣が、イギリスのアストラゼネカ社から購入したコロナワクチンを、先般の台湾に続きインドネシアに供与するそうだ。このワクチンは、折角確保したものの、色々な事情で使われずにいたものだ。理由は大きく分けて二つある。一つは副反応が強いこと、もう一つは効果が限定的なことだ。じっさいイギリスでは、このワクチンを国民に打ったところ、初期のタイプのものには威力を発揮したが、新たな変異株には十分対応できていない。その結果イギリスが目下インド型の変移ウィルスに見舞われて、ロックダウンを余儀なくされていることは周知のことだ。

soga18.71.1.ryko.jpg

蕭白は、龍や虎が好きだったとみえ、それぞれいくつも描いているが、これはその龍と虎を双幅に並べたもの。描き方には蕭白ならではの特徴がある。龍は竜巻に乗った形で頭の部分だけが表現され、虎はいじけた表情でかがみこんでいる。

この本は2016年に書かれた。アメリカ大統領選挙の真っ最中で、有力候補者のトランプが移民を激しく攻撃していたときだった。トランプは、メキシコからの不法入国者をやり玉にあげ、かれらを殺人犯や強姦魔だと根拠もなく罵り、その不法入国を防ぐためにメキシコとの国境に壁を作り、その費用をメキシコに負担させることを公約にした。そんなことで、移民問題は熱いテーマになっていた。この本はそうした事態を背景に書かれた。

1corot33.1.bois.jpg

コローは、1831年にフォンテーヌブローの森をモチーフにした作品を4点サロンに出展して以来、数年にわたってフォンテーヌブローにこだわり続けた。「フォンテーヌブローの森の浅瀬(Forêt de Fontainebleau)」と題したこの作品は、1933年のサロンに出展され、次点に輝いた。これがきっかけで、コローは新しい風景画の旗手として、広く世に認められるようになる。

アビダルマの中核部分は、存在を分類整理したダルマの体系にある。分類の基準にはいくつものものがある。桜部建は、五蘊、十二処、十八界といったものをダルマの分類基準の基本としてあげているが、倶舎論では五位七十五法が示されており、それがアビダルマにおけるダルマの分類の最終的な(もっとも整った)体系だとする。それを踏まえて上山は、倶舎論におけるダルマの体系について論じる。

a1.JPG

森達也が1998年に公開したドキュメンタリー映画「A」は、原一男の「ゆきゆきて神軍」と並んで、日本のドキュメンタリー映画の傑作といわれる作品である。「ゆきゆきて」で助監督を務めた安岡卓司が製作に加わっているのも何かの因縁だろう。しかしその出来栄えについては、賛否に激しい対立がある。

コロナ対策ではことごとく後手に回り、しかも国民の命より五輪開催を優先するかのような菅首相に厳しい非難が向けられている。ジャーナリストの田原総一郎が最近首相と話した時の印象では、五輪開催はどうしてもやめるわけにはいかない、その理由はIOCの強い要求があるからだといって、自分自身の指導力には全く何らの責任を感じていない様子だったらしい。

soga17.67.1.hitomaro.jpg

「人麿図」は、歌聖柿本人麻呂をモチーフにした作品。これにも蕭白の遊びが読み取れる。人麻呂は一応筆をもった姿で表現されており、歌詠みの雰囲気が読み取れないわけではないが、しかしその表情からは粗野な印象が漂ってくる。歌聖というより、そのへんの下手な歌詠みの老人といった具合である。

「ミーナの行進」は、ある女性が自分の少女時代を回想するという設定の小説だ。設定自体はありふれたものだが、小川洋子らしい素直で暖かい文章で書かれており、じつに心を洗われるような気持にさせられる。老年の男性である小生でさえ、心温まる気分を味わったのであるから、女性にとっては、自分自身の少女時代が思い出されて、ノスタルジックな気分を搔きたてられるのではないか。

1corot26.1.narni.jpg

コローはバルビゾン派の創始者というわけではないが、バルビゾン派の特徴であるフランス風の風景画をもっとも早く表現し、バルビゾン派の画家たちを物質的にも精神的にも援助した。そういう意味でコローは、バルビゾン派を代表する画家といってよい。その活動は、1820年代後半から1870年代前半までの長期にわたり、一貫してバルビゾン派の指導者であり続けた。

docu202.mitudai1.JPG

2012年のドイツ映画「みつばちの大地」は、蜜蜂の生態と人間とのかかわりを描いたドクメンタリー映画である。この映画が作られた数年前、おそらく2006年頃から、蜜蜂の世界規模での消滅が問題となっていた。それは2012年にも未解決であったから、このドキュメンタリー映画は、蜜蜂消滅の原因に焦点をあてながら、蜜蜂が人間にとって持つ意味を考えようとするものである。

五輪開催によってコロナウィルスの感染が広がることについて、天皇が懸念を表された旨のことを宮内庁長官が発表したところ、加藤官房長官が早速反応し、それは宮内庁長官の個人的見解であって天皇の言葉ではないという趣旨の発言をした。

岩波文庫で邦訳が出ているベルグソンの著作「時間と自由」は、学位論文として書かれたもので、ベルグソンの思想活動の出発点となるものである。もともとのタイトルは「意識の直接与件について(Essai sur les données immédiates de la conscience)であった。それが英訳された際に訳者が「時間と自由」と訳し、日本でもそれが踏襲された。この著作の内容は、時間と空間の関係及びそれを踏まえた上での自由と必然性との関係についての誤った考えへの批判に費やされているので、「時間と自由」という題名でも差し支えないといえよう。

池田勇人のあとをついだ佐藤栄作は、実兄の岸信介同様親台湾派で、大陸との関係改善には熱心でなかった。格上の同盟国アメリカも、台湾との関係を重視し、大陸の政権を敵視していると考えていた。ところがそのアメリカが、日本の頭越しに中国との関係改善に乗り出した。1971年7月にアメリカの国務長官キッシンジャーが中国を公式訪問し、米中間の国交正常化に向けた協議をしたのである。それを踏まえ、翌72年の早い時期にニクソン大統領が中国を公式訪問し、米中関係の正常化を実現する予定だとアナウンスされた。

docu201.hiro2.JPG

広島・長崎への原爆投下をテーマにしたドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」は、日系アメリカ人のスティーヴン・オカザキが作った。かれはこれを、原爆投下50周年を記念して作るつもりだったが、折からスミソニアン博物館での原爆展企画が物議をかもしていたこともあり、世論の反発を慮って見送り、60周年にあわせて製作しなおした。公開は2007年1月である。

soga16.65.6.husen.jpg

「風仙図屏風」は、中国の伝説上の仙人陳楠をモチーフにした作品。陳楠は、旱魃に苦しんでいた人々のために雨を降らせた。その折に、龍を池の底から連れ出して、その龍に雨を降らせたという。この絵はその伝説を踏まえ、仙人が龍に向って命令する姿が描かれている。

トランプがアメリカ大統領に選出されたとき、世界中が驚いた。だが、それはバイアスのかかった目で見たからであり、事実を虚心に受け取っていれば、十分予測できたことだと言われもする。2016年のアメリカには、トランプを大統領に押し上げるような要因があったのであり、トランプはなるべくしてなった、という見方も出来る。金成隆一のルポルタージュ「トランプ王国」は、そうしたアメリカの動きについて、アメリカ国民の懐に飛び込むかたちで、生々しく描き出している。

0barbizon-school-museum.jpg

バルビゾン派の画家たちは、印象派の画家たちと並んで、日本人には馴染みが深い。ミレーやコローなどの高名な作品を所蔵・展示する美術館は日本各地にあるし、またミレーの有名な絵は日本の代表的出版社のロゴにも使われている。日本人なら小学生でさえも、バルビゾン派に属する画家の名を知らないものはないほどである。

角川書店刊「仏教の思想」シリーズ第二巻は、アビダルマがテーマである。アビダルマとは、小乗仏教の教義を解説したものだ。小乗仏教は、アーガマ(阿含経)と呼ばれるお経を拠り所として釈迦の教えを説くものだが、アーガマ自体は折々の釈迦の言葉を書きとめたもので、体系的ではないし、簡潔すぎて意を尽くさないところも多い。そこで足りないところを補い、また釈迦の言葉相互の関係を明らかにし、体系的に説いたものが、アビダルマといわれる。大乗仏教には、釈迦の教えを記した経、その教えを実践するための基準を示した律、教えの内容を理論的に解説した論があるが、小乗仏教も同様であって、大乗の論に相当するものがアビダルマである。

菅首相がG7で東京五輪の開催を約束してしまったことで、いまや五輪ありきのモードに染まってしまった。一時は、五輪よりも国民の命を優先するとうそぶいていた菅首相も、いまでは五輪最優先で、五輪を成功させるために、国民はすべてを投げうって協力しなければならない、と言わんばかりの変節ぶりである。専門家の意見は何のその、国民の不安も蹴飛ばして、ひたすら五輪の開催に向ってひた走っている。しかも、一時は、やるにしても無観客だと言っていたものが、いつの間にか有観客になり、その規模も会場あたり数万人単位まで膨れ上がりそうだ。そんなことをすれば、コロナ感染が爆発し、大勢の国民が犠牲になるのは見に見えている。だがそれを、コロナ司令塔の最高指揮官である菅首相は見ようとしない。ハーメルンの笛吹き男よろしく、国民に死の行進を強いているようなものだ。菅首相がそうだから、大会組織委員会はいうに及ばず、政府の担当閣僚を含め、五輪マフィア全体が先頭にたって、イケイケドンドンの空気を醸し出している。そうした状況を評して、識者の中には「玉砕五輪」と言う者もあるし、中には「殺人五輪」と言う者もある始末だ。

saudi01.girlb4.JPG

2012年のサウジアラビア映画「少女は自転車にのって」は、サウジアラビアにも映画文化が存在するということを世界に認識させた作品。厳格なイスラム社会として知られるサウジアラビアに、映画文化が存在するということが、世界中の人々には意外だったのではないか。しかもこの映画は、自転車に乗る少女をテーマにしている。サウジアラビアの女性が、つい最近まで自動車の運転を禁止されていたことはよく知られているが、この映画を見ると、自転車に乗ることもタブーだったらしい。とはいえ、乗り物一般が女性に禁止されていたわけではない。ラクダに乗ることは許されていたはずだ。

米共和党の連邦下院議員十数名が、バイデンに対して認知症テストを要求する書類にサインした。この書類を作成したのは、かつてトランプの公式主治医だったロニー・ジャクソン。ジャクソンはバイデンの公式主治医であるケヴィン・オコナーと医療アドバイザーであるアンソニー・ファウチに対して、バイデンに認知症テストを施すよう求めた。理由は、アメリカ国民には、大統領の知的適格性を知る権利があるというものだ。

soga15.65.1.godaigo.jpg

「後醍醐帝笠置御潜逃図」とは、保存用の箱書きに記された言葉。おそらく太平記にある話を踏まえたものだろう。太平記には、倒幕に失敗した後醍醐天皇が、側近たちと共に笠置に逃れたと記されている。その記事をイメージ化したものと思われる。だが蕭白一流のちゃかしのようなものを感じ取れる。

小川洋子は、多和田葉子と並んで、現代に活躍する日本人作家を代表する人だというので、どんな作風なのだろうかとまず思って手に取った本が「博士の愛した数式」だった。読んでの印象はそれなりにさわやかなものだった。筋書きに特異な点はないし、文章にも癖がない。現代文学にありがちな、焦燥感を以て読者を駆り立てるような切迫も感じさせない。それでいて味わいがある。要するに、よくできた小説なのだ。おそらく紫式部以来のこの国の女流文学の伝統を踏まえているのだろうと思う。日本伝来の女流文学には、読者を喜ばせようという志向が強いが、この小説にもそうした工夫は感じられる。

delacroix61.1.heliodore.jpg

「神殿を追われるヘリオドロス(Héliodore chassé du temple)」は、聖シュルビス聖堂の礼拝堂の壁画として製作された。1850年頃にとりかかり、完成したのは1861年のことであった。晩年のドラクロアは数多くの大作の注文を受けており、それらを平行して手がけたので、時間がかかったのである。

palestine.barber2.JPG

2015年の映画「ガザの美容室」は、ガザに暮すパレスチナ人監督タルザン・ナサールが、フランス資本の協力を得て製作した作品。一美容室を舞台に、ガザに生きる人々の厳しい状況を描いている。ガザといえば、イスラエルによる度重なる攻撃が人道問題として脚光を浴びてきたが、この映画にはイスラエルによる攻撃は出て来ず、そのかわりガザにおけるハマスとファタハの軍事衝突が出てくる。今ではハマスはガザを代表する立場だが、かつてはファタハとの間で激しい主導権争いを演じていた。この映画は、その主導権争いが背景になっている。

哲学の書物には、うんうん唸りながら読むタイプのものと、うきうき楽しみながら読むタイプのものがある。ヘーゲルの書物がうんうん唸りながら読むタイプの最たるものだとすれば、ベルグソンの書物はうきうき楽しみながら読むタイプを代表するものだろう。ベルグソン以外にも楽しく読める書物はある。近代以降に限っても、スピノザやライプニッツは楽しく読める、だがベルグソンの書物はレベルを超えた楽しさを与えてくれる。その最大の理由は、かれの文章の流麗さと感性的な色合いだろう、それを小生は文章のつやとか色気とか言いたいが、その色気に満ちた文章をベルグソンは書く。その色気ある文章を以て、どんな人間にとっても深い関心を持っているようなことについて語ってくれる。うきうきと楽しまないではいられないではないか。

岸信介のあとを継いだ池田勇人は、岸に劣らず強権的なところがあったが、岸が世論から浮かび上がり、政権を失わざるをえなかった姿を見て、一転柔軟姿勢に切り替えた。「低姿勢」と「寛容と忍耐」をキャッチフレーズにして、国民にとって親しみやすい宰相のイメージ作りに腐心した。政策的には、国民の大きな関心事であった経済復興に力を入れた。「所得倍増計画」はその中核的なものである。その池田のもとで、日本は高度経済成長と呼ばれる時代に突き進んでいくのである。

lebanon.hank2.JPG

2017年のレバノン映画「判決、ふたつの希望」は、レバノンにおけるパレスチナ問題をテーマにした作品。レバノンは、複雑な人口構成もあって国内政治が混乱しがちであったが、ヨルダン内戦でヨルダンを負われたPLOが活動拠点をレバノンに移したことで、政治状況は一層不安定化した。1970年代には、黒い九月事件にともなうイスラエルの攻撃があり、引き続き大規模な内戦も起きた。そうした歴史を踏まえて、レバノンは21世紀に入っても、さまざまな国内対立を抱えている。この映画は、そうしたレバノン国内の対立、とくにキリスト教徒とパレスチナ人との憎しみあいをテーマにした作品だ。

soga14.2.1.sugito1.jpg

伊勢松阪朝田寺の客殿廊下にある杉戸二枚に、蕭白は計四面の絵を描いた。一枚は、表側が獏図で、裏側が旭日に月図。もう一枚は、表側が鳳凰図で、裏側が萩に兎図である。光線があたる関係で、一部退色している。

「資本主義・社会主義・民主主義」の本文が書かれたのは1942年のことであり、その後、1946年と1949年に付録の部分が書き足された。すでに本文を書いた時点でシュンペーターは、先進諸国における社会主義化の傾向を避けられないものとして考えていたが、戦後その考えが強まったばかりか、一部の国では社会主義化が進行していると認識するに至った。しかしそういう傾向について、シュンペーターはかなり懐疑的である。

イギリスで開催された今年のG7は、アメリカのバイデン政権の強い意向に引きずられる形で露骨な対中包囲網形成への意思をあらわにした。バイデンの対中政策は、人種的な偏見を伴なったもので、19世紀末から20世紀初頭のアメリカで吹き荒れた黄禍論の再現といった様相を呈している。その時代には西洋列強による中国に対する帝国主義的な干渉・侵略が進んでいたわけだが、そうした帝国主義的な対中政策も、今回のG7には認められる。今は古典的な帝国主義がまかり通る時代とは言えなので、G7の対中政策は、時代遅れの帝国主義と言わねばなるまい。

delacroix59.tombeau.jpg

「墓に運ばれるキリスト(Le Christ descendu au tombeau)」は、当初聖シュルビス聖堂の装飾画として、「カルヴァリオの丘(ゴルゴタの丘)への道」とともに一対のものとして構想されたが、後に独立した作品として「カルヴァリオ」とともに1859年のサロンに出展された。

「仏教の思想」シリーズの第一巻「智慧と慈悲<ブッダ>」に、梅原猛が寄せた小論「仏教の現代的意義」は、原始仏教から大乗仏教ひいては日本の鎌倉仏教までを含めて、すべての仏教に共通する要素について考察する。それゆえ梅原なりの仏教概論というような体裁である。その考察を通じて梅原は、仏教の現代的意義を指摘したいというのだろう。梅原は西洋の宗教であるキリスト教に強い疑問を感じているようで、今後人類を宗教的に救うものとしては、仏教こそがもっとも相応しいと思っているようなのである。それゆえこの小論は、きわめて論争的である。その点では、キリスト教を意識しながら「大乗仏教概論」を書いた鈴木大拙と共通するものがある。

新型コロナの感染は、いまやインドが中心だ。公式発表では、これまでに36万人が死亡したとされるが、実際には130万人とも180万人ともいわれている。インド型変異ウィルスと呼ばれるものがその原因だ。日本でもこの変異ウィルスによる感染が報告されている。7月中頃には、イギリス型を抜いて、主流になるだろうと予告されている。

israel06.roses1.JPG

アモス・ギタイはイスラエル国籍のユダヤ人だが、フランスで映画作りをしたこともあった。2009年の作品「幻の薔薇(Roses a credit)」も、フランスで作った映画だ。舞台はフランスのさる町、俳優もフランス人であり、フランス映画といってよい。フランス映画であるから、フランス人の生き方をテーマにしているのは、当然のここといえるのだが、そこにはギタイのユダヤ人としてのこだわりを感じることができないでもない。

soga13.1.64.karajishi.jpg

「唐獅子図」は、伊勢松阪の朝田寺に伝わってきた作品。双幅の墨画で、本堂内の本尊の両側の壁に貼り付けられていた。ということは、寺ではこの作品を、あかたも西洋の宗教画のように、本尊の引き立て役として重宝してきたということだろう。

「寡黙な死骸 みだらな弔い」は、十一の小話からなる連作短編小説集である。それぞれの小話は何らかの形でつながっている。時間的な連続関係であったり、時空は異にしているが何らかの小道具が共通する形で出てきたり、あるいは同じパターンの人間的な触れ合いが反復されるといった具合である。タイトルにあるとおり、死が基調低音になっている。どの小話にも死の影を認めることが出来るのだ。つまり(死というもののかもし出す)同じ雰囲気を基調低音にして、さまざまなつながり方をした小話が、それぞれ互いに響きあうように展開していく。それを読むものは、あたかも幾つかのモチーフによる変奏曲を聴かされているような気持になる。小川洋子にはもともと音楽的な雰囲気を感じさせるところがあるが、この作品はそれが非常によく現われている。

朝日の今日(6月11日)の朝刊に、元陸将へのインタビュー記事が載っていた。元陸将とはいえ、2015年まで現役で、退官後も自衛隊の防衛政策にかかわってきたというから、自衛隊の制服組の本音を代弁していると思われる。そんな人物の意見に小生は剣呑なものを感じたので、見過ごすわけにはいかなかった。

delacroix58.1.rebecca.jpg

「レベッカの略奪(L'Enlèvement de Rebecca)」と題したこの絵は、ウォルター・スコットの有名な小説「アイヴァンホー」に取材した作品。「アイヴァンホー」は十字軍時代のイギリスの騎士の活躍を描いた作品で、非常に人気を博していた。ドラクロアはその中の、テンプル騎士団の一員ギルベールが、ユダヤ人の娘レベッカを愛し、城から略奪する場面を取り上げた。

israel05.disengage1.JPG

アモス・ギタイの2007年の映画「撤退」は、2005年にイスラエルのシャロンが行った「ガザ撤退」をテーマにした作品。この撤退作戦は、第三次中東戦争で占領したガザのユダヤ人入植地からの撤退を主な目的としていた。シャロンがなぜこの作戦に踏み切ったか、詳しい事情はわからない。シャロンは対パレスチナ強行路線で知られており、パレスチナ人に譲歩するこの作戦には動機の不明な部分が多い。もっともこの作戦後も、イスラエルのユダヤ人はたびたびガザを攻撃し、2014年にはホロコーストと呼ばれるような大虐殺事件を起している。

「思想と動くもの」への緒論第二部の主要なテーマは、哲学と科学の関係についてである。このことにベルグソンがこだわるのは、かれの説が反科学主義だとの批判が強く出されたからであった。そういう批判が出るのは、科学と哲学との関係が正しく理解されておらず、哲学は科学を厳密化したものだとか、科学を基礎づけるものだとかいう考えが広まっているからだ。ベルグソンはそうした誤解を解消して、哲学と科学とのあるべき関係を模索するのである。

韓国で元徴用工の遺族らが日本企業に対して損害賠償を求めた裁判に関して、ソウル地裁が原告の訴えを却下した。そのこと自体は、日本側は評価し、また韓国内でも法理論的に支持する意見もあるようだが、司法制度の基本的なあり方から照らしてみると、異様といわざるをえない。

アメリカはじめ連合国と日本との間の戦争を終了させ、日本の独立を回復させるための講和条約の締結を目的として1951年にサンフランシスコで会議が催された。その結果1951年9月に講和条約が締結され、翌52年4月に発効した。それによって日本は主権を取り戻した。しかしこの条約には、連合国の重要なメンバーだったソ連と中国は加わらなかった。冷戦が深刻化していたし、その爆発形態としての朝鮮戦争が進行中だったからだ。

israel04.freez1.JPG

アモス・ギタイの2005年の映画「フリー・ゾーン 明日が見える場所」は、イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人(パレスチナ人が中心)との関係をテーマにした作品。他のギタイ作品同様、この映画もユダヤ人の立場を一方的に擁護するのではなく、アラブ人の立場にも配慮し、なるべく公平に事態を描こうとする姿勢が感じられる。この映画が作られた2005年は、第二次インティファーダと呼ばれる大規模な衝突が起きた直後であり、ユダヤ人とパレスチナ人の対立が深刻化していた。そうした中で、両者の和解を促すようなメッセージが認められないこともない。

soga12.matutaka.jpg

「松に鷹図襖」は、伊勢の永島家に伝わってきた44面の襖絵の一部。五面分を占めている。画面左側に松の樹を配し、その枝の先端、丁度全画面の中央にあたるところに鷹を配している。鷹は背後に鋭い視線を向け、その視線の先には断崖らしいものが見える。かなりなダイナミズムを感じさせる構図である。

「資本主義・社会主義・民主主義」の第五部は、「社会主義政党の歴史的概観」に宛てられている。その歴史は、シュンペーターが「幼年期」の社会主義と呼ぶものから、マルクスの社会主義を経て、20世紀における各国の社会主義運動に及んでいる。それをごく簡単に要約すれば、社会主義運動は歴史の進行にあわせるかのように発展したけれど、それはマルクスの主張に沿ってではなく、資本主義を修正するような形で進んできたということである。シュンペーターによれば、マルクスは社会主義の到来を予言したことでは間違っていなかったが、それがどのようにして到来するかを、正確に予見できなかったということになる。

delacroix56.1.olinde.jpg

「火刑台の上のオリンデとソフロニア(Olinde et Sophronie sur le bucher)」と題したこの絵は、ルネサンス期イタリアの詩人タッソーの長編詩「解放されたエルサレム」に取材した作品。この長編詩は、十字軍をテーマにしており、同じテーマを扱ったアリオストの長編詩「狂乱のオルランド」とともに、非常に人気を博したという。

角川書店刊行の「仏教の思想」シリーズ第一巻は、「智慧と慈悲<ブッダ>」と題して、釈迦のそもそもの思想をテーマにしたものだ。釈迦の思想といえば、いわゆる小乗仏教や大乗仏教も釈迦の教えと称しており、それらを含めて仏教全体が釈迦の教えを説いたということになっているのだが、一口に仏教と言っても、その内実は多岐に渡り、場合によっては相互に矛盾する内容を含んでいる。それは、釈迦のそもそもの教えと言われるものが、時間の経過にしたがって変化していった結果だといえる。そこで、歴史上の人物としての釈迦が、そもそもどのような思想を抱き、それをどのようにして人々に説いたかを知っておく必要がある。そのような問題意識から、この巻は書かれた。

kouji.jpg

「柑子」は、主人から預かった柑子を食ってしまった太郎冠者が、それを出せと言われて、出せないわけを言い訳する有様を描いたもの。同じようなテーマをとりあげた作品に「附子」があるが、「附子」の場合には主人にも責任の一端があるが、こちらは太郎冠者に全面的な責任がある。その責任を逃れようと、太郎冠者が無い知恵をしぼるところに妙味がある。

israel03.kedma2.JPG

2002年のイスラエル映画「ケドマ 戦禍の起源」は、イスラエル建国の一齣を描いた作品。イスラエル映画であるから、基本的にはイスラエルのユダヤ人の視線から描かれているが、監督のアモス・ギタイにはかなり相対的な視点が働いていて、かならずしもイスラエルのユダヤ人が正義で、パレスチナのアラブ人が不正義だというような一面的な見方をしてはいない。ユダヤ人に追われるアラブ人の怒りも描かれている。

soga11.64.2.1sitiken.jpg

曽我蕭白は、明和元年(1764)に伊勢に旅し、そこで方々に寄宿しながら、様々な作品を生み出した。伊勢には蕭白の作品が非常に多く伝わっているので、一時期まで、蕭白伊勢出身説まで起こったほどだ。

「密やかな結晶」は、人間が置かれた恐ろしい状況を描いている点では、ある種のディストピア小説といえる。ディストピア小説といえば、オーウェルの「1984年」とかカフカの一連の小説が思い浮かぶ。それらの小説は、異常な状況を描いているということもあって、文章も不気味な雰囲気に包まれている。読者はその不気味な文章を通じて、実際には考え難いような奇妙な状況に直面させられるのだ。

なかなか連立政権が結成できなかったネタニアフに代わって、反ネタニアフ連合が政権を担うことになった。この反ネタニアフ連合は、中道政党の「イェシュ・アティド」を中心にして八つの政党が加わったもので、その中には極右政党「ヤミナ」のほか、アラブ系の政党「ラーム」を含んでいる。要するにネタニアフ率いる「リクード」以外のすべての政党が反ネタニアフで一致したということだ。かくも異なった政党を結びつけたものはただ一つ、ネタニアフへの嫌悪だった。

delacroix53.1.ophlia.jpg

ドラクロアはシェイクスピアを深く愛していて、「ハムレット」や「ロメオとジュリエット」などに取材した作品を多く手がけている。「オフェリアの死(La mort d'Ophélie)」と題したこの作品もその一つ。「ハムレット」第三幕第七場の有名なシーンをモチーフにしている。

israel02.kippul1.JPG

2000年のイスラエル映画「キプールの記憶」は、第四次中東戦争の一齣を描いた作品である。この戦争は、ユダヤ人の祝祭日であるヨム・キプールの日に始まったことから、「ヨム・キプール戦争」とも呼ばれる。映画のタイトルはそれから取られているわけである。

210530.yamanba.jpg

「山姥」は世阿弥の作品。すでに行われていた曲舞を取り入れて再構成した曲である。「申楽談義」に「山姥、百万、名誉の曲舞なり」とあるから、かなりの人気曲だったことがうかがわれる。

ベルグソンは「思想と動くもの」を刊行するについて、未発表の二編の小文を緒論として置いた。河野与一訳の岩波文庫版では、三分冊の最後に置かれているが、原著では冒頭に置かれている。また、河野訳では、便宜上「哲学の方法」という総題が付されているが、これは緒論の扱っているテーマを要領よく表現したものといえる。この緒論は、哲学の基礎となるものをまとめたもので、ベルグソンなりの方法序説と言うべきものであるからだ。

日本の敗戦によって、朝鮮は統一国家として独立するはずだったが、そうは行かなかったのは冷戦の影響である。冷戦が表面化するのは戦後しばらくたってからだが、終戦頃にはすでに米ソ対立のきざしはあった。その対立のために、朝鮮は南北に分断される方向に進んだ。ドイツが東西に分裂する方向に進んだのと同じプロセスをたどったわけだ。

israel01.siria.JPG

2004年の映画「シリアの花嫁」は、シリア人ではなくイスラエル人であるエラン・リクリスが作った作品だ。文字通りシリア人の結婚をテーマにしている。なぜ、イスラエル人のリクリスがシリア人の結婚を描く気になったのか。動機はよくわからない。だが、映画を見る限りでは、シリア人への侮蔑的な視線と、イスラエル人への好意的な見方が伝わってくる。その意味では、イスラエルの国益に沿ったプロパガンダ映画の要素を持っているとはいえる。

テニスの大坂なおみ選手が、全仏オープンに出場中、大会主催者が義務付けた記者会見に応じなかったことで大きな反響を呼んだ。全仏オープンを含めたいわゆる四大大会の主催者たちは、この事態を重く見て、二回戦後にも同じ行動をとれば、今後四大大会から追放すると脅迫した。

soga10.64.2.taka.jpg

曽我蕭白は、多くの鷹図を手がけているが、これはその最高傑作といってよい。しかも数少ない彩色画の傑作である。縦長の構図の中に、上段には鷹を大きく配し、下段に二羽の小禽を配して、華美な色彩で描いている。蕭白の彩色画の特徴は、原色を多用した華やかさにあるが、これはやや落ち着いた色彩配置になっている。その分黒を有効に使うことで、華美な印象をもたらしている。

シュンペーターの民主主義論の特徴は、民主主義と社会主義との相性について着目することにある。というのもかれは、民主主義をブルジョワ社会の産物と考えているからだ。としたら、ブルジョワ社会が廃棄されるのと同時に民主主義も無意味になるのか、ということが問題となる。そのことをかれは、「社会主義はそもそも民主主義的たりうるや否や、またそれはいかなる意味においてそうでありうるか」という言葉で表現する。

最近のコメント

アーカイブ