2023年6月アーカイブ

四方山話の会を5月26日に設定したところ、誰からも参加連絡がないというので、幹事の石子の判断で中止となった。すると、会の中核部隊たる例の四人組でこじんまりとやろうじゃないかと浦子が言い出し、別途設定することになった。場所は四谷荒木町の小料理屋「おろく」。浦子行きつけの店である。その店には小生も一度行ったことがあったが、その後近所に移動したという。ネットで地図を確認したところ、前にあった店から一歩脇道を入ったところだと表示されている。そこで小生は、その場所を目指して行ったのだったが、そこには存在しない。どういうわけかといぶかしく思ったところ、ちょっと先のところに、顔に見覚えのある女将が暖簾をいじっているのが見えた。そこが目当ての店だった。ネットにはいい加減な情報がアップされていたわけだ。

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2006年の中国映画「天安門、恋人たち(颐和园 婁燁監督」は、中国人女子大生の奔放な性遍歴を描いた作品。邦題に「天安門」とあり、また時代背景が1989年前後に設定されているので、例の天安門事件をテーマにしているかと思ったら、そうではなく、中国の大学生たちの糜爛した性関係を描いている。原題の「颐和园」は、そうした性関係の舞台の一つなのである。「颐和园」には小生も、観光ツアーで訪れたことがあるが、北京西北部にある巨大な庭園である。

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今年の五月に行われた「平成中村座姫路城公演」の舞台を、NHKのEテレが中継放送しているのを見た。平成中村座というのは、中村勘九郎一座が行っている移動舞台のことで、日本全国を興行して歩いているそうだ。今回は、姫路城の直下に仮設舞台を作り、歌舞伎芝居を披露した。出し物は、二部にわかれ、第一部は「播州皿屋敷」と「鰯売恋曳網」、第二部は「棒縛り」と「天守物語」。小生がテレビで見たのは第二部だ。

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晩年のルドンは、花瓶にいけた花を好んで描くとともに、花をあしらった女性の肖像も多く描いた。「ヴィオレット・エーマン(Violette Heyman)」はその代表的なものである。若い女性が横顔を見せた姿で、花と向き合っている構図である。

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張楊(チャン・ヤン)の2005年の中国映画「胡同のひまわり」は、前作「こころの湯」に続き、中国人の家族関係をテーマにした作品。それに1876年以後の中国現代史を絡めてある。とはいっても、毛沢東の死や唐山大地震は触れられているが、1989年の天安門事件は、慎重に避けられている。そのかわりに、深圳に象徴される現代化の流には触れている。

「幼年時代によって魅惑されているある種の人々がいる。幼年時代が取り憑き、特権的なさまざまな可能性の次元において、彼らを魔法にかけたままにしておくのだ」。これは、メルロ=ポンティの著作「シーニュ」の序文(海老坂武訳」の一節だが、この文章を読んで小生が想起したのは加藤周一だった。加藤は「羊の歌」と題する回想記を残しているが、それを読むと、かれが幼年時代に取り憑かれた人だったという印象を強く受ける。

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小生が毎日散策している近所の公園で、見事な色合いの花をいくつか見つけた。いづれも梅雨空を吹き飛ばすような鮮やかな色合いに咲いている。特に目を引いたのが、彼岸花の仲間のアガパンサスとユリの仲間のヘメロカリスだ。上の写真は、その二種類の花が色合いを競い合うように咲き誇っている様子を映したもの。横に広がっている薄紫の花がアガパンサス。その奥のオレンジ色の花がヘメロカリス。手前の花の名は、植物に詳しくない小生にはわかならい。

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「アポロンの馬車と竜(Le char d'Apollon et le dragon)」と題されたこの作品は、「アポロンの馬車」とほとんど同じ構図である。ほぼ同時期に制作された。構図の違いは、画面の下側に竜を配したところ。もっとも竜は、胴体の一部がかいまみえるだけで、全体像が明確ではない。

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張楊(チャン・ヤン)監督の1999年の中国映画「こころの湯(洗澡)」は、北京の下町にある銭湯を舞台にした人情ドラマである。その銭湯は、知的障害の子ども(次男)を持つ父親が経営している。そこに長男が戻ってくる。長男は、弟の寄越したはがきが、父の危篤を知らせていると思ってもどってきたのだが、父親は元気だった。そこで帰ろうと思って航空券の手配等などしているうちに、なんとなく帰りそびれ、だらだらと居続ける。その間に、銭湯には周囲の顔なじみがやってきて、それぞれ自分の人生を引きずったようなやりとりをする。そのうち、父親は湯船の中で死んでしまう。知的障害を持った弟は自分一人では生きてはいけない。そこで、兄は弟の面倒を自分がみようと決意する。というような内容で、親子や兄弟の家族愛を中心にして、北京の下町で生きる庶民の人生模様を追いかけるというわけである。

正法眼蔵第五「即心是仏」の巻を道元が説示したのは延応元年(1239)道元満三十九歳の年である。奥書に、宇治の興聖宝林寺で示衆したとある。テーマは「即心是仏」である。これについて道元は、次のように説き始める。「仏々祖々、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す」。「即心是仏」は仏祖たちが代々伝えてきた仏教の根本思想であるが、インドにはその教えはなく、中国で初めて生まれたのだと言っている。おそらく、禅の始祖ダルマが中国へ来たことをきっかけに、禅の根本思想である「即心是仏」が中国に広まったと言いたいのであろう。ところがその教えを、中国の仏者といえども、正しく捉えているものは少なく、多くは間違った理解をしている。それを道元は外道といって排斥するのである。

岸田政権が国民に憲法上保証されている通信の秘密についての権利に、制約を加える方針を打ち出したと報じられている。非常に由々しい事態である。もしそんなことがまかりとおるなら、国民のプライバシーは丸裸にされ、権力による一方的な監視にさらされることになる。通信の秘密は人間としての最低限の尊厳保証のための規定だ。それを侵害しようとする岸田政権は、究極の専制支配をめざしていると言わねばならない。

「シーニュ」所収の「生成するベルグソン像」は、1959年の「フランス哲学会」におけるベルグソン追悼会での講演記録である。この講演の中でメルロ=ポンティは、ベルグソンの画期的な業績をほめたたえているのだが、かれはもともとベルグソンをそんなに高く評価していたわけではない。むしろ批判的であった。

広末涼子の不倫騒ぎについては、小生はこれを男女のプライベートな問題だと受け止め、あえてコメントする気はなかった。だが、週刊誌をはじめとしたこの問題の報道ぶりは、常軌を逸した過熱ぶりで、広末の人権を無視した野蛮な攻撃にまで発展しているので、座視するわけにもいかなくなった。広末涼子に対する一部日本人によるバッシングは、日本社会の病理のようなものをあぶりだしている。その病理を小生は日本社会の田吾作部落体質と呼んでいる。

「二重人格(Двойник<分身>とも訳される)」は、ドストエフスキーにとって二作目の小説である。処女作「貧しき人びと」刊行後わずか二か月後に、雑誌「祖国雑記」に発表した。ドストエフスキー自身はこの小説に大きな自信をもっており、「貧しき人びと」の十倍ほどの価値があるといっているが、世間の受けは芳しくなかった。批評家の評価も低かった。題材の異常さが、この小説を受け入れがたくさせたのだと思う。たしかに、今日の読者にもわかりやすいものではない。そのわかりにくさは、小説の主人公の人格があまりにも浮世ばなれしており、人間的な共感をさそうものではないところに根差しているように思える。

最近「グローバルサウス」という言葉が注目を浴びている。それにはウクライナ戦争の影が指摘できる。ウクライナ戦争が大きなきっかけとなって、G7諸国と中ロの対立が前景化し、その対立にグローバルサウスを巻き込もうとする動きが、とくにG7側から強まった。主な標的になっているのはインドである。G7諸国は、今年のG7サミットにインドのモディ首相を招き、インドをG7側に抱き込もうとはかった。それに対してインドは、対立する双方の間にたって、自国の利益のために利口に振舞っている。そんな光景が見られる。そんなグローバル・サウスの戦略的意義とでもいうべきものに言及した小論が、雑誌「世界」の最新号にのっている。「グローバルサウスと人間の安全保障」(峯陽一)と題する一文だ。

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是枝裕和の2022年の映画「ベイビー・ブローカー」は、是枝が韓国に招かれて作った作品であり、俳優はすべて韓国人、言語も韓国語。要するに日本人の監督を使った韓国映画である。欧米では、映画監督が自国以外の映画の制作に携わるのはめずらしいことではないが、日本ではごく最近の現象だ。是枝はこの前にも、フランスに招かれて、フランス映画を作っているから、国際派の映画監督のチャンピオンのようなものだ。

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国立代々木競技場は、1964年の東京オリンピックの会場として建設されました。二つの施設からなり、第一体育館は水泳を始めとした屋内競技の大アリーナとして、第二競技場は、小規模な屋内競技の会場として、日本のスポーツを支えてきました。東京オリンピック開催の直前に竣工し、第一体育館は水泳の、第二体育館はバスケットボールの会場として使われました。

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「出現(Apparition)」と題されたこの作品は、ボナールらナビ派とのかかわりを示すものと言われる。ボナールは、ナビ派の中心人物として、幻想的な画風の作品で知られている。ルドンの幻想的な画風に影響を受けたとされるが、ルドンはルドンで、ボナールらナビ派の動きに注目していたらしい。

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東京2020オリンピックSIDE:Bは、河瀬直美監督の東京五輪公式記録映画のうち、国際オリンピック協会及び日本の大会組織委員会など、五輪運営の当事者や大会関係者たちの活動を取材した作品。SIDE:Aがアスリートに焦点を当てた表向きの記録なのにたいして、これは裏の記録である。表の記録がかならずしも観客の喝さいを浴びたとは言えない一方で、こちらも芳しい評判は得られなかった。

加藤周一はサルトルを高く評価していた。サルトルについて、色々と語っている。その加藤のサルトル評価のありようを「サルトル論」といわず「サルトル観」というのは、加藤がサルトルを語る場合、サルトルの思想を問題にしているのではなく、その生き方を問題にしているからだ。サルトルは「考える人」であると同時に「心温かき人」であった。世の中にはそのどちらかの素質を備えた人はいても、両者を兼ね備えた人はなかなかいない。サルトルはそうした稀有な人なのだと加藤は言って、サルトルの生き方を高く評価するのである。だから加藤のサルトル観は、「考える人」の面よりも「心温かき人」の面により重心を置いている。サルトルはただの思想家ではなかったというわけである。

このところ、米巨大企業の幹部が中国との緊密なパイプ作りに動き出している。モルガン・チェースのCEOジェームズ・ダイモンが中国を訪問し投資銀行の対中進出に意欲を示したのをはじめ、マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツやテスラの創業者イーロン・マスクが相次いで中国を訪問し、対中ビジネスの拡大に意欲を示した。バイデン政府が中国封じ込め路線を追求しているなかで、こうした動きはバイデンをパスして、直接自分自身の利益を追求しようというもので、それ自体は資本の論理にかなっている。資本主義国アメリカでは、こうした個別資本の動きを、政府の都合ではとめられないと見える。正式に戦争状態にあるのならともかく、いくら政府の方針に反するからといって、資本の動きを一方的に制約するのはむつかしいのだろう。

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小生の家の玄関先には紫陽花が植えてあって、ちょうど今が花見ごろだ。六月のしょっぱなに咲き始め、それから半月以上たったいまになって、やっと八分通り咲き広がったところだ。この紫陽花は、二十年以上もたつ古株で、いまでは人間の背丈ほどの高さになっている。かつては毎年のように多くの花を結んだものだが、数年前から咲かなくなってしまった。剪定の仕方に問題があったらしい。紫陽花は、二年がかりで開花する習性を持っているので、毎年咲かせられないことはもちろん、まったく咲かせることができないことも珍しくはない。

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ルドンは、晩年には花を好んで描く一方、蝶をモチーフにした作品を多く手掛けた。その大部分は、沢山の蝶が思い思いに飛び回っている様子を描いたものだ。この作品は、その代表的なもの。露出した岩肌の上を、大小さまざまの種類の蝶が飛び回るところを捉えた。

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東京2020オリンピックの公式記録映画は、河瀬直美が監督し、SIDE:A及びSIDE:Bとして別々に公開された。SIDE:Aは2021年6月3日から公開、Bの方はその三週間後に公開されたが、どちらも営業成績は惨憺たるものだった。映画の内容が面白くなく、そのうえ、オリンピック自体が高い関心を集めたとはいえなかったので、国民の反応が鈍くなるのは覚悟されていたものの、その覚悟以上にひどい受け止め方をされた。色々な要因があると思う。オリンピックについての国民世論が盛り上がらなかったことが最大の理由だと思うが、映画自体にも問題を指摘できるのではないか。アスリートの活躍を描くはずだったSIDE:Aは、国民の人気が最低だった森大会組織会長を前面に出して、あたかも森会長を賛美することを目的に、この映画を作ったというふうに受け取られたこともあり、世間の反応はいきおい、冷笑的になったのではないか。どんな映画でも、公開後に観衆の共感を呼べば、おのずから評判になるものだ。ところがこの映画は、ほとんど評判になることがなかった。

「正法眼蔵」第四「心身学道」の巻は、文字どり心身を以て真理を追究することについて説いたものである。道元はすでに、「心身脱落」について語っていた。心身脱落とは、心身を自我ととらえたうえで、その自我を脱落することがすなわち悟りだと説いていた。その自我には、対象の在り方も含まれるから、要するに相対的な現象の世界を超越することが心身脱落であり、さとりであると説いていたわけである。ところがこの「心身学道」の巻は、心身をもって悟りを得ることが説かれている。ということは、道元は「心身脱落」の前言を取り消して、「心身学道」を説いたのであろうか。まずそこが、大きな問題となる。

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コープ・オリンピアは、表参道の西の端、神宮の森への入り口にあたる場所に立っています。外観からわかるとおり高級マンションです。1965年に清水建設によって設計・施行されました。オリンピックの翌年に竣工、オープンしたというので、オリンピックの名を冠したわけです。日本の高級マンションのはしりで、いわゆる億ション第一号となったものです。その後、設備などが老朽化したため、建て替えの計画も持ち上がりましたが、権利関係が複雑でなかなか実現しないそうです。

メルロ=ポンティは若いころより現象学を標榜していたから、フッサールについては折につけて言及していた。「シーニュ」所収の「哲学者とその影」は、かれのフッサール論の集大成というべきものである。かれがこれを書いたのは死の前々年のことだから、ますますそう言える。とはいえ、これはフッサールという思想家をトータルに捉えようというものではない。「イデーン」第二部を中心にして、フッサール晩年の思想を、自分自身の思想にからませながら論じたものである。メルロ=ポンティは、彼自身の現象学を、フッサール晩年の思想によって改めて根拠づけたいと考えたといえよう。

この日(6月17日)夕刻、いつもの通り付近の公園を散策して、自宅近くまで戻って来たとき、向こうから歩いてきた老人にいきなり襲撃された。ちょっと面くらってたじろいだが、すぐに態勢を立て直して、何をするのだと詰問すると、マスクをかけていないのが怪しからんという。もうマスクをかける必要はないのだよ、と言うと、マスクをかけないのは怪しからんと言って、小生の腕を抱えにかかる。小生よりずっと大柄な体格で、力もあり余っているようなので、まともに相手にしていたら、ぼこぼこにされてしまうかもしれない。

岸田内閣が「骨太方針」なるものを提示した。目玉は日本的雇用の「改革」である。これまでの雇用の主流だった「終身雇用」とそれを前提とした諸制度を破壊し、アメリカ型のジョブ型雇用に替えようというものだ。日本型雇用は、明治以降の日本の資本主義システムを土台で支えてきたものであるから、それを破壊するというのは、歴史的な挑戦と言えるだろう。

「貧しき人びと」には、ジェーヴシキンとワルワーラがロシア文学について談義する場面がある。これは、ドストエフスキーが小説中の登場人物を借りて、自分自身のロシア文学論を展開したものとする見方もあるが、その部分を読んですぐわかるとおり、ドストエフスキー自身の文学観とは全く関係ないといってよい。そうではなく、これはジェーヴシキンの被害妄想の一例として扱われているのである。

対話型AIサービスChatGPTが大変な騒ぎを引き起こしている。あっという間に億単位のユーザーを獲得したことに、騒ぎのすごさを感じることができる。その騒ぎを前にして、このサービスが人間に明るい未来を拓くものだとする肯定的な評価がある一方、逆に人間に害を及ぼす危険を指摘する否定的な評価もある。欧米諸国では、これを警戒する空気の方が優勢で、早くも法的な規制についての議論が高まっているのに対して、日本では、積極的に活用すべきだという雰囲気の方が優勢である。日本はこの分野では後進国で、問題点をあげつらうよりは活用する方が先だとする考えのほうが優勢なのだ。この問題について、岩波の雑誌「世界」の最新号(2023年7月号)が、「狂騒のChatGPT」という特集を組んでいるので、そこに寄せられた文章を読めば、問題の所在についてのおおまかな傾向を知ることができる。

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2014年のハンガリー映画「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲」は、人間に虐待された犬が、虐待した人間に復讐するという内容の作品。人間がほかの人間に復讐するという話は珍しくはないが、動物が人間に復讐する話は非常にめずらしい。虐待されて反射的に攻撃するということはあるかもしれないが、計画的に復讐するというのは、知能を前提としているので、動物に知能など認めたがらない人間にとっては、この映画は受け入れられないほどスキャンダラスに思えるだろう。


今日(6月15日)、小雨の降る中を傘をさして長津川を散策していたところ、水路でカルガモの親子を見かけた。この親子と初めて出会ったのは5月28日のことだ。母ガモが子ガモを連れて、他の場所から移動してきたばかりのことだった。その折の子ガモは、孵化したばかりで手の平に乗るような大きさだったが、それからわずか半月あまりの間に、ご覧のとおりの大きさになった。カルガモの成長は早いのである。

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ラフォーレ原宿は、表参道と明治通りの交差点西北角にあります。1978年に森ビルが運営するファッションビルとしてオープンして以来、表参道地区のファッション化の先導的な役割を果たしてきました。このビルができたおかげで、表参道には多くのファッション・ブランドが進出するよにうになり、今日のファッションタウンへと発展したわけです。

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アポロンは、ギリシャ神話の太陽神である。太陽が東の空から出て天空を移動し、やがて西の空に沈んでいく様子を、ギリシャ神話では、アポロンが四頭立ての馬車に乗って天空を駆けるイメージで表現した。「アポロンの馬車(Le char d' Apollon)」と題されたこの作品は、そうしたギリシャ神話のイメージをあらわしたものである。

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2011年のハンガリー映画「ニーチェの馬 タル・ベーラ監督)は、世界の終末をテーマとした黙示録的な作品。ハンガリーの寒村で二人でわびしく暮していた父と娘が、世界の終末に直面し、ついには自らも亡びていく過程を描いた非常にショッキングな映画である。これまでディストピア化した世界を描いた作品は多く作られたが、世界の終末をテーマとしたまじめな映画は、イングマル・ベルイマンの「第七の封印」とこの作品の二つだけではないか。

アラゴンやエリュアールらフランスの詩人たちが、愛国感情をナチスとの抵抗とそれを通じた人間の解放と結びつけたのに対して、ドイツはそもそもナチスを生んだ国ということもあり、詩人の抵抗ということはほとんど問題にならなかったし、したがって抵抗と人間性の解放とが結びつくこともなかった。ナチス時代に、ドイツ国内でナチスに公然と抵抗した詩人や作家はいなかったといってよい。トーマス・マンをはじめとして、ナチスに批判的な目を向けていた作家はとっとと海外に移住した。そして海外から冷ややかな目でドイツを眺め、ナチスが敗北したあとドイツに戻ってきて、あたかも自分たちがドイツ精神を代表するかのようにふるまった。マンなどは、ドイツ民族が国家を持つとろくなことにはならないから、ユダヤ人のように国家を放棄し、ディアスポラの生き方をしたほうがよいとまで言ったくらいである。

岩波の雑誌「世界」の最新号(2,023年7月号)が「交錯する人権と外交」という特集を組んでいる。これはウクライナ戦争に関して、日本を含めた「西側」の諸国が、ウクライナに加担してロシアと対立することの大義名分として、人権とか法の支配といった「普遍的価値」を持ち出してることについての、違和感というべきものをテーマとしたもので、寄せられた数編の小文は、いづれもそうした西側の主張への批判を表に出している。

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ルドンは、シェイクスピア劇の有名なキャラクター、オフェリアをモチーフにした作品をいくつか作っている。その中には、水に浮かんで流される、よく知られたイメージのものもある。「花の中のオフェリア(Ophelia parmi les fleurs)」と題されたこの絵は、花の中というよりは、花を前にしてそれを見上げる姿のオフェリアを描いたものだ。

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2020年のギリシャ映画「テーラー人生の仕立て屋」は、ギリシャの不況に翻弄される洋服仕立て屋の物語である。ギリシャ経済は、慢性的な不況におびやかされてきたと言われるが、とくに2010年代に深刻化し、国家は財政破綻し、失業率は25パーセント以上に達した。ギリシャ経済は、EUに組み込まれているので、EUからは財政赤字の解消を求められた。それはさらなる失業の増大に結びつくのだが、ドイツなど豊かな国は、ギリシャ人の失業問題などお構いなしだ。もっとも神の配慮もあって、ギリシャ経済はどうやらもっているようであるが、この映画は、深刻な不況に翻弄される庶民の姿を描いている。

仏性の巻の第九段落は、馬祖下の尊宿塩官斉安の言葉「一切衆生有仏性」についての評釈である。この言葉は、釈迦の初転法輪で説かれた言葉として「仏性」の巻の冒頭で取り上げられていたものであるが、それをここでは、違う角度から再び取り上げたものだ。仏性とは、仏になるべき可能性とか素質とかいうものだが、それが一切衆生に備わっているのだということが、すでに冒頭の部分で確認されていた。それを踏まえて、「衆生これみな有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり」と説かれる。「有仏性」であって、「即仏性」ではない。「即仏性」というと、衆生がそのあるがままの姿で仏性だということになるが、そうなると修行の意義がなくなるので、「有仏性」というのである。その上で、「有仏性の有、まさに脱落すべし」という。この「脱落」という言葉が難物である。「心身脱落」というと、心身を脱落して、ものの形にこだわるな、という意味合いになるが、「有を脱落」というと、存在にこだわるなという意味になるのかどうか。

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東急プラザの建物は、表参道と明治通りの交差点北東角に位置しています。設計は中村拓志(NAP建築設計事務所)で、2012年に竣工しました。中村は隈研吾建築事務所の出身で、代表作としてはZOZO本社屋などがあります。東急プラザの設計思想については、表参道のシンボルであるケヤキ並木との融合をあげています。建物の高さをケヤキ並木の高さにあわせ、その分地下空間を最大限利用するといったコンセプトです。

「シーニュ」所収の文章「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」は、メルロ=ポンティによるレヴィ=ストロース論である。これをメルロ=ポンティは、モースの「贈与論」の英訳を記念して書いたのであったが、その趣旨は、構造主義的な社会学への共鳴を示すというものだった。メルロ=ポンティは、実存主義者を自認したことはあったが、自ら構造主義者と名乗ったことはなかった。だが、彼の思想には、レヴィ=ストロースに通じるような構造主義を思わせることろがあった。それは「知覚の現象学」の中で、ソシュールの言語論にたびたび触れていることにあらわれている。レヴィ=ストロース自身は、民俗学のフィールド・ワークから入ったのであって、かならずしもソシュールの徒ではないが、ソシュールの構造主義的言語学と共通するような考えをもっていたとはいえる。

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ペガサスは、ギリシャ神話に出てくる翼をもった天馬である。空高く飛翔するイメージで描かれることが多い。そのペガサスをルドンは繰り返し描いている。すでに石版画にも取り上げていたが、石版画のペガサスは黒く暗いイメージをひきずり、地上を這う姿で描かれていた。

ドストエフスキーが処女作の「貧しき人びと」を書いたのは、満二十四歳のときだから、若書きといえる。若書きにありがちな不自然さを感じさせる。たとえば、この二人の人物設定だ。二人ともこの小説のテーマである「貧しさ」を象徴する人物として設定されているが、そもそもかれらは普通の庶民ではない。マカール・ジェーヴシキンは一応九等官の役人という設定だし、ワルワーラ・ドブロショーロワは、孤児の身の上とはいえ、侍女を召している。侍女を召しいているほどの人間が、赤貧の境遇にあるとはいえまい。そこでタイトルにある「貧しき」というのは、文字通りの意味ではなく、どちらかといえば、「哀れな」というような意味合いの言葉ではないかとの推測がなされてきた。ロシア語の бедный という言葉には、フランス語の pauvre と同じく、「貧しい」と「哀れな」という二重の意味があることを踏まえてだ。

入管法の改定案が6月9日にも参議院本会議で可決され、法律として施行されることが決まった。改定後の入管法は、事実上難民を日本から締め出す内容のものであって、難民問題の専門家や一部の野党の批判を浴びていたのであるが、与党とそれに同調する勢力は、そうした批判には耳を貸さず、難民を受け入れっるつもりはないということを、世界に向けて宣言したことになる。

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2009年のギリシャ映画「籠の中の乙女(Κυνόδοντας ヨルゴス・ランティモス監督)」は、ディストピア風の不条理劇である。ディストピアは、国家社会単位の現象であるが、この映画の中では、家族がある種のディストピアとなっている。父親だけが外界との接点を持っており、妻と三人の子供たち(娘二人と息子一人)は屋敷の中に閉じ込められた状態で、外界のことは何も知らない。子供たちは年頃なので、性欲を感じる。そこで父親は女をやとって、息子の性欲を満足させてやるが、娘のほうは放置したまま。娘たちは互いをなめあったりして性欲を発散するのだ。

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(ディオール表参道ビル)

ディオール表参道ビルは、妹島和世と西沢立衛による建築家ユニットSANAAが設計して2001年に竣工しました。設計にあたっては、ディオール側から多くの注文が出たそうですが、それはビル全体をディオールの広告塔にするという目的を反映したものでした。ディオールのブランド・イメージを生かした純白のドレスのイメージとか、地上三十メートルの高さを四フロアに分割するといったような内容でした。


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ルドンがポール・ゴーギャンと出会ったのは、1886年の第八回印象派展の会場であったらしい。八歳年下のゴーギャンのほうから、ルドンに敬意を表して接近したといわれる。ゴーギャンはルドンの画風に強くひかれ、その幻想的な雰囲気とか、豊かな色彩に影響されたようである。

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2003年のギリシャ映画「タッチ・オブ・スパイス(Πολίτικη Κουζίνα タンス・プルメティス監督)」は、ギリシャ現代史の一齣を描いた作品。ギリシャ現代史については、テオ・アンゲロプロスが壮大な視点から俯瞰的に描いた映画があるが、これは、ギリシャとトルコの対立に焦点を当てたものだ。ギリシャとトルコは長らくキプロス島をめぐって対立してきた歴史があり、1955年と1964年には大規模な軍事衝突に発展した。一方、トルコの大都市コンスタンティノポリスには大勢のギリシャ人が暮らしており、そのギリシャ人がトルコによる迫害の対象になったりした。この映画は、迫害されてトルコを追われたギリシャ人家族の物語なのである。

加藤周一は、ナチス占領下のフランスのレジスタンス運動を象徴する詩人たちを高く評価する。とくにアラゴンとエリュアールを。この二人ともシュル・レアリストだった詩人であり、現実を超越するところに人間の価値を認めていた。ところが、フランスがナチスに占領され、フランス人の誇りが傷つけられるという現実に直面して、俄然リアリストになった。現実を正しく認識するためには、リアリストの目が必要だからだ。彼らの直面した現実とは、祖国フランスのみじめな状況だった。そこでかれらはそのみじめな状況を乗り越えて、誇らしく生きることを望んだ。その怒りと祖国への愛が、彼らのレジスタンス期の詩人としての活動を推し進めたと加藤は言うのである。彼の小論「途絶えざる歌」は、そんな彼らへのオマージュになっている。

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(エルメス表参道)

ブランド・ショップ、エルメスが入っているビルは、もともとは神宮前太田ビルといって1981年に竣工したものです。設計は竹内武弘で、基底の部分を重厚な石垣で表現していました。表参道の現代建築群の中でも、ひときわ目をひいたものです。ところが、2021年にエルメスの出店にともない、石垣部分はみっともないデザインでカバーされてしまい、かつての重厚なイメージは台無しになってしまいました。


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ルドンは仏陀に強い関心を持っていたようで、仏陀をモチーフにした作品を結構作っている。いづれも仏陀の精神性を表現したもので、カラフルな色彩のなかに、静かな瞑想のような雰囲気を漂わせている。

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ギリシャ映画を代表する作品「日曜日はダメよ」は、1960年に公開され、日本では翌年封切られたが、映画そのものよりは、主題歌のほうが有名になった。映画のほうは、アテネの外港ピレエスを舞台に、メリナ・メルクーリ演じる陽気な娼婦とアメリカから来た男の奇妙な恋を描いたものだ。そのアメリカ男を監督のジュールス・ダッシンが演じていた。その男は、娼婦をまともな人間に更正させようとしてさまざまな努力をするのだが、娼婦のほうはかれを捨ててマッチョなイタリア男になびくと言った内容だ。

「仏性」の巻の第三段落以降は、道元が古仏と呼ぶ禅師たちの言葉を手掛かりにして、仏性とはいかなるものかについて評釈したもの。道元自身の大宋国における修行体験についても触れられている(第八段落)。ここでは逐語訳するのではなく、各段落の要旨について解説したい。

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表参道ヒルズは、旧同潤会アパートの再開発事業として建設されました(2006年竣工)。再開発を得意とする森ビルの目玉事業の一つです。森ビルの再開発ビルは、超高層ビルが多いのですが、この表参道ビルは、地上六階の中低層構造です。町の景観への配慮がうかがわれます。ただし、敷地はめいっぱい利用しており、全長250メートルの長さを誇っています。

メルロ=ポンティの「シーニュ」所収の文章「どこにもありどこにもない」は、1956年に刊行された「著名な哲学者たち」という、ある種の哲学史に対する序文として書かれたものである。この哲学史を、小生は読んだことがないが、どうも東洋思想やキリスト教思想を含めた東西の著名な「哲学者」たちについて、その文章の一部を紹介するアンソロジー的な構成をとっているようである。要するに人類の知的遺産についての一覧を供するという建前をとっているらしい。そういうタイプのアンソロジーは、一時日本でも流行ったものだ。

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一昨日(6月1日)、長津川公園の土着ネコたちと戯れたことについては、その折にとった動画を添えて、このブログでも紹介したところだ。ところがその晩方から関東地方はすさまじい暴風雨に見舞われ、各地に被害が生じた。さわい、小生の周囲にはそうした被害を聞かなかったが、その勢いのすさまじさには肝を冷やしたところだった。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、いまでこそ世界絵画史上の巨匠ということになっているが、その評価が確立したのは20世紀のことである。そうしたダ・ヴィンチ評価の動きに、ルドンも深くかかわっていた。「レオナルド・ダ・ヴィンチ頌(Hommage à Leonardo da Vinci)」と題されたこの作品は、そんなルドンのダ・ヴィンチへの敬愛を表現したものである。

岩波の「同時代ライブラリー」から出ている大岡昇平の「歴史小説論」は、前半で彼自身の歴史小説論を、後半でそれの応用としての森鴎外の歴史小説批判を載せている。まとまった著作ではなく、折に触れて書いた文章をまとめたものだ。


小生の家から遠くないところに、洪水対策用の調整池を活用した公園がある。長津川公園と名付けられてその場所を、小生は毎日散歩するのであるが、そこには大勢の野良ネコが住み着いていて、中には家族で暮らしているのもある。そのネコたちを、地元の人たちは土着ネコと呼んで、大事にしている。ネコにはそれぞれ特定の庇護者がいて、「野良猫に餌を与えるのは無責任です」という管理者の警告を無視して、毎日餌を与えている。ほとんどは老年女性である。彼女らはおそらく、充たされない母性本能のはけ口として、ネコをそれこそネコ可愛がりしているのではないか。

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1981年の映画「砂漠のライオン(Lion of the Desert)」は、ムッソリーニのリビア侵略をテーマにした作品。ムッソリーニが対トルコ戦争の一環として、トルコが支配していた北アフリカに植民地を獲得しようとする。それに現地のイスラム勢力が抵抗する。ムッソリーニは、それを無慈悲に粉砕して、イタリアの覇権を確立しようとする。しかしムッソリーニの野心には大義がなく、イスラム側の抵抗にこそ大義がある、というようなメッセージが伝わってくる作品である。

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(東京ユニオン・チャーチ表参道)

この風変わりな外観の建物は東京ユニオン・チャーチ。ユニオン・チャーチはプロテスタント系の協会。厳密な宗派性にはこだわらず、プロテスタントの精神を受け入れる人々には分け隔てなく解放されているとのことです。宗教行事のほか、一般のイベントにも使われるそうです。小生は内部には立ちいらなかったですが、開錠されているときには、誰でも中に入って見学できるとのこと。


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カリバンは、シェイクスピアのロマンス劇「テンペスト」に出てくるキャラクターである。「野蛮で奇形の奴隷」と紹介されており、また登場人物の口をとおして「魚と怪物のあいの子」と呼ばれ、具体的なイメージとしては、頭は魚で、鰭が手足のように伸び出ている。ヒエロニムス・ボスの奇妙な作品「干草車」に描かれている魚の怪物に近いイメージだ。

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