2023年7月アーカイブ

japan.omiokuri.jpg

2018年公開の日本映画「おみおくり(伊藤秀裕監督)」は、副題に「女納棺師という仕事」とあるとおり、納棺師をテーマにした作品。同じ趣旨の映画としては、滝田洋二郎が2008年につくった「おくりびと」がある。「おくりびと」は、納棺師という職業が社会的な差別にさらされていることを、批判的な視点から描いていたが、こちらにはそうしたものはない。納棺師という仕事の内容を淡々と描きながら、その職業を選んだ女性たちの生き方について丁寧に描いている。

「正法眼蔵」第十は「大悟」の巻。大悟とは、文字通りには「大いなる悟」ということだが、禅語辞典には「悟」と同義だと書いてある。けだしさとりに程度の差はなく、したがって大も小もないから、大悟と悟の間に区別はないということであろう。この巻は、そのさとりとはいかなるものかについて、色々な角度から評釈したものである。

落日贅言の第二稿は「ウクライナ戦争は世界をどう変えるか」と題して書こうと思う。何と言っても、いま世界で起きていることの中で最もショッキングなものだし、単に大きな戦争というにとどまらず、今後の世界秩序を大きく変える可能性がある。「この戦争によって、世界の秩序は根本的に異なったものへと転換した、その新しい世界秩序の再構成にとって、この戦争は画期的な意義をもった」、と将来の世代からいわれるようになる可能性が大きい。それほどこの戦争は、人類にとって巨大な意義を帯びたものといわざるをえない。

「エクリチュールと差異」の第六論文「息を吹きいれられた言葉」は、アントナン・アルトーを論じたもの。アルトーは詩人でありかつ狂人であった。詩人としてのアルトーは、批評家による批評の対象になってきた。また、狂人としてのアルトーは、精神医学者にによって精神病の一範例として扱われてきた。相互にはほとんど何の関わり合いもない。批評家たちはアルトーの作品を問題にし、かれの狂気を取り上げることはない。一方、精神医学者のほうは、かれの狂気の症状に注目し、かれの作品に関心を払うことはない。それでよいのか、アルトーをそんなふうに分解して別々に扱ってもよいのか。アルトーを一人の人間として、トータルな視点から見ることはできないのか。それがこの論文の問題意識である。

bonnard1890.1.jpg

ボナールの初期の絵の特徴は、色彩の鮮やかさと日本趣味である。色彩の鮮やかさは、ナビ派の他の画家たちも共有しており、それはかれらがゴーギャンを手本にしていたことによる。一方日本趣味は、ボナール独自のもので、構図の様式性・装飾性によくあらわれてる。

監獄、とりわけロシアのような国の監獄は耐え難いものだと思うが、この小説に出てくる監獄は、司令官である所長(少佐と呼ばれる)がどうしようもない悪党ということもあって、耐えがたさは異常なものだった。その所長を、記録作者は憎しみを込めて描いている。たとえば、「その赤黒い、にきびだらけの、凶悪な顔が、わたしたちに何とも言えぬ重苦しい印象をあたえた。まるで残忍な蜘蛛が、巣にかかった哀れな蠅をめがけて飛び出してきたかのようであった」(工藤精一郎訳)といった具合である。

shusenjo.jpg

2019年のドキュメンタリー映画「主戦場」は、韓国人の慰安婦問題をめぐる日本国内の政治的な対立に焦点をあて、左右両派へのインタビューを中心にして組み立てた作品。ほとんどがインタビューの紹介で、その合間に日本国内のナショナリズム運動の高まりに注目するという方法をとっている。インタビューの内容は、回答者の個人的な信念を率直に語らせるというもので、そこには作為性はないと思われる。にもかかわらず、右派からは強い反発が出て、藤岡信勝ら一部の出演者から訴えられる騒ぎになった。かれらがなぜそこまで逆上したのか、よくはわからない。

四方山話の会の全体会を三か月ぶりで催した。実はその間に一度設定したことがあったのだが、その際は誰からも参加の申し出がなかったので、幹事の石子の判断で中止になった。石子はそのまま会を解散しようとまで言い出したので、他の幹事三人でなだめて、なんとか新たな設定をしたところ、そこそこの参加申し込みがあって、かろうじて会が成り立ったわけであった。ちょうど暑い盛りのことであったが、小生はその暑さの中を会場に赴いた次第。会場はいつものとおり新橋の焼き鳥屋古今亭、参加者は小生のほか、福、島、梶、赤、浦、石の諸子,計七名である。

bonnard1889.jpg

ボナールは1888年に親しい画家仲間と美術集団「ナビ派」を結成した。メンバーに確固とした共通の画風といったものは指摘されず、それぞれに自分勝手なところがあった。ボナールはそのころジャポニズムの影響を受けていて、歌麿や北斎の画風を取り入れようとしていた。そんなボナールを仲間の連中は、「ジャポニズムのナビ」と呼んだ。

food.jpg

2008年のアメリカ映画「フード・インク(Food, Inc. ロバート・ケナー監督)」は、食料の生産・流通・販売をめぐる巨大企業の影響力とそれのもたらす深刻な社会的弊害をテーマにしたドキュメンタリー映画である。タイトルの「フード・インク」とは、そうした巨大企業を意味する言葉である。それらがもたらす弊害は、農薬による健康被害、ファストフードの普及に伴う肥満問題、労働者や契約農家の奴隷的境遇、そして世界の食料需給のアンバランスなどといった現象として現れる。この映画はそうした現状に警鐘を鳴らし、健全で持続可能な食糧供給システムの構築を訴える作品だ。

アイザック・ドイッチャーは、E.H.カーと並んで、ロシア革命研究の第一人者である。もっともロシア革命は、結果として失敗に終わったというのが、いまの歴史学界隈の標準的な見方であるから、彼らのロシア革命の研究にはたいした意義は認められなくなったしまった。いうならば、彼らの研究は、無駄な努力に終わった、と片づけられがちというのが、落ちというところだろう。だからといって、彼らの業績を根こそぎ否定していいということにはなるまい。たしかにロシア革命そのものは、社会主義革命としては失敗に終わったといってよいが、そのことを以て、社会主義革命そのものを否定する理由にはならない。そういう評価をするためには、ロシア革命が、社会主義革命の、考えられる限りでの、唯一の可能性を代表していたといわねばならないが、それは言い過ぎだろう。社会主義は、資本主義の矛盾を解決するためのシステムとしての意義を持っている。そういう意味での社会主義のモデルは、決して意義を失ってはいないのである。

bonnard.auto.jpg

ピエール・ボナール(Pierre Bonnard 1867-1947)は、後期印象派と現代絵画の中間に位置する画家である。世代的には、ゴーギャンやゴッホより二十年前後若く、マチスとほぼ同年代である。現代絵画は、フォルム重視から色彩重視への転換という風に特徴づけることができるが、マチスもボナールもそういう傾向を推進した。かれらの先輩には、ゴーギャンらがいたわけで、ゴーギャンらの色彩感覚を受け継いで、それを更に発展させたといえるだろう。

citizon.jpg

2014年のアメリカ映画「シチズンフォー スノーデンの暴露(Citizenfour ローラ・ポイトラス)」は、アメリカ政府職員で、アメリカ政府による国民のプライバシー侵害を暴露したエドワード・スノーデンの闘いぶりを追ったドキュメンタリー映画である。スノーデン本人のほか、暴露記事を発信したジャーナリスト、グレン・グリーンウィルドが素顔で出てくる。ということは、かれらは最初から世界に向かって自分らの活動を公開する前提でこのドキュメンタリー映画を作ったということになる。だから見方によっては、大向こう受けを狙った自作自演といえなくもない。

正法眼蔵第九は「古仏心」の巻。古仏心とは古仏の心という意味。道元がここでいう古仏とは釈迦牟尼以前の七仏から、釈迦牟尼以後曹谿(慧能のこと)にいたるまでの全四十仏のこと。道元が慧能を特別扱いするのは、慧能が南宋禅の始祖だからだ。禅は弘忍の弟子の代に、慧能の南宋禅と神秀の北宋禅に別れた。その後北宋禅は事実上亡びたが、南宋禅は大いに栄えた。その南宋禅は、石頭希遷の流れと馬祖道一の流れに再分化し、石頭の流れから曹洞宗が、馬祖の流れから臨済宗が生まれた。曹洞宗の流れをくむ道元は、慧能を南宋禅共通の法祖として重視しながら、主に石頭の流れに属する禅者に敬意を払っている。

「エクリチュールと差異」は、デリダの最初の論文集である。これを出版したのは1967年のことであるが、同年に「声と現象」及び「グラマトロジーについて」も出している。この年はだから、デリダにとっては、哲学者としてのキャリアをフル回転で始めた年ということになる。そのうち、この「エクリチュールと差異」が、もっとも早い時期の論文を集めていることもあって、デリダの思想の萌芽のようなものをうかがわせる。この論文集の中で試論的に取り上げたテーマが、後に豊かな果実を生むというわけである。

redon1914.51.jpg

「白い花瓶と花(Bouquet de fleurs dans un vase blanc)」と題されたこの絵も、前作同様中国製の白磁の花瓶にいけられた花をモチーフにした作品。前作と比べると、花のボリュームが増している。しかも葉の部分が少なく、花が群がるように咲き誇っている。

ロシアの監獄に収監された囚人は三種類に分類される。既刑囚、未刑囚、未決囚である。既刑囚はすでに刑罰の執行が終わったもの、未刑囚は刑罰の執行がまだ終わっていないもの、未決囚は判決が出ていないものである。未決囚はともかく、既刑囚とか未刑囚とかは何を意味するのか、日本的な感覚ではわからない。日本では懲役刑に服することが刑罰そのものだから、既刑囚と未刑囚を区別する理由がない。ところがロシアでは、懲役刑は単独ではなく、笞刑と組み合わされる。その笞刑を終えたものを既刑囚といい、まだ終えていないものを未刑囚というわけだ。笞刑は怖ろしい刑罰で、囚人たちは死と同じように恐れている。笞で叩き殺されることも珍しくはないのである。じっさいこの小説でも、笞刑を受けて死んだ者が出てくる。

アメリカ議会下院が、「イスラエルはレイシスト国家でもアパルトヘイト国家でもない」と題する特別決議を圧倒的な多数で可決したそうだ。これはアメリカを訪問中のヘルツォグ大統領を意識してなされたものだ。というのも、下院議員であるプラミラ・ジャヤパルがイスラエルをレイシスト国家として批判したことに対して、それは下院の大部分とは全く関係のない意見であり、下院全体としては、イスラエルをレイシスト国家でもアパルトヘイト国家でもないということを、強調したかったからだ。ジャヤパル自身はパレスティナ系であり、イスラエルを支持しているアメリカ下院では、全くの異分子なのだとも言いたいようである。

blackklan.jpg

2018年のアメリカ映画「ブラック・クランズマン(BlacKkKlansman スパイク・リー監督)」は、白人至上主義団体KKKをモチーフにした作品。1970年代のコロラドを舞台にして、警察とKKKの戦いを描いている。そこに、黒人の警察官を登場させ、アメリカの警察組織がもつ問題も絡めて取り上げている。アメリカの警察自体が非常に人種差別的で、黒人に対して暴力的だった歴史があるので、そのアメリカの警察が黒人を使って人種差別団体を取り締まるという発想が、非常に強いインパクトをもった。もっとも、この映画が作られたのは、2018年のことで、その時代には黒人の警察官も珍しくはなかった。しかし、警察の人種差別体質が根強いものであり、黒人をわけもなく殺していることは、近年のフロイド事件はじめ多くの事件が明らかになっているとおりである。

ミャンマー情勢については、日本のメディアはあまり伝えないので、詳しいことはわからなかった。それでも2021年2月に軍がクーデターを起こして以来混乱状態に陥り、軍も全国を掌握できず、反軍勢力も軍政を倒す勢いを持たないで、ずるずると膠着状態になるのかなと思っていた。そんなミャンマーに希望を持っている人がいる。ミャンマーで長年民主化運動にかかわってきたキンオーンマー女史だ。雑誌「世界」の最新号(2023年8月号」に掲載されたインタビュー記事のなかで、その希望を語っている。「ミャンマーの将来について、今ほど希望を感じたことはない」と題したそのインタビューの中で、女史は遠くない将来にミャンマーが民主化され、国際社会に復帰できる見込みを語っているのである。

redon1914.41.jpg

「中国の花瓶にさした花(Bouquet de fleurs dans un vase chinois)」と題されたこの絵は、タイトルにあるとおり中国製の磁気の花瓶にいけられた花をモチーフにしたもの。白磁の光沢のある肌が、深紅の背景から浮かび上がり、その上に花々が押し重なるようにして広がっている。晩年のルドンの一連の静物画の中の傑作というべきものである。

usa213.moon.jpg

2016年のアメリカ映画「ムーン・ライト( Moonlight バリー・ジェンキンス監督)」は、現代アメリカの黒人社会の一面を描いた作品。一黒人の少年時代、思春期、青年時代を描きながら、アメリカ社会における黒人の生きづらさのようなものを描いている。それに、陰惨ないじめとか同性愛を絡めている。見ての強い印象は、いじめにしろ人間同士の触れ合いにしろ、この映画に出てくる黒人たちは、ほとんど黒人だけで完結した社会に生きているということだ。いじめや暴力は、黒人が黒人相手に行うのであり、白人は全くかかわらない。大体がこの映画には、白人はほとんど出てこないのだ。出てくる白人は、暴力的な黒人を取り締まる警察官だけである。

園田茂人の著作「不平等国家中国」(中公新書)は現代の中国社会を、データに基づいて実証的に分析している。その結果園田が得た印象は、ずばりタイトルにある通り、不平等が拡大する国が中国だということだ。中国といえば、普通には「社会主義国家」とイメージされており、社会主義国家とは不平等の解消をなによりも優先する社会だと思われてきたから、その社会主義を国是とする中国で、格差が拡大し、その結果不平等国家となってしまったのは、なんとも皮肉なことである、というのが園田の率直な感想であるようだ。中国がそんな国になってしまったのは、副題にもあるとおり、社会主義を自己否定したためだ。社会主義を自己否定して、資本の原理を導入したために、しかもその導入が中途半端だったために、副作用も大きかった。その副作用が、格差が拡大する不平等国家中国をもたらした、と園田は考えているようである。

雑誌「世界」の最新号(2023年8月号)が、「安倍政治の決算」と題する特集を組んで、十数本の論文を集中掲載している。それを通読しての印象は、論者たちが安倍政治を「決算」しきれていないということだった。安倍政治の残した日本の情ない状態を前に、それを嘆く声は聞こえても、安倍政治の遺産を清算して、望ましい日本の未来を展望しようとする意欲を感じさせるものはなかった。それはおそらく、安倍政治がこの国をめちゃくちゃにした振舞いを見て、そのすさまじさにただただたじろくだけといった、いささかみじめな状態に、論者たちがおかれた状況を感じさせるテイのものだ。

redon1913.1.jpg

オルペウスは、ギリシャ神話に登場するキャラクター。竪琴をひきながら詠う吟遊詩人とされる。死んだ妻エウリュディケーを慕って冥界へ下ったという話が有名である。冥界に死んだ妻を訪ねる話は日本の神話にもある。どちらも、冥界の王との約束をやぶり、地上に出る前に妻を振り返ったために、妻を取り戻すことができなかったという共通点がある。

usa210.sam.jpg

2001年のアメリカ映画「アイ・アム・サム(I am Sam ジェシー・ネルソン監督)」は、精神薄弱者の子供に対する養育権をテーマにした作品。アメリカは、児童の権利を守るとして、子供の養育能力に欠けるとみなされるものから、子供を引きはがす文化が普及しているらしく、この映画はそうしたアメリカの文化に一定の批判を加えたもののようである。だが、何が言いたいのかよくわからぬ不徹底さがある。子供の立場に立っているのか、精神薄弱者の親にも言い分があるといいたいのか、どうもよくわからぬのである。

正法眼蔵第八は「心不可得」の巻。心不可得とは、心は得ようとして得られるものではない、という意味で、仏典の中では、金剛般若経に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という形で出てくる。過去・現在・未来の三世にわたって、心は得ようとして得られるものではない、というわけである。その場合、「心」という言葉で何を現わしているかが問題になるが、仏典からは明らかでない。道元自身はそれを「自家」と同義に解釈しているようだが、ここでの道元の意図は、言葉の解釈ではない。この言葉を一つのきっかけとして、僧のあるべき姿について語っているである。それを単純化して言うと、僧というものはいくら知識があっても僧としては半端であり、真の僧は修行を通じてさとりをめざすべきだということになる。


葛西臨海水族館に遊んだ際に、持参したビデオカメラの操作を間違えて、ほとんどものにならなかったことを報告したところだが、中に一点だけ、まともにとれていたのがあるので、それをお見せしたい。フェアリー・ペンギンという小型のペンギンが食事をする様子をうつしたものだ。

ジャック・デリダ(Jacques Derrida 1939-2004)といえば、「脱構築」という言葉が真っ先に浮かんでくる。この言葉の意味は、とりあえずは、デリダ自身が属する西洋的なものの考え方を根本的に解体しようとする意思を示すものだ。「脱構築」は、フランス語では deconstruction といい、解体というような意味を持っているから、デリダの意図をあらわすにはふさわしい言葉だったわけだ。そういう意味で「解体」という言葉を使った哲学者にハイデガーがいる。デリダがハイデガーから強い影響を受けたことは明白な事実なので、かれの「脱構築」がハイデガーの「解体」の延長にあることは間違いない。そのハイデガーは、西洋思想の解体という思想を、ニーチェから受け継いだ。ニーチェが主張していたことは、プラトン的・キリスト教的な賤民の道徳を解体し、それにかわってエリートにふさわしい力の崇拝をめざすものであった。それをニーチェは、「金髪の野獣」に相応しいあらたな力の発現というふうに表現したが、その内実は必ずしも明らかとはいえなかった。

本日令和五年(西暦2023年)七月十五日は、小生満七十五歳の誕生日である。日本の法体系では、七十五歳以上の老人を「後期高齢者」と呼ぶそうだ。どんな理由でそう呼ぶかは知らぬが、小生はこんな言葉で呼ばれたくない。そんな言葉を許容していては、いづれ末期高齢者などと呼ばれることも許容せねばならなくなり、またいよいよとなったら「死に損ない」と呼ばれるのも甘受せねばなるまい。われわれいわゆる団塊の世代は、非常に長生きし、百歳以上生きる人が53万にのぼるという推計もあるそうだ。長生きするのは悪いことではないが、死に損ないなどと呼ばれて厄介者扱いされるのは不本意である。

ドストエフスキーがオムスクの監獄に収監されたのは政治囚としてだ。かれはその体験をもとに「死の家の記録」を書いたわけだが、自身の体験をそのまま書いたわけではなく、かなりな改変を加えている。おそらく検閲をはばかって、架空の話という外見を施す必要を感じたからだろう。舞台となった監獄はオムスクではなく、イルトゥイシ川上流の、カザフとの国境近くの要塞ということにしているし、小説の主人公である「死の家の記録」作者は、政治犯ではなく殺人犯である。監獄全体がそうした凶悪犯を収監しているように描かれているのである。なおこの小説の中では、カザフをキルギスと呼んでいる。帝政ロシア時代には、カザフ以下現在中央アジア五か国といわれる地域をキルギスと呼んでいたのである。

usa.deep.jpg

1999年のアメリカ映画「ディープ・ブルー(Deep Blue Sea レニー・ハーリン監督)」は、人工的に知能を高度化されたサメが、その高度な知能を駆使して、人間に逆襲するというような内容の作品である。とりあえずは頭のよいサメが人間を弄ぶということになっているが、このサメをAIと読み替えると、今問題になっているAIの脅威につながるものがある。AI技術の発展はすさまじく、いまやAIは人間のコントロールを超えて自己発展し、もしかしたら人間にとって深刻な脅威になるかもしれない、だからAIの技術を、人間のコントロール下に置かねばならないという議論まで起きている。この映画は、そうした議論を先取りするものと受けとることができる。もっとも、制作者に当時そんな問題意識があったようには思えず、ただ単にSFホラー映画の材料として思いついたのであろうが。それにしても、この映画は奇妙な現実感をもって、われわれ人間に反省を迫るのである。

rinkai101.jpg

先日葛西臨海公園を訪れた際に、肝心の水族館が休館していて残念に思ったことは、すでに報告したとおりである。そこで改めて赴いて、水の生き物たちと触れ合ったところだ。触れ合いの体験は十分たのしかったし、また、意義のあるものでもあった。そんな小生の体験を読者諸兄にも幾分か味わってほしいと思い、ビデオカメラも持参したものだ。

G7広島サミットは、被爆地の広島で行われたことで、核の廃絶に向けた重要なモメントとなることが期待された。しかしその成果といえる広島ビジョンを読むと、核の廃絶とは正反対の、核の抑止力を引き続き容認するような内容になっている。これに対して広島の被爆関係者をはじめ、多くの人々から批判が出ている。雑誌世界の最新号(2023年7月号)に寄せられた「G7首脳は広島で何を失ったか」(太田昌克)と題する論考は、そうした批判を代表するものだろう。

redon1912.3.jpg

「貝殻(La Coquille : en bas à droite, petit coquillage, dans l'ombre)」と題されたこの絵は、タイトルどおり貝殻を描いたもの。画面中央に大きな貝殻を描き、その右下に小さな貝殻を描いているのは、原作の解題にあるとおりだ。

romania21.jpg

2020年のルーマニア映画「アカーサ僕たちの家」は、ブカレストに生きるロマ人一家を描いたドキュメンタリー映画。ドキュメンタリーとはいっても、多少ドラマチックな要素も盛り込んである。そのためかなりな迫力を感じさせる。その迫力は、ルーマニアに暮らすロマ人への差別意識に発するのだと思う。この映画の中のロマ人一家は、文明の名のもとで、ロマ人として生きるに必要な尊厳をはく奪され、ルーマニア人社会への適応を強要されるのである。

梶谷懐は、中国経済の専門家であり、中国人民大学への留学経験もある。その梶谷が中国経済について「講義」するというわけだから、普通の読者なら、中国経済についてのかなり包括的な知識を得られると期待するだろう。中国経済について包括的に論じた入門書のようなものはないようだから、梶谷の「講義」がその期待に応えられるものならば、非常に有益な仕事といえる。

雑誌「世界」に「日本を診る」という題で連載をしている片山善博氏が、最新号(2023年7月号)に「首相公邸『悪乗り忘年会』から見える病理」と題する一文を寄せている。これは岸田首相の長男の公私混同問題を取り上げたものだが、日頃個人攻撃とは距離を置く氏が、めずらしく名指しで強く批判した。話題の件については広く知れわたっているところなので、ここでは触れないが、その件をめぐる氏の批判の要点は、岸田首相の身内びいきがあまりにも度を超しており、首相が息子をつれて歩く姿は、北朝鮮の金正恩が娘を連れて歩く姿と変わらないということである。氏は、「日本は世襲の北朝鮮を笑えない」とまでいって、岸田首相の振舞いを厳しく批判している。

redon1912.2.jpg

聖セバスティアヌスは、三世紀のローマ時代の殉教者。事績は「黄金伝説」の中で紹介されている。それによれが、聖セバスティアヌスは、ほかの人々の信仰を励ました罪で、木にしばりつけられ、人々が矢をうつにまかせたと言われる。

romania22.jpg

2019年のルーマニア映画「コレクティブ 国家の嘘」は、ルーマニアの医療システムの腐敗を追求するドキュメンタリー映画である。ユーマニアの医療について、小生はほとんど知るところがないが、このドキュメンタリー映画を見る限りかなりひどいという印象を受ける。医療システムが、少数の特権的な連中によって食いものにされ、国民の安全を犠牲にして一部の人間のふところを潤すという構造になっているらしい。

正法眼蔵第七「一顆明珠」の巻は、福州玄沙山院宗一大師通称玄沙の言葉「尽十方世界、是一顆明珠」についての評釈である。玄沙は石頭希遷の法統に属し、雪峰義存の弟子である。非常にかわった経歴の人とされる。もともと無学な漁師だったが、三十歳の時に発心して雪峰に弟子入りした。さまざまな人のもとで修行しようとも考えたが、結局雪峰のもとにとどまり続けた。そんな玄沙に雪峰が「そなたは何故色々なところで修行しないのか」と聞いたところ、「ダルマは東土に来たらず、二祖は西天に往かず」と答えた。あちこち歩きまわらずとも修行はできるという意味だ。この逸話から、玄沙は理屈を重んじるタイプではなく、実践を重んじるタイプの仏教者だというふうに受け取られてきた。自身も実践を重んじる道元としては、親しみやすく感じられたのであろう。

袴田事件をめぐる再審案件について、検察が強固な抵抗姿勢を見せている。袴田さんの有罪を改めて主張するというのだ。おどろくべき傲慢さといわねばならない。だいたい、「先進国」の司法制度の主流は、訴追する側の検察の都合よりも、被疑者の利益を優先するシステムをとっている。第一審で無罪となれば、控訴しないというのが検察のエチケットだというのがほぼ共通認識になっている。ところが日本の検察は、公訴権をやたらに乱用するばかりか、再審においても頑固な抵抗を見せる。これでは、日本の検察は、法の正義の実現より、自分たちのメンツを優先しているといわねばなるまい。

ヴァンサン・デコンブが「知の最前線(原題は Le même et l'autre. - Quarante-cinq ans de philosophie française」を刊行したのは1979年のことだが、フランス現代思想を概括したこの著作は、いまでも色あせていない。これ一冊で、フランス現代思想の流れを理解できるようになっている。まるでこの本が、フランス現代思想の全体像をもれなく伝えているかのようである。ということは、フランスの現代思想の発展が、その時点で事実上とまってしまったということか。この著作は、哲学の終焉よりもっとラディカルな主張である「人間の終焉」を語ることで終わっている。人間が終焉したというのだから、哲学の発展が終わっても何ら不思議ではないわけだ。

redon1912.1.jpeg

晩年のルドンは、花をモチーフにした静物画を多く描いた。花瓶にさした花の絵が多い。「長首の花瓶にさした野の花(Bouquet de fleurs des champs dans un vase à long col)」と題されたこの絵は、そうした静物画の一つ。

「死の家の記録」がドストエフスキー自身のシベリアでの投獄生活から生まれたことは、文学史上の定説になっている。ドストエフスキーは、いわゆるペトラシェフスキー事件に連座して死刑の判決を受けた後、死刑執行直前に判決が取り消され、四年間のシベリア流刑を言い渡された。死刑にまつわる逸話自体が非常にショッキングなことなのだが、流刑生活のほうもかれにとってはショッキングだった。その流刑をきっかけにして、かれは「自由主義」思想を捨てて「健全な」保守思想を抱くようになったほどだ。それほどこの流刑は、かれにとっては人生の転機となった事態であった。それをドストエフスキーは無駄にやりすごすことはできなかった。その体験を自身の文学の糧にすることで、文学者として一段の成熟をめざそうとした。この「死の家の記録」と題した小説は、そうしたドストエフスキーの意図が込められたものであって、かれはこの小説によって、作家として一段と大きな成長を遂げたといえるのである。


近所の公園を根城にしている土着ネコについては、先日紹介したところだ。母親と二匹の子どもが家族を形成している。そのうち、母親の姿はあまり見られず、こどものうち茶と白のブチが、単独でいる姿を見ることが多い。そのブチは、公園の一角を自分の縄張りと心得て、そこにいつもとぐろを巻いている。この日もまた、いつものように円形のテーブルの上に寝そべっている様子を見かけた。

romania05.elisa.jpg

2016年のルーマニア映画「エリザのために(クリスティアン・ムンジウ監督)」は、娘のために必死になる父親をテーマにした作品。それに現代ルーマニア社会への批判を絡ませてある。ルーマニアには個人が人生をかけるような意味がない、そう考えた父親が娘に明るい未来を託す。ところが娘には思いがけない試練が待っていて、未来へと順調にはばたけないかもしれない。そんな事態に直面した父親が、自分のすべてをかけて娘のために必死になる。そんな父親の姿を、映画は淡々と写しだすのである。

rinkai1.jpg

先日上野の動物園に赴いて動物たちと触れ合ったので、今日(7月5日)は水族館で水の生き物に触れ合おうと思って、葛西の臨海水族館を訪ねた。ここはいまから三十年ほども前に訪れたことがある。その折は公園は整備されたばかりで、駅の周りは閑散としていたように記憶しているが、今ではけっこう町の雰囲気を醸し出している。それで道筋を間違えたりしながら、水族館の入り口にたどり着いてみると、入館ゲートが閉ざされて、なにやら修繕工事の最中のように見えた。ゲートの傍らにレストランがあるので、そこに入って事情を聞くと、今日は休館日なのだという。小生は、都の施設の休刊日は月曜だと思い込んでいたので、わざわざ今日が開館しているかどうかをたしかめることをしなかった。自分の落ち度である。

redon1914.2.jpg

パンドラは、ギリシャ神話に出てくるキャラクター。「パンドラの箱」の逸話で有名である。これは人間の悪徳の起源をテーマにしたもので、聖書の原罪の起源を語った部分と似た話である。西洋美術では、格好のモチーフとして、長らく取り上げられてきた。ルドンもいくつかの作品で、パンドラをモチーフに取り上げている。
romania04.4m.jpeg

2007年のルーマニア映画「4ヶ月、3週と2日」(クリスティアン・ムンジウ監督)は、女子大生の堕胎をテーマにした作品。ルーマニアでは堕胎は違法になっており、望まぬ妊娠をした女性は、出産するかあるいは違法な堕胎処置をするか、どちらかを選ばねばならない。国内で正式な医療処置を受けられる可能性はないので、闇の堕胎師しに頼ることになる。闇の堕胎師にはいかがわしい人間もいる。この映画は、そうしたいかがわしい堕胎師にめぐりあったために、ひどい心の傷を負う羽目になった女子大生たちを描く。

小川和男は、ソ連時代から日ロ友好にかかわってきた実務家だそうで、その立場からソ連崩壊後のロシアの事情を主として経済面に焦点を当てて解説したのが、岩波新書に入っているこの本「ロシア経済事情」である。刊行したのは1998年11月であり、その年の夏ごろまでをカバーしている。要するにソ連崩壊から1998年夏ごろまでの、ロシアの経済変動を対象としているわけである。

経済安保を合言葉にして、経済合理性の無視がまかり通っている。経済安保とはアメリカ政府が言い出したことで、要するに中国の封じ込めを狙ったものだ。それになぜか日本も便乗し、経済的にはわりにあわないことをやるようになった。半導体製品をはじめとした対中輸出制限や投資の抑制などはその最たるものだが、そのほか、軍事力の選択的輸出促進とか、特許にたいする税制上の優遇などがある。このうち軍事力の輸出促進は、目先の利益にかなうが、そのほかは経済合理性を無視したものと言わねばならない。

redon1910.6.jpg

「ルッジェーロとアンジェリカ(Roger et Angélique)」と題されたこの作品は、イタリア16世紀の詩人アリオストの叙事詩「狂えるオルランド」に取材したもの。原作はまったく架空の話である。ルッジェーロとアンジェリカにかかわる話は、その一部。異国(キタイ=中国)の姫アンジェリカが、海の怪物のいけにえとなり、とらわれようとするところを、姫に思いをよせる青年ルッジェーロが、鷲の頭をもった馬にまたがり、怪物を退治するという内容。

romania03.kegare.jpg

クリスティアン・ムンジウによる2012年のルーマニア映画「汚れなき祈り」は、女子修道院での生活ぶりを描いた作品。時代背景は明示されていないが、現代のルーマニア社会を描いていることはわかる。その現代のルーマニアで、きわめて因習的な制度である修道院が、昔ながらの姿で保守されており、理屈よりも信仰がすべてを律するといった事態がいまだにまかり通っていることに、この映画は批判的な目を向けているというふうに伝わってくる作品である。

正法眼蔵第六は「行仏威儀」について説く。行仏とは、文字通りには仏の道を行ずるという意味であるが、ここではもっと深い意味が込められている。衆生にはそもそも仏性が備わっている、その仏性はしかしそのままには現成しない。それを現成させるには修行が必要である。その修行は、むやみやたらに行えばよいというものではない。作法あるいは礼儀にかなった仕方で行わねばならない。その礼儀になかった仕方、振舞いのことを「威儀(ゐいぎ)」という。したがって、「行仏威儀」とは、仏の道を行ずるについて心得るべき振舞いについて説いたものということができよう。

福島第一原発の放射能汚染水が、「科学的な」処理を経たうえで海洋に放出されることが既成事実になったようだ。IAEAがお墨付きを与えるようなので、日本政府としては、国際社会に向かって胸をはって海洋放出の方針を実施したいという姿勢である。じっさいその通りになるだろう。

「眼と精神」所収の同名の論文は、メルロ=ポンティの存命中に刊行された最後のものである。これを彼が脱稿したのは1960年8月、その翌年5月に死んだわけだから、いわば遺書のようなものである。これを書いた時期の前後に、かれは、死後「見えるものと見えないもの」と題して刊行された大著を執筆中であった。この大著は結局未完成に終わったが、残された遺稿からは、自然と人間のかかわりあいをテーマにしたものであること、タイトルにあるとおり、見えるものと見えないものとの相互関係を掘り下げて論じたものだということが分かっている。「眼と精神」と題するこの論文も、見えるものと見えないものとの深い関連について論じているから、かれの最晩年の問題意識が集中的に考えられたものだということができよう。

redon1910.5.jpeg

聖ゲオルギウスは、古代ローマ時代の殉教者として知られる。その生涯は謎が多い。だいいち、どこで活躍していたかが明確でない。東ヨーロッパからグルジアにかけて、かれを主人公とする伝説が流布されている。一番有名なのは、グルジアにおけるドラゴン退治の伝説で、これは「黄金伝説」にも出てくる。ルドンはおそらく黄金伝説を踏まえてこの作品を描いたのだと思う。

近代小説の最大の特徴は客観描写ということにある。小説には語り手がいて全体の進行役を務める。語り手は主人公たちを俯瞰する一段高いところに位置していて、そこから登場人物を第三者の目で眺め、登場人物の心理に立ち入る場合でも、あくまでも客観的な視点から描写する。そこでは内面は外面を通じて現れるのである。だから、主人公が多少エクセントリックであって、読者が感情移入できないような場合でも、語り手が間に入ってその隙間を埋めてくれる。だから読者は、自分自身第三者の立場から小説の進行に立ち会いながら、しかも登場人物たちの内面に触れることもできるのである。

最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ