2023年10月アーカイブ

この落日贅言シリーズも七回まで進み、死ぬる苦しみとか生きる喜びについて語ってきた。落日に直面している老人のうわごとのようなものだったと思っている。次はもっと世俗的なテーマを取り上げようと思いながら準備をしていたところ、イスラエルとパレスチナの殺し合いが始まった。これはウクライナ戦争に劣らぬくらい、世界平和にとってインパクトのある事件なので、当然軽視するわけにはいかない。自分なりに考えてみる必要がある。またこのシリーズで取りあげてみたいとも思う。だが、事態は流動的で、この先どう展開するかわからない。イスラエルのユダヤ人指導者たちは、タマをけられた犬のようにいきり立っており、ガザのパレスチナ人を皆殺しにするつもりのようだ。それに対して、パレスチナのほうは、おそらくまたやられっぱなしになるのであろう。だが、今回がこれまでと違うのは、国際社会の多数派が、イスラエルの過剰な懲罰に対して批判的なことだ。アメリカに対しても、イスラエルによる残忍な行為に肩入れしているという批判が向けられている。こんなことはこれまでなかったことで、そういう国際社会の変化が、イスラエルとパレスチナの歴史的な対立にどんな影響を及ぼすのか、まだまだ流動的である。それゆえ、この問題については、もうすすこし行方を見てから取り上げるのがよろしかろうと思い、今回は見送ることにした。

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サミュエル・バトラーの著作「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵第八点目は、「ヒューディブラス、シドロフェルと従者ウェイカムを倒す(Hudibras beats Sidrophel and his Man Whacum)」と題する。挿絵第六点目で出てきた女に関心をもったヒューディブラスが、占星師のシドロフェルの所へ赴き、自分の恋が成就するかどうか占ってもらう。ところがシドロフェルは、ヒューディブラスの過去のスキャンダルを暴くなどして、かえって怒らしてしまう。

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キャロル・リードの1947年の映画「邪魔者は殺せ(Odd Man Out)」は、アイルランド紛争の一こまを描いたものだが、紛争の現実そのものには触れておらず、アイルランドの独立派の一部が、闘争資金をかせぐために強盗を働く様子を描いている。そういう意味では、ちょっと高級感のあるギャング映画といってよい。

正法眼蔵第二十は「有時」の巻。有時という言葉の解釈をめぐって、道元独自の時間論を説く。通常、この言葉は「ときあって」とか、「あるときは」というふうに使われるが、道元はそれとは異なった意味を持たせる。「有時」(<うじ>と読ませる)という熟語として使い、それに独特の意味を付与するのである。


カリブ海は亜熱帯の海で、サンゴ礁も多く見られます。カリブ海を代表する魚と言えば、ヘミングウェーの小説「老人の海」に出てくるマーリンが有名です。この小説の日本語訳が出たころ、翻訳者たちは現物を知らなかったのでしょう。たんに大きな魚と訳したり英語のままマーリンと書いていました。今日では、どんな日本人も、それがカジキマグロだと知っています。

ジャック・デリダが1972年に刊行した「ポジシオン」は、三篇の対談集を集めたものである。そのうち、表題と同じく「ポジシオン」と題したものは、デリダとマルクス主義者との対談である。対談の相手は、ウードビーヌとスカルベッタ。この二人について小生は名前を含めて何も知らない。この対談を読む限り、いわゆる主流のマルクス主義に属しているようだ。デリダがなぜかれらとの対談に応じたのか。デリダは若いころから実在論を観念論と一緒くたに批判してきた経緯があるので、その実在論の変種と言えるマルクス主義に一定の理解を示している姿はちょっと異様に見える。

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サミュエル・バトラーの「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵第七作目は「ヒューディブラス、スキミントンと出会う(Hudibras Encounters the Skimmington)」と題する。スキミントンとは、18世紀のイングランドやスコットランドに広く見られた風習で、主として口うるさい女房や不実な亭主をこらしめるための意味合いを持った儀式である。

アグラーヤ・イヴァーノヴナは、ムイシュキン公爵とともにこの小説の主人公だと作者はわざわざ断っている。だが、作者がそういう割には、アグラーヤの人物像は鮮明ではない。もうひとりの重要な女性ナスターシャ・フィリッポヴナと比べると、その性格は曖昧だし、行動にも筋がとおっているようにも思えない。ナスターシャ・フィリッポヴナを駆り立てていたのは、生きることへの絶望だったと前稿で指摘しておいたが、アグラーヤ・イヴァーノヴナを駆り立てていたものはなんだったのか。小生の印象では、女の意地だったように思う。彼女は非常に自尊心の強い女性で、その自尊心が自分に対するムイシュキンの曖昧な態度や、また、ムイシュキンがほかの女を愛することをゆるさなかったのだ。その自尊心は非常に情動的なものなので、小生はそれを女の意地と呼んだわけである。


地中海は、出口のジブラルタル海峡が非常に狭いので、内海のように閉じた海という印象です。ですが海流はあります。暖流だけですので水温は高いです。また、塩分が濃いのが特徴で、ジブラルタルから遠ざかり、東へ行くほど濃くなります。痩せた海で、魚は少ないと言われていますが、800種類ほどの生息が確認されています。

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山田洋次の2021年の映画「キネマの神様」は、映画に青春をかけた男たちの物語。その男たちが老年になって、再び映画への情熱に目覚めるといった内容だ。男の一人を沢田研二、もう一人を小林稔侍が演じている。かれらの青春は松竹の撮影所を舞台としていた。その舞台で彼らは一人の女性をめぐって葛藤する。老年になっても、三人の関係は崩れない。三人はあいかわらず、映画を通じて結びついている。要するに映画を賛歌する映画なのである。松竹の山田洋次の2021年の映画「キネマの神様」は、映画に青春をかけた男たちの物語。その男たちが老年になって、再び映画への情熱に目覚めるといった内容だ。男の一人を沢田研二、もう一人を小林稔侍が演じている。かれらの青百年記念に作られたというから、映画賛歌になるものわからぬではない。

国民民主党が立憲民主党の挨拶を断るなど、距離を置く姿勢を強めている。立憲側は、次の衆議院選挙に向けて野党の連係を模索し、その一環として党首対話を呼びかけたのだが、国民側からそれを拒絶した。理由は、立憲が共産党との連携に前向きな姿勢を見せていることだ。国民は反共が党是のようなので、共産党と連係しようとする党とは一緒に行動できないということらしい。

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サミュエル・バトラー「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵第六は、「苦悩のヒューディブラス( Hudibras in Tribulation)」と題する。庶民によって迫害されるヒューディブラスと従者ラルフを描いている。かれらは、暴動を起こした庶民の仲間によって、窮屈なところに閉じ込められる。その二人を、庶民があざ笑うのである。

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想田和弘の2007年の映画「精神」は、想田が「観察映画」と称するドキュメンタリー映画の第二作目である。テーマは、ある精神科医師とその患者たちとの関係である。この医師は、金銭づくを抜きにして、ほとんどボランティアのような形で心を病んだ患者たちと向き合っている。その向き合い方は、単に治療というのを超えて、患者を全面的に支えたいという意志に貫かれている。だから、患者はかれに頼り、自分の身と心を差し出し、全面的な信頼を寄せている。中には40年間も彼の世話になっているものもいる。

シェイクスピアの歴史劇「ヘンリー八世」は、アン・ブリンの産んだ子エリザベスの洗礼式典の場面で終わる。その式典を主催するのは、カンタベリー大司教クランマーである。クランマーは、ウルジーにかわってヘンリー八世の腹心におさまり、一時は謀反のかどで訴追されそうになったが、王の信任があついためにその危機をのがれ、ブリンの子の代父となってエリザベスとなづけ、その洗礼式典を主催したのであった。

クランマーは非常に要領のいい男で、常にヘンリー八世の意向に沿って行動することで、王の絶大な信任を得た。王とアン・ブリンの結婚を有効に成立させたのち、王がほかの女に気を移すと、すかさずブリんを排除し、王と他の女との結婚をたびたび成立させた。要するに王の下半身を制御していたわけである。下半身でものを考える傾向が強い王としては、そんなクランマーに絶大な信頼を寄せるのは自然なことだったのである。

そのクランマーが、エリザベスの代父として、その洗礼式典を主宰し、主催者としての挨拶をする。その挨拶の文面が、後のエリザバス一世の統治をよく予見したものとなっている。それもそのはずで、シェイクスピアがこの劇を書いたのはエリザベス一世の死後十年たっており、処女王とよばれた彼女の統治の実績の評価は或る程度固まっていたのである。なにしろエリザベス一世の時代は、イギリスの国運が最大の上昇機運にあった時期であり、彼女はイギリスの栄光を象徴するような存在とみなされていたのである。

そんなわけだから、クランマーの挨拶は、エリザベスの来るべき栄光を予見する内容となっている。その調子は賛美に近く、イギリスの栄光を一身に体現する偉大な女王になるだろうとの預言に満ちている。

ここでは、そんなクランマーの言葉から、一部分を引用したい。まず、エリザベスが将来理想的な女王となるだろうとの預言である。エリザベスが生まれた時点では、ヘンリー八世には男子がいなかったから、女子の中では、キャサリンが生んだメアリーのほうが王位継承順位が高かった。にもかかわらずエリザベスが当然女王になるだろうとの預言は、歴史を後から解釈しなおしたものだ。

  この姫は~天よこの子をよみしたまえ~
  まだ揺りかごになかにいましますが
  すでにこの国にあまたの祝福をさずけておられます
  やがて機が熟せば~いま生きている人は
  目撃できないかもしれませんが~
  同時代のすべての王侯たち及び未来の王侯たちの
  模範となられ、シバの女王でさえも
  智慧と美徳の点で、この純粋な魂を持つ
  姫君には及ばないことでしょう
  このような力強い存在を形作る美質が
  更にはあらゆる美徳が、姫君に倍の力をもたらしましょう
  真実が姫君の乳母となり、聖なる思いが相談役になるでしょう
  This royal infant--heaven still move about her!--
  Though in her cradle, yet now promises
  Upon this land a thousand thousand blessings,
  Which time shall bring to ripeness: she shall be--
  But few now living can behold that goodness--
  A pattern to all princes living with her,
  And all that shall succeed: Saba was never
  More covetous of wisdom and fair virtue
  Than this pure soul shall be: all princely graces,
  That mould up such a mighty piece as this is,
  With all the virtues that attend the good,
  Shall still be doubled on her: truth shall nurse her,
Holy and heavenly thoughts still counsel her:

次に、エリザベスの築いた平和の世は、彼女一代で終わることなく、次の世代へと引き継がれるであろうと預言する。これは、上演当時のイギリス王ジェームズ一世が、エリザベスの正統の後継者であると明言しているところだ。

  この平和は彼女一代で終わることなく
  奇蹟の鳥であり、処女の不死鳥である
  彼女の灰の中から次の世代が生まれ
  彼女と同じような賛美を浴びることでしょう
  そのようにして姫は次の世代に祝福をさずけられ
  天が暗黒の雲の中から彼女を召されても
  姫は誉ある聖灰の中から星のように蘇り
  かつてのような偉大な名誉を示されるでしょう
  Nor shall this peace sleep with her: but as when
  The bird of wonder dies, the maiden phoenix,
  Her ashes new create another heir,
  As great in admiration as herself;
  So shall she leave her blessedness to one,
  When heaven shall call her from this cloud of darkness,
  Who from the sacred ashes of her honour
  Shall star-like rise, as great in fame as she was,

クランマーは演説の最後に、エリザベスが処女のままこの世を去るだろうと予言する。これは歴史的な事実なので、如何ともいえない。彼女は自分自身の子供は残さなかったからだ。

  姫君は、イギリスにとって幸運なことに
  長命であられ、多くの日々を過ごされるでしょう
  一日たりとも無益な日はないでしょう
  これ以上は言わない方がよいのですが
  彼女もまた死なねばなりません、それも処女のままで
  汚れ泣きユリのように死んでいくでしょう
  その死を全世界が悼むでしょう
  She shall be, to the happiness of England,
  An aged princess; many days shall see her,
  And yet no day without a deed to crown it.
  Would I had known no more! but she must die,
  She must, the saints must have her; yet a virgin,
  A most unspotted lily shall she pass
To the ground, and all the world shall mourn her.

なお、エリザベスは子は産まなかったが処女のままではなかった。彼女の男好きは歴史的な事実で、多くの愛人をもっていたのである。



紅海はスエズ運河からアデン湾に向けての非常に長い海です。ジブチのところで狭くなっているせいで、外海から隔絶した閉じた空間となっています。そのため、この海固有種の魚がけっこういます。水質は、塩分が濃く、透明です。世界の海の中でもっとも透明な海だといわれています。

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サミュエル・バトラー「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵シリーズ第五作は「トルーラにやっつけられるヒューディブラス(Hudibras Vanquish'd by Trulla)」と題される。民衆の暴動を鎮圧して首謀者のタルゴを監獄に幽閉して勝利を味わったのもつかの間、ヒューディブラスは手痛い反撃を受ける。暴動に加わっていた女房トルーラが、仲間を伴ってヒューディブラスに襲い掛かり、さんざんやっつけるのである。

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想田和弘の2007年の映画「選挙」は、さる市議会議員選挙に取材したドキュメンタリー映画。想田自身は監察映画と言っている。自身が観察したところを包み隠さずカメラに収めたというところだろう。じっさい想田は自分でカメラを回しているそうである。

「正法眼蔵」第十九は「古鏡」の巻。古鏡は、「こきょう」とも「こきん」とも読む。鏡のことである。単に鏡といわず「古鏡」というのは、道元一流のこだわりからだという。寺田徹によれば、道元はほかのすべての巻の題名を漢字二字以上であらわしており、この巻にもその主義を適用したというのだ。

2023年7月、オランダ国王が奴隷制と奴隷貿易について公式に謝罪したそうだ。水島治郎によれば(「世界」2023年11月号所収論文「自由と寛容をめぐるせめぎあい」)、オランダは南米にスリナム植民地を領有し、19世紀半ばまで大量の奴隷をアフリカから連れてきて使役した。他の国が相次いで奴隷制を廃止する動きを見せても、オランダは最後まで奴隷制の維持にこだわった。実際に奴隷制を廃止したのは1873年のことだ。

デリダの著作「グラマトロジーについて」は、足立和弘の邦訳(現代思潮社刊)では「根源の彼方に」という副題がついている。というより「根源の彼方に」の方を先に表示しているので、こちらの方をメーンに受け取るものがいるのではないか。「グラマトロジーについて」の主要テーマが、根源としての(音声言語の)現前性とその代理としての文字言語との関係を論じることにあれば、「根源の彼方に」という副題は理にかなった命名といえよう。根源とその代理との関係では、対立しあう二つのうち、根源のほうが重視されるので、その根源に議論が収束していくのは自然なことである。普通なら、代理に対する根源の根源性を確認することで、根源をめぐる議論は終わるはずなのだが、それが終わらない。根源が文字通りの意味での根源ではなく、代補をそのなかに含んだ根源だというややこしい事態が明らかになるからだ。つまり、根源を求めての議論が、根源まで到らないわけである。そこで、どこに本当の根源があるのか、それともあると思ったのは幻覚で、実際にはそんなものはないのか。そういう疑問が生じてくる。その疑問が「根源の彼方に」むかって開かれるのである。

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サミュエル・バトラー「ヒューディブラス」へのホガースの挿絵四点目は、「勝ち誇るヒューディブラス(Hudibras Triumphant)」と題され、暴動を鎮圧して勝利したヒューディブラスの得意げな表情を描く。

小説「白痴」の中でもっとも強い存在感を発揮しているのは、主人公のムイシュキン公爵を除けばナスターシャ・フィリッポヴナという女性である。この女性は、ドストエフスキーの小説で初めて登場する新しいタイプの女性である。この女性は非常に複雑な性格に描かれており、一筋縄の理解を拒むような謎に満ちた存在なのだが、それでもあえて彼女の特質を単純化していえば、自滅型の女性ということになるのではないか。彼女の行動には、とても合理的に説明できないような部分が多すぎるし、というより、自分にとって不利な行動に走り、そのために破滅しかねない目にたびたび合う。その挙句に、ロゴージンの手にかかって死ぬのであるが、その死に方には自殺の影がただよっている。彼女はだから、死ぬために生まれてきたといってよいほどなのだ。こんなタイプの女性は、ドストエフスキーの他の小説には見られないし、また、ロシア文学の伝統からも大きく逸脱した人物像というべきである。


オーストラリア西部の海を再現した水槽には、どういうわけかタツノオトシゴの仲間ばかりが目に付きます。じっさいには、ほかの魚もいるのでしょうが、この水族館では、タツノオトシゴの仲間を集めたようです。

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2000年公開の香港映画「花様年華(王家衛監督)」は、既婚男女の恋愛をテーマにした作品。欧米特にイギリスでの評価が高く、BBCの「21世紀最高の映画100本」では第二位にランクされたほどだ。一つには、イギリス人は「逢引き」に描かれたような既婚男女の恋愛に非常な関心を持っていること、もう一つには、香港を中国に返還して間もないころのことで、イギリス人の香港への郷愁というべきものが、この映画へのかれらのこだわりを掻き立てたという事情があったのだろうと考えられる。

先日行われたG20では、主催国のインドが巧妙な会議運営を行い、G20の団結を強化したとして、日本を含むG7諸国は、インドの首相モディに絶賛の拍手を贈った。日本のメディアも、岸田政権に追随してインドのモディ首相を褒めている。そういう風潮に異議を唱え、今回のモディ首相の会議運営を厳しく批判する者がいる。雑誌「世界」の最新号に「ヒンドゥー国家に呑まれたG20」という小文を寄せた中溝和也である。

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ウィリアム・ホガースの「ヒューディブラス」への挿絵シリーズ第三作は「ヒューディブラスの最初の冒険( Hudibras's First Adventure)」と題する。冒険とは、ヒューディブラスが、地方で騒ぎを引き起こした暴徒たちに対峙することとなり、かれらの首領を倒して、暴動の鎮圧に一役果たそうとしたことをいう。

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婁燁(ロウ・イエ)は、2006年に作った映画「天安門」が当局の怒りをかい、5年間中国国内での映画製作を禁止されたのだったが、その禁止期間が終わるとすぐに、中国での活動を再開した。2011年の映画「二重生活(浮城謎事)」は、復帰第一作である。

権勢をほしいままにしたウルジーにも挫折の時がやってくる。直接の原因は、王に提出した書類の中に誤って自分の財産目録を含めてしまったことだ。それを読んだ王は、ウルジーが卑しい身分からなりあがって高官に上り詰めた挙句、莫大な財産をため込んでいたことにあきれかえり、その忠誠心を疑う。ウルジーは王への忠誠より、私腹を肥やすことに熱心だと判断したのだ。

王はウルジーに向かってその書類を示し、顔をしかめながら、それを読んだうえで、もしまだ食欲が残っていたら朝食をとれと勧める。その態度に接したウルジーは動転するのである。

  これはどういうことだ
  なんで突然怒り出したのだ、わしにその原因があるというのか
  王は顔をしかめながら去っていった
  まるでその目から破滅が飛び出してきたようだ
  ライオンは追い詰めた猟師をそのような眼でにらむ
  すると猟師の命はなくなるのだ
  この書類を読まねばならぬ これが王の怒りの原因だ
  やはりそうか
  この書類がわしを破滅させたのだ
  What should this mean?
  What sudden anger's this? how have I reap'd it?
  He parted frowning from me, as if ruin
  Leap'd from his eyes: so looks the chafed lion
  Upon the daring huntsman that has gall'd him;
  Then makes him nothing. I must read this paper;
  I fear, the story of his anger. 'Tis so;
This paper has undone me

自分の軽率な振る舞いが王を怒らしたことを悟ったウルジーは、自分に降りかかってくるだろう運命を自覚する。苦労して上り詰めた絶頂から一気に破滅へと突き落とされることを覚悟せねばならない。

  わしは権勢の絶頂にまで上り詰めてしまった
  あとはその栄光の頂点から
  ひたすら転落するのみだ
夕空の流れ星のように落下し
消え去っていくのだ
  I have touch'd the highest point of all my greatness;
  And, from that full meridian of my glory,
  I haste now to my setting: I shall fall
  Like a bright exhalation in the evening,
And no man see me more.

要するにウルジーは王の信頼を失ったために失脚するのだが、その原因は以上のことばかりにはとどまらない。それには伏線がある。一つは、王とアン・ブリンとの結婚に消極的だったことだ。当時の王の最大の関心事は、キャサリン王妃と離婚して、アン・ブリンと結婚することであり、その王の意思を、ウルジーも最大限尊重し、その実現のために努力せねばならなかった。ところがウルジーは、内心、王とアン・ブリンとの結婚に反対だった。理由は、アン・ブリンが熱烈なルター主義者で、カトリックのかれとしては、到底受け入れられないというものだった。ウルジーとしては、自分と同じカトリックで、フランス王の妹であるアランソン公爵夫人こそ、王の結婚相手たるべきだったのである。そんなかれの意図を、ヘンリー八世がどこまで気づいていたかは明らかではないが、アン・ブリンの結婚問題に消極的な姿勢は見透かされていたであろう。

もう一つ、新たなライバルが登場したことだ。それはクランマーだ。クランマーは、ウルジーにかわって王の腹心となり、王の望みの実現に尽力したことで、王の深い信頼を得る。その功績によって、カンタベリー大司教の座に就き、やがては、ブリんの腹から生まれたエリザベス(後のエリザベス一世)の洗礼式を主催するようになるのである。

そんなわけで、さしも権勢を誇ったウルジーにも没落の時が来る。その没落に直面したウルジーは、自分の身のはかなさについて嘆息するのである。


  なんと惨めなことだ
  王侯の恩寵にすがるだけの哀れな男よ!
  われらが希求する王の笑顔や
  その甘い表情と彼らがもたらす破滅との間には
  戦争や女がもたらす以上の苦痛と恐怖がある
  破滅するときにはルシフェルのように落下し
  二度と浮かび上がる望みはない
      O, how wretched
  Is that poor man that hangs on princes' favours!
  There is, betwixt that smile we would aspire to,
  That sweet aspect of princes, and their ruin,
  More pangs and fears than wars or women have:
  And when he falls, he falls like Lucifer,
  Never to hope again.



オーストラリア南部の海は、グレートバリアリーフなど北部の海とは違い、サンゴ礁はありません。ここの水槽では、ごろりとした大岩がおかれています。現地もそんなイメージなのでしょうか。場所柄としては、シドニーより南側の海だと思います。

雑誌「世界」の最新号(2023年11月号)が、「大阪とデモクラシー」と題する特集を組み、七本の小文を掲載している。大阪とデモクラシーの関係といえば、維新の会のことが真っ先に思い浮かぶが、この特集は、維新をとりげたもののほかに、万博問題とか子供の本のこととか、結構幅広くカバーしている。

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2019年のポーランド映画「赤い闇 (アグネシュカ・ホランド監督)」は、スターリン時代のソ連を批判的に描いた作品。批判というより、全面否定といってよく、スターリンによって支配されているソ連という国には、なんらの存在価値もないといった、激しい拒絶感をうかがわせる作品である。ポーランド人のロシア嫌いがすなおに反映されている映画といってよい。ポーランド国内はもとより西側諸国での評判もよかったそうだが、今やロシアの悪口を言うのは西側に共通した趣味となっているので、この映画はその悪趣味に悪乗りしているわけでもある。

正法眼蔵第十八「観音」の巻は、観音菩薩の功徳についての、二人の禅僧の問答を評釈したもの。二人の禅僧とは、雲巖無住大師と道吾山修一大師である。雲巖は曹洞宗の宗祖の一人洞山良价の師であり、道元にとっては直接法統につながる。一方道吾は、薬山惟儼の門下であり、雲巖の兄弟子にあたる。この二人のうち、道元は雲巖のほうを贔屓にしているように読み取れるが、道吾にも敬意を表しており、この二人をともども古仏と呼んでいる。古仏は道元にとって最高の褒め言葉である。

この落日贅言シリーズで二稿つづけて死を取り上げたのは、自分自身高齢となっていつ死んでもおかしくない年頃となり、死が身近なものに感じられるようになったということもある。だが、まだ生きているわけであるし、生きている限りは、生きる喜びを追求するというのが、人間の本性ではないか。そこで今回は生きる喜びについて書いてみたい。人間にとって生きる喜びとはなにか、というのは大事な問いであるし、よりよく生きるためには常にそのことに自覚的であることが望まれると思うのである。とはいっても、小生はこの問いに対して、上段からふりかぶったような答え方はしないほうがよいと考え、日ごろ生きるについて、よりよい生き方としての、喜びの多い生き方について、漠然と感じてきたことをもとにして考えて見たいと思う。だから、議論の筋道が多少ジグザグになるのは大目に見てもらいたい。

ルソーの「社会契約論」は、社会の始まりとその社会における権力の正統性をめぐる議論というふうに、受け取られるのがふつうである。ルソーは、社会は自然発生的に生じたもではなく、人々の間の契約によって生じたと考える。その場合に、社会を運営するためには社会の意思を決定し、それを執行する権力が必要となる。その権力は社会の成員によって支持されていなければならぬ。でなければ、人々は自発的に権力に従うことはせず、権力との間に緊張が高まるであろう。そういう社会は長続きしないだろう。そこで、権力が人々によって受容される根拠として権力の正統性ということが問題になる。ルソーの「社会契約論」は、その権力の正統性について、議論したものという風に理解することができる。

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「サー・ヒューディブラス 移ろいゆく価値(Sr. Hudibras, his passing Worth)と題したこの版画は、「ヒューディブラス」シリーズ12点のうちの第2点目の作品。ヒューディブラスの、聖十字軍というべき遍歴への出発をモチーフにしている。トランペットが鳴り響く中、ヒューディブラスが従者ラルフを従えて、十字軍の遍歴へと旅立つシーンをイメージしたものだが、サミュエル・バトラーの原作にはそのような記述はないので、これはホガース自身のアイデアだとされている。

ドストエフスキーの小説「白痴」は、ムイシュキン公爵という青年を中心に展開するのだが、そのムイシュキン公爵というのがきわめて特異な人間像として造形されている。小説のタイトルである白痴としての人間像だ。その白痴という言葉が、小説のいたるところで、ムイシュキン公爵の基本的な属性として言及されている。なにしろ、小説の中に出てくるすべての人物にとって、ムイシュキン公爵が白痴であるということは、疑い得ないことであり、共通認識になっているのである。では、その白痴という言葉で、どのような性格なり知的な能力なりが表象されているのだろうか。性格という点では、ムイシュキン公爵は裏表のない天衣無縫というべきお人よしであり、したがって人に騙されやすい。世の中ではそういうタイプの人物を評して「ばか」と呼ぶので、ムイシュキン公爵が馬鹿とよばれるのは不自然ではない。ロシア語では、「馬鹿」と「白痴」は同じ言葉(Идиот)で表されるからである。一方、知的な能力という点では、ムイシュキン公爵の知能が幼児並に低いということはない。たしかにかれは、常識をわきまえないようなことを繰り返すが、自分のしていることや発言の内容に関して自覚的であるし、判断も常軌を逸しているとは言えない。だからかれを、低能という意味での「白痴」と断定するのは不当というべきだろう。


グレートバリアリーフは、オストラリア北東のサンゴ礁の海です。亜熱帯の海なので、金魚系の色鮮やかな魚がたくさんいます。よく見ると、多くの種類の金魚のような魚がいるとのことですが、この日の小生は、一緒に水槽を見物している子供たちに気を取られて、細かい観察を怠ってしまいました。

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2012年のデンマーク映画「偽りなき者」は、デンマー式の村八分をテーマにした作品。その村八分が集団ヒステリーとなるところがいかにもデンマークらしいところだ。この映画を見ると、デンマークはろくでなしの天国だと言ったキルケゴールの言葉を思い出す。ちょっとしたゴシップが途方もないスキャンダルに発展し、罪もない人間をよってかたって迫害する、というのがデンマーク式の村八分の特徴であり、それをろくでなしどもが楽しむ。キルケゴール自身がそういう村八分にあう体験をしたので、かれの言うことには迫真性がある。



四方山話の会の幹事団四人が久しぶりに集まって大阪旅行の相談をした。場所は四谷曙橋の中華料理店峨眉山。この店名は、李白の有名な詩「峨眉山月半輪 秋 影入平羌江水流」からとったもので、無論四川料理を食わせる。今日はその四川料理のフルコースを食いながら、大阪旅行を企画したのだった。十二月の前半をめどに、二泊三日で市内の穴場をめぐり歩き、土地のうまいものを食おうということになった。ついては清子など、関西在住の仲間にも声をかけて、一緒に飲もうということにもなった。

雑誌「世界」の最新号(2023年11月号)が、「劣化したリーダーはなぜ増えたのか?」と題して、辻野晃一郎と立石泰則の対談を掲載している。辻野はソニー出身の実業家、立石は実業界を取材するジャーナリストだそうだ。それぞれの立場から、今の日本のリーダーの劣化ぶりを指摘している。どちらも実業界とその周辺に身を置いているから、勢い実業界のリーダーを話題に取り上げる。かれらによれば、実業界のリーダーの劣化は、なににもまして日本の劣化ぶりを物語っているということらしい。

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ウィリアム・ホガースの版画作家としての最初の本格的な作品は、サミュエル・バトラーの風刺詩「ヒューディブラス」への挿絵である。この風刺詩が出版されたのは1662年、ホガースがそれに挿絵を加えたのは1725年のことであるから、重版に挿絵をつけたということになり、したがってこの風刺詩が長い間ベストセラーであったことを物語っている。ベストセラーに挿絵をつけるのであるから、ホガースとしては、成功のチャンスだと受け取る理由があったわけである。

シェイクスピアの歴史劇「ヘンリー八世」の中でもっとも光彩を放っている人物は、王妃キャサリンと枢機卿ウルジーである。この二人の存在感の影から、主人公のヘンリー八世が浮かび出てくるようになっている。王妃キャサリンは夫から疎んじられた不幸な妻という資格で、夫たるヘンリー八世の不義を浮かび上がらせるわけだし、ウルジーは王と悪事を共にするという資格で、王であるヘンリー八世の悪徳ぶりを浮かび上がらせる。王の悪徳ぶりは、そのほかにも随所で見られるが、ウルジーはそれを最も劇的な形で裏書きするのである。

キャサリン王妃が夫ヘンリー八世から疎まれる理由は二つある。一つは率直な人柄から、王に対してもずけずけと歯に衣きせぬ忠言を呈すること、もう一つは、ヘンリー八世に若い愛人(アン・ブリン)ができ、彼女の存在が邪魔になったことだ。ヘンリー八世は、キャサリンと離婚してアン・ブリン(後のエリザベス一世の母親)との結婚を望んだが、離婚を認めないローマ・カトリックによってその意図が阻まれる。ヘンリー八世が、イギリスの国教会をローマから独立させ、独自の宗教としてイギリス国教を確立する努力をしたことは、ヘンリー八世の宗教改革として歴史上知られている。だが、シェイクスピアの筆は、宗教改革の意義には触れず、もっぱらヘンリー八世の女好きの振舞いとして描いている。

キャサリン王妃は、ヘンリー八世の統治が庶民の怒りをかっていることを知っている。その統治は、庶民への苛斂誅求ともいうべき厳しい税の取り立てなのだが、それを実際に動かしているのは枢機卿のウルジーだと思っている。そこで王に対しては、直接王をとがめるのではなく、ウルジーの悪政を批判するというやり方をとる。王はいろいろな面でウルジーを評価・信頼しているので、キャサリンのウルジー批判をまともに受けとめない。そこをウルジーも知っていて、キャサリン王妃の言葉を軽く受け流すのである。

ウルジーによって王が庶民の怒りをかっていることについて、キャサリンは率直な言葉で諫める。

  少なからざる忠実な人々より
  わたくしは陳情されております
  王の臣下たちが大いなる苦境にありますと
  庶民に下命された布告は
  かれらの忠誠心を損なっています
  それも、枢機卿、あなたの
  なせるところだと
  非難の声がおこっていますが
  その非難の声は私たちの王でさえ
  免れることはできません
  I am solicited, not by a few,
  And those of true condition, that your subjects
  Are in great grievance: there have been commissions
  Sent down among 'em, which hath flaw'd the heart
  Of all their loyalties: wherein, although,
  My good lord cardinal, they vent reproaches
  Most bitterly on you, as putter on
  Of these exactions, yet the king our master--
  Whose honour heaven shield from soil!--even he
escapes not

キャサリンは、王を諫めるだけではなく、王に対して不実を働くウルジーをも厳しく批判する。ウルジーが仲間のキャンピーアスとともに、キャサリンの批判は根拠のないものであり、誤解だと逆批判すると、キャサリンは敢然として反撃する。

  一層恥じるがよい、私はあなたがたを
  徳の高い枢機卿と心から思っていました
  ですが、罪深くうつろな心の持ち主のようですね
  恥を知るなら悔い改めなさい、これがあなた方の慰めなのですか
  不幸な女にやる薬なのですか
  途方にくれ、笑いものにされ、あざけられている女への?
  わたくしは自分と同じみじめさをあなた方には望みません
  わたしにはもっと慈悲心がありますから
  ですが気をつけなさい、くれぐれも
  わたくしの悲しみの重みがあなたたちの上にも落ちてこないように
  The more shame for ye: holy men I thought ye,
  Upon my soul, two reverend cardinal virtues;
  But cardinal sins and hollow hearts I fear ye:
  Mend 'em, for shame, my lords. Is this your comfort?
  The cordial that ye bring a wretched lady,
  A woman lost among ye, laugh'd at, scorn'd?
  I will not wish ye half my miseries;
  I have more charity: but say, I warn'd ye;
  Take heed, for heaven's sake, take heed, lest at once
The burthen of my sorrows fall upon ye.

こうしたキャサリンの怒りを、ウルジーはさりげなく受け止める。

  あなたさまが
  私どもの善意をおわかりいただけたら
  ご安心なされるでしょう、一体なぜ
  どんな理由で、あなたさまに悪事が働けましょう
  私どもの地位がそれを許しません
  私どもの役目は悲しみを和らげることで、その種をまくことではないのです
  If your grace
  Could but be brought to know our ends are honest,
  You'ld feel more comfort: why should we, good lady,
  Upon what cause, wrong you? alas, our places,
  The way of our profession is against it:
  We are to cure such sorrows, not to sow 'em.

結局、キャサリンは王の不興をかい、というよりその愛を失い、王妃の地位も失う。とはいえ、完全に否定され、迫害を受けるわけではない。そんなキャサリンが病気になったと聞いて、王がわざわざ見舞いの者をよこすくらいである。その見舞いの言葉に接したキャサリンは、次のように言う。

  おお、その慰めのお言葉は来るのが遅すぎました
  死刑執行の後の恩赦のようなものです
  そのやさしい気遣いも時宜を得れば癒しになったでしょうが
  いまの私にはお祈りのほか慰安はございません
  O my good lord, that comfort comes too late;
  'Tis like a pardon after execution:
  That gentle physic, given in time, had cured me;
But now I am past an comforts here, but prayers.

王の使者に対してキャサリンは王への手紙を託す。そのなかで彼女は、愛娘メアリーを王がいつくしんでくれるよう懇願する。

その手紙の中でわたくしは、わたくしたちの愛の形である
  王の幼い娘をよろしくと王にお願いしておきました
  天よ娘に恵みの露を注がれんことを!
  立派な人間に養育してくださるようにとお願いしました
  娘は幼いながら、気高い性格ですので
  それに価すると思います
  また、王を愛した彼女の母親のためにも
  彼女を愛してくださるようお願いしました
  In which I have commended to his goodness
  The model of our chaste loves, his young daughter;
  The dews of heaven fall thick in blessings on her!
  Beseeching him to give her virtuous breeding--
  She is young, and of a noble modest nature,
  I hope she will deserve well,--and a little
  To love her for her mother's sake, that loved him,
Heaven knows how dearly. 

この娘メアリーは、王位継承順位が二番目であったので、ヘンリー王の死後、エドワード六世の後をつぐかたちで王位についた。そして彼女が死んだあとは、エリザバス一世が王位につくことになる。歴史上の評価としては、メアリーは「血なまぐさいメアリー」と呼ばれて嫌われ、エリザベスは名君としてたたえられることになる。


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2010年のデンマーク映画「未来を生きる君たちへ」は、デンマークにおける少年の社会適応や、家族関係のありかたをテーマにした作品。クリスチャンとエリアスという二人の少年の友情を中心にして、少年の家族関係とか、学校をはじめとする社会とのかかわりが、やや情緒的なタッチで描かれる。監督は女性のスザンヌ・ピアだ。


マグロらのいる巨大水槽のほかに、「世界の海」をテーマにした中小の水槽群が並んでいます。入口に一番近いところに位置しているのは、日本に近い南シナ海の水槽です。サンゴ礁のまわりに、熱帯魚らしい色合いの魚が泳いでいます。一番目立つのは、タマカイです。ハタの仲間ですが、図体が大きくて目をひきます。2メートル前後もある巨大な個体もあるそうです。日本では、沖縄の海のサンゴ礁にいて、食用にされるそうです。色は地味ですが、その分味がいいということなのでしょう。

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「花咲くあんずの木(L'Amandier en fleur)」と題されたこの絵は、ボナールの絶筆といわれる作品。ボナールがル・カネの家で死んだのは1947年1月23日だが、その数日前に、甥のシャルルに命じて、画面の左下の緑の草を黄色に塗り替えさせたという。

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2006年のデンマーク映画「アフター・ウェディング」は、ホームドラマ風のメロドラマである。それに、インドで貧民救援の活動をしている男などの善意を絡ませている。問題はその善意が本物でないことだ。だから非常に後味の悪い映画になるべきところ、そうもならないのは俳優たちの演技のたまものか。

正法眼蔵第十七は「恁麼」の巻。恁麼とは、道元が宋に留学していた当時の江南地方の俗語で「そのように」とか「そのような」といった意味の言葉である。それだけならなんということもないが、しかし道元はこの言葉に特別な意味を持たせることがある。「そのような」を名詞形に用いて、「そのようなもの」という意味を持たせ、そのうえで、その「そのようなもの」をいわゆる「さとりの境地」という意味に使うのである。


マグロ専用の巨大プールに隣接して「大洋の航海者」という名の、やはり巨大なプールがあります。入口の階段を下りてすぐにみえます。ここの主人公は様々な種類のサメです。もっとも目立つのはシュモクザメです。頭の部分がT字型の撞木のような形をしているところから、そう名付られました。英語では Hammerhead shark (ハンマーの頭をしたサメ)と呼ばれています。フカヒレの材料になることから乱獲され、絶滅危惧種に指定されています。

デリダの書物「グラマトロジーについて」の第二部は、ルソーの言語論をテーマにしている。この第二部は、書物全体の三分の二以上を占めているので、それからしてもデリダが、ルソーの言語論を重視していたことは伝わってくる。ルソーには、言語を主題とした著作が複数あり、そうした著作の中では、人間の文明の起源について深い考察を加えているので、とかく「社会契約論」ばかりに注目するあまり、ルソーのもつ壮大な文明論のスケールが無視されていることを考えれば、デリダのルソー論は、ルソーを単なる政治思想家としてではなく、文明論者としても捉えなおすものだといえよう。

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「サーカスの馬(Le cheval de cirque)」と題されたこの作品は、完成したのは1945年だが、1936年ごろに制作に取り掛かったというから、実に十年をかけたわけである。おそらく当初の作品に満足できず、大幅に描き変えたのだろうと思われる。この絵には、晩年のボナールの雰囲気がよく出ているからである。

「白痴」は、ドストエフスキーのいわゆる五大小説のうち、「罪と罰」に続く二作目の作品。「罪と罰」でほぼ確立した客観描写の手法を一層大規模に展開したものだ。客観描写とは、いささか便宜的な概念で、登場人物の心理や行動を、第三者の視点から客観的に描写するというものだ。初期のドストエフスキーは、主人公の独白であったり、あるいは特定の人物になりかわっての第三者の説明であったり、要するに特定の人物の視点からする語りという点で、主観描写といってよかった。そうした主観的な方法を棚に上げて、あくまでも多数の登場人物の心理や行動を第三者の視点から客観的に描写するという方法をドストエフスキーは「罪と罰」において確立したのだった。「白痴」においては、その方法をより一層大規模に展開している。そういう点では、「悪霊」以下の晩年の大作群への橋渡しともいえる。


この日(2023年10月6日)、長くて暑い夏がようやく終りを告げ、気持ちのよい秋空が広がったことに気をよくした小生は、久しぶりに葛西の臨海水族館を訪ねた。今年すでに二回も訪れていたのだが、一回目は休館日にあたり、二回目には持参したビデオカメラの操作を間違え、まともな撮影ができなかった。そこで今日は、カメラの操作方法を入念に練習し、満を持して来館した次第だ。小生が館についたのと同時に、大勢の小学生が押し寄せてくるのに出会った。その数が尋常ではない。数百人規模である。江戸川区内の小学校が共同遠足を実施したのかもしれない。みな低学年だ。社会見学なのであろう。
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フレッド・ジンネマンの1966年の映画「わが命つきるとも(A MAN FOR ALL SEASONS)」は、「ユートピア」の作者として知られるトーマス・モアの殉教をテーマにした作品。モアは、ローマ・カトリックの忠実な信者として、国王ヘンリー八世の宗教上の改革に反対したため、国王の怒りをかってロンドン塔に幽閉され首をはねられた。それが殉教にあたるというので、1935年にカトリック教会によって殉教聖人に列せられた。この映画は、モアの国王側近たちとの戦いと、首をはねられるさまを描いている。

岩波の読書誌「図書」の最新号(2023年10月号)が、桐野夏生の小説「日没」についての文章を四本掲載している。この小説が岩波現代文庫に入れられることに伴う、キャンペーン企画のようだ。岩波はこの小説に大いに関心を示し、固いことで知られる雑誌「思想」でも特集したほどだった。この小説がディストピアしつつある今の日本社会の闇を象徴的な形で描いているというのが、岩波の受け止め方のようである。

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ボナールの晩年の風景画は、次第に抽象的になっていく。そのことは前にも指摘したが、「コート・ダジュールの風景(Paysage de la Côte d'Azur)」と題されたこの絵は、抽象化の度合いが一段進んだもの。コートダジュールの海は青一色で表現され、前景の樹木群は、それぞれ色の塊として表現されている。そこに調和が指摘できるとすれば、それは青とグリーンを主体にして、寒色系でまとめられていることであろう。

シェイクスピアの歴史劇「ヘンリー八世」を小生が数十年ぶりに再読しようと思ったのは、先日フレッド・ジンネマンの映画「わが命つきるとも」を見たことがきっかけだった。この映画は、「ユートピア」の作者トーマス・モアを主人公にして、ヘンリー八世の時代を描いたものだった。ヘンリー八世は、非常に人気のない君主で、イギリス史上最低の王だったといわれるのだが、それは彼の好色で羽目を外した生き方が民衆の怒りを買ったためだと思われる。かれはイギリスの宗教家改革運動の立役者でもあったわけで、イギリスの歴史上大きな役割を果たしたにもかかわらず、私生活の乱れが原因で悪王の烙印を押されたのである。映画はそのヘンリー八世を、やはり悪者として描いていた。ではシェイクスピアはかれをどう描いたか。それが気になって、数十年ぶりに読んだ次第だった。

シェイクスピアの一連の歴史劇の中で、この作品はかなりユニークである。歴史劇のほとんどが、シェイクスピアの作家としての活動の初期に集中的に書かれたのに対して、これは晩年の1613年に書かれている。1613年といえば、作家としての活動が終わるころで、最勉年といってよい。こも年以降かれは作品を書いていない。要するにかれの作家活動の最後の作品といってよい。そんなこともあってか、この作品はシェイクスピアのものではないとの憶測が現れたほどだ。今日では一応、シェイクスピア自身の作品ということに落着しているが、他の作品に比較して、出来の悪さが指摘されることが多い。シェイクスピアの得意とした洒落たセリフ回しとか、深刻な人生観の吐露のようなものはうかがわれない。

この作品が書かれた経緯についてはよくわかっていない。有力な説として、当時の国王ジェームズ一世の娘エリザベスの婚礼祝いの行事の一環として書かれたとする節があるが、あるいはそうかもしれない。この劇が描いたヘンリー八世の時代は、テューダー朝の時代であり、その君主であるヘンリー八世を批判的に描くことには、たいした政治的リスクはなかったようである。シェイクスピアは、エリザベス一世の時代に、プランタジネット系王朝を批判的に描いたことがあり(たとえば「リチャード三世」)、時の王朝は、自分より前の王朝が批判されることには寛大な態度をとったようである。

劇の主人公がヘンリー八世その人であることは言うまでもないが、かれの人物像はかなり凡庸であり、したがって迫力を感じさせない。ヘンリー八世の最大の持ち味は、女好きと宗教上の独立を求めるところといえるが、この二つの要素について、シェイクスピアの筆はあまり踏み込んだ描写をしていないのだ。かれにかわって劇を盛り立てているのは、王妃キャサリンと枢機卿ウルジーである。キャサリンは王の愛を失った悲哀を吐露し、ウルジーは悪人らしく振舞う。一人は善人で、もう一人は悪人だが、どちらもそれぞれ自分のキャラクターにふさわしい言動をして、劇を盛り立てるのである。ヘンリー八世その人は、周囲の人間たちに盛り上げられる役割に甘んじている。その周囲の人物たちのなかで、トーマス・モアはほとんど存在感を与えられていない。ウルジーの後任の大法官に任命されたと噂される程度である。

劇は、バッキンガム公の失脚に始まり、ヘンリー八世がアン・ブリンに生ませた子エリザベスの洗礼式の場面で終わる。歴史年表の上では、約13年間の出来事だ。その期間に様々なことが起こり、その中にはイギリスの歴史にとって特筆すべき出来事もあったのであるが、シェイクスピアの筆はそうした方面には及ばない。ウルジーやクロムウェルといった悪人たちの行状とか、その悪人たちに丸め込まれるヘンリー八世の節操のない行動が淡々と描かれるだけである。だいいち冒頭のバッキンガム公爵の失脚自体が、ある意味ヘンリー八世の気まぐれによるものなのだ。劇中唯一気の利いたセリフを吐くのは、そのバッキンガム公爵なのである。かれは信頼していた腹心の部下に陥れられた無念をつぎのように言うのだ。

  何事も天の思し召し、だが聞いてくれ
  死にゆく男の発することばを真にうけてくれ
  どんなに愛し信頼しているものでも
  けして油断をするな、というのも
  親友と思い、心を許したものでも
  いったんこちらに落ち目を感じれば
  水のように流れ去って戻ってはこない
  くるとしたらそれは溺れさすためだ
  Heaven has an end in all: yet, you that hear me,
  This from a dying man receive as certain:
  Where you are liberal of your loves and counsels
  Be sure you be not loose; for those you make friends
  And give your hearts to, when they once perceive
  The least rub in your fortunes, fall away
  Like water from ye, never found again
  But where they mean to sink ye.

そんなわけで、劇本体はそうインパクトを感じさせるものとはいえない。そのことをシェイクスピアは感じていたようで、劇のプロローグとエピローグをわざわざ設けて、その中で言い訳のようなことを言っている。まず、プロローグの言葉だ。

  それゆえどうぞ、町一番の
  芝居好きで知られた皆様方には
  悲しむべき時には悲しんでください
  あなた方が見ている舞台上の人々は
  実物の人間であると考えてください
  そしてかれらが大勢の
  友人に囲まれているのだとお考え下さい
  けれどそれが一瞬のうちにひっくりかえるのです
  そんなさまを笑ってみていられるなら
  あなた自身の婚礼で涙を流すことになりましょう
  Therefore, for goodness' sake, and as you are known
  The first and happiest hearers of the town,
  Be sad, as we would make ye: think ye see
  The very persons of our noble story
  As they were living; think you see them great,
  And follow'd with the general throng and sweat
  Of thousand friends; then in a moment, see
  How soon this mightiness meets misery:
  And, if you can be merry then, I'll say
  A man may weep upon his wedding-day.

エピローグでは、芝居の成功がひとえにご婦人の満足にかかっていると述べられる。そうすることで、女性たちの支持を訴えているのである。

  この芝居の評判にとって
  わたしどもが期待しますのは
  ご婦人たちのご厚意なのです
  ご婦人方が芝居を見て微笑み
  これはいいわとおっしゃれば
  殿方たちも賛同なさるでしょう
  ご婦人に逆らうことはなさるまいでしょうから
  All the expected good we're like to hear
  For this play at this time, is only in
  The merciful construction of good women;
  For such a one we show'd 'em: if they smile,
  And say 'twill do, I know, within a while
  All the best men are ours; for 'tis ill hap,
  If they hold when their ladies bid 'em clap.

ヘンリー八世,シェイクスピア


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フレッド・ジンネマンの1952年の映画「真昼の決闘(High Noon)」は、ジンネマンにとっては唯一の西部劇だ。いまでは、ジョン・フォードの「捜索者」及びジョージ・スティーヴンスの「シェーン」とならんで西部劇の最高傑作といわれている。通常の西部劇とは異なって、保安官の孤独な戦いを描いたもので、きわめて社会批判的な視線を感じさせるというのが通説である。映画評論家の中には、この映画が公開されていた時代のアメリカのマッカーシー旋風に関連付けて語るものもいるが、ジンネマン本人は、政治的な動機は一切ないとして否定している。

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最晩年のボナールは、果物をモチーフにした静物画を多く手掛けた。いづれも鮮やかな色彩が持ち味である。果物は、バスケットや皿にもられており、それ自体をむき出しにさらけだすようなことはない。「果物籠と皿(Corbeille et assiette de fruits sur la nappe à carreaux rouges)」と題されたこの絵は、ボナール最晩年の静物画を代表するものである。

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フレッド・ジンネマンの1949年の映画「暴力行為(Act of violence)」は、第二次大戦中の米軍兵士の悲劇をテーマにした作品。ナチス・ドイツの捕虜になった米兵が、脱出する計画を実行しようとしたところ、その計画を米兵の一人がナチの将校に密告したことで、首謀者はじめ計画に加わったものが、むごたらしいやり方で殺される。一人生き残った兵士が、密告者に復讐するというような内容の作品だ。戦後間もないということもあって、戦争をめぐるこうしたエピソードは、まだ人々の関心を惹く時代だった。

正法眼蔵「行持」全巻の最後は、師天童如浄をめぐる話である。その如浄について道元は、仏教者としての生き方と、思想との両面から解説している。生き方については、次のような簡略な説明がなされる。「先師は十九歳より、離郷尋師、辨道功夫すること、六十五載にいたりてなほ不退不転なり。帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂、入室、みなくろき袈裟、裰子をもちゐる」。

沖縄県辺野古の埋め立て工事についての知事の認可をめぐって、先の最高裁判決をうけて国側が知事に対して認可の「勧告」をしたところ、知事がそれに従う姿勢を見せないとして、今度は「指示」に切り替えた。指示にも従わねば、次は国による代執行の手続きに入る意向ということらしい。代執行というのは、この場合、国の国土交通大臣が知事に代わって認可を行うということだ。

西洋形而上学における存在の目的論的階層秩序の問題をデリダは、自民族中心主義あるいは西洋中心主義と結びつけて考える。もっとも単純な話としては、文字を持つ西洋文化は文字を持たない「未開文化」よりも進んでいるといった具合に、文化の相違を発展段階の相違と同一視することがあげられる。この発展段階思想は、目的論的な色彩を強く帯びているので、発展段階の進捗具合がそのまま階層秩序を構成する。西洋は発展のもっとも高度な段階に達したものであり、その場合の発展とは、ある種の目的としての機能を持つがゆえに、発展段階による差異の体系は、存在の目的論的階層秩序を構成する、というふうに考えるわけである。

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