2023年4月アーカイブ

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上野動物園には多くの種類の水鳥がいます。動物園のとなりには不忍の池がありますので、そこにもカワウをはじめ天然の水鳥たちがいます。ここでは、タンチョウヅル、オグロヅル、ハシビロコウの三つの種類の水鳥を紹介します。

第二次大戦終了後しばらくの間、メルロ=ポンティとサルトルは蜜月関係にあった。そんな関係をもとに、メルロ=ポンティはサルトル論を書いた。「ひんしゅくを買う作家」(「意味と無意味」所収)と題された小文である。その小文の中でメルロ=ポンティは、作家としてのサルトルについて、かれが「ひんしゅくを買う作家」として攻撃の対象になっている事態に対して、かれなりにサルトルを擁護するのである。

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「シャンゼリゼへ!( Aux Champs-Elisee)」と題されたこの石版画も、「観閲の日」と同じく、ラタポアールらナポレオン派の策動を批判した作品。これは、仕込み杖をたくさん抱えたラアポアールが、シャンゼリゼ大通りに向かう群衆に対して、仕込み杖で大統領官邸を警護しようと呼びかけている様子を描くとされる。

森鴎外が短編小説「最後の一句」を書いたのは大正四年の秋。時期的には、「山椒大夫」を書いて、一息いれていた頃である。鴎外は「安井夫人」で一女性の夫や家族への献身を描き、「山椒大夫」では姉の弟への献身を描いたわけだが、この「最後の一句」のテーマも献身である。しかも、子供が親の命を救うために自分が犠牲になるところを描く。その子供は、「いち」という十六歳の少女であるから、これも「安井夫人」以来の、女性の献身をテーマにしたものの延長上にある作品といってよい。

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ヘビクイワシは、その派手な見かけもあって、一見して猛禽類には見えませんが、タカの仲間のれっきとした猛禽類です。サハラ砂漠以南のアフリカ大陸に生息しています。勇ましい名前は、コブラ類などの毒蛇をいとも簡単に捕食することからつきました。もっともこれは、日本だけの命名で、学術名は射手座の射手という意味です。

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セリーヌ・シアマの2021年の映画「秘密の森の、その向こう(Petite maman)」は、八歳の少女が同じ年ごろだった自分の母親と出会い、ひと時を過ごすというようなノスタルジックな気分を掻き立てる作品。小生は、娘の頃の自分の母親に出会ったという経験はないが、もしそんな体験ができたら、泣きたくなるくらいうれしいに違いない。自分自身の少年時代には、夢の中なりとも出会えることはあるが、自分が生まれる前に生きていた親と出会うというのは、全くありえないからだ。

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上野動物園でもっとも種類の多い動物は鳥類です。なかでも猛禽類と水鳥が多く集められています。まず猛禽類から見ていきましょう。上の写真はオオワシの勇壮な姿を映したもの。オオワシは猛禽類の王者といってよいでしょう。カムチャツカ半島や樺太で繁殖し、冬になると北海道あたりにまで南下してくる渡り鳥です。日本で見られる猛禽類としてはもっとも大きいといわれています。

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ルイ・ナポレオンがクーデタを起こすのは1851年12月のことで、その翌年には皇帝に即位するのだが、ナポレオン派は、それ以前から活発な活動ぶりをみせていた。「観閲の日々(Un Jour de Revue)」と題したこの石版画は、そうした策動の一端を批判したもの。

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セリーヌ・シアマの2019年の映画「燃ゆる女の肖像(Portrait de la jeune fille en feu)」は、女性同士の同性愛をテーマにした作品。シアマは同性愛に深い関心を持っているようで、処女作の「水の中のつぼみ」でも、思春期の少女が同性愛に目覚める様子を描いていた。「水の中のつぼみ」は、現代のフランス社会を舞台としており、女性の同性愛はもはやタブーではなかったが、この「燃ゆる女の肖像」は、18世紀のフランスを舞台としており、従って、同性愛、とりわけ女性同士の同性愛は(表向きは)タブーだった。そんな時代に、若い女性が同性愛に目覚め、レズビアンとなっていく過程を描いたものだ。その時代のことだから、レズビアンとなることはかなりを勇気を要した。相手を同性愛に誘うには、それなりの慎重さが求められた。この映画は、互いにひかれながらも、なかなかカミングアウトすることができず、試行錯誤を重ねながら同性愛を確立する過程を描いているのである。だから、女はいかにしてレズビアンになるか、といった問題意識を感じさせる作品である。

加藤周一は中江兆民を、福沢諭吉と比較しながら論じている。この二人には共通点があり、また、著しい相違点もあるので、比較するには格好の材料なのであろう。まず、共通点。二人とも日本人としていち早く外国体験をし、その体験にもとづいて、「西洋近代の政治的社会的価値を、文化の相違を超えて普遍的なものとみなし、その立場から日本社会の具体的な問題に接近して生涯を通じ後退しなかったことだろう」と加藤は言う。

昨夜(4月24日)、NHKのスペシャル番組「映像の世紀」が、「大東亜共栄圏の夢と現実」と題して、アジア太平洋戦争における日本の対外進出の実像に迫っていた。その中で、日本人が東南アジア諸国の人々からどのように見られていたかについて、簡単な言及をしていた。その一例として、インドネシア人のことわざを紹介し、かれらが日本に一定の期待をしていたということを匂わせている。そのことわざとは、「黄色い人が白い人を追い出してくれる」というものだが、それを、自分らと同じ肌の色の日本人が、肌の色の違うオランダ人を追い出してれるという意味にかさねて、インドネシア人が日本人を好意的に見ていたことの実例のように紹介していたものだ。

先日ドイツ政府の高官がロシアをナチ呼ばわりするということがあった。西側の全面的なロシア憎悪に悪乗りしたのだと思うが、こういう言説をきかされると、語るに落ちた妄言と感じざるをえない。かつてかれらの祖先がソ連に戦争を仕掛け、2600万にのぼるロシア人を殺したのは厳然とした歴史的事実だ。そのナチスドイツの子孫が、自分たちの祖先が殺しつくしたロシア人を相手に、ナチ呼ばわりするというのは、ブラックジョークにもなるまい。だが、一日本人として、そうとばかりも言っていられない。今の日本人も同じようなことをしているからだ。今の日本人は、かつて自分たちの祖先が侵略した中国を、全体主義国家だとかなんとか理屈をつけて、公然と敵視し、あわよくば新たな戦争を仕掛けかねない勢いである。

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バクは奇蹄目の一種で、ウマの仲間です。ウマよりずっと小型で、しかもずんぐりむっくりした体形が特徴です。バクには、白黒の派手な模様のマレーバクと、グレー一色の地味な色合いのアメリカバクがいます。上野動物園にいるのはアメリカバクです。東園の広場に面した、比較的目立つ場所にいるので、まず見逃すことはないと思います。

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ルイ・ナポレオンが大統領に当選したことを記念して、「十二月十日博愛主義協会」という組織が結成された。ナポレオンの最大の支持組織である。その組織は、ラタポアールとカスマンジューという二人の人物によって代表されていた。「ラタポアールとカスマンジュー(Ratapoil et Casmanjou)」と題するこの石版画は、かれらを批判的に紹介した作品である。

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セリーヌ・シアマの2007年の映画「水の中のつぼみ(Naissance des pieuvres)」は、思春期の少女の性の目覚めというようなものを描いた作品。シアマにとっては、監督デビュー作である。思春期をテーマにしていることで、それなりの情緒を感じさせるが、小生のような老人には、未成年者のあぶなっかしさのようなものが気になるところだ。

辯道話のうち、問答の部分の続き。「とうていはく。この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄すべしや」。この問いに対しては、「持戒梵行は、すなはち禅門の規矩なり、仏祖の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず」と答える。持戒梵行はなすべきことだが、戒をうけず、又戒をやぶったものでも、座禅をする資格がないわけではない、という。

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カワウソはイタチの仲間の哺乳類で、水の中が得意です。日本カワウソは絶滅したと言われていますが、ユーラシア大陸には、まだ多数生息していることが確認されています。上野動物園では、ユーラシアカワウソが二頭元気にしていました。これは二頭ともメスのカワウソで、名前はモモとサクラと言います。2012年に、アクアマリン福島から引き取られてきました。

メルロ=ポンティは「知覚の現象学」の中でたびたびセザンヌに言及した。それは、知覚とはゲシュタルト的なものであり、したがってすでにそれ自体意味を帯びたものだという彼の考えが、セザンヌにおいて好例を見出すというふうに思ったからだと思う。そのセザンヌについてメルロ=ポンティは「セザンヌの疑惑」(「意味と無意味」所収)という論文を書き、主題的に論じている。

昨夜(4月21日)、NHKが「いまを切に生きる 瀬戸内寂聴さん愛と苦悩の99年」と題して、作家でかつ仏教者であった瀬戸内寂聴尼の生き方に焦点をあてた番組を放送していた。生前の尼の大ファンだった小生は、それを感慨深い気持ちで見た。なにしろ、尼が一昨年の秋に亡くなった時には、「瀬戸内寂聴尼の成仏を祝う」と題した小文をしたためて、ブログにアップしたくらいである。小生が尼の死を「成仏」と呼んで祝福したのは、尼が仏教者としてさとりの境地に達していたと思ったからだ。生前すにでさとりを得たものが、二度と死ぬことはないのだが、尼の場合には、己の死を通じて、煩悩に生きるひとを少しでも励ましたいと思い、死を恐れるなと言いたかったのだと思う。

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ヴィクトル・ユーゴーといえば、フランスのロマン主義文学を代表する作家であり、また政治的な活躍でも知られている。この石版画は、文学者としてのユーゴーではなく、政治家としてのユーゴーを描いたものだ。ユーゴーは二月革命後の普通選挙で立候補し、みごと代議士に当選したのである。

「栗山大膳」は鴎外晩年の歴史小説のなかでは、あまり注目されなかった。非常に地味な印象だし、物語展開に劇的なところがない。小説としては中途半端だと受け取られるのも無理はない。この作品については鴎外自身「歴史其儘と歴史離れ」の中で触れており、これは「歴史其儘」を語ったものだと言っている。つまり鴎外の意識の中では、あくまでも史伝であって、小説とは思っていなかった。雑誌の編集者が独断で小説扱いしたというのである。

岩波の雑誌「世界」の最新号(2023年5月号)が「見えない貧困」と題したサブ特集を組んでいる。そこで「見えない貧困」の定義が問題となるが、これについては、宮本太郎の「分断社会の『見えない貧困』」という論文が次のように書いている。「困窮の広がりに制度も政治も反応せず、貧困が可視化されない」という事態が生じている、と。そうした可視化されない貧困を「見えない貧困」というらしい。

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吉田喜重の2002年の映画「鏡の女たち」は、出来こそないのミステリー映画というべき作品。ミステリーとして中途半端だし、物語設定にも時代考証にも無神経ぶりがうかがわれる。主演の岡田茉莉子はすでに七十歳にせまる年頃で、さすがに老化を感じさせる。そんな彼女の老後を輝かせる映画になっていない。

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上野動物園にはかつて多くの猛獣がいたと記憶しますが、いまではトラだけになってしまったようです。絶滅が危惧されて、動物園といえども、入手することが困難になっているためかもしれません。そのトラは、東園の東のはずれ、サル山の反対側にあります。

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二月革命の熱気を受けたかたちで、マルクスとエンゲルスが有名な「共産党宣言」を書いた。この挑発的なパンフレットが、フランス社会に大きな影響を及ぼすということは、しばらくの間はなかった。だが、革命の熱気は、さまざまな社会主義運動を活発化させた。フランスには、サン・シモンやフーリエ以来の社会主義の伝統があったのだ。


雑誌「世界」の最新号(2023年5月号)に、ノーベル賞を受賞したジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチへのインタビュー記事が載っている。「『人間らしさ』を諦めないために」と題されたそのインタビューの中で、アレクシェーヴィチは、今回のウクライナ戦争について、西側の「ウクライナへの武器提供は。戦争を止めるためには止むをえないと思う」と言い、ウクライナの徹底抗戦とそれへの西側の武器提供を擁護している。そこには、彼女の半分ウクライナ人としての民族感情が働いていると思うのだが、それとは別に、彼女が原発について語っていることが、小生には余程理性的なように見えた。彼女は、「原発は潜在的な核爆弾なのです」といって、人類が核の脅威から抜け出すためには、原発も廃止しなければならない、と主張しているのである。その主張に小生は理性的に考えられた道筋を見るのである。

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吉田喜重の1986年の映画「人間の約束」は、吉田にしてはめずらしくシリアスな作りになっている。テーマは老人の認知症。両親が相次いで認知症になり、とくに症状のひどい母親が、家族全体の負担になる。そこで思い余った息子が母親を殺してしまうという内容。あまりにも陰惨な内容なので、さすがの吉田もシリアスを装わねばならぬと考えたのであろう。

吉田松陰といえば、明治維新の指導原理としての尊王攘夷のイデオローグであり、また、日本の行方を憂えた英雄的な指導者というイメージが支配的になっている。それにはおそらく、彼の弟子たちが、自分らの権威を高揚する意味で、師匠の松陰を神格化したという事情も働いたのであろう。もし長州藩が権力を握ることに失敗していたならば、松陰はただのテロリストとして、歴史の表舞台からは排除されていたであろう。

岩波の雑誌「世界」最新号(2023年5月号)が、「新しい戦前と憲法」と題した特集を組んでいる。「新しい戦前」という言葉は、タレントのタモリが言い出したものだ。あるテレビ番組の中で、黒柳徹子女史から今の日本についての印象を聞かれ、この言葉を口に出したのであった。いわゆる安保三文書の改訂や、敵基地攻撃能力の保持など、官民あげて好戦的な雰囲気が充満しているいまの日本を、戦争に向かって突き進んでいった時代に重ね合わせて、こんな言葉が出たのだろうと思う。

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サル山の隣には北極グマの住処があります。数の割には大きな面積を享受しています。せまいところでは、生きられないのかもしれません。大規模な岩場のほか行水用のプールもついていて、機嫌のいいときには、そこを舞台として、色々なパフォーマンスで子供たちを楽しませてくれます。小生も、上野動物園でもっとも好きな動物の一つです。

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二月革命はフランスを共和国体制に導いた。新たに憲法が制定され、大統領選挙が行われることになった。その選挙に、イギリスに亡命していたルイ・ナポレオンが立候補する意思を示した。ルイ・ナポレオンとは、あのナポレオン・ボナパルトの甥である。とはいえ、かれはフランスでは忘れられた存在だった。そのかれが、船に乗ってドーヴァー海峡を渡り、フランスに上陸したことで、世間は俄然騒がしくなった。

黒田日銀総裁が引退するのにあわせて、NHKがいわゆる黒田日銀の功罪を検証する特集番組を放映した。それを見た小生は、黒田日銀はアホタワケのたぐいだったとの印象を強く抱いた。そのアホタワケが日本をおかしくしたわけで、その罪は大きい。小生がなぜ「アホタワケ」などという過激な言葉を使うかというと、それもNHKに挑発されてのことである。この検証番組の直前には、大河ドラマ「どうする家康」が放送されていたのだったが、そこで家康は信長に向かって「アホタワケ」と罵っていたのだった。信長が自分の置かれている状況を全く理解せず、味方を危地に陥れているのをたしなめたのだ。

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吉田喜重の1973年の映画「戒厳令」は、北一輝の半生を描いた作品。吉田は、大杉栄をテーマにした作品とか戦後における日本共産党の盲動ぶりをテーマにした作品を作るなど、日本現代史に取材した作品をいくつか作っている。「エロス+虐殺」は、大杉栄をかなり戯画化していたし、「煉獄エロイカ」は日本共産党を誹謗するような意図を感じさせる。それに対してこの「戒厳令」は、北一輝という人物を徹底的に矮小化している。北をどう評価するかについては、政治的な見方を含めて様々だろうが、かれが日本近代史におけるある種の巨人であったということは、無視できるものではないので、それをこの画のように矮小化するのは、やはり問題があるのではないか。

辯道話の後半は問答集である。分量的には全体の三分の二以上を占める。仏教にはさまざまな教えがあるなかで、何故只管打坐を強く主張するのかということを中心にして、道元の主張に異議を唱えた相手に、道元がいちいち答えていくことを通じて、道元の思想の概略が説明されるという体裁になっている。それ以前での総論的な主張を、各論的に展開したものということができよう。

山子夫妻及び落子と久しぶりに会った。このメンバーで集うのは、松子の一周忌以来のことだから、実に三年半ぶりのことだ。コロナ騒ぎがあったり、山・落両子の体調がさえなかったりで、なかなか会う機会を作れなかった。この年になると、いつでも会えるという保証はないので、こうして会えるのはうれしいことだ。場所は東京駅近くの新丸ビル五階フロアにあるイタリア料理店デリツィオーソ・フィレンツェ。手ごろなランチコースがあるので人気の店だそうだ。そこに昼前に集合し、みなでランチを楽しんだ次第。無論ワインも味わった。

メルロ=ポンティの著書「意味と無意味」は、1945年から1947年初めにかけて書かれた小論を集めたものである。この時期メルロ=ポンティはサルトルとともに雑誌「現代(Les Temps modernes)」を主催しており、そこに掲載した文章を中心にして編集したものである。多くは時事評論的なものである。第二次大戦後まもない時代の空気を反映して、政治的な問題意識を感じさせる文章が多い。そうした政治的な文章は、先行する論文集「ヒューマニズムとテロル」にも収められている。

四方山話の会の全体会を久しぶりに開催した。昨年十月以来だから半年ぶりのことである。場所は例によって新橋の鳥料理屋古今亭。集まったメンバーは小生のほか、浦、赤、小、神、石、岩、梶、福の合わせて九名である。

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二月革命によってルイ・フィリップの王政は崩壊したが、新しい共和制はまだ明確な姿を結んでいなかった。一応、21歳以上の男子による普通選挙が4月に行われ、制憲議会のもとで新憲法が制定される。それによって第二共和政といわれるものが生まれる。これは、穏健なブルジョワ支配体制をねらったもので、労働者を中心とした左翼から強い批判を浴びた。その批判は武力蜂起に発展した。いわゆる六月蜂起である。

森鴎外の小説「堺事件」は、史実に基づいた歴史小説である。題材は、戊辰戦争の最中におきた土佐藩士によるフランス水兵殺害事件。この事件は、新政府がまだ体制を固めていない混乱期におきたもので、日本側の対応に腰の砕けたところがあって、フランス側からの抗議をそのまま聞き入れ、事件にかかわった土佐藩士たちは、弁解の機会もろくに与えられないまま、死刑にされた。ただ、打首ではなく切腹を許されたのがせめてものはなむけだった、というのが通説になっている。

昨日(4月13日)、北朝鮮がICBMと見られるミサイルを発射したことに伴い、日本政府はJアラートを発し、特に北海道の人びと対象に、避難するように呼びかけた。北海道の地上に落下する可能性があるとの理由からだ。結局、そのミサイルは日本に落下することはなかった。そのことで、政府の(Jアラート発出の)措置を批判する動きはないようだ。たしかに、少しでも可能性がある場合には、国民に向かって危険性を知らせることには相応の理由があると思う。だが問題はある。政府が避難するよう呼びかけても、一部の人たちを除いては、そもそも非難できるが場所がないというのが、厳然たる事実である。

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上野動物園でサルに見とれる話の続き。これは、サル山に向かって左半分の集団を監視しているサル。序列第三位といったところか。下にいるサルたちに向かって、これもやはり「仲良くやれよ」と言っているようです。その足元には、別の二匹のサルがいて、上と下との中継ぎ役をいやっているように見えます。

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吉田喜重には、人を食ったような悪ふざけに興じるところがある。1970年の作品「煉獄 エロイカ」はそうした傾向を強く感じさせるものだ。前年に作った「エロス+虐殺」にもそういう傾向があらわれていたが、この作品はそれをもっと表面化させ、そのことである種のグロテスク趣味に陥っている。

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上野動物園の花形といえば、サル山のサルたちである。小生のこの日の目当ても、パンダを除けばサル山のサルたちであった。パンダは順番待ちが長くて、短気な書生には待ちきれなかったが、サル山のまわりはそんなに混んでおらず、ゆっくりと観察することが出来たうえに、いい写真も撮ることができた。ここではその写真の中からいくつか紹介しようと思う。

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二月革命が勃発すると、難を恐れた国王ルイ・フィリップはイギリスへの亡命をはかり、テュイルリー宮を脱出した。その王のいなくなった宮殿に、群衆が殺到した。その様子を描いたのが、「テュイルリー宮の腕白小僧(Le Gamin de Paris aux Tuileries)」と題されたこの石版画である。

雑誌「世界」の最新号(2023年5月号)に、「日韓逆転のなかの徴用工問題"解決策"」というインタビュー記事が載っているのを、興味深く読んだ。青木理が李鍾元(朝鮮半島研究者)にインタビューしたもので、今般の徴用工問題の「解決策」をテーマにしたものだ。その中で李は、韓国側からの「呼応」の呼びかけに日本側が一切応えなかったことを評して「日本の韓国化」と言っている。小生は先日アメリカ政治の韓国化について論評したことがあったが、日本もまた、第三者の視点からは、韓国化していると見られて不思議ではない。

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吉田喜重の1966年の映画「女のみづうみ」は、中年女の婚外性交をテーマにした作品。婚外性交とは、いまふうに言えば不倫である。映画の中では浮気という言葉も使われている。その浮気ないし不倫のツケというべきものが、この映画の主題的なテーマである。

大塩平八郎は、とかく孤立した思想家であり、かれの企てた反乱は無謀な暴発のように考えられている。かれの独特な世界観つまり陽明学的な思想がかれを駆り立て、反乱を起こさせるにいたったというのが、普通の見方であろう。じっさい、大塩の行動は衝動的であり、社会的な背景とはあまりつながりを持たなかったというのが、大方の見方であった。森鴎外の小説「大塩平八郎」は、そうした見方から書かれたものである。鴎外描く大塩中斎は、己の信念に従って行動する、基本的には孤独な人間であり、その信念の内実は、言ってみれば男の意地であった。晩年の鴎外は、男の意地をテーマにした小説を書き続けたのであったが、「大塩平八郎」もまたその一つの試みだったといえる。

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今日(4月11日)は朝から晴天が広がり、気持ちのいい陽気なので、荊婦がいうとおり、家の中に閉じこもっていないで出かけることにした。目標は上野動物園。久しぶりに動物たちと触れ合ってみたいと思ったのだ。そんなわけで、午前九時半ごろ家を出て、船橋から京成電車に乗って、十時半過ぎに上野動物園にたどり着いた。ウィークデーということもあるし、春休みも終わったので、園内は小さな子供を連れた母親とか外国人ばかりが目立った。

片山善博氏は旧自治省出身で、鳥取県知事や総務大臣を歴任した人であり、その経験をいかして、日本の現状について積極的に発言している。小生は、地方公共団体の一役人として生涯の大半を過ごしたこともあり、氏の発言にはかねがね関心を持って接してきた。氏が雑誌「世界」に寄稿している「日本を診る」シリーズは欠かさずに読んでいる。そのシリーズの最新版には、「高市大臣が『捏造』だとした総務省文書から見えてくること」と題した一文を寄せていて、興味深い内容となっている。

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1848年2月、いわゆる二月革命が勃発すると、ドーミエは多大な関心を寄せ、一時期控えていた政治的な風刺版画を再び手掛けるようになる。「最後の閣僚会議(La dernière réunion du cabinet des ex-ministres)」と題したこの石版画は、二月革命によせるドーミエの共感を示したものである。この石版画を通じてドーミエは、王政の打倒と共和国の復権を訴えたのであった。

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吉田喜重の1962年の映画「秋津温泉」は、頭のちょっと弱い女と、頭のかなりいかれた男との、支離滅裂な恋愛劇である。支離滅裂というのは、互いに惚れあっていながら、結びつくことが怖くて、かえって心中したほうがましだと思いながら、それでも結びつくことを求めて呻吟し、呻吟しているうちに年をとってしまうからである。その支離滅裂な恋愛劇が、岡山県の山間部にある秋津温泉を舞台にして展開する。秋津温泉そのものは実在しない。実在するのは奥津温泉である。

道元が「辨道話」を書いたのは寛喜三年(1231)、四年にわたる宋留学から帰国して四年後のことだ。その時道元は京都深草の廃寺の近くに草庵をもうけて、ひっそりと修行を続けていた。後に高弟となる懐奘が師事を許されるのは文暦元年(1234)のことである。

岩波書店の読書誌「図書」の最新号(2023年4月号)に「バーリンとドイチャー、論敵と友人」と題する一文(近藤和彦作)が載っているのを、なつかしい気持ちで読んだ。これは、マルクス主義の歴史家アイザック・ドイチャーとマルクスを「ただのユダヤのイカサマ師」と罵ったアイザイア・バーリンを取り上げ、それに論者が孤高の学者と呼ぶEH・カーを絡ませている。この三人は、小生も若い頃によく読んだものだし、とりわけドイチャーには敬服していたので、そのドイチャーにオマージュを捧げたようなこの小文は、小生にとっては、懐かしい気分にさせられるものだ。

メルロ=ポンティにとって、自由は選択の問題である。その点では、伝統的な議論とつながるものがある。伝統的な議論は、自由を必然性との対立においてとらえ、必然性に束縛されることのない選択こそが自由の意味なのだとした。だが、そんな選択はありえないとメルロ=ポンティは言う。自分はたしかにある事柄について選択しないことはできるが、その点では選択を強制されるものではないが、しかしその場合でも、まったく何も選択しないわけではなく、別のものを選択しているに過ぎない。それがたとえ、ある事柄を選択しないという選択であるとしても。

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よきブルジョワ:ドーミエの風俗版画

「死せる魂」を構想するにあたってゴーゴリは、ロシアを地獄に見立てたほどだから、ロシアをこき下ろしているのは当然のことだ。ゴーゴリのロシア観は嘲笑的である。ロシア人というのはろくでもない人種で、そんな人種でできているロシアという国は、地獄よりひどいところだ、そんなゴーゴリの痛罵が伝わってくるのである。

先日小生は、岸田政権の少子化対策財源への年金の流用を批判し、受給者のみならずすべての国民が、抵抗すべきだと呼びかけたところだが、この呼びかけはどうやら、具体的な反響を呼びそうもない。国民は唯々諾々として岸田政権の言うことに従うつもりのように見える。これは、フランスに比較して非常に情けないことだ。フランスでは、マクロン政権による年金受給開始年齢の引き上げに抗議して、百万単位の大規模な抗議デモが起っているというのに、日本では諦めムードが漂っているようだ。

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グレタ・ガーウィグの2017年の映画「レディ・バード(Lady Bird)」は、思春期の少女が大人になる過程を描いた青春映画である。日本では、少女を主人公とした青春映画は、無知な子供だった少女が、大人の人間関係や社会的なルールを身に着けていく過程を描くものが多く、恋愛が絡んでいてもプラトニックなレベルにとどまるのが普通だが、この映画は、少女のセックスを正面から取り上げ、大人になることはセックスを思い通りにするようになることだというような描き方である。やはり民族性の相違だろうか。

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ルイ・フィリップは立憲君主制を標榜し、選挙で選ばれた議会に一定の権限を与えた。しかしその選挙は制限選挙制であり、選挙権を持つのは一部の金持だけだった。全国で85ある選挙区で、1000人以上の選挙権者があるのは27にとどまり、パリが属するもっとも大きな選挙区セーヌ二区でも、3000人に満たなかった。

放送法文書問題で高市大臣を攻撃したことで名をあげた立憲民主党の小西議員が、今度は衆議院憲法審査会のメンバーを「サル」呼ばわりしたことで、大きな騒ぎを引き起こしている。中には所属する立憲民主党に対して厳正な処分を要求する政党もあるが、それは自分の無力を棚にあげた行為に見える。それはともかく、サルと呼ばれて激高するのは、自分はヒトであってサルではなく、ヒトはサルよい上等なのだから、その上等なヒトである自分が、下等なサルと一緒くたにされるのは我慢がならないということらしい。

いわゆる「放送法文書」をめぐる騒ぎは、予算委員会の質疑が事実上終わったことで、なんとなくうやむやになってしまった。それには、この問題を取り上げて追及した野党の議員が、自身別のスキャンダルを巻き起こしたということもあるが、何といっても、追求の対象となった高市元総務大臣の粘り腰が功を奏したということだろう。彼女は、常識ではとても通らないことを、通してしまったのであり、まさに常識破りの立派な人物といわねばならない。

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2013年のアメリカ映画「それでも夜は明ける(12 Years a Slave スティーヴ・マックィーン)」は、アメリカの奴隷問題をテーマにした作品。19世紀前半のアメリカが舞台。その頃のアメリカ合衆国は奴隷制度が合法だったのだが、北部では自由黒人という範疇の人たちが存在していて、自由人として暮らせていた。自由黒人証明書というものが発行され、その証明書がかれらの安全を保障していた。ところが、悪い白人の手にかかって、南部に奴隷として売られ、ひどい目にあう黒人が多くいたらしい。この映画は、自由黒人でありながら、白人のならず者に騙され、南部の奴隷所有者に売られた黒人を描いている。

本居宣長と上田秋成の共通項は国学だと加藤周一は言う。もっともかれらの国学へのかかわりには大きな相違がある。宣長は大勢の弟子を抱えて学閥を作り上げ、その国学の体系的な叙述は後世に大きな影響を与えた。なにしろ彼の下手な歌が、国威発揚のために利用されたくらいだ(敷島の大和心の歌)。それに対して秋成のほうは、狷介孤独で弟子を持たなかった。後世への思想的な影響力はゼロに近い。それでもこの二人に共通点を指摘できるのは、二人とも、時の武士社会のイデオロギーを否定し、日本古来の土着の文化を大事にしたからである。宣長の大げさな日本礼賛はよく知られているが、秋成もそうした日本土着の文化に親近感を抱いていたというのである。

岸田政権が、財源の見通しのないまま打ち上げた少子化対策について、その財源として年金を流用しようとしているらしい。もし本当なら、年金受給者はじめ関係する国民は、声を上げて抵抗したほうがよい。岸田政権は、少子化対策は待ったなしだから、国民があげて協力するべきだとして、年金を流用したいといっているようだが、それは筋違いである。社会保険制度には、それなりの根拠がある。その根拠のうちには、国の政策に協力して、年金の一部をさしあげてよいということは含まれていない。だから、年金を少子化対策に流用するのは、制度の趣旨に反することであって、国による年金受給者からの窃盗行為というべきである。

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「優等賞の授与(La distribution des priz)」と題されたこの作品は、「人生の幸福(Les beaux jours de la vie)」シリーズの一点。幸福そうな表情をした父娘を描いたものだ。父親が抱えているのは、娘が優等賞の副賞としてもらった本である。それをうれしそうに抱えた父親のとなりで、娘が得意げな表情をしている。

林外務大臣が中国へ出かけて行って、秦剛中国外相との間の会談に臨んだ。これは一応、岸田首相と習近平との間の日中関係正常化の合意を踏まえたものとされているが、先日起きた中国当局による日本人ビジネスマンの拘束が背景にある。日本政府は、この問題が深刻化しないうちに、中国側に働きかけ、なんとか開放されるように働きかける意図があったものと考えられる。だが、日本側の意図は、簡単に実現する見込みはないようだ。新聞の伝えるところによると、議論は平行線をただよい、まともな合意は何もなされなかったようである。

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クリント・イーストウッドの2009年の映画「インビクタス(Invictus)」は、南アフリカ初の黒人大統領になったネルソン・マンデラの人種融和政策をテーマにした作品。イーストウッド映画でなじみのモーガン・フリーマンがマンデラを演じているが、そのフリーマンが、原作の映画化権を手に入れて、イーストウッドに監督を依頼したといういきさつがある。

森清の著作「大拙と幾多郎」は、書名の如く鈴木大拙と西田幾多郎の交流をテーマにしたものだが、かれらの思想に触れることはまったくといってよいほどないので、思想面からこの両者の関係が語られることを期待していた読者には肩透かしになるだろう。その上、大拙・西田以外に多くの人物の伝記が語られる。これらの人物をなぜ語るかというと、かれらの墓が、大拙・西田の墓がある北鎌倉の東慶寺に並んでたっているからというに過ぎない。その一人として安宅弥吉なる人物が出てくるが、この人物には何らの関心ももっていない小生のようなものには、かえって目障りにうつる。だから、そうした余剰の部分の記述は、飛ばして呼んだ次第だ。

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歌舞伎「女殺油地獄」をNHKのテレビ放送で見た。近松門左衛門の同名の浄瑠璃を歌舞伎化したものだ。小生は日頃歌舞伎を見ることはほとんどないのだが、近松の浄瑠璃を歌舞伎化したものは、なるべく見るようにしている。この「女殺油地獄」は近松最晩年の作品で、一応世話物に分類されるが、ほかの世話物が心中を中心にして義理と人情を描いているのに対して、これは悪漢の極道ぶりをテーマにしたもので、近松の作品の中でも異質なものである。享保年間に初演されて以来、徳川時代を通じて再演されることがなかったのは、題材のあくどさが庶民の共感を得られなかったからだ。明治に入って坪内逍遥がこの作品を再評価し、歌舞伎にも取り上げられるようになった。特に上方歌舞伎がこれを取り上げたのだが、このNHKの番組も、上方歌舞伎の片岡一座が手掛けていた。

時間と空間についてのメルロ=ポンティの議論は、伝統的な議論とはかなり異なっている。伝統的な議論は、実在論と主知主義によって代表されるが、どちらも時間と空間とを同じ次元で論じていた。実在論は、時間と空間とを実在的な対象に本来備わったものと見ることで、時空を同じ次元に位置づけていたし、カントによって代表される主知主義は、時間と空間とをともに理性の側にそなわる形式と見ることで、やはり時空を同じレベルに位置づけていた。それに対してメルロ=ポンティは、時間と空間とをそれぞれ異なったレベルに位置づける。空間は、主体が世界とかかわるところに成立するという意味で、主体のいわば外面のようなものである一方、時間は主体と一致している。時間は主体=主観であり、主観は時間なのである。そのことをメルロ=ポンティは、「私自身が時間なのである」と言っている。

前米大統領ドナルド・トランプがニューヨーク検察によって起訴された。容疑はとりあえず、元ポルノ女優ストーミー・ダニエルスとのセックス・スキャンダルにからむものだが、トランプにはそのほか重大な犯罪容疑がいつくか取り沙汰されており、今後の展開によっては複数の容疑で訴追される可能性が高い。

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「さあ!デディ-ヌ(Eh1 Didine)」と題されたこの石版画は、ドーミエとしては珍しく、男女の閨房での様子をテーマにした作品。男が女に向かってやさしく話しかけると、女はそれをセックスへの誘いの言葉と勘違いして、あらいやだわ、と答えている。

ダンテの「神曲」にならって構想した「死せる魂」の第一部は、いわば「地獄編」に相当するものだ。ダンテの「地獄編」は、ヴィリギリウスに案内されながら地獄を遍歴するダンテを描いていた。ダンテの描くところの地獄は、キリスト教の地獄である。それに対してゴーゴリの描く地獄は、同時代のロシアである。ゴーゴリは彼の生きていた同時代のロシアを地獄に見たてたというわけだ。ダンテはヴィリギリウスに案内されて地獄を経めぐったのであったが、ゴーゴリの「地獄編」の主人公チチコフは、ほかならぬ語り手の作者に案内されながらロシアの町を経めぐるのである。

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