2023年11月アーカイブ

先日は「人と人との間」と題して、人間は他の人々とのかかわりのなかで自己を形成するという旨のことを書いた。その文章の中では、人と人との関係を論じながら、関係構築の成功例よりも失敗例に焦点を当てて、さまざまな精神病理現象を、人間関係の病理として考察した。だが当然のこととして、人間関係構築の成功例もあるわけで、その成功例は好ましい人間形成にとっての手本となるべきものである。手本という点では、無論失敗例も参考にはなる。というか、人間というものは、成功体験や失敗体験を積み重ねながら自己を形成していくものなのだ。

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ウィリアム・ホガースは、1647年に「勤勉と怠惰(Industry and Idleness)」と題する版画のシリーズを出版した。「娼婦と遍歴」(1631)の延長上にある教訓ものである。「娼婦と遍歴」では、世の中を甘く見たために身を落とし、若くして死んだ女性がテーマだったが、このシリーズでは、勤勉な人間と怠惰な人間の生き方を対比させて、怠惰は身を滅ぼし、勤勉は成功に導くということを、教訓として説教している。いかにも説教好きなホガースらしい作品と言える。ホガースは、これをより多くの人に見てほしいと思い、比較的安い値段で売り出した。評判はよかったようである。

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銀座のデパートの老舗松屋にファッション・ブランドのルイ・ヴィトンが入居したのは2000年のこと。当初は、いかにもデパートの一角に同居していたという感じでしたが、2013年にファサードを全面的にリニューアルして、独立した建物の雰囲気に変貌しました。

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岡本喜八の1965年の映画「血と砂」は、「独立愚連隊」の番外編のような作品。「独立愚連隊」シリーズは、厄介者の兵士からなる混成部隊が、遊軍となって使い勝手よく利用されるという設定だったが、この映画では、少年からなる音楽部隊が、特命を受けて敵陣地を攻略する様子を描く。その部隊を、三船敏郎演じる経験豊かな下士官と、佐藤充演じる古参兵が指導するといった内容である。

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銀座通りの銀座二丁目東側には、ティファニーの旗艦店が入るビルがあります。このビルは、小生が昔水彩画で描いたときには重厚なイメージだったように記憶していますが、いまでは、全面ガラス張りのシュールなイメージに変わっていました。

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ホガースの版画シリーズ「娼婦の遍歴(A Harlot's Progress)」第六点目は「モルの通夜(Moll's wake)」と題する。モルは二十三歳の若さで梅毒のため死んだ(棺の蓋にそう書かれている)。この絵は、棺に納められたモルを悼むために集まった人々を描いている。大部分は娼婦の仲間で、そのほか神父や葬儀屋また家主もいる。

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岡本喜八の1967年の映画「殺人狂時代」は、人口調節と称する人間の生命の間引きというテーマを、冷笑的に描いたブラック・コメディである。生命の間引きは、優勢保護思想と深く結びついていて、生きる価値のない者は淘汰すべきだとするいう考えに立っている。その考えに基づいて、胎児の間引きが行われたりする。ところが、間引きされる胎児の中には、優勢保護以外の理由によるものもあり、輝かしい未来を奪われるものがいる可能性もある。一方、現に生きていて、しかも社会の役に立たず、かえって重荷になっている大人がたくさんいるわけだから、優勢保護の本来の趣旨からしても、役立たずの大人を片付ける方がずっと合理的なのである。そんな怖ろしい考えを実現しようとする者がいて、それに立ち向かう人がいる。映画はその両者の戦いぶりを、コメディタッチで描く。

正法眼蔵随聞記第二の後半は、命をおしまず仏道の修行にはげむべきとする文からなる。その多くは仏道修行のための心得である。まず、十四は、下根劣器の人でも志次第でさとりを得ることができると説く。大宋国では、数百人もいる修行僧の中でまことの得道得法の人はわずかに一人二人といった有様だったが、それは志の深い人が少なかったからである。「真実の志しを発して随分に参学する人、得ずと云ふことなきなり」なのである。「若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚痴悪人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり」。それゆえ、「返返も此の道理を心にわすれずして、只今日今時ばかりと思ふて時光をうしなはず、学道に心をいるべきなり。其の後は真実にやすきなり。性の上下と根の利鈍は全く論ずべからざるなり」。

ハマスに人質になっている者の一部が、イスラエルが拘束しているパレスチナ人と交換で釈放された。この交換は、ハマスが釈放する人質1人に対して、イスラエル側が3人の割合で釈放するという取り決めになっているようで、初回はハマスが釈放するイスラエルの人質13人に対して、イスラエル側は39人を釈放した。ところが、ハマスはそれに加え、10人のタイ人(他にフィリピン人1)を釈放した。これは、交換の枠組とは別途、ハマス側の一方的な措置である。ということは、タイ人の人質は、交換の枠組にそもそも入れられていないということだろう。タイ人をイスラエルが交換の枠組に含めないということは、タイ人を人間として見做していないということを物語っているのではないか。

国策の半導体企業として岸田政権が前のめりになっいるラピダス。政府はその育成に1兆円を投じる方針だそうだ。名目は経済安保というので、反対する者はいない。だが、果たして成功するかどうかについては、懐疑的な見方が多いようだ。半導体産業は、一時は日本が世界をリードしていたこともあって、政府はその復活に執念を持ち、電器産業を結集してエルピーダを立ち上げた経緯があるが、失敗に終わった。今回もその轍を踏むのではないかと危ぶむ見方が多いのだ。

ドゥルーズは、ベルグソン、ヒューム、ニーチェ、カントといった思想家たちと向き合うことから自分自身の思想を生み出していった。なかでも彼に決定的な影響を与えたのは、ベルグソンとニーチェである。ベルグソンについては、差異という概念を彼なりに基礎づけるにあたって大きな手がかりとした。ベルグソン自体には差異という概念を大げさにあつかう気はなかったはずなのだが、というより差異つまり分節以前の現象の全体を主題とした思想家であるはずなのだが、ドゥルーズはベルグソンを差異の思想家として解釈しなおし、それを材料にして自身の差異の哲学を構築しようとした。ニーチェについては、西洋思想の伝統の破壊者として位置づけることで、その破壊の意思を受け継ぐ形で、自分自身西洋思想の破壊者として振舞う決意をしたというふうに言えるのではないか。もう一人、ドゥルーズが大きな影響を受けた思想家としてスピノザがあげられる。そのスピノザをドゥルーズは、ニーチェを通して再解釈した。それを簡単にいえば、キリスト教の否定と唯物論的な快楽主義と道徳的な価値の転倒ということになる。いずれにしても、ニーチェに依拠しながら既成の哲学を批判し、西洋思想の伝統を根本的に解体しようとする意志を、ドゥルーズには感じることができる。そんなことから、ドゥルーズはニーチェの最良の弟子ということができる。かれの初期の著作「ニーチェと哲学」は、かれが解釈したニーチェ思想の真髄を披露したものである。

スウェーデンのクリステション首相の発言が波紋を呼んでいる。国内の集会で、イスラエルとハマスの対立に触れたさい、イスラエルの攻撃に関して、イスラエルにはジェノサイドの権利があるというふうに受け取られたためである。スウェーデン政府はこれを誤認だとして火消しにやっきになっているようだが、どうもそう単純なことではないらしい。クリステション首相の発言は、イスラエルには Volkmord (ジェノサイド)の権利があるというものだったらしいが、これは言い間違いで、首相はイスラエルには自衛権があると言いたかったのだとスウェーデン政府は言いたいらしい.。だが、かりにその通りだとしても、クリステション首相の発言には問題があるといわねばならない。

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ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「娼婦の遍歴(A Harlot's Progress)」第五作目は、「梅毒で死につつあるモル(Moll dying of syphilis)」と題する。モルが職業病の梅毒にかかり、重症化していまにもい死につつある様子を描く。死に直面する人にしては、ベッドに寝かせられているわけでもなく、椅子に腰かけたままのぞんざいな扱われ方である。

ラスコーリニコフを「回心」させたということで、ソーニャという女性は、この小説の登場人物の中ではもっとも重要な役割を持たされている。ドストエフスキーには、自身は不幸でありながら、ひとを精神的に高めさせるような不思議な魅力をもった女性を好んで描く傾向があるが、この小説のなかのソーニャはそうした女性像の典型的なものであろう。ドストエフスキーは、この不幸な女性を、聖母のような慈悲深い女性として描いているのである。聖母は、掃きだめの中でうごめいているような惨めな人間たちに慈愛の眼を向け、温かく包み込み、生きる勇気を与える。ソーニャは、ラスコーリニコフに対してそんな聖母のようなイメージで接しているばかりか、ラスコーリニコフが収容された監獄の囚人たちにまで強い影響を及ぼすのである。

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ミキモト銀座ビルは、銀座一丁目通りとナミキ通りの交差点北西側に立っています。有楽町の交通会館口から銀座通りに向かって歩いていくと、その奇妙な姿がひときわ目を引きます。建物自体は真四角で高く伸びているのですが、窓の配置が全く規則性がなくて、壁にテンデバラバラな形の穴が開いているように見えます。これは、鋼板コンクリート構造といって、壁や柱に頼らない構造になっているために、窓の配置も自由自在になるということだそうです。

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岡本喜八の1964年の映画「ああ爆弾」は、ミュージカル仕立てのドタバタ喜劇である。ミュージカル仕立てとはいっても、西洋風のミュージックではなく、和風のミュージックが主体である。なかでも、狂言小謡が幅を利かせている。その他に三味線入りの浪花節とか、能の謡曲とか、歌舞伎の義太夫まがいのものとか、なにしろ日本の伝統的な音曲が全編に流れ、非常に賑やかな感じの映画である。

ドイツ政府の内務大臣が、国内のイスラム教徒に対して、ハマスの越境攻撃を明確に非難し、イスラエルへの連帯を表明するよう求めたそうだ。これは事実上強制的なものといえるようだ。なにしろドイツ政府が名指しで求めていることだ。それに応えないとどんなことになるか。ドイツ国内のイスラム教徒は不安におびえていることだろう。

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この春に表参道の現代建築群を見歩いたところ、それぞれ街の景観にとけこんでいる建築物の数々に圧倒されたものだった。銀座もまた、そのような建築群が町を飾っているというので、秋も深まる頃合いを見はからって出かけてみた。どうせ行くなら、日曜にしよう。日曜なら、銀座は歩行者天国がおこなわれていて、自動車を気にせずに、いい写真が取れるだろと思うからだ、もっとも当日は、9時半ごろから11時過ぎまで現地にいたのだが、歩行者天国にはまだ時間が早いと見え、自動車を気にしながら撮影しなければならなかった。

バイデン政権が、ウクライナ戦争中民間人を殺害した軍人を、制裁リストに加えたそうだ。ブチャの虐殺者と呼ばれる軍人二人とその直系の家族が対象だそうだ。一方、イスラエルがガザで行っている虐殺行為に関しては、いまのところ制裁の議論はなく、かえってイスラエル政府を支援する姿勢を示している。イスラエル政府を支援するということは、イスラエルがガザで行っている虐殺を支持するということに他ならない。

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2016年のトルコ映画「猫が教えてくれたこと」は、イスタンブールで暮す野良猫たちを追ったドキュメンタリー映画である。トルコ人は猫が好きで、猫かわいがりする民族だという思い知らされる作品である。猫のそもそのの発祥地は中近東と言われており、トルコ人も猫とは長い付き合いだったようだ。だから、かれらの猫へのこだわりは尋常ではない。日本では猫はペットという扱いだが、トルコでは猫は、自由に生きる自立的な存在者だというメッセージが、この映画からは伝わってくる。


ドーム屋根の水族館本体を出ると、出口に向かって右側に水辺の鳥コーナーがあり、その一角に「淡水生物館」があります。池沼の魚と渓流の魚が、別々に展示されています。入り口を入って最初に見えるのが池沼の水槽、その奥に渓流の水槽があります。

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ホガースの版画シリーズ「娼婦の遍歴(A Harlot's Progress)」第四作目は、「モル、ブライドウェル刑務所で麻を打つ(Moll beats hemp in Bridewell Prison)」と題する。モルは売春で摘発され、刑務所に入れられたのである。イギリスでは売春罪という罪名はないと聞いたことがあるが、売春という行為そのものは、何らかの理由を伴って、取り締まりの対象になったのであろう。

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2008年の映画「自由と壁とヒップホップ」は、パレスチナ人のヒップホップグループの活動を追いながら、イスラエルによるパレスチナ人迫害の過酷さを訴えたドキュメンタリー映画である。監督は、パレスチナ人を母親に持つアメリカ人女性ジャッキー・リーム・サッローム。2000年ごろから約五年間、イスラエル、ガザ、西岸で活躍するヒップホップグループの活動を追った。その間に、第二次インティファーダが起り、パレスチナ人とユダヤ人の対立が激化したという経緯があり、この映画でも、両民族の対立が影を落としている。

正法眼蔵随聞記第二は、只管打坐と並んで道元思想の中核的な概念である心身脱落についての評釈から始まる(第二の一)。これを懐奘は「心身を捨つる」ことだと言っている。おそらく、道元自身がそう言っていたのであろう。心身脱落の概念の内実を知るうえで貴重な言及である。心身を捨てることの具体的な内容は、世情を離れ、「悪心を忘れ我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべき」ということである。単に自分の個人的な事柄を超脱するだけではなく、仏法に専念することが心身脱落の意味だというのである。

トルコのエルドアン大統領が、今回のイスラエルとハマスの衝突に関連して、イスラエルによるガザの民間人殺害を批判して、イスラエルをテロ国家と呼んだ。それに対してイスラエルは当然反発し、エルドアンを反ユダヤ主義者といって非難した。そう言われてもエルドアンはひるまない。自分は別に反ユダヤ主義にもとづいてイスラエルを批判しているわけではない。イスラエル国家が現実に行っている行為を取り上げて、イスラエルをテロ国家と呼んでいるのだと反論した。

ジル・ドゥルーズは、差異についての考察から自分の哲学を始めた。かれの初期の代表作「差異と反復」はその最初の本格的な成果だ。かれが「差異と反復」を刊行したのは1968年のことで、前年のデリダの「エクリチュールと差異」と並んで、「差異の哲学」の宣言のように受け取られたものだ.。かれらが差異をことさらに強調したのは、西洋の伝統的な哲学思想への挑戦を、この言葉に託したからだ。西洋の伝統的な哲学思想の根本的な内容は、同一性によって規定されている。同一性というのは、プラトンのイデアがそうであるように、永遠にかわらぬ(不変の)ものを基礎づける概念である。その概念から形而上学が構成された。その形而上学に代表される西洋の伝統思想を解体するためには、同一性との対立関係にあると思念される「差異」の概念を、とりあえず押し出そうというのが、二人の考えだったといえる。デリダとドゥルーズによって代表されるフランスの現代思想は、差異の哲学といわれることがあるが、それは差異こそが伝統的な西洋思想を解体するうえで、最重要な役割を果たすと考えられるからである。
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ホガースの版画シリーズ「娼婦の遍歴(A Harlot's Progress)」の第三作目は、「モル、妾から普通の売春婦になる(Moll has gone from kept woman to common prostitute)}と題する。ユダヤ人の商人から妾の契約を解除されたモルが、普通の売春婦になった様子を描く。

「罪と罰」は、ドストエフスキーの五大長編小説の最初の作品である。この作品を契機に、ドストエフスキーの小説世界は飛躍的に拡大し、かつ深化した。それを単純化して言うと、登場人物の数が増え、その分物語の展開が複雑になったこと、また、登場人物ごとの語り手の描写が綿密になったことだ。これ以前のドストエフスキーは、原則として一人の主人公を中心にして、かつその主人公の視点から語るというやり方をとっていた。極端な場合には、主人公の独白という形で語られもした。そういう叙述のやり方は、主観的な描写といえるだろう。語り手と主人公とが一体となっているからである。ところがこの「罪と罰」では、主人公のほかに多くの人物が出てきて、語り手はそれらの人物の視点に立っても語るようになる。つまり、語り手は、小説の世界にとっては第三者の立場に立っているのであり、その立場から登場人物たちの考えとか行動をなるべく客観的に描写しようとしている。つまり、客観的な描写につとめているわけである。もっとも、この小説では、主人公であるラスコーリニコフの存在感が圧倒的であり、かれの視点からの描写が大半を占めているので、まだ完全な意味での客観描写とはいえないかもしれない。そうした客観的な語り方への志向は、「白痴」以降次第に高まり、「カラマーゾフの兄弟」において頂点に達するのである。


葛西臨海水族館の見物順路の最後には、海鳥の生態ゾーンがあります。ここには、ウミガラスとエトピリカがみられます。ウミガラスは一見してペンギンのように見えます。じっさい小生は、小型のペンギンと思い込んだものでした。それは、カラスのくせに、二本足で背筋を伸ばして立つせいです。厳密にはチドリの仲間だそうですが。

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ミロス・フォアマンの2006年の映画「宮廷画家ゴヤは見た(Goya's Ghosts)」は、人類史上最も偉大な画家の一人であるフランシスコ・デ・ゴヤの半生を描いた作品。ゴヤの生きた時代は、激動の時代であり、ゴヤ自身その激動に翻弄されたり、また聴力を失うなどの辛酸をなめた。一方では、この映画のタイトルにもあるとおり、国王直属の宮廷画家でもあった。もっとも晩年には、その王室が崩壊したために、宮廷画家という経歴はかえって邪魔になったりもしたのだったが。

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ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「娼婦の遍歴(A Harlot's Progress)」第二作目は、「モルは今や裕福な商人の妾として囲われる(Moll is now a kept woman, the mistress of a wealthy merchant)」と題する。女衒の餌食となったモルは、まず裕福な商人に売られ、妾となった。そのモルのもとに、旦那がやってきた時の様子を、この絵は描いている。

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ミロス・フォアマンの1999年の映画「マン・オン・ザ・ムーン(Man on the Moon)」は、1970年代後半から80年代前半にかけてテレビなどで活躍したコメディアン、アンディ・カウフマンの半生を描いた作品。カウフマンは日本では全くといってよいほど知られていないが、アメリカでは結構人気があったそうだ。ギャグとドタバタを組み合わせたアメリカ人好みの演技がうけたということらしい。だが、本人はそれを、大衆におもねる低俗趣味だといって、自嘲していたという。この映画は、そうしたカウフマンのやや複雑な心境を表現するものとなっており、ただのお笑い映画ではない。

ジャン・マリ・カレのランボー伝については、先日読んだヘンリー・ミラーのランボー論のなかで、ランボーに関する一級資料として紹介されていたので、読んでみることにした。この伝記は、ランボーの生涯についての最初の本格的な研究とされ、ランボー研究者の誰もが最初に読むべきものとされてきたようだ。小生は、ランボー研究者というほどのものではなく、ただランボーが好きで、彼の詩を自己流で訳したりしてきたに過ぎない。それでも彼の強烈な生き方には非常な関心を抱いてきたので、その伝記についてもなるべく知りたいとは思っていた。だから、この本はもっと早く出会うべきだっと後悔している。もっともここに書かれている内容は、すでに大方のランボー研究者によって書かれてきたことで、とくに目新しいところはない。しかも、多分に事実誤認もある。たとえば、「イリュミナション」が「地獄の一季節」より先に完成していたとか、その「地獄の一季節」の刊本がすべてランボー自身の手によって焼却されたといったものだ。そのほか、ランボーが敬虔なキリスト教徒として死んだという記述もあるが、これもあやしい推測にすぎないのではないか。


伊豆諸島は、大島を中心とする北と、八丈島を中心とする南に分かれます。大島のほうは温帯域ですが、八丈島は亜熱帯域といえるでしょう。伊豆諸島の水槽はいくつかに別れていますが、これは一番大きな水槽です。

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「娼婦の遍歴(A Harlot's Progress)」は、ホガースにとって最初の風俗版画シリーズである。かれは当初、この版画シリーズのテーマを油彩画で制作したのだが、それを版画にして売り出すことを思いついた。予約販売という方法で募集したところ、1200件の注文が入った。販売するや大変な反響があり、海賊版が出回ったほどだった。これに気をよくしたホガースは、同じようなテーマの版画シリーズ「放蕩息子の遍歴」などを続けて制作している。

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ミロス・フォアマンの1996年の映画「ラリー・フリント(The People vs. Larry Flynt)」は、過激なポルノ雑誌「ハスラー」の創刊者ラリー・フリントの半生を描いた作品。このポルノ雑誌は、ただでさえ過激な性描写を売り物にしていることに加え、するどい社会批判を伴ってもいたので、保守的な人々から目の敵にされた。それゆえ、フリントは生涯敵と戦うことを余儀なくされた。この映画は、そんなフリントの戦いぶりを描いたものである。

正法眼蔵随聞記は六巻からなる。全体の冒頭部分(第一の一)は、只管打坐について説く。道元は只管打坐こそが禅の極意と考え、ことあるたびにそれを強調していたので、懐奘がこれについての言及から正法眼蔵随聞記の記述を始めたのは自然なことである。道元は、「金像の仏と亦仏舎利とをあがめ用」いている僧に対して、「仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて得悟すべしと思はゞ還て邪見なり」と言ったうえで、「其の教に順ずる実の行と云は即今の叢林の宗とする只管打坐なり」と言って、只管打坐をもっぱらにするよう勧めるのである。

小生の落日贅言シリーズ、今回はいま進行中のイスラエルのユダヤ人によるガザのパレスチナ人の大虐殺について書こうと思う。前回は、イスラエルのユダヤ人とガザのパレスチナ人の衝突が始まって間もないころのことだったので、その衝突がどの位の規模まで拡大するか見通しがつかなったこともあり、評価するには時期尚早と判断して、次回に繰り延べしたのだった。今や衝突開始から一か月以上たち、ある程度今後のことが予測できるようになってきたので、ここいらで取り上げてもよいと考える。

ハイデガー晩年の「精神」概念は極めて特異なものである。それは深く特定の民族性と結びついている。つまりドイツ的な民族性である。世界中の民族のうちでドイツ民族だけが、真の意味での精神を持っている。その他の民族は、偽の精神しか持ちえない。だから本物の哲学を語ろうと思ったら、ドイツ語で語らねばならない。なぜならドイツ語だけが真の精神を体現しているのであり、真の精神こそが哲学の源泉だからである。それゆえフランス人が哲学を語るときには、かれもドイツ語で語らざるをえないのである。

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サミュエル・バトラーの著作「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵第十二点目は「ヒューディブラスと弁護士(Hudibras and the Lawyer)」と題する。ピューリタン革命騒ぎを通じてさんざんな眼にあわされたヒューディブラスが、弁護士のところへいって、相談しようという場面である。ヒューディブラスは、テンプル・バーでの出来事よりも、例の未亡人をめぐって蒙った侮辱に我慢ならず、かれらを相手に訴訟を起こしたいと思っている。ところが弁護士は、わけのわからぬお世辞をいうばかりで、まともに相手にしようとしない。

ドストエフスキーは小説「白痴」のなかで、自分自身の思想を表明して見せた。この小説を書いた頃には、ドストエフスキーの自由主義的な傾向は放棄され、ロシア主義ともいうべき伝統的な保守主義を抱くようになっていた。そのロシア主義思想を表明するについて、かれはムイシュキン公爵ほどそれに相応しいキャラクターはいないと思ったようだ。なぜか。ムイシュキン公爵は自他ともに認める白痴であって、精神的な能力は極度に低いとされているので、そのかれが高尚な思想を抱くというのは考え難いのであるが、しかし白痴であるからこそ、ロシアの民衆の間に根強くはびこっている因習的な考えを体現するには適していた。そう考えてドストエフスキーは、あえてムイシュキン公爵にロシアの因習的な思想であるロシア主義を語らせたのであろう。


世界の海とは別に、東京の海のコーナーもあります。東京と言えば大都会の印象ですが、実は広い海もあるのです。伊豆七島と小笠原諸島の海が東京の範囲に含まれるのです。小生は伊豆諸島の大部分と、小笠原の父島・母島を訪れたことがあります。東京から小笠原の父島までは、小生が行った頃は28時間かかりました。いまでもそれに近い時間を要するそうです。

その小笠原の海の水槽を、まず見物しました。亜熱帯の海らしく、色鮮やか魚たちが泳いでいます。20種類ほどいるそうです。一番目立つのは、黒と黄色の太い縦じま模様の魚、ツノダシといって、亜熱帯系の水族館ではどこでも見られる人気者です。

出目金を思わせるような巨大な目をもち、ずんぐりした体型の魚は、カンムリベラでしょうか。

そのほか、ヤマブキベラとかヒブダイといった魚がいるそうですが、小生には見分けがつきませんでした。ただ、小笠原でフナ釣りを楽しんだときのことを思い出しました。その折には、いろどり豊かな魚をいくつも釣り上げたものですが、そのほとんどは、船頭さんによれば、外道といって食べられない魚だそうです。


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ミロス・フォアマンの1979年の映画「ヘアー(Hair)」は、ベトナム戦争のために徴兵された若者とニューヨークのヒッピーたちの交流を描いた作品。ベトナム戦争への反対運動とかヒッピーといったものは、1960年代後半の事象であり、この映画が公開された1979年には過去のものとなっていた。それゆえ多少時代遅れの印象を与えたことは否めない。原作となった同名のミュージカル作品は1968年に上演されている。その時には鋭い社会批判を感じさせたのだと思う。

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サミュエル・バトラーの著作「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵第十一点目は「テンプル・バーでランプを焼く( Burning Ye Rumps at Temple Bar)」と題する。テーマは、1659年におけるランプ議会の解体である。ランプ議会は、ピューリタン勢力の牙城であったので、それが解体されることは、ピューリタン革命の終焉を意味した。じっさいこの事件をてこにして、王政復帰への道が開かれるのである。

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ミロシュ・フォアマンは、チェコ・ヌーヴェルヴァーグ映画を代表する監督。1967年に作った「火事だよ! かわい子ちゃん」は、そのヌーヴェルヴァーグ映画の代表作といえる。かれは、この映画製作を最後に、チェコを脱してアメリカで映画作りをするようになるので、チェコ時代の最後の作品である。テーマは、チェコの官僚主義の批判といったところ。パンチの利いたやり方で、官僚主義に毒されたチェコの人々を笑いのめしている。

ヘンリー・ミラーにランボー論があるのを知ったのは、ジル・ドゥルーズを通じてであった。ドゥルーズは初期の主要な著作「差異と反復」の中で、ミラーのランボー論を卓越した研究だと褒めていたのだった。そこで、ランボーの熱烈なファンである小生としては、読まないという選択はなかった。早速アマゾンを通じて取り寄せ、読んだ次第。読んでの印象は、いささかがっかりさせらるものではあった。というのも、ミラーといえば、セックスの伝道者としてのイメージが強く、ランボーについてもセックスの視点から解剖してくれると思っていたのが、意外と常識的な立論になっているからだ。


世界の海のコーナーを一周すると、いったん屋外のテラス部分に出ます。そこには、ペンギンがいるエリアがあります。現在ここで見られるのは、王様ペンギン、フンボルトペンギン、フェアリーペンギンです。王様ペンギンが一番大きく、フェアリーペンギンが一番小さい。フンボルトペンギンはその中間です。

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サミュエル・バトラーの著作「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵第十点目は「委員会(The Committee)」と題する。委員会とは1648年のプライドのクーデタの後にできた議会のことで、ランプ(尻)議会とも呼ばれる。このクーデタは、ピューリタン革命の転換点となったもので、ピューリタンによる議会の制圧を意味していた。プライド大佐は議会を制圧し、国王への反対を表明しない議員をことごとく追放、わずかに残された60人で議会を構成した。これをランプ議会と呼んだ。ランプ議会は、1953年まで続いた。

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1995年のアメリカ映画「ブレイブハート(Braveheart メル・ギブソン監督)」は、13世紀における、スコットランドの対英独立戦争を描いた作品。この時期のスコットランドに、ウィリアム・ウォレスという英雄が登場し、スコットランド人を鼓舞して対英独立戦争を戦った。その戦争のハイライトとなったスターリングの戦いは、スコットランドの歴史上、イギリス軍に勝った唯一の戦いだった。その戦いの後、イギリス側の反撃により、スコットランドの独立運動は弱体化し、指導者のウォレスは残虐なやりかたで殺された。かれの首はロンドン橋にさらされたのだったが、それはロンドン橋名物といわれるさらし首の、史上最初の出来事だったといわれる。

「正法眼蔵随聞記」は、懐奘による道元の言行録である。懐奘は道元が宋から帰って深草に庵を結んでいた時に道元の一番弟子となり、以後道元が死ぬまで師事した。その間に道元の説教をもとに「正法眼蔵」を編集した。懐奘はまた、自分自身が道元から聞いた話をもとに、備忘録のようなものを残した。それをまとめたものが「正法眼蔵随聞記」である。「正法眼蔵」本文が、道元の直接語った言葉(あるいは書いた文章)を再現しているのに対して、こちらは道元から聞いた話を採録している。その中には、道元の思想とかかれの行動、また栄西はじめ道元が尊敬する人々の言動の記録も含まれている。

イスラエルのユダヤ人とガザのパレスチナ人の対立激化に対して、バイデンは一貫してイスラエルを支持してきた。その理由は、イスラエルには自衛権があるというものだ。バイデンによれば、ガザを実効支配するハマスはテロリストであり、イスラエルにはそのテロリストから自国を防衛する権利がある。だから、イスラエルのユダヤ人がガザのパレスチナ人を殺すことは問題ないという見地に立っているようである。

ジャック・デリダが「精神について」を書いたのは1990年のことだ。「脱構築」の哲学者としての名声を確立していた。かれの脱構築の思想は、ニーチェやハイデガーの強い影響を感じさせるのだが、初期の活動においては、ハイデガーを主題的に論じたことはなかった。この書「精神について」は、副題「ハイデガーと問い」にあるとおり、ハイデガーについて主題的に論じたものだ。デリダはそのハイデガー論を「精神」という概念を中心にすえて展開する。

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サミュエル・バトラーの著作「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵第九点目は「尋問されるヒューディブラス(Hudibras Catechiz'd)」と題する。第六点目で出てきた女にヒューディブラスが興味を持ち、その思いが成就されるかどうか占星師に占わせたりしたことで、地元の連中が不信感を抱き、かれを尋問する場面である。

小説「白痴」の中でドストエフスキーは、当時流行りつつあったロシアの自由主義思想を正面から批判している。おそらくドストエフスキーの本音だったと思われる。彼自身若いころにその自由主義思想にかぶれたのであったが、色々な事情があってそれを捨てて、ロシアの伝統を重視する保守主義者に転向した。かれは、この小説の中で、自由主義思想を攻撃する一方で、「白痴」のはずのムイシュキン公爵を一人前の思想家にしたてて、かれにも自由主義思想への攻撃とロシアの伝統を擁護する考えを滔々と述べさせているのである。そのムイシュキン公爵の演説は別に取り上げるとして、まず自由主義思想への攻撃について見ておこう。


ブラジル沿岸といっても、アマゾン河口につながる熱帯の海からサンパウロ以南の温帯域に近い海まで多彩です。葛西臨海水族館では、亜熱帯の魚や温帯域の魚を集めているように見えました。一番目立つのは、ライトグレーの薄っぺらい魚。これはルックダウンといって、アジの仲間だと言いますから、温帯域の魚なのでしょう。顔つきが下向きに見えることからそう名付けられたといいます。

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キャロル・リードの1953年の映画「二つの世界の男(The Man Between)」は、第二次大戦後の東西冷戦の一こまを描いた作品。戦後ベルリンは東西に分断されたが、まだベルリンの壁ができていない時代に、東西を自在に行き来しながら、東側のスパイとして働く男の屈折した生き方を描いている。

10月7日のハマスによるイスラエル攻撃に対する報復だとして、イスラエルのユダヤ人政府がガザに対する攻撃を激化させている。今日(11月2日)の時点で殺されたパレスチナ人は8500人以上に達し、その大部分は女性と子供であるという。イスラエルのネタニヤフ政権は、人道的停戦を訴える国際世論に耳を貸さず、ハマスを根絶やしにすると言っている。かれにとってはガザの人間はすべてハマスに見えるようだから、ガザに住む200万人のパレスチナ人を根絶やしにする、つまり皆殺しにするつもりらしい。

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銀座の観世能楽堂で催された清門別会の旗揚げ公演をNHKが中継放送したのを見た。清門別会というのは、観世流の今の宗家である観世清和の主催する能興行組織ということらしい。先代宗家が正門別会というのを立ち上げて50回の公演を行ったのを引き継いだ形という。その第一回の公演が今年の六月に催された。それをNHKが収録したという。

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キャロル・リードの1948年の映画「落ちた偶像(The Fallen Idol)」は、グレアム・グリーンの短編小説「地下室」を原作にして、リードが大胆に脚色した作品。テーマは少年の勘違いである。その勘違いのために、自分が護ろうとしている人をかえって窮地にさらすといったような内容である。

近藤和彦の「イギリス史10講」(岩波新書)は、ローマ人からガリアと呼ばれた時代からサッチャー、ブレアに到るまでのイギリスの通史である。近藤は歴史学者だから、なるべく実証的に、つまり事実を尊重して余計な価値判断を持ちこまないように心掛けているようだが、その叙述からはおのずから、一定の価値判断、つまりバイアスのようなものは感じられる。そのバイアスとは、イギリスという国よりも、その国を動かしている人々の行動様式に着目して、そこに一定の価値を認める立場のことだ。イギリスという国を動かしてきたのは、アングロサクソンと呼ばれる人種の人々だが、そのアングロサクソンは、イギリスをいう国の範囲を大幅にはみ出し、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった国々を建国したほか、インドをはじめ世界中のさまざまな国を植民地化してきた。アングロサクソンはだから、世界の王者民族といってよい。かつて日本では、平氏にあらされば人にあらずといったものがあったが、アングロサクソンにあらざれば人にあらずといえるほど、イギリス人の同義語であるアングロサクソン人は世界を勝手気ままに動かしてきたのである。そんなイギリスに近藤は最大限の敬意を払い、日本も又かくありたしと願っているように思える。

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